第13話 ギルド試験4
奇怪な鳥がギャースカと鳴いてるのが、この樹々生い茂る森林の何処かからか耳朶を打つが、この薄暗い森林で反響していてか、鳴き声が全方位から届くようで、位置の特定にまでは至らない。
ウーゼ森林内へと強制転移させられて、すでに数時間が経過しているが、未だに他の受験者とは遭遇していないため、戦闘せずに体力も歩行に充てられた。
ただ、夕刻となって視界も悪くなり始めた。
歩き慣れない夜の森は非常に危険である。
迷子になる以上に獰猛な魔物が跳梁跋扈し、間違えて巣穴に踏み込んだが最後、骨まで齧られる恐れがあるから、動くのは得策ではない。
だが、水辺が最適だ。
ここ一体は湿地帯等ではなく、川の増水氾濫の心配する必要の無い地形である。
だから、できれば水場まで歩き続けたい。
しかし、俺とは別に背後でフラフラと足取りの怪しい少女が、息を切らして顔面蒼白となりながら、懸命に付いてきていた。
「の、ノア殿……ま、待って……待って、く、くれない、だろう、か?」
魔境のお陰か森林は庭のようなもので、普段通りのペース配分で進行していたが、俺の後を追躡するリノが膝に手を置いて、呼吸を整えていた。
彼女は案内人、荷物の重さは計算に入らないと思うが、歩き慣れない場所を進むのは、肉体的にも精神的にも存外苦しいものだ。
それか腰に備えた精霊剣が重たすぎるから、なのかもしれない。
確かに休憩は必要だろう。
水分でも補給して、少しの時間休憩に当てよう。
「少し休憩するか?」
「う、うむ……済まない」
項垂れて目元は見えないが、相当落ち込んでるような雰囲気がダダ漏れだ。
「ペース配分を考えるべきだったな」
「いや、構わない。我が付いていけない程、な、軟弱なのが、悪いのだからな」
荷物から水筒を出して、中身をゴクゴクと飲んで喉を潤していく。
歩いた分だけ汗も掻けば、こうして水分を補給して肉体を休めるのも試験の一環として当然の措置だろう、それができなきゃ冒険者は務まらない。
旅の途中で倒れました、依頼失敗しました、では示しが付かないからだ。
脱水症状や日射病等になったら洒落にならないからこそ、こまめな水分補給は必須である。
この肉体が脱水症状に陥るかは不明だが……
人間の身体は約六割近くが水でできているのだが、その水分量を保つためには、水分補給をこまめに摂取しなければならないのだ。
水分維持が崩れると、身体に悪影響が現れ、試験にも影響が出てきてしまう。
「リノも今のうちに水分補給したらどうだ?」
「り、了解した……」
数時間休憩無しで歩きっぱなしだったせいもあり、体力も限界に近かったようで、多く発汗して背中に染みができるくらいだった。
汚れを落とすために風呂に入るべきだが、こんな人が何処にいるかも分からない森林の中で入浴している暇なんて、あまり無いだろう。
精霊術を使えば、お湯を生成操作して全身の汚れや泥とかを綺麗に洗い落としたりも可能だが、俺は別に汗も掻いていなければ息切れもしてないので、体力の残量配分を考慮して先へとまだまだ進めるはずだ。
「そ、それにしても……な、中々、水辺が見つからない、ものだな……」
雨が降らない限りは、『ドスフロッグの毒袋』を手に入れるために川辺へと行かねばならない。
雨ならそこ等中で跳ね回ってるはずだ。
雨天となって川が増水すると、水辺のドスフロッグは流されて呆気無く死んでしまうので、晴れの日に川辺へと辿り着けば入手が可能なはずだが、そもそも川を探して繁茂する森を彷徨うも辿り着けない。
いや、川の位置は大体分かる。
もうすぐで到達するが、リノと歩いて数時間が経過した今、彼女の体力が先に限界を迎えてしまった。
「試験が始まる前に一応地図で調べたから、一応もう少し先まで進んでいけば川辺に辿り着けるはずだ。まぁ、もうじき夜を迎える訳だが……」
木々で日光が遮られてはいるものの、もうすでに夕方に差し迫っている。
空は茜色、次第に黒く塗り潰される。
つまり夜が世界を支配するまで、そんなに時間は要らないのだ。
ここからは一層暗くなっていくので、夜目、暗視能力が無ければ、かなり厳しいサバイバルへと発展する。
夜目が利かないと、夜行性の魔物に襲われた時に対処が遅れたり、受験者の中には狩人のような職業を持つ人間もいるだろうから、不利になる。
だから早めに拠点を設置したい。
そうすれば、一先ずの安息地を得られる。
体力面で考慮が甘かったせいだな。
ここは俺の落ち度だ。
幸いにも俺は暗視能力を持ち合わせているので、俺一人ならば戦闘で何とかなるのだが、リノの案内人の職業能力も不明なままなので、戦闘で役に立つのかとかはまだ何とも言えない。
しかし彼女は案内人、未来を見通す千里眼や未来予知のような能力を持っていたはずだ。
「ノア殿は素材、どうするのだ?」
「ん? う〜ん、正直どうしようか迷ってるが……」
この森に生息するかすら怪しい、ほぼ伝説級の素材を選定してしまったせいで、未だに片鱗すらお目に掛かれていない状況ではある。
まぁ、見つからないのは別に普通なので、仕方ないと割り切るしかないのだが、俺の探している素材は何処の生息域に存在してるか、大まかな検討だけは付いてる。
だが、そこからの入手難易度を考えると、ハッキリ言って無理ゲーだ。
(でもなぁ……)
俺の探してる素材モンスターはこんな森林にはほぼ生息してないだろうが、可能性としては骨休めに立ち寄るくらいで、時間も限定的、加えて滅多な状況下でないと素材すら取れない最悪のオマケ付き、十中八九バッジを三枚奪って合格、となるだろう。
いっその事、誰か強襲仕掛けて来てくれないかな、なんて物騒な予想を願ってしまったのだが、できれば戦闘は避けたいものだ。
今日数時間で一人も受験者と出会ってないから、ある意味では幸運だろう。
しかし逆の意味で捉えるなら、俺のせいで合格が危ういかもしれない。
「後三日あるし、まぁ何とかなるだろ」
「楽観的だな、ノア殿は……」
楽観的になるしかない。
今後予想も付かない事態に悩んだところで何かが変化する訳でもないので、少しの休憩を終えたら、拠点となりそうな川辺へと目指していく。
空には昼行性の鳥の魔獣が大群を引き連れて飛行中、しかし森の何処かへ着陸して、樹々の枝に睡眠場所を求めている様子だ。
じきに夜が来る。
そんな推測は自然の摂理の前では無意味だと、夜の世界が始まりを告げた瞬間、思い知った。
真っ暗闇が森の雰囲気を沈めていく。
まるで幽霊でも出そうな森が、夜風に靡いて囁き合っているようだ。
太陽が地平線へと帰還し、足元が完全に見えなくなり、頼りになる日光が無いせいで背後から強襲される。
「わひゃっ!?」
「ぐふっ」
背中から可愛らしい悲鳴が聞こえてきたかと思ったら、俺の方へと転倒してきて、ドミノ倒しみたいにリノに地面へと押し倒された。
地面に額を打ち付けてしまい、同時に数十キロもの重量が加算されて身動きが取りにくく、やはり彼女は暗視能力を持ってないらしいと判断した。
この暗闇で歩くのは自殺行為だろう。
しかし野営しなければ、満足に飯も食えない。
それに夜番や睡眠も取れない。
だから夜を迎えてしまったが、是が非でも川辺へと突き進まねばと思い、早く退いて欲しいとの願いを言葉にした。
「リノ、早く退いてくれ」
「わ、悪い……」
この暗闇の中で襲われればリノは一溜りもないため、早めに安全な場所、開けた場所へと出るべきだ。
だから彼女には申し訳ないが、彼女の手を掴んで先導させてもらう。
俺は夜目が利くから。
魔眼の影響なのか、常時発動状態にしておけば、暗闇でも絶えず動き回れる。
「仕方ないな」
「ひゃう!? な、ななな何を――」
「黙って歩け」
単に手を握っただけなのに対して、こういった初心な反応を示されると俺も居た堪れないが、流石に彼女を一人放置していくのも試験的にも無理なので、彼女を先導する役目を担っている。
微かに手が震えている。
そして声を荒げようとしている。
それをすれば、周囲のモンスターを刺激するので、できるだけ静かに移動したいものだ。
だから彼女に黙って歩くよう命令した。
このまま夜を明かす訳にもいかないので、掌に火種を生み出して道を照らしていく。
「あ、あれ? 今回は蒼白い炎ではないのだな」
「あぁ、燃焼速度を抑えてある。それに真っ赤な炎の方が道を明るく照らしてくれるしな」
周囲の酸素を焚べずに精霊力のみを媒体として形質変化させているため、こうして真っ赤で綺麗な炎が掌に生まれているのだ。
熱を帯びているはずなのだが、右手に数ミリ浮いている炎は全然熱くない。
確か蝋燭とかも上の方が熱くて逆に下の方が熱くないとか、それと同じ原理なのかもしれないが、詳しい現象は行使している自分でも深く理解していない。
それに、蝋燭の温度分布は最低でも約七百度程度の熱量を内包していたはずで、普通に考えるならば手が黒焦げになっていても不思議じゃない。
だが、俺の左手は全然熱を感じていない。
体内の精霊力を媒体として精霊術を発動しているのだが、この精霊術は人種族である俺が行使している状況は、本来では有り得ない。
(よく考えると、精霊術って不思議なんだよな……)
魔法も似たようなものだが、精霊術というものは非常に不思議な存在だと思う。
精霊力は自然の力を創造、操作し、俺の想像次第では変幻自在に姿形を変えていく。
陽、炎、水、大気、土、電気、氷、樹、光、そういった自然の力に干渉する力とでも言えるものであり、精霊から授かった精霊力は本当に使い勝手が良い。
自由に操り、想像次第で大抵は何でもできる。
この力をもっと早くに欲しかったと悔やむばかりだが、それは過ぎた話、今役に立ってくれれば俺は満足だ。
だが、これを操れるのは本来森人族や、精霊族という現異世界では姿を目撃されていない種族しか使用できない能力である。
人間の俺には適応すらしないはずだ。
なのに、彼女と契約した瞬間から、俺は精霊術を行使できている。
本当に不思議なものだ。
そんなこんなで、赤炎に照らされた道を越えて行くと、水の流れる音が木霊し、その目的地へと誘われるように俺達は早歩きとなった。
そして、開けた場所に到達した。
緩やかに流れている冷水が、満天の星空を歪んだ鏡のように映し出し、現実世界から浮世離れしたような光景が、そこに広がっていた。
発光する蛍のような魔虫が、川辺で群れて綺麗な空想的な一枚を彩っている。
「よ、ようやく着いたのだな……」
「あぁ、お疲れさん」
足が棒のように震えていた。
ずっと歩き続け、疲労が蓄積していた。
彼女は地面にへたり込み、疲労感滲ませる歎息を河辺へと吹き出して、安堵していた。
「よし、今日はここでキャンプだな」
ようやく川辺へと辿り着けた。
緩やかに水が流れており、川の水へと手を突っ込み、その冷んやりとした感触を味わいながら冷水を口に含んでみたのだが、普通に飲用水として利用できそうだ。
それに冷たく清潔感があるため、喉が潤っていく。
もう周囲は真っ暗なので、キャンプ用スタンドライトを取り出して地面へと置き、テントを設置するための道具を手に作業を始めようとした。
「な、何だそれは?」
「これか? 普通の設置型スタンドライトだ。一種の魔導具だな」
「これがあるなら、ワザワザ炎を掌に出現させる必要は無かったのではないか?」
「途中で誰かが襲ってきたらどうすんだよ。歩きながら手に持つのは流石に厳しいし、炎なら攻撃手段に適応できるから、所謂、適材適所ってやつだな」
こんなデカいのを持って歩くとなると周囲に居場所を伝えているのと同義で、何と言っても戦闘に邪魔だ。
襲ってきたら後手に回ってしまう。
近くに置いて戦える、なんて考えもあるのだが蹴っ飛ばして破壊したり、逆に破壊されたりしても後手に回るのは必至、ならば歩く最中は火の精霊術を扱う方が賢明な判断だと俺は考えている。
今回は両手のテント設置作業のため、精霊術ではなく、魔導具に頼るのだが……
冒険者の知恵としては、瓶の中にヒカリゴケという発光する苔や、発光蟲なんかを瓶に入れておけば、照明の代わりになったりする。
魔境には自生してなかったし、虫も魔獣の魔力に充てられてか巨大化してたりしたので、瓶に入らなかった。
「今日はテントを張って身体を休めよう」
今はテントを設置しようとしているため、火の精霊術では片手が塞がってしまって組み立てられないから、魔導具のライトを置き、その光が照らす中で俺達はそれぞれ自分のテントを組み立て始めた。
寝袋だけでも充分か?
いや、それは違う。
環境というのは大事なもので、テントがあった方が何かと都合が良い。
雨風を凌げるし、プライベートスペースというのは心の安寧にも繋がり得るが、ここは川辺だし本来ならば避けるべき設置ポイントだろう。
雨が降ったら増水した川の水によってテントが流されてしまう場合もあるのだが、地形的に雨が降っても大した影響は無いだろう。
それに今日も明日も晴れ、天気を読めば明日の予報はまず外れない。
(明日も晴れ、だな)
今日も空は星々に埋め尽くされているようで、綺麗な黄金色の三日月を輝かせるためにキラキラと煌めいて、自身の心を濯いでゆく。
星は脇役、主役は月、一度そんな風に考えた時期があったなと昔を思い出した。
星々が大量に輝いているのは群衆を意味し、月は群衆の中に一際強く輝く主人公、だからこそ一番月へと視線が吸い寄せられるのだと、前世で友達へと言ったのだ。
そしたら、こう返ってきた。
『見て、この一面に広がる星の世界を。星々の全てが、色も、そして輝きも違うの。それぞれに秘めた輝きがあって、それぞれに違った魅力があるからこそ、私は星が主役だって思ってる。誰でも、誰もが物語の主人公になれるのよ』
星と月を背に、振り返った彼女の笑顔が視界に映ったような気がした。
この視界に一瞬チラついた記憶が、俺の脳裏を強く刺激して、締め付けるような鈍い痛みが走った。
「ぐっ……」
「ん? ノア殿、どうかしたか?」
テント設置の作業に手が止まっているからか、隣で作業していたリノに気を遣われた。
だが、そんな彼女の気遣いにすら反応できないくらい俺は今の記憶が蘇ってきて不思議な気持ちになっていたが、久し振りに友人、いや親友に記憶の中で会えたからこそ、何故か嬉しく感じられた。
けど、その少女の顔が見えない。
口元は優しく笑みを繕うが、その彼女の目元や鼻筋が記憶に無くて、ノイズに邪魔されて追憶に限界が来る。
(クソッ、まだ顔がよく見えない)
テレビが切り替わったかのような光景の連続に、脳の処理が追い付いてない。
鈍い痛覚が脳裏で響いて頭を抱えそうになるが、しかし今他人に気遣われるような事態に陥ってはならない。
試験中なんだ、他に現を抜かしてはならない。
一瞬の油断が、あの悪意に蝕まれる気がしたから。
「何でも……ない。俺の事は気にしなくて良い、から……作業を進めてくれ」
「そ、そうか、了解した」
次第に頭痛が消えるが、少女の言葉と記憶だけは、脳裏に残されたまま。
俺も慣れた手付きでテント作業を進めていく。
唐突に言葉を思い出せたのは、やはり空を見上げて彼女に想いを馳せたからなのだろうが、今まで記憶から抜けていたのは一体何故だろう。
そして今更その記憶を取り戻したところで、彼女に会えないのは、非常にもどかしい。
星が主役だと、彼女はそう言っていた。
それぞれに輝きを秘めていると、彼女は答えた。
『どう? 素敵な考えでしょ?』
記憶の中の彼女は、口角を上げていた。
目元が見えないから、彼女がどんな表情をしているのかは分かりにくいが、少なくとも笑顔だったのは記憶の中で確かに残存している。
月夜を背景に、白いワンピースを身に纏った彼女は嬉しそうに踊っていた。
優しい記憶、そこに意識を浸らせて、その彼女の素敵な考えに同調するように呟いた。
「あぁ、そうだな。素敵な――」
しかしここで、俺は言葉を止め、重大な事実に気付いてしまった。
彼女の名前を思い出せない。
こんな場面を思い出させておいて、肝心な名前が忘却の彼方へ消えたのは偶然なのか必然だったのか、彼女の大切な名前を俺は取り戻せなかった。
自分の名前は取り戻せたのに、何故に親友の名前すら思い出せないのだろうか。
(君は……誰なんだ?)
テント作業を終えて少し大きな岩へと腰を据えてから、俺は再び無窮の夜空に映し出された黒いスクリーンへと、視線を擡げた。
それぞれが、主張し合う。
空想的な夜光の世界が、降り注ぐ。
今も、まるで最初からそこに存在していたかのように、星々は互いに輝きを結ぶ。
手を伸ばせば掴めそうな煌めきが蒼色の両瞳へと映し出されて、だがしかし、手を伸ばしても届きはしない。
「悔しいな……」
ポツリ、と言葉が漏れた。
君との記憶は少し戻った、一緒に星を眺めた、語らった、その大切な言葉を思い出せた、はずなのに名前と顔を思い出せない。
あぁ、もどかしい。
あぁ、苦しい。
あぁ、辛い。
そんな一言で言い表せるような心境にはいないが、ただ正鵠を射ているのは本当だ。
心が張り裂けそうな、裏切られた時よりも身を切るような激痛が走った気がして、俺は伸ばしていた手に星を収めて握り締める。
何故か、俺は彼女を思い出さなければならない衝動に駆られた。
「君は『僕』を覚えているだろうか?」
僕?
俺は今、僕と言ったのか?
一人称がブレた、ただそれだけの事のはずなのに、何だか妙にしっくり来る。
前世で使っていたせいだろうか、言葉に出てきてしまったらしい。
昔に戻ったみたいだが、『僕』という言葉遣いはアルバートを思い出してしまうのと、今の俺からしたら『僕』という言葉遣いは何だか自分の身体と合致しないと思ったので、使わないように注意を払おう。
今の俺はノア、ウォルニスではない。
「ノア殿、夜番はどうしよ…ぅ……」
彼女も作業を終えて一段落着いたのか、星を眺めるに最適な岩場スポットへとやって来た。
だがしかし彼女は言葉尻がどんどんと小さくなって、最後には上の空、のような面持ちとなって、頬が少し紅潮していたように見えた。
「ん? どうかしたか?」
「い、いや! な、何でもにゃい!?」
思い切って舌を噛んだようで、しゃがみ込んで口元を押さえて、視線が搗ち合うと途端に顔ごと逸らされた。
何がしたいのかは分からないが、急に外方向かれるのは心外である。
熱でもあるのか、顔は真っ赤に染まっているらしく、夜番と言ってた彼女を先に休ませるべきと判断して、岩から降りて彼女の元へと近付いた。
朱色に染まる頬は、熱を孕む。
しかし、やがて彼女の熱は冷たい夜風が攫っていった。
「俺が先に夜番を務めよう。二時間交代でどうだ?」
「あ、あぁ、それなら……っ!?」
こちらを振り向いたと思えば、また即座に外方を向かれてしまう。
さっきから彼女の様子が可笑しい、まさか敵襲でも現れたかと周囲へと警戒するのだが、何処にも魔物や人の気配を感じなかった。
未来予知でも見て、彼女は敵襲に気付いた?
なら接近する何者か、或いはすでに何処かに潜伏でもしているのか?
「……」
彼女の息遣い以外は聞こえないため、本当に敵がいないのか、職業能力でも発動しているのか、魔力探知と気配察知だけでは判別ままならない。
魔眼を行使してみるが、それでも何処にも敵が見当たらないため、単にリノが病気なだけかもしれない。
熱っぽいから、風邪でも引いたのだろうか。
「リノ、大丈夫か?」
「……あぁ、もう平気だ」
どうやら風邪とかではなかったらしい。
魔眼で彼女の身体の性質を目視して、風邪を引いてるのか確認を取ったところで、偶発的に彼女の肉体性質で、彼女の正体が分かってしまった。
今朝方、ステラが彼女を精霊だと、仲間だと言った意味をようやく理解した。
しかし彼女にも隠し事があるだろうから、これ以上は踏み込まないよう魔眼の効果を変えておく。
「そうか。なら飯にするぞ、今日一日、あんま食べてないからな」
殆どを探索に当ててしまい、まともに食事してないため、腹の虫が治まらない。
残り物のシチューがあったなと思い出して、影からシチューの鍋を取り出そうとしたところで、影魔法について秘密だったなと考え直し、アイテムポーチを外して手を突っ込む動作に移った。
そして、四次元何たらのように、大きな鍋を取り出して煮込んでいく。
「それは?」
「俺が作ったシチューだ。ガルクブールに来る直前にモンスターに襲われてな、その鶏肉を使ってる。まぁ、座れ」
丁度良い岩があったようで、そこへと綺麗な所作で腰掛けたリノが何処かの貴族のように見えたが、他人の内情を聞く訳にもいかないので、俺は気にせずにお玉を掻き混ぜ続け、煮込み直した。
残り物で我慢してもらおう。
以前冷めた状態で収納したので、こうして温め直すが、こういう時に精霊術は便利だ。
魔法のような詠唱も無ければ、タイムラグとかも起こらないので、本当に有り難い存在である。
(戦闘より日常で使うようになってるけどな)
誰に言い訳してるのか、心の中で呟いていた。
精霊術で魔物を倒した経験も勿論あるのだが、日常で使う方が時間が長いのでは無かろうか。
「さて、一応ペアだからな、代金は払わなくて構わん。ただし、足を引っ張るなよ」
「し、承知した」
お椀に入れたシチュー、それから柔らかなパンを手渡して、一緒に食事を開始する。
手を合わせようとした瞬間、隣では少女が神に祈るよう両手を組み、祈り文句を謳う。
「豊穣と天恵を司る女神ルヴィス様に、感謝の祈りを捧げます」
やはり、この世界の人間はそれが合図なのか、宿屋の女将にも言われたが、この儀式は敬虔な使徒でなくとも行うべきらしい。
この世界においては、多分だが標準的な礼儀作法となるのだろう。
まぁ、誰かも分からん女神に祈るよりも、俺は眼下に湯気立ち昇る生命へと感謝を込めて、この言葉を出す方が好きだから、神様には祈らない。
神達は見守るだけの存在、決して下界に手出しして来ないので、感謝するのはお門違いと言えようし、俺は神から見放された存在でもある。
神に祈るのは筋違いなのだ。
言い訳染みているが、日本から転生してきた人間としては、この伝統に則る。
「いただきます」
合唱して食べようとする中で、リノがジッとこちらを見つめてきた。
まさか告白か?
なんて馬鹿な冗談は思わないし、決して口にしない。
「その、今の儀式は何なのだ?」
合掌のポーズを取ったリノだったが、その意味がよく分からなかったらしい。
これを言ったら怒られる可能性があると女将に気付かされたから言いたくないんだが、怒られても異端審問される訳でも無さそうだし、構わないだろう。
彼女、そこまで敬虔な使徒にも見えないし。
「この作法は昔住んでたところであった、まぁ一つの儀式みたいなものだ。手を合わせて、目の前の料理の糧となった命に感謝を込めて、『命を頂きます』、と。そんな意味を込めて『いただきます』って言うのさ」
「な、成る程?」
「……分かってないな」
女神を信仰してるヤバい宗教だってあるのだし、実際に職業を授かったりもしているので、女神がいるのは確かだろうし、不思議な力、パワースポット、魔法、精霊術、呪術、そんな類いの摩訶不思議な力があっても異世界人にとっては可笑しくない。
が、人が丹精込めて作った食材、人の力で狩った命、それを無碍にして神に祈ろうだなんて、それこそ神への冒涜となろう。
これは俺の信念?
いや、それとも心情?
まぁ、どっちでも良いか。
単なる俺の個人的思考に基づいて行っている行為に過ぎないので、神へは祈らない。
「我は構わないが、他の者と食事する時は細心の注意を払うべきだ。異端審問されかねない」
「それは分かってるが、それでも俺の国ではこれが普通だったんだ。今更変えるつもりも無い」
別に神を冒涜してないし、『神様のバカヤロー』だなんて口が裂けても言わない。
いや、口が裂けたら喋れないか。
女神を信仰する宗教からしたら、食事時に神に祈らない人間というのは、神様のお陰で豊作だったのに感謝しないのかよ、何て罰当たりな、なんて見ているらしい。
正直宗教的な問題には関心無いし、その価値観を押し付けられても困るだけ。
「美味いぞ、ノア殿。店を開けるレベルではないか?」
「そういうのに興味は無い」
「そ、そうか」
美味しそうに食べている。
このシチューの匂いに釣られて、精霊紋から一人の精霊少女ステラが出現した。
『良い匂いね。ノア、ステラも食べた〜い!!』
「はいはい」
サイズ調整して、俺達よりも小さな、それも十歳前後の姿になって何故か俺の膝上へと座ってきた。
食いにくいし邪魔だ。
「おい、邪魔だ、飯が食えん」
『ノア、ステラにあ〜んして』
「自分のを食え。俺はやらんぞ」
『え〜! ノアのケチ!!』
「こら、おま――膝の上で暴れんな!!」
飯を食おうとしてるのに、ステラが邪魔してくる。
腹が減ってるので、食事の邪魔しないでくれと思っていると、隣で静かに食べていたリノが、呆けたような表情で俺達を見ていた。
そして、次第に感情が吐露される。
「ハハッ……」
そんな光景が可笑しかったのか、リノは突然笑みを浮かべて楽しそうに笑っていた。
「あぁいや、笑ってしまい申し訳ない。今までは一人で旅をしてきたものだからな、こうして誰かと食べる食事というのは何だか良いものだな、料理が更に美味しく感じられる」
誰かと食べる食事、か……
俺はどうだろうか。
ここに来るまでにシチューを振る舞った、いや金を払わせてシチューを与えたのだが、遠くから笑顔を眺めて一人で食事するのが好きで、決して誰かと一緒に食卓に着くのが好きという訳じゃないのだろう。
別に美味しさに変化は無い。
一緒に食べると美味しくなる、なんて言葉があったのだが、本当に美味しいものなのかは知らない。
(……普通のシチューだ)
我ながら良い出来だ。
シチューを掬ったスプーンが口へと運ばれていき、咀嚼、そして嚥下、その過程で味わうものは熱とシチューの味のみで、そこに変化は無い。
昔から他人と感性にズレがあったと思っていたから、作り笑いとかは得意だったし、他人の顔色を窺う毎日も日常的にあった。
しかし、分かる者には俺の気持ちが分かるようで、作り笑いをする俺とは関わりたくない、気色悪いなんて罵倒する者もいた。
異世界に来て、笑うようになったのは俺が俺でなかったから、記憶を取り戻してから笑う回数は比較的少なくなっていったのを実感している。
今でも、基本的には無表情であり、時折笑いはするが本気で笑ったりしなくなった。
「シチュー、美味いか?」
つい聞いてみたくなった。
俺は世間一般の家庭的な料理を作っただけ、基準の低い世界で美味しい料理を作ったところで、相手が喜ぶのは当然だと思った。
しかし、彼女は『料理が更に美味しく感じる』のだと言ったのだ。
「あぁ、こんなにも美味しく感じたのは一人旅以来無かった。我はこうして、賑やかに食べる食事は好きだ」
「……そうか」
高がシチュー、然れどシチュー。
きっと何か大切なものが、俺に欠けているものが何か存在しているような気がして、甘くて温かなシチューを飲み込んで腹と心を満たしていく。
闇と静寂が星光を包み込んでいき、ますます夜が更けていく。
二次試験も一日目が終わりを迎えようとしている、この四日間のギルド試験はきっと、俺にとって何か有意義な時間となるのかもしれない。
星は巡りて、やがて賑やかな夕食は過ぎていく。
夜が明けるまでの数時間、夕食後は俺達二人、交代で夜番に務める手筈となった。
本作を執筆する上で、評価は大変なモチベーションとなります。
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