ちょいこじ王太子と世話焼き令嬢
「あ、あぶない!!」
突然現れた目の前の荷馬車にびっくりしたというよりも、周りの声にびっくりしてエミリアは体勢を崩し大きな尻もちをついてしまった。
お尻に大きな衝撃を受けたはずみでエミリアは前世の記憶を思い出し、しばし放心状態に陥った。
周りはその様子を見て、エミリアが大怪我を負ったのではないかと騒然としている。
原因となった荷馬車の主は少し離れた場所に荷馬車を停め、心配そうにこちらの様子を伺っていたが、エミリアがノロノロと立ち上がるのを確認すると安心して先を急ぐように荷馬車を走らせて行った。
「エミリアお嬢様、大丈夫ですか?」
心配そうに侍女のリリアが尋ねる。
「びっくりして転んじゃっただけよ。あーびっくりした。」
エミリアはそう言ってスカートの泥を払うと歩きだした。慌てて侍女のリリアが後を追いかける。
ここは王都にある一番大きな通りで、今日、エミリアは侍女のリリアとともに買い物に来ていたのだ。
久しぶりにウィンドウショッピングを楽しもうと思い張り切って来たのだが、さっきの出来事ですっかり気分が下がってしまった。もう帰ろうかなと思いながら歩いていると、野菜の露店が目に入る。普段なら気にも留めないエミリアだが、今日は何かが違った。キラッと目を輝かせると店主と交渉を始め、持ちきれないほどの野菜を購入する。しかも、店主が呆れたような諦めたような顔で見送るところをみるとかなり値切ったようだ。
「エミリア様?!」
少し離れたところで待っていた侍女のリリアは信じられないというように、両手に持ちきれないくらいの野菜を抱え、ご機嫌な様子で鼻歌まで歌いながら帰ってきたエミリアを見て言った。エヘヘ、驚かせちゃってごめんね、リリア。前世のクセでつい……。
ーその夜。エミリアは自室の窓から庭を見下ろしながら昼間の出来事を思い出していた。
そうだった、私、この世界に転生したんだったわ。
前世、私は48歳の平凡な主婦だった。ある日、近所へ買い物に行くため横断歩道を渡っていると、私の存在に気付かないのか猛スピードで左折してくるトラックにはねられ鈍痛とともに意識を失った。
次に目覚めたときは光の中だった。そして、物語でよく出てくる女神様のような人が私の顔を覗き込んでいたのだ。
「お目覚めですか?」
その女神様のような人が尋ねる。
「ええ。」
と言って、起き上がると
「99回の転生、お疲れさまでした!!今は残されたお子さんやダンナさんのことが心配だと思いますが、ご家族様みなさま、今回の悲劇を乗り越え幸せな人生を送られますのでご安心ください!!祝・転生100回目ということで今回は特別にファンタジーの世界をご用意しました。どうぞお楽しみください!!」
どこからかくす玉まで持ってきて、そのくす玉を自分で割りながらテンション高めの早口でそうまくし立てる。くす玉にはご丁寧にも「祝・転生100回目」と書かれていた。
呆気にとられる私の横で女神様のような人は何やら機械のようなものを操作している。
しばらくすると再び私は光に包まれた。
「それでは行ってらっしゃいませ」
そう言うと女神様のような人は丁重なお辞儀をして姿を消した。
エミリアは転生してバーンスタイン男爵家の長女として生まれた。貴族としてはそれほどの地位にはないが、優しくて時に厳しい父、穏やかで聡明な母、そしてフェスラーという妹思いの優秀な兄に囲まれ、平凡だけど幸せな日々を過ごしていた。
ーいや、正確には今も過ごしている。前世の記憶を思い出してから、たまにオバサンくさい行動をする自分に家族は少し戸惑いつつも有難いことに今まで通り接してくれているのだ。
エミリアは前世の自分を思い出してから、何となく自分が40代後半であるかのような感覚を引きずっている。前世の顔を明確に思い出すことは出来ないが、鏡で自分を見るたびに、顔に本来あるはずのシワやシミが見つからないばかりか、その肌にはハリがありツヤツヤとしていて、さらにその頬は健康そうにピンク色に染まっている様子にびっくりする。
現在、王立学園へ通っているのだが、入学当初はこんなオバサンが自分の子供位の年齢の若者と一緒に勉強して良いのだろうかという気後れにも似た感情を抱いたりしていた。
しかし、そんな周囲から浮いていたエミリアを何故か気に入り、折に触れて色々と気遣ってくれる優しい先輩や明るい同級生達のお陰で、今ではそんな環境にも慣れ、若い子達の恋バナを聞いて相談に乗ったり、今どきの流行りをチェックしたりとそれなりに学生生活を楽しんでいる。恋愛相談を受けるのが楽しくてついついキューピッド役を務めてしまったりもする。現にそのお陰で何組ものカップルが誕生し、多くの友人に感謝されていた。ホント、若い子達の恋バナを聞いてると私までドキドキワクワクしちゃうわ。…そういえば、私が最後にときめいたのっていつだったかしら?
この前なんか、今まで浮いた噂が一つもなく『氷の貴公子』と言われていた王太子側近のギルフォルト侯爵と親友の伯爵令嬢ソフィの仲を取り持ち、周りを驚かせた。もちろん、エミリアが仲を取り持ったのは当事者たちしか知らない。みんなが驚いたのはギルフォルト侯爵とソフィ嬢が電撃婚約発表したことにだ。
ある日、エミリアは兄のフェスラーに連れられ、王城へと向かった。兄のフェスラーはエミリアの通う王立学園を卒業後、近衛師団の入団試験をトップ通過し、現在は主に王太子の周辺警護を担う第3部隊に所属している。
本来、近衛師団を目指す者は騎士学校へ進学するケースが多いのだが、兄のフェスラーは学生時代ぐらいは青春を謳歌したいと共学の王立学園への進学を決めた。入団試験に必要な専門科目は騎士学校に進学した友人に教えてもらったり、独学で学んだりした変わり種だ。兄のフェスラーはフリトリッヒ王太子と同年代であり、強さの割に威圧感を感じさせない外見と明るく社交的な性格からフリトリッヒ王太子からの人望も厚く、フリトリッヒ王太子自らの指名で身辺警護を務めることも多い。
今日はフリトリッヒ王太子というよりはギルフォルト侯爵に呼ばれたようだ。
フェスラーは高級感のある重い扉の前に立つと慣れたようにドアをノックし
「近衛師団第3部隊副隊長のフェスラーにございます。妹をお連れしました。」
と、名乗る。
中から、入れという返答があったので、エミリアは兄のフェスラーと一緒に部屋の中へ入った。
どうやら、ここはフリトリッヒ王太子の執務室のようだ。部屋の奥に高級感のある重厚なデスクがあり、手前には打ち合わせが出来るよう応接セットが置いてある。
「殿下、妹のエミリアをお連れしました。」
フェスラーが奥のデスクに座ったフリトリッヒ王太子にエミリアを紹介する。
「フェスラーの妹のエミリアでございます。」
エミリアは深々とお辞儀をする。
ーが、フリトリッヒ王太子はどこか不貞腐れたように頬杖をつき、そっぽを向きながら興味がなさそうに言う。
「お前か?ギルフォルトの婚約に一役買ったというのは。」
「少しお手伝いさせて頂いただけですが……。まぁ、そうかとお聞きになるのであれば、その通りにございます。」
再び、頭を下げながらエミリアが答える。
「ならば、私にも誰か紹介して欲しい。」
フリトリッヒ王太子はさすがにエミリア達の方に顔を向け、照れくさそうにこう言った。
「!!」
全く想像だにしていなかった発言にエミリアはしばしパニックに陥った。
何度か大きく深呼吸をしてみる。たぶん、大丈夫だ。きっと王太子はからかっているだけだろう。からかっているにしろ、本気にせよ、断るなら早い方が良い。今ならまだ、フリトリッヒ王太子も冗談で済ませられるはず……。
エミリアは心の中でそう結論を出すと顔を上げて断りの言葉を口にする。
「大変申し……」
その瞬間、ギルフォルト侯爵が腰に下げた剣の柄を掴む音が響く。慌てて兄のフェスラーの方を見ると、明らかにこの状況じゃ断れないから話を受けろというような顔をし、さらに意味の分からないブロックサインのようなものまで送ってくる。
仕方ない。本当に私としては不本意なのだが、さすがに命には代えられない。
「謹んでお受けいたします。」
エミリアは覚悟を決めると、再び、深々と頭を下げた。
どうやら、ギルフォルト侯爵や本人の説明によると、フリトリッヒ王太子は男子校である騎士学校を卒業したこともあり、今まであまり周囲に同世代の女性がいなかったらしい。また、フリトリッヒ王太子自身も男友達と遊ぶ方が楽しかったので、特にその状況に不満を持つこともなかったそうだ。それが、最近、側近のギルフォルト侯爵始め周りの今まで女性に縁のなかったはずの友人達がチラホラ婚約なり結婚なりするようになり、また、今まで傍観していた両親、つまり国王と王妃もさすがに跡取り問題に焦りを見せ始め、来年の誕生日までに相手を見つけられなかったら強制的に結婚させると言われ、それなら自分で相手を見つけたいと、とうとう重い腰を上げたということだった。
フリトリッヒ王太子はその恵まれた容姿と爽やかな雰囲気に王立学園の女子達の間でも人気は高い。王太子という立場から社交界でも常に令嬢達から熱い視線を向けられ目立つ存在なのだが、そういえば浮いた噂は聞いたことがなかったとエミリアは今更のように気がついた。
エミリアは協力する見返りとして、自分の婚活のため自分に釣り合う家柄の20代後半の独身優良領主経営者または20代後半の独身息子がいる優良領主経営者のリストをもらうことを条件にあくまでも自分で出来る範囲でとの約束で協力を申し出た。
「よろしいですか、殿下。まず、お相手選びですが、殿下の場合、あらかじめリストアップした令嬢の中から選ぶ方法が適してるかと思われます。」
ここはフリトリッヒ王太子の執務室である。今日から本格的な作戦会議に入った。頻繁に独身令嬢が王太子の元を訪れると誤解が生じるとのことで、今日からは兄のお下がりで男装し、兄の部下ということで城内に入ることになった。ホント、いい迷惑だ。
「事前に家柄、経歴等入念な調査の上、間違いのない令嬢を選び、実際にお会いしてその中からフィーリングのあった方をお選びになるという方法です。恋愛結婚と言いますとどうしても運命の出会いを期待しがちですが、そもそも運命のお相手とそんなにタイミングよく巡り合えるかどうか疑問ですし、運命の出会いかと思ったらハニートラップだったとか野心満々の女性で傾国したとか、情熱的な方は熱しやすく冷めやすいため両想いになった途端、他の男性の元へ行ってしまったなどの事態も考えられるので、堅実な方法を取られた方がよろしいかと思います。」
一度、ここで言葉を切り、ギルフォルト侯爵をチラッとみる。
それを合図にギルフォルト侯爵が従者に手を挙げ、合図を受けた従者は山と積まれた書類をフリトリッヒ王太子のデスクへと運ぶ。
「うわぁ、何だ。この書類は!!」
フリトリッヒ王太子があまりの量に悲鳴を上げる。
「私には政財界の力関係や他国との関係など全く分かりませんので、ギルフォルト侯爵様にお願いして殿下のお相手として相応しいと思われる方をリストアップしていただきました。似顔絵のある方もいらっしゃいますが、何分、絵師の腕次第と思われる部分もございますので、まずはご本人様に直接会っていただくのが一番かと思われます。
また、リストアップされた方はほとんど私とは面識のない方々ばかりですし、その方々のお家柄の高さから私が主催するお茶会等に招待することは出来ませんので、申し訳ございませんが、リストアップされた方のお人柄等は把握出来ておりません。必要であれば、もう少し人数が絞り込めた時点で情報収集させていただければと思います。リストアップされた方のお家柄などから、まずは王妃様にお願いして対象者を集めたお茶会等を開催されるのはいかがかと思います。」
一度方針が決まると物事の進行が早い。先ほどのリストと言い、この手廻しの良さからすると、フリトリッヒ王太子の意思とは別にすでに水面下では王太子妃選びの準備が進められていたのかも知れない。
詳しいことは分からないが、対象者が多いため王妃殿下主催のお茶会は複数回に分かれて行われるようだ。当初は私が潜入する話も出ていたが、全てのお茶会に私だけ出席するのは不自然だし、かといって、毎回、侍女などに変装してまで付き合うつもりもないので、後でギルフォルト侯爵や兄のフェスラーから様子を聞くことにする。
近々そのお茶会の1回目が開催されるというある日、またもや、兄のフェスラーとともにフリトリッヒ王太子の執務室に呼びされた。もちろん、エミリアは兄のお下がりの男装をしている。
艶やかな笑顔を浮かべ、優雅な動作でお辞儀をするフリトリッヒ王太子に向かい、エミリアも深々とお辞儀をする。
「殿下。お初にお目にかかります。バーンスタイン男爵長女のエミリアにございます。」
エミリアは顔を上げフリトリッヒ王太子と目を合わせる。うん?!さっきは気が付かなかったが、フリトリッヒ王太子の表情がどこか変だ。目の焦点が合っているようで、微妙に合っていない。
「殿下?!」
「やはりバレたか……。」
フリトリッヒ王太子が肩をすくめる。なんでもいつからか女性と視線を合わせるのが恥ずかしくなって微妙に焦点をずらすようになったのだとか。自慢気にそう説明されても正直困る。その努力と完成度の高さにはある意味感心するが、今までのように少し挨拶するくらいならバレなかったかも知れないが、お茶会ではしっかり相手の顔を見て話さなければ話は進まない。エミリアはフリトリッヒ王太子に言ってやり直してもらうことにする。
「……エミリアにございます。」
今度は一瞬だけ目が合うが、すぐに視線が逸らされてしまう。
「殿下、令嬢方はメドゥーサではありません。石になったりはしませんので、安心して視線をお合わせくださいませ。」
フリトリッヒ王太子はあぁだか分かっているだか呟いて溜息をついている。溜息をつきたいのはこっちだよ、と思いながらも、エミリアはフリトリッヒ王太子に丁重にお願いしてやり直してもらう。
「……エミリアにございます。」
今度はちゃんと目が合った。エミリアがやれば出来るじゃんと思った瞬間、
「ところで、君のその恰好は何なんだ?!」
フリトリッヒ王太子はエミリアをまじまじと見つめ、呆れたように大笑いする。
…確かに、今のエミリアはひどい恰好をしていた。元々男装しているのに、令嬢役ということでギルフォルト侯爵が用意したのであろうテキトーな女性用カツラとスカート代わりにテーブルクロスみたいな布を巻き付けていたのだ。
確かに変な格好している私も私だけど、この人、本当にやる気あるの?!さすがのエミリアも頭にきて、ギルフォルト侯爵に鋭い視線を向ける。エミリアの怒りもごもっともという感じでギルフォルト侯爵は苦笑いしながら肩をすくめている。
その時、エミリアはふと名案を思い付き、いそいそとギルフォルト侯爵の元へと向かう。最初、ギルフォルト侯爵はかなり難色を示していたが、これでは埒が明かないと悟ったのだろう、エミリアの提案に渋々頷くと、フリトリッヒ王太子に断りを入れ、兄のフェスラーを引きずるように連れて部屋を出て行った。
「2人が戻ってくるまで我々もちょっと休憩しようか。君もその変なカツラと布を取りなよ。」
普段よりちょっと砕けた言い方でフリトリッヒ王太子がエミリアに言う。エミリアは有難くその申し出を受け、カツラと布を取る。あー疲れた。
あ、そうだ、とかなんとか言いながらフリトリッヒ王太子が奥のデスクの上から何かの紙包みを持ってくる。
「これ、食べるか?私の大好物なんだ。昨日、フェスラーと城を抜け出して買ってきた。」
フリトリッヒ王太子が紙包みを開けながらエミリアに言う。焼きアーモンドだ。甘くてカリカリしていてすごく美味しい。もちろんエミリアも大好きである。
「よろしいんですか?私も焼きアーモンド大好きなんです!あ、お茶お入れしますね。」
エミリアはいそいそと用意してあった茶器で紅茶をいれ、フリトリッヒ王太子のそばに置く。
エミリアが焼きアーモンドをいくつかお皿にとって、少し離れたところで食べようとしたら、フリトリッヒ王太子に自分の前の席に座るよう目で促されたので、そのままそこへ座らせてもらう。
さっきのお茶会の練習の時とは違いとても自然な動作だ。女性は苦手でもヒトに対しては相応の気遣いが出来るらしい。おしゃべりではないものの、こちらが退屈しないようポツリポツリ世間話をしてくれる。
コンコン、ノックの音がしたので、エミリアは慌ててドアを開ける。
そこには絶世の美女が2人立っていた。突然出現した美女2人にドアの外にいた衛士たちも騒然としている。ここで騒ぎになってはまずいので、エミリアは慌てて2人を室内へと引っ張り込む。
「殿下、お待たせしました。」
一体、何が起こったのかと呆然としていたフリトリッヒ王太子もその声で分かったようだ。
「ギルフォルトとフェスラーか!あまりの変わりように驚いた!!」
ホント、私のために準備したカツラと変な布は何だったんだと怒りがフツフツと湧いてくるような徹底した女装っぷりだった。さっきお願いしたときはあんなに嫌そうだったのに、なんだ、2人ともノリノリじゃん!エミリアはなんだか割り切れないものを感じつつ、これで順調に練習が進むならまぁいいかと思うことにする。2人の美女の登場により練習が順調に進んだのは言うまでもない。
「キャァァァァーー!!」
エミリアは絶叫に近い叫び声を上げながら、落とされないよう目の前の背中に必死にしがみつく。
馬の主はそんなエミリアに構うことなく、さらに馬を加速させる。初めて乗る馬の高さとその走りの早さに景色を楽しむ余裕もなく、エミリアはただひたすら一心に目を閉じながら1分でも1秒でも早く目的地に着くことを祈っていた。
「着いたぞ。」
その一言とともに馬が停まり、エミリアは従者の手によって馬から下ろされる。放心状態のエミリアはそのままズルズルと地面に座りこんでしまった。
「なんだ?本当に怖かったのか?!」
馬の主フリトリッヒ王太子はからかって楽しんでいるように大笑いしながら言った。笑いすぎて目に涙を浮かべそうな勢いで笑うフリトリッヒ王太子に我慢できず、思わずエミリアは大声を上げてしまった。
「私は今日、本当は参加する予定ではなかったんです!本来、私の代わりに兄が参加する予定だったのが、急用が入ったとかで、今朝、突然連れてこられたんです!!しかも、今日は馬場で乗り降りする練習をするだけだと言われてきたんです!!確かに最初は馬場で練習してましたが、まさか外乗することになるなんて思ってもいませんでした!!今日、馬に初めて乗るのにいきなりこんな大きな馬に乗らされて、しかも全力疾走するなんて、こんなことされたら誰だって驚きます!!」
エミリアが一気にまくし立てるとさすがにフリトリッヒ王太子も笑うのを止め、少し申し訳なさそうな顔をする。
「そもそも、乗馬デートの練習なんて必要なんですか?確かに安全上、乗り降りの仕方とかは確認した方が良いかも知れないですけど、好きでもない相手を乗せて外乗までする必要なんかないんじゃないですか?もし、私が殿下のお気に入りの令嬢だったら、殿下もそのお相手が大切で、嫌われたくなくて、もっと好きになって欲しくて、お相手のことを気遣って馬を走らせるんじゃないんですか?少なくとも、さっきみたいに自分勝手に馬を走らせたりはしないと思いますよ!!普通はあんな風にゆっくり馬を走らせるもんなんじゃないですか?!」
エミリアはそう言うと、遠くに見えるバカップル、もとい、ギルフォルト侯爵とソフィ嬢の方を指さす。見惚れるほどの美男美女カップルである。さっきの私たちの乗り方とは違いソフィ嬢が前で横乗りし、後ろに乗ったギルフォルト侯爵がしっかりと手綱を握っている。遠くから見てもお互いを思いやっているのが分かるアツアツぶりだ。
さすがに言い過ぎたかとフリトリッヒ王太子の横顔を盗み見る。フリトリッヒ王太子はエミリアの言葉に一瞬ハッとした顔をして黙り込んでしまった。どうやら怒らせてしまったようだ。まずい、不敬罪に問われる前に逃げよう。エミリアはフリトリッヒ王太子に一礼して後から来たはずの馬車を探す。帰りは従者と一緒に馬車に乗せてもらおう、エミリアはそう思って馬車の方へ向かおうとしたら、フリトリッヒ王太子に腕を掴まれてしまった。まさか、いきなり殴りかかるとかしないタイプだとは思うけど……。エミリアは振り返って、恐る恐るフリトリッヒ王太子の顔を見上げる。すると、そこには飼い主に怒られてシュンとしてしまった犬のような顔をしたフリトリッヒ王太子がいた。
「すまなかった。君の存在を忘れていつものように馬を走らせてしまった。帰りは気を付けるので帰りも一緒に乗って欲しい。」
普通、存在を忘れるか?!とも思ったけど、大人気ないのでエミリアは有難くその申し出を受けることにする。
帰りは言葉通り、フリトリッヒ王太子はエミリアを気遣ってゆっくり馬を走らせてくれた。エミリアが馬上にも少し慣れキョロキョロしていたら、フリトリッヒ王太子が今乗っているお気に入りの愛馬の名前やその毛色の種類や今走っている場所の説明とかをポツリポツリとしてくれた。相変わらず、フリトリッヒ王太子はヒトに対してならそれなりの気遣いが出来る人のようだ。
フリトリッヒ王太子の話によると今回の企画はギルフォルト侯爵の提案によるものなのだそうだ。フリトリッヒ王太子自身その話をギルフォルト侯爵から聞いた時は、突然の提案に驚いたという。結局、元々乗馬が好きなフリトリッヒ王太子は深く考えずに了承したそうだが。そう言えば、前にソフィ嬢に会った時、この前の休日にギルフォルト侯爵と乗馬デートする予定だったのに仕事が入ってキャンセルになったと残念そうに話していたっけ。今日はその埋め合わせなんじゃないの?エミリアは思った。あいにく、今日、エミリアは男性用の乗馬服を着ていて、正体がバレては困るので直接ソフィ嬢に聞くことは出来ないが、今度、ソフィ嬢に会った時にでも聞いてみよう、とエミリアは思った。ギルフォルト侯爵、プライベートを邪魔されたからと言って職務を利用するのは止めてください。公私混同です。やれやれ、今日は散々な一日だった、とエミリアは思った。
家に帰るとちょうど兄のフェスラーがルンルンしながら帰ってきたところだった。何でも、兄のフェスラーがずっと憧れていた騎士が何年振りかで辺境警備から王都へ戻ってきていて、兄のフェスラー同様熱烈な騎士ファン達の強い要望により、今日、急遽、公開試合が行われることになったのだそうだ。サインまでもらっちゃったと喜んでいる兄のフェスラーを見て、今日の突然の代役の理由を知ったエミリアであった。お兄さまに今日の貸しは何で返していただこうかしら、フフフと不気味に笑うエミリアを見て、首をかしげる兄のフェスラーであった。
そんなこんなで散々な目にあった日の次の週、またもや兄のフェスラーとともにエミリアはフリトリッヒ王太子の執務室に呼び出された。王妃様のお茶会も無事に終わり、王太子妃候補者が絞られたようだ。
エミリアと兄のフェスラーが入室すると、すぐに別件で急ぎの打ち合わせがあるとのことでギルフォルト侯爵が兄のフェスラーを連れて別室に行ってしまった。
取り残されたエミリアは手持無沙汰になりフリトリッヒ王太子の方を見る。すると、フリトリッヒ王太子のデスクの上に宝石類をたくさん乗せたトレーがいくつか置かれているのに気が付いた。エミリアはフリトリッヒ王太子の許可を得て近くで見せてもらうことにする。
「よく気が付いたな。噂には聞いていたが本当に女性陣はみんな光り物が好きなんだな。ギルフォルト侯爵が結婚式の準備のために宝石商を呼び寄せたので、ついでに見せてもらっているんだ。」
そう言って、フリトリッヒ王太子はエミリアが見やすいようにトレーの場所を移動してくれる。指輪やネックレス、腕輪、髪飾り、貴石のついたものや銀細工、パールのついたもの、ギルフォルト侯爵が手配したのだから最高級品なのだろう、今までみたことがないような素敵な宝石達が並んでいた。
「素敵……」
思わず、エミリアは小花に小さなパールをあしらった繊細な銀細工の髪飾りに手を伸ばす。その中では控えめなデザインであるそれの値札をさりげなく確認すると、エミリアは慌てて髪飾りを元に戻した。おそらくその中では安価なものには違いない。しかし、今のエミリアにとってはとても手が出ない金額のものだった。
「それが気に入ったのか?」
フリトリッヒ王太子が聞いてくるので、エミリアは慌てて首を振る。
「いいえ……。それより、殿下、ご存じですか?ご令嬢にこのような装飾品を贈られる場合、いきなり指輪を送ると相手の方が驚くかも知れませんのでご注意くださいね。指輪には契約、約束、束縛と言ったイメージもございますので重たいと感じてしまう方も多々いらっしゃいます。もし、お気に入られたご令嬢がいたら、まずはネックレスや髪飾りなどをプレゼントすることからお勧めいたします。また、さっき私が見ていたからと言って他のご令嬢も気に入るとは限りませんよ!このような宝飾品は個人の好みの差が大きいので十分ご注意くださいませ!素敵な宝飾品を見せていただきありがとうございました。」
そう言ってエミリアが一礼をして下がると、ちょうどギルフォルト侯爵達が戻ってきたところだった。
「そうすると、第1候補はマハト宰相つまりクラスィシュ公爵家の令嬢のヨハナ嬢、第2候補がストレーン侯爵家のエッダ嬢、第3候補がライツェント侯爵家のミーナ嬢といったところか。」
ギルフォルト侯爵が口火を切る。
「そうですね。御三方とも申し分ない家柄、経歴のご令嬢方なので、どの方を選ばれても間違いないと思います。あとは殿下の好みの問題ですかね。」
ギルフォルト侯爵の言葉にエミリアも同意する。
第1候補のヨハナ嬢はもう卒業してしまったが、エミリアの学園の先輩に当たるとても素晴らしい女性だ。少し大胆なところもあるが、才色兼備、性格も明るく優しく、家格も高い。在学中はエミリア自身大変お世話になった人物である。たしか、現在は隣国に留学中だったはずだ。第2候補のエッダ嬢はエミリアより少し年上なので学生時代のことは分からないが、成績優秀だったという噂は聞いている。たしか、年齢は殿下と同じ年だったはずだ。少し神経質なところがあり、生真面目そうだ。つんとした美人でやや気が強いという評判を聞いたことがある。3人の中では一番、王太子妃の座を狙っていそうだ。第3候補のミーナ嬢はたしかエミリアと同じ年だったはずだ。違う学校に通っているので、直接話したことはないが、その豊満な身体と妖艶な美貌で社交界でも注目の的だ。目立つ外見のため、ついつい外見だけに目が向けられがちだが、中身も聡明で素敵な女性のようだ。
これからは殿下本人の出番だ。今後、舞踏会などで候補になった3人を中心に積極的に交流を深めてもらうことになった。やれやれ、これでエミリアの仕事も一段落だ。後は、フリトリッヒ王太子本人の頑張りに期待することにしよう、エミリアは思った。
「あら、ミリーじゃない!こんなところでお会いするなんて!!」
王太子妃第一候補のヨハナ嬢が驚いたように声を掛けてきた。『ミリー』はヨハナ嬢だけが使うエミリアの愛称だ。
「フェスラー様もご無沙汰しております。」
ヨハナ嬢は兄のフェスラーに気付くと丁寧にお辞儀した。優雅な所作はこれぞ王太子妃候補といった感じだ。
ここはギルフォルト侯爵の邸宅の庭園だ。今日はギルフォルト侯爵とソフィ嬢の婚約パーティーが開かれているのだ。自らの婚約パーティーの準備で忙しいだろうに、ギルフォルト侯爵は約束通りエミリアに婚活リストを準備してくれ、さらにそのリストの中で親交のある男性を先ほど紹介してくれたところだった。その男性アクセル・ルーイヒ男爵とエミリア、兄のフェスラーとでしばらく歓談した後、少し休憩をとりにエミリアと兄のフェスラーで庭園に出てきたところだった。さすがギルフォルト侯爵の紹介だけあって、アクセル男爵は穏やかで堅実そうな素敵な男性だった。兄のフェスラーも気に入ったようで少し前向きに考えてみたらと珍しくエミリアにアドバイスしたくらいだ。初対面なのに何故か懐かしい気がした。もしかしたら、前世のパートナーがこういう男性だったのかも知れない。エミリアは、一瞬、前世の平凡ながら幸せだった日々の記憶がかすかによみがえった気がした。
ヨハナ嬢とエミリア達はしばらく当たり障りのない話を楽しんでいたが、突然、ヨハナ嬢が秘密を得意げに暴露する子供のような顔でウィンクしながらこう言った。
「実は、私、結婚が決まったの。」
思わずうふふと言わんばかりの甘い声だ。ーもうフリトリッヒ王太子との結婚が決まったのか。何故かエミリアは胸の奥が騒めいた。
「あ!!彼が来たわ!!」
見たいような見るのが怖いようなそんな気持ちでエミリアはそろそろとヨハナ嬢が指さす方を見る。
ーと、そこには月夜に照らされ金色に輝くライオン位の大きさの生き物がいた。よく見るとネコ科というよりはイヌ科に近いシルエットだ。
「オオカミ……?」
エミリアが呟くとその横で兄のフェスラーが仰々しくお辞儀をしながら言った。
「これはヴォルファーレン王国の第2王子グランツ殿下。そのお姿では初めてお目にかかります。」
金色のオオカミは「うむ」というように厳かに瞬きする。
どうやら、このオオカミは人狼のようだ。ヴォルファーレン王国はヨハナ嬢が留学していた国だ。たしか、ヴォルファーレン王国の王族は人狼の家系だと聞いたことがある。
「ごめんなさいね。グランツ王子はこのお姿の時はお話出来ないの。びっくりさせちゃったわね。 代わりに私が説明させていただくわ。実は、この前、内々にフリトリッヒ王太子の王太子妃候補になったと父から呼び戻された時、突然、グランツ王子にプロポーズされちゃったの。父を説得するのに大変だったけど、今日、やっと認めてもらえて。それで、彼がすぐにでも帰国したいというので、急遽、今晩ヴォルファーレン王国へ帰ることになったのよ。」
隣りでその通りだと言わんばかりにオオカミが目を閉じる。
そういえば、ここ数か月外国の要人がお忍びで滞在していて忙しいと兄のフェスラーが言っていたっけ。マハト宰相は自分の娘を自国の王太子妃にと思っていただろうに、突然、隣国の第2王子との縁談が持ち上がりさぞやびっくりしたことだろう。いくら友好国とは言っても今回のようなことで敵対する可能性は十分あるし、マハト宰相が理解ある父親で良かった、他人事ながらエミリアは思った。
「そんな訳でもう行くわね。またどこかでお会いできるのを楽しみにしているわ!お元気で!!ギルフォルト侯爵にもせっかくの婚約パーティーなのにお騒がせしちゃってごめんなさいって伝えておいて。さようなら」
そういうと、ヨハナ嬢は慣れたように金色のオオカミの背中に横乗りする。金色のオオカミはしなやかに走り出すと暗闇の中へと消えていった。
エミリアは、非現実的な光景をただただ呆然と見送る。ふと、隣りの兄を見ると同じようにアホ面をして見送っていた。そりゃ、そうだ。誰だってこんな展開になったらびっくりするわよね。あー、今日の満月の美しいことといったら、私までオオカミになれそうだわ。エミリアは思った。
ある日の昼下がり、エミリアはソフィ嬢のお屋敷にいた。久しぶりにソフィ嬢がエミリアをお茶会に誘ってくれたのだ。お茶会と言っても招待されたのはエミリアだけなので、かなりアットホームな雰囲気だ。誰かに話を聞かれる心配もなく気兼ねなく女子トークを楽しんでいた。
「ソフィ、結婚式の準備でお忙しいと思うのにお招きしてくれてありがとう。」
エミリアが言うと、ソフィ嬢が愛らしく笑って
「いつも私がエミリアに相談に乗ってもらってばかりだから、今日は私が相談に乗ろうかと思って。」
と、暗にアクセル男爵とのことを聞いてくる。
「お陰さまで……。婚約とか具体的なお話はまだ出ていないけど淡々と進んでいると思うわ。」
「『淡々』とってどういうこと?エミリアはアクセル男爵のこと好きじゃないの?どういったところにときめいてるのよ?」
「えっと特にときめいたりはしていないんだけど、一緒にいると空気のような感じというか和やかな時間が過ごせるというか……。」
「何、熟年夫婦みたいなことを言っちゃっているの?!良い?エミリア、私たちはまだ若いの。結婚しちゃったら他の誰かと恋に落ちる訳にはいかないんだから、ちゃんとドキドキ、ときめいた相手と結婚しなさいよ!!」
「結婚相手と結婚した後にドキドキ、ときめけば良いんじゃない?」
「それでも良いけど。エミリアはアクセル男爵にこれからドキドキ、ときめけそうなの?」
「……。」
たしかにソフィ嬢の言う通りなのだった。エミリアは心の中で気持ちを整理しながらソフィ嬢に話す。アクセル男爵は良い人なのだが、あくまでもお友達感覚みたいな感じで異性として意識したことは正直なかったこと、そもそも向こうもそうなのかも知れないこと、政略結婚なんてみんなそんなものだろうと思っていたが違うのだろうかということ。それに……。
「えー!?何、エミリアは恋愛中のドキドキが苦手なの?」
びっくりしたようにソフィ嬢が言う。そうなのだ。エミリアは元々人を好きになってドキドキしてあまり普段では考えられないミスをしたり、意識するあまり相手の目をきちんと見られなかったり、上手に喋れなかったりと相手に挙動不審な態度をする自分が格好悪くて苦手だった。
「エミリア、あなた、そんなに可愛い人だったの!?大丈夫よ。恋をして挙動不審になっているエミリアは全然、格好悪くないわ!安心して。恋するエミリアは可愛いに決まってるじゃない!!自信を持って。私、そんな可愛いエミリアを見てみたいわ」
キャーとソフィ嬢は1人で盛り上がり、力強くエミリアの手を握り、協力するから一緒に素敵な恋を見つけましょう!!と空の一点を指さす。なんだか、スポ根もののヒロインになったような気分だ。
「う~ん。残念ながらアクセル男爵はエミリアの運命のお相手ではなかったようね。他に好きな方とかはいないの?好みのタイプとか?最近、話題のフレトリッヒ王太子とかは?」
好みのタイプね……。さっき言ったように好きになりかけても自分で勝手にブレーキをかけて諦めることが多かったからな。ーっていうか、なんでそこにいきなり王太子が出てくるの?!たしかに、最近、本格的に王太子妃選びを始めたという噂が流れ、社交界でも学園でもその話題で持ちきりだけど……。それこそ野心満々、無謀な政略結婚じゃない。有難いことに私の父も兄も現実的、合理的なので私を王太子妃の座につけようなんてこれっぽっちも考えていないから良かったけど。エミリアはそんな気持ちをソフィ嬢に伝える。
「えー!?でも、『政略結婚』じゃなくて、王太子自身が好きだからって結婚しても良いんじゃないの?今どき、身分違いなんて古いわよ!」
それでも『王太子妃』の座がもれなく付いてくる訳じゃない?なんかそういう上に立つ立場って大変そうだよね。ーっていうか、私、フレトリッヒ王太子に別に憧れてなんかないよ?今までフレトリッヒ王太子に対してそんな風に考えたこともなかったわ。そもそも、フレトリッヒ王太子が私みたいなものを相手にするとも思えないし。しかもしかも、内々にはもう王太子妃候補も2人にしぼられ着々と王太子妃選びが進んでいるはずだ。エミリアは心の内でそう呟く。
今度はソフィ嬢に聞こえるように、そんなものかしらねー、とエミリアが興味なさそうに呟くと、その後はまた他愛もない会話に戻り、2人は美味しいお菓子と楽しいお喋りを満喫したのであった。
ヤバい、こっちに来る。目を合わさないようにしなきゃ。
今日はフレトリッヒ王太子の誕生日パーティー。今シーズンで一番規模の大きな舞踏会が王宮で行われていた。
エミリアはと言えば、さっきまで仲の良い令嬢達とお喋りに興じていたのだが、いつの間にか1人減り、2人減り気がついたらユーベル伯爵にロックオンされていた。道理でみんな上手にフェードアウトしていく訳だ。ユーベル伯爵はピンクのヒラヒラシャツに鼻眼鏡がトレードマークのセクハラ貴族だ。既婚者のクセに未婚女性をダンスに誘い、隙を見ては身体を触ったり、泡よくばちょっとよろけさせてうなじの匂いを嗅ごうとしたりとやりたい放題で女性の敵的存在だ。いつもならエミリアだって上手に逃げられるのに、今日は逃げ損なってしまったようだ。しょうがない。ここであからさまに逃げ出して事を荒立てるよりは、一曲だけ我慢してお付き合いすることにしよう。エミリアがそう決心しながらユーベル伯爵の方を見ていると、反対側の方から手を差し出された。どうやら、別の男性からダンスに誘われたようだ。
助かったと思い、慌ててその助けてくれた男性の方を見るとキラキラ王子オーラ満載のフリトリッヒ王太子が立っていた。 エミリアは驚きつつも、思わず、差し出された手に手を重ねる。すると、フリトリッヒ王太子は手慣れたようにダンスフロアの目立たないところへとエスコートしてくれた。
「危ないところだったね」
フリトリッヒ王太子がウィンクしながら言うので、慌ててエミリアも先ほどのお礼を言う。
「本当にユーベル伯爵にも困ったものだよ。今までは証拠がなくて動けなかったのだが、最近、やっと証拠が揃ってね。近々、厳正な処分が下されると思う。」
周りに聞こえないよう小声で話すので少し耳元がくすぐったい。
「それはそうと、今日の女装、なかなか似合うじゃないか。」
フリトリッヒ王太子は改めてエミリアを見るとからかうように言う。
「私は元々女です!」
エミリアが少し怒ったようにフリトリッヒ王太子に言う。
「それは失礼。…たしかにどこからどう見ても、とても素敵なご令嬢だ。」
フリトリッヒ王太子はわざとらしくエミリアの全身を見回して言う。
「!!」
恥ずかしくて耳まで真っ赤になって俯く。ホント、すぐそうやってからかうんだから。
「あれ?もしかして照れてる?」
フリトリッヒ王太子は、ハハハとさっきより優しい声音で笑っている。どうやらエミリアの反応が面白いらしい。
フリトリッヒ王太子は『営業モード』全開のようで無駄とも思われるほどの煌びやかなオーラを撒き散らしている。今まで打ち合わせやら練習やらでお会いしていた時はいつもちょっとダラけたような感じだったので、改めてその落差に驚く。途中、エミリアはソフィ嬢とのお茶会を思い出し、フリトリッヒ王太子を意識してしまってなんだか挙動不審モードに陥りつつも、フリトリッヒ王太子の上手なリードで無事に踊りきることが出来た。エミリアは、途中からキラキラしたフリトリッヒ王太子の笑顔を直視することが出来ず、ドキドキしっぱなしだったがとても楽しい時間だった。
ダンスが終わるとフリトリッヒ王太子はわざわざエミリアを兄のフェスラーのところまで連れて行ってくれた。元々、このダンス曲が終わったら中庭で休憩しようと兄のフェスラーと約束していたのだ。途中、フリトリッヒ王太子狙いの令嬢達の視線の突き刺さること、突き刺さること。これが針のむしろっていう奴ね、とエミリアは独り言ちる。兄のフェスラーはフリトリッヒ王太子に連れられたエミリアを見つけ、少し驚いた顔をする。ユーベル伯爵の話をすると頷きながら、フリトリッヒ王太子にお礼を言った。兄のフェスラーとともに中庭へと向かう途中、チラッとフリトリッヒ王太子の方を見ると早くも次のダンス相手を希望する令嬢達に囲まれてほとんどその姿を見ることが出来なかった。
「1人でいるのは不用心ではないのか?」
突然、声を掛けられ、エミリアが後ろを振り向くとフリトリッヒ王太子が立っていた。先ほどのキラキラオーラは影を潜め、どちらかと言うと見慣れたダラけた雰囲気を纏わせていた。フリトリッヒ王太子の方も特に従者は付けず1人だ。どこからか抜け出してきたのかも知れない。
「兄があちらにいます。」
少し離れたところで令嬢方と歓談している兄のフェスラーを指さす。兄のフェスラーは、妹のエミリアが言うのもなんだが、結構、モテる。今、話している令嬢の中に兄のフェスラーが狙っている令嬢がいるのか、はたまた、ただの情報収集なのかは分からないが、さっき令嬢達に声を掛けられて兄のフェスラーはそのまま歓談に加わっていたのだ。もちろん、エミリアも仲間に入れてもらうことは出来たのだが、慣れないパーティーに少し人酔いしてしまったので、1人にさせてもらっていた。
「…例の男爵とやらとは順調か?」
突然、フリトリッヒ王太子がアクセル男爵のことを聞いてくる。
「 ーそれが、結局、上手くいきませんで…。せっかくご紹介して頂いたギルフォルト侯爵様には申し訳ないのですが…。」
そうなのだ。ソフィ嬢のお茶会の後、しばらくしてアクセル男爵からいつもより厚い手紙が届き、中には断りの文言が並んでいたのだ。何でも婿入りという条件があるとは言え、自分にとっては願ってもいないような好条件の見合い話が舞い込んできた。また、紹介元も恩義のある方で断ることは出来ない。短い間ではあったが君に出会えて良かった。君の幸せを祈っている。というようなことが誠実な字で書いてあった。
兄のフェスラーにはもう少し詳細な内容が書かれた手紙が届いていて、本来なら兄宛てだけでも用件は済んだと思うのだが、わざわざエミリアにも手紙をくれたのはアクセル男爵の人柄の良さを表している気がした。
もちろん、その手紙を読んでしばらくエミリアは気落ちした。でも、よく言う失恋のショックほどのダメージではなかったのか、数日後にはアクセル男爵へ今回の破談はとても残念ですが承知しました。私もアクセル男爵のお幸せをお祈りしています。というような内容の返事を書くことが出来たのだ。
「ーそうか。それは残念だったな。でも、ギルフォルトの方は気にしなくて良いんじゃないか?何だったら、また他の男性を紹介するように言っておこう。」
フリトリッヒ王太子がエミリアにこともなげに言う。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、しばらくは婚活の方はお休みしようかと…。結婚よりはまず働き口を見つけて自立したいと考えておりまして…。」
そうなのだ、エミリアはもうすぐ王立学園を卒業する。両親や兄は特に働かなくても家で花嫁修業でもすれば良いと言ってくれているのだが、エミリア自身が両親や兄に頼るのではなく自立したいと考えていた。あいにく、エミリアには生業に出来るような技術や才能などはないので、どこかのお屋敷の侍女あたりが妥当かと考えている。本当はせっかくファンタジーの世界に転生したんだからすごい魔力持ちとかに転生して大活躍したかったんだけど……。
「働き口か…。」
「はい。侍女とか…。あと王宮には女官という方々もいらっしゃいますよね。どちらを目指すにも力不足だと思うので、これから色々と勉強をしていかないといけないのですが…。」
「そうか…。」
フリトリッヒ王太子はしばらく何かを考えていたようだったが、ふと何かを思い出したようにエミリアの方へ向き直った。
「そうだ、これをやろう。」
ポケットから小さな箱を取り出す。何だろう?フリトリッヒ王太子の許可を得てエミリアが箱を開けると中には髪飾りが入っていた。以前、王太子の執務室で見かけたあの髪飾りだ。
「こんな高価なもの頂けません。」
「今まで世話になったお礼だ。受け取ってくれ。」
そう言うと、フリトリッヒ王太子自らエミリアの髪に付けてくれた。フリトリッヒ王太子は少し離れてエミリアを見ると満足そうに
「うん。よく似合っている。……とても……そう、綺麗だ。」
フリトリッヒ王太子に真っすぐな目でそう言われ、エミリアは恥ずかしくなって慌てて目をそらす。
「あ、ありがとうございます……。」
エミリアは、ドキドキし真っ赤な顔をしながら、どうにかお礼の言葉を口にする。
「あら?王太子殿下、こちらにいらっしゃいましたの?」
ちょっと甲高い声と共に何人かの衣擦れの音がし、周囲が騒がしくなった。エミリアは、あっという間もなく気が付いたら転ぶように地面の上に座っていた。誰かに突き飛ばされたのだ。突き飛ばされたはずみで髪飾りが落ちる音が聞こえた。見ると王太子妃第2候補のエッダ嬢とその取巻き達ご一行様だった。
「あら?バーンスタイン男爵家みたいな下級貴族さんは地面の上に直接お座りになるのがお好きなのかしら?それはそれとして、わたくし、ずっと王太子殿下をお探ししてましたのよ!」
エッダ嬢が地面に座り込んでいるエミリアをチラッと睨み付けてから、満面の笑顔でフリトリッヒ王太子へと話し掛ける。フリトリッヒ王太子の腕に自分の手を回さんばかりの勢いだ。フリトリッヒ王太子がさりげなくその手を避ける。
その時、エッダ嬢の取巻きその1が目敏く地面に落ちている髪飾りを見つけ、エッダ嬢に手渡す。エッダ嬢はその髪飾りを見てエミリアに言う。
「ふ~ん。この細工は王室御用達の宝石商の物ね。貴女のような下級貴族さんには縁のない物ね。誰かの落とし物かしら?親切な私が預かって本当の持ち主を探してあげるわ。」
さも、親切な私に感謝しろと言わんばかりの言い方だ。
フリトリッヒ王太子がこちらに近づいてエミリアを助け起こそうとするのを目で制し、さらに髪飾りのことを説明しようとするのをエッダ嬢ご一行様に気付かれないよう小さく首を振って止めさせる。経験上、こういう場合、フリトリッヒ王太子がエミリアを庇うとさらにエッダ嬢の嫌がらせがエスカレートすることがあるのだ。フリトリッヒ王太子もそのことに気が付いたのであろう。エミリアを気遣うように見ているが具体的な行動には移せないようだった。
エッダ嬢の取巻きその3だか4だかの令嬢はハラハラ、オロオロと事の経緯を見守っていた。
そうこうするうちにこちらの騒ぎを聞きつけた兄のフェスラーが駆け付けて来てくれたので、エミリアは兄のフェスラーに手を引いてもらって立ち上がる。
「兄が来たので失礼させていただきますわ。」
スカートの汚れを叩くとエミリアはエッダ嬢率いるご一行様に礼儀正しく一礼する。
「王太子殿下、こんな下級貴族さん達は放っておいてあっちに行きましょう。わたくし、喉が乾いたわ。」
エッダ嬢も気持ち悪いほどの甘い声を出して、フリトリッヒ王太子を引きずるように連れてどこかへ行ってしまった。
エッダ嬢ご一行様の姿が見えなくなると兄のフェスラーが口を開いた。
「エミリア、気が付くのが遅れてすまなかった。大丈夫かい?」
兄のフェスラーが優しく気遣ってくれる。別に怪我はないし大丈夫だ。今回のエッダ嬢ご一行様の仕打ちなんて想定内の出来事だ。若い貴族の中には身分差を気にせず接してくれる人も多くなってきたが、一部、貴族の中には自分の身分の高さを誇示するように自分より下位の者には今のような威圧的な行動をとることも多い。
エミリアが大丈夫よと言っていつも通り微笑むと、心配した顔をしていた兄のフェスラーも少し安心したようだった。
「私、ルイサ・ヒストリッシュと申します。先ほどは大変失礼しました!!」
エッダ嬢の取巻きその3だか4だかの令嬢が小走りにやって来てエミリアに頭を下げる。
「エミリア様、お怪我などはございませんか。先ほどはエッダ様の嫌がらせを止められず申し訳ありませんでした。最近、エッダ様は自分以外の女性が王太子殿下の近くにいるのが許せないらしくって……。」
と彼女自身がエッダ嬢のこのような行動にほとほと困っているといった顔をして、改めて、エミリアに向けて頭を下げてくれる。
エミリアが大丈夫です、お気になさらないでというようなことを言うと安心したように少し笑ってもう一度頭を下げる。そして、兄のフェスラーに初めて気が付いたようで、こちらは?という顔で問いかけてくる。エミリアはルイサ嬢に兄のフェスラーですと紹介し、兄のフェスラーもよろしくとルイサ嬢に挨拶をした。
ルイサ嬢は兄のフェスラーの顔をしげしげとみると言った。
「もしかして、近衛師団のフェスラー様ですか?お噂は聞いております。…実は、近衛師団の方にちょっとご相談に乗っていただきたいことがありまして……。今、お会いしたばかりの方に突然こんな厚かましいお願いをする非礼は重々承知しております。ーですが、どなたかご紹介していただけないでしょうか?」
ルイサ嬢は切実な声で兄のフェスラーに訴える。兄のフェスラーがお役に立てるか分かりませんがとりあえずお話をお聞きしょう、もし、よろしければ、一度、近衛師団の詰所までお越しください。と答えるとホッとしたように、もうエッダ様のところへ戻らないとと言って小走りに去って行った。
後ろ姿を見送りながら、兄のフェスラーが独り言のように呟く。
「ヒストリッシュ伯爵家のルイサ嬢だね。ーたしか、最近、ヒストリッシュ伯爵が投資に失敗したとかいう噂が流れてるけど…。相談内容はそのことなのかな、近衛師団が関係するとも思えないけど……。それにしても、殿下も大変だな。エッダ嬢は気が強いし、王太子妃第3候補のミーナ嬢は殿下の妹のリープ王女がお気に入りで殿下とはあまり話もしないらしいし……。」
今日はこの辺で失礼させてもらうかと兄のフェスラーが言うので私達兄妹は王宮を後にした。
家に帰り、寝室で1人きりになると何故か涙が出てきた。悔しかったのか、怖かったのか、それともただ疲れたからかエミリアにも理由は分からなかった。
ただ、フリトリッヒ王太子との距離が少し縮まったかと思ったら、あっという間にまた遠くへ行ってしまったような寂しさを感じていた。
「突然、呼び出してすまない。実は今度、王太子妃の関係で大々的な採用試験を行うことになってな。この前、就職口を探していると言っていただろう。」
ここはフリトリッヒ王太子の執務室だ。エミリアは久しぶりに兄のフェスラーに連れられて男装姿でここにいる。
フリトリッヒ王太子から手渡された封筒に目をやる。そこには『王太子妃付選考試験』と書いてあり、中には試験要項や願書などの必要書類が入っていた。
「かなり難しい試験になると思うが、興味があったら受けてみるといい。」
エミリアが私の一存では決められないので持ち帰って検討してみますと言って兄のフェスラーと一緒に退出しようとするとエミリアだけが呼び止められた。
「この前は嫌な思いをさせて悪かったな。君をエッダ嬢から守れなかったことを本当に申し訳なく思っている。」
こちらが切なくなる位の悲しい顔で謝罪する。エミリアは慌てて、下級貴族が舞踏会などに参加するとたまにああいう扱いを受けることがあるので慣れています、大丈夫ですよ、とケロッとした表情で答える。
そうか…、その下級とか上級とかの区分け自体、私は、非常に気にくわないのだがな…とフリトリッヒ王太子は独り言のように言う。エミリアの話に納得したのかしなかったのか、フリトリッヒ王太子は机の上にあった物を手に取ると
「そうだ、やっとこれが私の手元に戻ってきたんだ。元々君に贈った物だ。もし、嫌じゃなかったら君に持っていて欲しい。」
そう言って、エミリアにこの前の髪飾りを渡してくれた。なんでも、エッダ嬢はあの時持ち主を探すと言っていたが、早々に出入りの宝石商へ売り払い、代わりにそのお金で自分好みの宝飾品を買っていたらしい。宝石商へ流れた髪飾りが巡り巡って、やっと先日、フリトリッヒ王太子の元へと返ってきたそうだ。
それにしても殿下はおモテになって大変ですね、とエミリアはフリトリッヒ王太子をからかう。フリトリッヒ王太子は、エッダ嬢が好きなのは『王太子』であって私ではないよ。それに本当に好きな相手には苦戦中なんだ、と恨みがましく言う。フリトリッヒ王太子の本命は第3候補のミーナ嬢なのかしら?エミリアはそう思いながら部屋を後にした。
家に帰って侍女のリリアに手伝ってもらって着替えていると、侍女のリリアが目敏く鏡台の上に置いていた髪飾りに気づく。素敵な髪飾りですね!お付けしますと言ってくれるので、有難く付けてもらう。ちょっといわくつきの品物になってしまったが、家に居る時に付ける分には問題ないだろう。侍女のリリアが、フェスラー様がよくエミリア様はおモテになるのになかなかそのことに気付かないんだと心配されていますが、さすがにこの髪飾りの贈り主のお気持ちにはお気づきでしょう?と楽しそうに聞いてくる。エミリアはドキドキする気持ちを抑え、お礼でもらったのよとサラッと答える。お礼ですか?私にはお礼だけのお品にはとても思えませんが……、と侍女のリリアは言った。
その日の晩、 エミリアは両親や兄のフェスラーと夕食を囲みながら、選考試験の話をしていた。両親の手元には兄のフェスラーが持ち帰った書類が置かれている。両親は別に何もそんなに高望みをしなくても身の丈に合った相手と結婚し、身の丈のあった生活をすれば良い、平凡こそが幸せだという意見のようだ。兄のフェスラーはしばらく考えていたようだが、私が付けていた髪飾りに気が付き、それは殿下からのプレゼントだろう?今回の試験も殿下自ら受けるように言ってくれたのだからきっと殿下自身もエミリアの受験を希望されているのだろう。ダメで元々受けてみれば良い、もしダメでも試験内容を勉強することは花嫁修業にもなるし、新しく就職口を見つける時にも役に立つはずだ、決して無駄にはならないと思うよと言ってくれた。なんで試験を受けるのに殿下からのプレゼントが関係あるのだろう?と思いつつ、何故か両親もそれで少し心が動いたようだ。最終的には兄のフェスラーの意見に両親が折れる形になりエミリアの受験が決まった。
受験が決まってからのエミリアは目が廻る程の忙しさだった。何せ、試験まで3か月しかない。3か月後にはダンス、礼儀作法、刺しゅう等の裁縫技術などの実技試験に加え、言語、数学、歴史、地理、地学、倫理、音楽など多岐に渡る範囲の学科試験が実施されるのだ。もちろん、独学では難しいので家庭教師を頼んだり、知人友人に教えてもらったりとありとあらゆる手段を利用し試験に備えていた。これだけ大変なんだからよっぽど待遇の良い就職口なのよね?ブラックだったらどうしよう?!などと多少心配になりながらも準備を続ける。家庭教師などの話によると今回の応募条件は『18歳以上30歳以下の成人女性に限る』のみのため、平民も貴族もたくさんの人が受験するらしい。女性に限る点を除けば、毎年1回、王宮で行っている男性対象の武官、文官採用試験と内容自体はそれほど大きくは変わらないとのことだ。
3か月の猛勉強の結果、エミリアは1次試験、2次試験と順調に通過していった。やはり噂通り男性対象の武官、文官採用試験の問題がベースになっているようだ。過去問通りの問題も多く、エミリアも試験に手ごたえを感じていた。
今日は最終試験日当日である。最終試験は面接だと書いてあった。緊張した面持ちで指定された部屋のドアをノックして相手の応答を待ってからドアを開く。ーすると、何故か、フリトリッヒ王太子が立っていた。『王太子妃付選考試験』というからには次期王太子妃か王太子妃がまだ決まっていないなら王妃あたりが面接をするのだろうと考えていたエミリアは思いがけない相手に驚きつつ中へと入った。
フリトリッヒ王太子が何か話しかけようとした時、廊下の方が騒がしくなったと思ったら、ノックもせずにドアが開き、恰幅のある初老の男性と妙齢の女性、それを制止しようとする護衛達が室内へとなだれ込んできた。
「想定よりかなり早かったな……。」
フリトリッヒ王太子が呟くと、乱入者達に気付かれないようエミリアにどこかへ隠れるよう合図する。エミリアは騒ぎに巻き込まれないよう部屋の隅の物陰に身を隠しつつ様子を伺う。エミリアが無事に隠れたことを確認すると、フリトリッヒ王太子は落ち着き払って乱入者達へと呼びかける。
「これは、これは、ブーゼ・ストレーン侯爵、エッダ嬢」
つまり先ほど室内に乱入してきたのは王太子妃第2候補のエッダ嬢とその父親のストレーン侯爵だったようだ。
初老の男性は頭から湯気を出しそうなほど怒っていた。頭髪が薄いため、怒りで頭まで真っ赤になっているのが見え、まるでタコのようだ。エッダ嬢も父親に負けず劣らず怒っているようだ。ウエーブがかった髪のせいでメドゥーサのように見える。
「なんでうちの娘が不合格なんだ!!部下から全問正解だったと聞いている!!」
どうやらエッダ嬢も『王太子妃付選考試験』を受験したらしい。あんなに王太子妃になる気満々だったエッダ嬢が受験?しかも100点で不合格?何が何やらエミリアには全く分からなかった。
「そうよ、そうよ!!自己採点でも全問正解だったわ!!」
エッダ嬢も父親に負けじとフリトリッヒ王太子へと詰め寄る。
慌てた護衛が二人を引き離そうとするが、二人はフリトリッヒ王太子から離れる様子は全くない。
しばらく膠着状態が続いていたが、ノックの音とともに、書類を手にしたギルフォルト侯爵と真面目そうな若い男性を連れた兄のフェスラーが入室すると再び物事が動き出した。
「ストレーン侯爵、エッダ嬢。たしかに、今回の学科試験でエッダ嬢は全問正解でした。でも、実は今回の学科試験、全問正解というのはあり得ないんですよ。」
ギルフォルト侯爵が意味あり気に微笑みながら言う。元々綺麗な顔立ちだからかこういう時のギルフォルト侯爵の笑みは怖い。
「エッダ嬢は『ビーレフェルロット』という都市をご存じのようだが、ストレーン侯爵はご存じですか?」
ギルフォルト侯爵がストレーン侯爵に問いかける。
「ビーレフェルロット?私は聞いたことがないが…。」
突然の問いにしばし怒りを忘れ、ストレーン侯爵が自信なさげに答える。
「さすがはブーゼ財相。地理をよくご存じですね。それでは、エッダ嬢、君はどこでこの都市の名前を知ったんだ?」
「それは…。」
エッダ嬢が答えに窮したように奥歯を噛み締めながら下を向く。
「君は試験前に手に入れた試験問題に付いていた解答を読んでこの都市の名前を知ったんだろう?」
「…!!」
エッダ嬢が驚いたようにギルフォルト侯爵を見る。ギルフォルト侯爵はそんなエッダ嬢を睨み付けるように続ける。
「君が我が国の西部に位置するリネンの産地と回答した『ビーレフェルロット』という都市は残念ながら存在しないんだ。以前、試験問題の印刷を担当する文官からある相談を受けてね。殿下とも相談して架空の都市に関する設問を作っておいたんだよ。そうすれば、試験問題の漏洩事件に関与した犯人がすぐに分かるだろ?つまり、そう、君と君の父親のように。」
ギルフォルト侯爵が目を細めながら言う。
往生際悪くストレーン侯爵が騒ぎ立てる。
「しょ、証拠があるのか?!証拠もないのに財相である私にそんな暴言は許さんぞ!!」
「証拠ももちろんたくさん用意してありますが、今回は手っ取り早く証人を連れてきました。」
兄のフェスラーがそう言って、先ほど連れてきた若い男性の方を見る。
「お、お前は…。」
「そう、貴方が懇意にしているヒストリッシュ伯爵のご長男のツァールト様です。」
ストレーン侯爵の問いに兄のフェスラーが答える。
ツァールトは緊張した面持ちながら、ストレーン侯爵に語りかける。
「ストレーン侯爵、私は貴方に利用されるために難しい試験を突破して文官になったわけではありません。今までのことは全てギルフォルト侯爵にお話ししてあります。もうこんなことは終わりにしましょう。」
「そんなことを言ってただで済むと思うのか?君たち一家の借金を今すぐ返してもらっても良いんだぞ?」
ストレーン侯爵は威圧的に言う。
「そのヒストリッシュ伯爵の借り入れ金についてなのですが、今回の試験漏洩事件の関係で少しそちらの方も調べさせて頂きまして。ストレーン侯爵、貴方、なかなか悪どいことをしてらっしゃるようだ。ヒストリッシュ伯爵を陥れた証拠が少し調べただけでもボロボロと出てきましたよ。お陰で貴方をヒストリッシュ伯爵に対する詐欺罪でも立件出来そうです。」
楽しそうにギルフォルト侯爵が言う。だから、その笑顔が怖いんですって。
「ストレーン侯爵、エッダ嬢、詳しいお話は別室でたっぷり聞かせて頂きます。」
そう言って、ギルフォルト侯爵はみんなを引き連れて出ていってしまった。
急に部屋が静まりかえる。もう、出て行っても大丈夫かしら?エミリアは隠れていた物陰からそろそろと出て、フリトリッヒ王太子の方へ向かう。
「やぁ、驚かせて済まなかったね。まずは先ほどの説明をさせてもらえるかい?」
フリトリッヒ王太子がソファを指しながら言う。ここに座れということだろう。エミリアがソファに座ると当たり前のようにその隣りにフリトリッヒ王太子も座って話し始める。
どうやら、先ほどの若い男性は、この前、エミリア達が舞踏会であったルイサ嬢の弟らしい。彼は王宮の印刷局で文官として勤めているのだが、ヒストリッシュ伯爵がストレーン侯爵に騙され巨額の借金をした頃からストレーン侯爵に脅され、文書偽造などの悪事の片棒を担がされていたそうだ。真面目なツァールトは思い悩み、思い余ってそのことを姉のルイサ嬢に相談したらしい。それをルイサ嬢が舞踏会でたまたま知り合った兄のフェスラーに相談し、近衛師団としても調査を始め、今までストレーン侯爵が行ってきた悪事が色々と明らかになったそうだ。そして、ちょうどタイミング良く今度はストレーン侯爵からツァールトに試験問題の漏洩話を持ち掛けられたので、先ほどの架空都市に関する問題を作り、ストレーン侯爵が罠に掛かるのを待っていたのだと言う。エッダ嬢については、この前のエミリアに対するひどい態度を見て、さすがにフリトリッヒ王太子はストレーン侯爵にエッダ嬢は王太子妃候補から外すと正式に断りをいれたそうだ。でも、ストレーン侯爵とエッダ嬢は王太子妃の座を諦めきれず、受験するのはこちらの自由だろうと押し切って今回の試験の願書を出してきたそうだ。一連の説明を聞き終えて納得する私にフリトリッヒ王太子は続けてこう言った。
「実はこの選考試験にはもう1つ罠が仕掛けられていたんだ。」
先ほどまでの深刻な表情とは一転、今度はいたずらっ子っぽい表情で言う。
「実はこの選考試験は『王太子妃付き』ではなく『王太子妃』選考試験だったのさ。エミリア嬢、『王太子妃選考試験』合格おめでとう。」
うん?『王太子妃選考試験』?エミリアは思ってもみなかった発言にしばし考え込む。それって、つまり、フリトリッヒ王太子のお嫁さんを選ぶ試験っていうこと?やっと、エミリアの頭がいつも通りの回転を始める。
「エッダ嬢とのお話がなくなったとしても、第3候補のミーナ嬢がいらっしゃるじゃないですか。何もこのような大掛かりな試験を計画しなくても……。」
エミリアがフリトリッヒ王太子に言う。
「ミーナ嬢は私より妹のリープにご執心でね。リープも満更ではなさそうなんだ。近々、2人は婚約するかも知れない。その証拠にミーナ嬢は今回の試験に興味すら示さなかった。」
フリトリッヒ王太子は興味がなさそうに言う。この国では同性婚も珍しくない。つまり2人はそういう仲なのだろう。
「でも、試験には『王太子妃付き』とちゃんと『付き』と書いありました!!」
往生際悪く、エミリアが言う。
「君に渡した要項にだけ『付き』を入れておいたんだ。そうじゃなきゃ、君が受験しないと思って。嘘を付いてすまない。」
フリトリッヒ王太子はそう言って素直に頭を下げ、改めてエミリアを見つめると言った。
「君が好きだ。私と結婚して欲しい。」
「でも、両陛下がなんと仰るか…。」
エミリアが再び言う。
「王太子妃選びについては全て私に一任されている。何も問題はない。」
フリトリッヒ王太子が答える。
「ギルフォルト侯爵様はじめ周りの皆様に認めていただけるかどうか……。」
「周りがどう思うかなんて関係ないだろう。不満を持つものはいないと思うが、もし、そうであったとしても私が文句を言わせない。」
「私の家族が何と言うか…。」
エミリアがさらに続ける。
「君以外は『王太子妃選考試験』だと知っている。受験を許してくれたと言うことは、ご家族も了承してくれているはずだ。」
フリトリッヒ王太子が答える。
「でも、私は下級貴族の出身で…。」
エミリアがさらにさらに続ける。
「前から言っているが、私はその下級だの上級だのの区分はくだらないと思っている。人には上も下もない。君はちゃんと試験に合格しているんだ。誰に何を言われても堂々としていれば良い。」
フリトリッヒ王太子がエミリアにもう言うことはないのかと余裕そうな顔で答える。
もしかして、これが外堀を埋められるっていうやつですか?!エミリアは降参だと言わんばかりに首を振る。すると、フリトリッヒ王太子がエミリアの前に跪くとエミリアの右手を取り軽く手の甲に口づけしながら言った。
「もう心配なことはないか?周りのことはどうでも良い。君の気持ちを教えて欲しい。改めて言おう、私と結婚してくれないか。」
フリトリッヒ王太子がエミリアを見つめる。エミリアは恥ずかしさのあまり下を向く。
「…君は私が嫌いか?」
フリトリッヒ王太子が今度は心配そうに聞く。
「…お慕い申し上げております。」
とうとう観念して答えたエミリアの返事はとても小さく掠れていた。
「うん…?」
エミリアの返事を優しくフリトリッヒ王太子が聞き返す。
「…だから、お慕い申し上げております!」
フリトリッヒ王太子に背を向けながら言う。今度は思いがけず大きな声が出た。恥ずかしくてぶっきらぼうな言い方になってしまった。さすがに今度はフリトリッヒ王太子にもはっきりと聞こえたのだろう。気が付くとエミリアはフリトリッヒ王太子に後ろから優しく抱きしめられていた。そして、そういう照れ屋なところがまた可愛いんだと言ってクククっと笑う。フリトリッヒ王太子はエミリアを優しくくるりと半転させて向かい合うと、エミリアに向かって嬉しそうに言った。
「エミリア、ありがとう…。君はすぐに身を引こうとするからな。やっと君をつかまえることが出来た。」
そう言ってフリトリッヒ王太子はエミリアを抱きしめる。どちらからともなく唇を重ねようとした瞬間、ノックの音と共にドアが開く音が聞こえてきたので、エミリアは慌ててフリトリッヒ王太子から身体を離す。見ると、ギルフォルト侯爵だった。フリトリッヒ王太子が恨めし気にギルフォルト侯爵を見る。
「殿下、そろそろ次の面接のお時間です。エミリア様、お帰りになるなら途中までお送りしましょう。」
次の面接?エミリアが不安になってフリトリッヒ王太子を見ると、フリトリッヒ王太子はエミリアを安心させるように言った。
「今回の試験で成績優秀だった者を身分に関係なく女官などに登用しようと思ってね。面接をして意向を確認しているんだ。」
「申し訳ありません。エミリア様、時間があまりありませんのでお急ぎください。」
ギルフォルト侯爵に急かされ、エミリアは慌てて部屋を出る。
先ほどの動揺を抑えつつ、エミリアは先を歩くギルフォルト侯爵を追いかけながら謝る。
「ギルフォルト侯爵様、アクセル男爵様のことでは大変お世話になりありがとうございました。ギルフォルト侯爵様には今までにも色々とお手数をお掛けしたのに、結局、私のような者がこのような結果になって申し訳ありません。」
「『貴女のような方がこのような結果』、ですか?」
ギルフォルト侯爵が立ち止まり、片眉を上げながら怪訝そうに言う。まずい、何か怒らせるようなことを言ってしまったようだ。思わず、エミリアは身体を固くする。
「……エミリア嬢は何か誤解されていらっしゃるようですね。エミリア嬢、私どもは貴女を歓迎しているのですよ。」
エミリアを安心させるように優しい笑顔で続ける。ギルフォルト侯爵によると、フリトリッヒ王太子は元々可もなく不可もなく、王太子として求められる仕事をただただこなす毎日を送っていたそうだ。それが、エミリアと出会い、楽しそうにしている時間が増え、良い変化だと思っていたところ、さらにエミリアのためにと今まで興味のなかった社交界や王政全般にも積極的に興味を持つようにななり、『王太子』としての自覚に目覚めたフリトリッヒ王太子を周りは頼もしく感じていたらしい。そんな中、今回の『王太子妃選考試験』をフリトリッヒ王太子が自ら企画、立案し、短時間のうちに両陛下や議会を説得、綿密な準備の後、無事に成功させた、その手腕に周りはとても驚いているのだという。
「元々、聡い方だとは思っていましたが、正直、殿下が短期間のうちにここまで成長されるとは我々も想像しておりませんでした。皆、殿下の成長を頼もしく、また喜んでおります。これも全てエミリア嬢との出会いのお陰です。もちろん、エミリア嬢自身の選考試験の結果も大変素晴らしいものだったと伺っております。エミリア嬢、王太子妃としての資質は十分お持ちです。もっとご自分に自信をお持ちください。」
一呼吸置いて、ギルフォルト侯爵はさらに続ける。
「…そして、妻のソフィと陰ながらお二人の恋の行方をやきもきしながら応援していた私個人としても大変嬉しく思っているのですよ。本当におめでとうございます。」
ギルフォルト侯爵もこんな顔をすることがあるのね、と思うようないたずらが成功して得意げな子供のような表情でエミリアにウィンクする。
別れ際、ギルフォルト侯爵は妻のソフィがエミリア嬢にしばらく会えず寂しがっているので、ぜひ、また会いに来てやってください、と言って見送ってくれた。
「いやー、いい披露宴でしたね。殿下、妹のことをくれぐれもよろしくお願いしますよ!」
兄のフェスラーがフリトリッヒ王太子に言う。
先ほど披露宴とそれに付随する舞踏会が終わったところだ。招待客はほぼ帰り、2次会と称して気の置けないメンバーで王宮内の温室に集まっている。外はしとしとと糸のような雨が降っているが温室の中は暑くも寒くもなく心地いい。ここなら多少騒いでも外まで声が漏れないだろう。ここのところ他国との紛争も落ち着いているし、内政もストレーン侯爵の一件以来、特に目立ったゴタゴタもないのでみんなくつろいだ雰囲気だ。みんな思い思いのペースでお酒や食事、スイーツなどを楽しんでいる。
「まさか、フリトリッヒ王太子が私の可愛いミリーのハートを射止めるとは思わなかったわ。」
ヨハナ嬢がグラスを口にしながら誰にともなく言う。ヨハナ嬢の隣りにはヴォルファーレン王国の第2王子グランツ殿下が座っている。二人とも国賓としてフリトリッヒ王太子とエミリアの結婚式に参列していたのだ。グランツ王子もさすがに今日は人間の姿だ。口数は少ないが穏やかな笑顔を浮かべ、楽しそうにみんなの会話に参加している。
「実は自分自身の勇気と行動力に自分が一番驚いている……。」
フリトリッヒ王太子がポツリと言う。もし、ヨハナ嬢とグランツ殿下の一件がなかったら、特に疑問を持つこともなく、淡々と決められた縁談を進めていただろうと言うのだ。
「二人には運命に立ち向かう勇気をもらった。礼を言う。」
みんな、さすがにそれはちょっと大袈裟じゃない?!と思ったようだが、フリトリッヒ王太子が言わんとすることはなんとなく分かるので、それぞれ否定することなく頷いている。
「実は、僕も自分自身に一番驚いてるクチなんです。」
笑いながらグランツ王子が話に加わる。ヨハナ嬢に好意を持っていたグランツ王子はヨハナ嬢が留学を終えるまでの間に時間を掛けてゆっくりと距離を縮めていくつもりだったのだそうだ。それが、急に母国の王太子妃候補になり、帰国することになってかなり慌てたそうだ。父に結婚を認めてもらうのがこんなに大変だとは思わなかったわ、とヨハナ嬢がグランツ王子に言う。グランツ王子もまさか説得するのにあんなに時間がかかるとは思わなかった、でも、最終的には認めてもらえて良かった、良いご家族で良かったと返す。二人ともとても幸せそうな笑顔だ。新生活が順調そうで良かった、エミリアは思った。
「そう言えば、ギルフォルト侯爵、ソフィ嬢との大切な婚約パーティーの場で騒ぎを起こして申し訳ない。」
改めてグランツ王子がギルフォルト侯爵に頭を下げる。ああ、あんなの大したことないとギルフォルト侯爵はさらっと受け流すが、実際はオオカミを見て卒倒したご婦人の救護やら野次馬の整理やらそれなりに大変だったようだ。それら降りかかってくる問題に動じることなくテキパキと手際よく対応したギルフォルト侯爵に惚れ直したと後でソフィ嬢は言ってたっけ。ソフィ嬢はソフィ嬢で自分達の婚約パーティーが台無しになったと嘆くわけでもなく、逆にこのような騒ぎには滅多に立ち会えないからとむしろ楽しんでいたのをエミリアは思い出していた。
ヨハナ嬢の家族からも正式に結婚が認められたのに、何故2人があんな駆け落ちめいた真似をしたのかと言うと、実はあの日の満月はヴォルフォーレン王国では『ヴォルフモーント』と呼ばれる特別な満月で、その翌日にヴォルフォーレン王国の建国祭が行われるという神聖な日だったのだそうだ。間に合うのであれば、ヨハナ嬢を連れて建国祭に列席したいと思ったグランツ王子はちょっと無理をして急いで帰国したらしい。ヴォルフォーレン王国で最も大切な建国祭でヨハナ嬢を正式な婚約者として紹介したかったのだそうだ。
「大変といえば、殿下とエミリアの恋にもヤキモキして大変でしたわ!」
ソフィ嬢が言う。隣りでギルフォルト侯爵もうんうんと頷いている。どうやら、二人には早い段階から私たちが両片思いをしているように見えていたらしい。鈍感な当事者達はついこの前、お互いの気持ちに気が付いたばかりだと言うのに。
「殿下が王位継承権を妹のリープ様に譲って王室を離脱し、領地経営に専念するんだ!と言った時はさすがの私も驚いた。な、ソフィ?それも全てエミリア嬢に好きなってもらうためだと聞いた時はホント、脱力したよ。」
「そうそう、結婚早々、夫が職を失うのかと焦りましたわ。」
ギルフォルト侯爵もソフィ嬢も思い出して笑う。フリトリッヒ王太子はそんなことまで考えていたのか。思いがけない話にエミリアはびっくりする。でも、そう言えば、フリトリッヒ王太子の執務室の本棚に『円満解決!楽々王室離脱の手引き』とか『失敗しない!はじめての領地経営入門』なんていう本が並んでいたような気がする。なんでこんな本があるのかと不思議に思っていたのだが、案外、フリトリッヒ王太子もそれなりに本気だったのかも知れない。
「ところで、殿下はいくら優秀とはいえ、ミリーが試験に合格できないことは心配していなかったの?」
好奇心いっぱいの顔でヨハナ嬢が聞く。彼女以外が聞いたらトゲがありそうな質問も彼女からの質問なら気にならないから不思議だ。
「彼女を、エミリアを信じていますから。」
フリトリッヒ王太子がきっぱりと言い切る。
「まぁ、僕なりの保険は掛けておきましたけど……。」
はっきりと言い切った割には後からゴニョゴニョと続ける。どうやら、フリトリッヒ王太子は試験問題の中にこっそりエミリアしか分からないであろう問題をいくつか入れておいたらしい。通りでフリトリッヒ王太子の好きな食べ物やら愛馬の名前やら愛馬の毛色やら変な問題が出てきた訳だ。その話を聞いてみんなちょっと笑いながら呆れている。
「それはそうと、フェスラー、ルイサ嬢とは順調か?」
ギルフォルト侯爵が話題を変え、兄のフェスラーに問う。
「えっ?!順調も何も、なにもないですよ!」
慌てて兄のフェスラーが答える。
「そうか…。最近、よく近衛師団の詰所へ差入れに来ているという噂を聞いて、もしかしてと思ったんだが……。彼女、真面目そうな良い娘じゃないか。」
ギルフォルト侯爵が言う。兄のフェスラーも満更ではなさそうだ。ストレーン侯爵に騙され多額の借金を負ったヒストリッシュ伯爵は、ストレーン侯爵の自白により名誉を回復、借金も無効とされたそうだ。ツァールトは諸事情を勘案され免職はされず、一定期間の停職の後、今は別の部署で働いているらしい。ストレーン侯爵一族は領地への流刑が確定したらしい。これであの一族とは顔を合わせずに済みそうだ、エミリアはホッとする。ルイサ嬢か……、以前少し話しただけなので、エミリアはそれ程、彼女のことは知らない。でも、ギルフォルト侯爵が話題に出すくらいだから、きっと信頼できる方なのだろう。そろそろお兄様も真剣に結婚を考えたら良いのにとエミリアは思った。
こうして、ワイワイ、ガヤガヤと楽しい夜は更けていったのである。