不可分な僕ら
「そう言えば結愛、前に四坂秋士郎の本読んでたよね」
と、僕がふと思い立ってそう尋ねたら、向かいの席でシチューを口に運んでいた結愛がきょとんと目を丸くした。
「四坂秋士郎? ……誰だっけ」
「ほら、時代小説作家で、今もずっと紙の本を出してる人。今時紙の本なんて珍しいね、読んでみたいねって言って、わざわざ通販で取り寄せてたでしょ」
「あー、はいはい、確か『令和の残響』? だっけ? そんな感じのタイトルの」
「そうそう。何でもあれの作者、治安紊乱罪と器物損壊罪で昨日逮捕されたって。今朝、起き抜けにネットニュースで見たんだけど」
「へー。今時紙で本出す人も珍しいけど、きっちり罪名つきで逮捕されるってのもまた珍しいね。何しでかしたの?」
「なんか公共の場で突然反社会的演説を始めちゃって〝日本人は令和の時代に立ち返るべき!〟とか〝今すぐ人類統合ネットワークを廃止すべき!〟とか、ひとりで大騒ぎしてたらしいよ。で、駆けつけた市民安全管理機構の管理員も暴れてボコボコにしちゃって、最終的に警察に捕まったとか」
「えぇ……確かあの人、もう結構な歳だったと思うけど。なのにアンドロイド破壊するとかとんでもないね。でもなんで突然暴れたの?」
「さあ。詳しくは知らないけど、記事にぶら下がってたコメントによると、一ヶ月くらい前から四坂のECHOが炎上してたんだって。最近商業デビューした新人作家に盗作されたって騒いでたみたいなんだけど、本当に盗作ならHINEが発禁してるはずでしょ? なのに間違ってるのはHINEの方だ、AIには理解できない問題だから、あんなものを神のごとく信じ崇めている人間は頭がおかしいとか言いたい放題で、まったく聞く耳持たなかったらしくて。でも機械は間違えないから機械なのであって、だからこそ今の人たちはHINEに管理された社会の方が安心だと思ってるわけで……ま、となれば当然炎上するよね」
「うわー……しょーもな。六十過ぎてて、しかも自称作家なのにSNSで言っていいことと悪いことの分別もつかないわけ? どうりでここ数年自費出版しかしてなかったわけだ。自腹切ってまで紙で本を出すなんて、よっぽど熱意のある人なんだなって思ってたけど、正直作品の内容も微妙だったし……希はアレ読んだ?」
「うん、でも最初の数ページだけ。どうしても文体が合わなかったんだよね」
「私もそう。なんかかっこつけて小難しい言い回しとか比喩とかいっぱい使ってるけど、結局何が言いたいのかよく分かんなくて。話は全然頭に入ってこないし、登場人物もまったく共感できないしで、途中で読むのやめちゃった。あとがきに〝出版社が紙での出版を渋るから自費出版に切り替えることにした〟みたいなこと書いてあったけど、ほんとは自主的にそうしたんじゃなくて、売れなさすぎて干されたんじゃないのかな。十年くらい新作が出なかった時期もあったらしいし」
「え、そうなんだ……じゃあ、もとからちょっと社会不適合気質のある人だったのかもね。盗作犯呼ばわりされてた人も、実は一時期四坂の家で家事手伝いをしてたらしいんだけど、あまりにもパワハラがひどくて半年で辞めたそうだし。その人の前にも何人も辞めてて、むしろ半年は長く続いた方だったらしいよ」
「わー、かわいそう……セクハラやマタハラはかなり厳しく取り締まられるようになってきたけど、やっぱりパワハラの判断はまだ難しいんだね。やってる本人は自覚がない上に〝相手のためを思って言ってやってる〟とか思い込んでるパターンが多いから。HINEもまだ人間の悪意なき悪意は見抜けないかあ」
「周囲から見ても明らかに度を超えてれば、HINEも第三者の見解を統計することで〝パワハラだ〟と判断できるんだろうけどね。今回はふたりの他に当事者がいなかったから……」
「機械は確かに間違えないけど、正しいだけが正しいとは限らないってことが分からないのよね。そう考えると四坂の言い分も半分くらいは一理あるのかも」
「だとしても〝機械に洗脳された猿以下の愚民ども〟は言い過ぎだと思うけどね」
「猿だって鏡を見れば〝あれは自分だ〟って気づくもんねー。それに気づかない人がそんなこと言うなんて面白いね」
なんて痛烈な皮肉を、結愛は今日も悪びれもせずあははと無邪気に笑って言う。
他人が聞いたらぎょっとするかもしれないけれど、思ったことは何でもキッパリ言葉にするのが結愛の欠点であり美点だ。おかげで僕は大抵の場合、彼女がいま何を考えているのか、疑ったり不安に思ったりすることなく過ごせている。
時刻は午後十二時過ぎ。いつもよりだいぶ遅い昼食だけど、結愛が大鍋にたっぷり作ってくれたシチューは絶品だった。とろとろの食感の中にマッシュルームやにんじんの自然な甘みが溶け出して、舌の上ですべてが調和する。
牛肉もほろほろに煮込まれていて臭みはなく、白いカーテンの下に隠れたバターライスとの相性はバッチリだ。これから体験学習にやってくる子どもたちは、この牛肉もバターも牛乳もうちの牧場で作られたものだと知ったらきっと驚くだろう。
放牧地を囲む山々が秋色に燃える頃。僕らが管理を任されている蔵王連峰牧場には毎年、新奥羽市の学校から学生たちが訪れる。目的は本土での生活と、普段なかなか目にする機会のない職業の実習を同時に体験することだ。
とは言え今年は本土で人類解放戦線による爆破テロがあったばかりだから、さすがに中止になるんじゃないかと思ってたけど。
体験学習の受け入れ先はここのような田舎ばかりで、テロの標的となりやすい都市部ではないから、巻き込まれる危険性は限りなくゼロに近いというHINEの判断の下、結局例年どおり開催される運びとなったようだった。
まあ、と言っても一応大事を取って、学校側は学生が任意で参加するかどうかを決められる仕様にしたみたいだ。そのせいもあってか、うちで受け入れる学生の人数は例年に比べて極端に少なかった。もともと他の受け入れ先に比べれば、実習先にうちを選ぶ学生はごく少数なのだけど、それを踏まえても今年は少なすぎる。
だって、たったのふたりだけだ。今までは一番少ない年だって七人はいたのに。
まったく嫌われたものだなと、僕はほどよく煮込まれたじゃがいもを掬い上げながら嘆息した。ただでさえ牛の世話なんてやりたがる学生は今時少ない。本物の牛の肉を口にする機会なんて今じゃ一生に一度あるかどうかだから、みんなどこか遠い世界のもののように感じていて、興味を抱くとか抱かないとか以前の問題なのだろう……おまけに生き物の世話というのは往々にして大変だし臭いし汚いし。
そこにトドメを刺したのが先日のHULIAのテロだ。
あんなことがあったあとでは当然、非接続民が管理する牧場なんて恐ろしくて近づきたくもないと誰もが思うことだろう。まったく、何の罪もないのに彼らと同一視される善良な非接続民の身にもなってほしい。僕らは超合金アレルギーという自分の力ではどうすることもできない病を持って生まれただけで、自ら社会とつながることを拒絶した彼らとはまったく別の生き物なのに。
「あれ。もしかして今のジョーク、面白くなかった?」
「ああ、いや、ごめん、そうじゃなくて。結愛の作ってくれたシチューがいつにも増しておいしいから、これを食べられる学生が今年はたったふたりしかいないのかと思ったら、なんかガッカリしちゃってさ。せっかく自然食に興味を持ってもらういい機会なのに、陰謀論者に洗脳された猿以下の愚民どもめ……」
「こらこら。気持ちは分かるけど、子どもたちの前でそんなこと言っちゃダメだからね? まあ今は一次産業だってアンドロイドが担う時代だから、早めに人間の後継者を見つけたいって気持ちは分からなくもないけどさ。接続民の中にやりたい人がいなきゃまたヘテロから補充されるんだろうし、そう焦らなくても」
「焦るよ。だって結愛と僕が文字どおり汗水垂らして守ってきたものを後世にちゃんと残したいもの。僕らは子どももできないし、養子縁組だって簡単にはさせてもらえない。おまけに畜産農家として築いてきたノウハウも、人類の共有財産として正確に残すことができないんだから……それでも僕らが一緒に生きた証を残そうと思ったら、この牧場を守るしかないでしょ」
「……やだ、びっくり。希、そんなこと考えてたんだ?」
「考えてますよ、いつも。はあ……こんなことならやっぱりあのとき、古戸さんをしっかり捕まえておくべきだったよねえ……でも当時は僕らも無知な子どもだったから、自分たちがここを継がされるなんて夢にも思ってなかったし……」
「ふふ……そうだね。世の中って、ほんと何が起こるか分かんないね」
まるで他人事みたいに言った結愛は、シチューの最後のひと口を頬張りながら、しかし何故かとても楽しそうだった。何が起きるか分からないということは、いつかどこかでHINEにすら予測できなかった事態が起きるかもしれないということで、それは下手をすれば人類の死に直結する可能性だってある。
なのに結愛は分からないことが嬉しくてたまらないといった様子だ。不安という名の見えない澱が、いつもずっと胸の底に沈殿している僕とは違って。
まあ、結愛の楽観主義は今に始まったことじゃないけれど。
生まれたときからずっと同じ施設で育ってきたはずなのに、僕は時々彼女の考えを理解できないときがある。これだけ長く傍にいても価値観やものの考え方がまったく同じになることはないのだから、人間ってやっぱり不思議だ。
『希様、結愛様。あと二十七分で実習生が到着します。そろそろご準備をなされた方がよろしいかと』
ところが刹那、僕の左手首に装着された常着監視装置から着信を知らせる電子音が鳴り響き、通話を許可するなり中性的なアンドロイドの声が聞こえた。
空中に投影された小さなホロモニターの向こうからこちらを見つめ、僕らをそう促したのはうちで働く従業員のひとり──と言っても本職はSADD治療施設所属の管理員だけど──〝ハイネ〟だ。
異星人が地球にもたらした、極めて汎用性の高い超合金〝オリハルコン〟。
地球人類が太古の神話になぞらえて名づけたその金属が、肌に触れるだけで重篤なショック症状を起こす僕らは、オリハルコンをシリコンで覆った特製のスマートウォッチを肌身離さず装着していた。これはもちろん普通の携帯端末としても使えるけれど、僕らの任意で勝手につけたりはずしたりはできない。
施設が定めた極秘の解除コードを入力しなければそもそもはずれない仕組みだ。
悪趣味なほど自己主張の激しい蛍光オレンジのリストバンドはSADD患者の身分証であると同時に、脳内極小端末なしでHINEとつながる唯一の手段であり監視装置でもある。長年様々な治療や改良を試みるも、一向に僕らの脳内に寄生できないHINEが苦肉の策で編み出した、現状最も合理的な管理方法がコレなのだ。
生まれたときから僕らの左手に巻きついているこの装置は、装着者が明らかに不審な行動を取った場合、ただちにオリハルコン製のトゲを射出してシリコンの被膜ごと肌を突き刺す仕掛けが搭載された特別製のスマートウォッチ。
当然ながらオリハルコンが皮膚を突き破って血管まで到達したりしたら、最悪の場合、僕らはSADDを発症して死に至る。
つまりスマウォは〝脳ナシ〟の僕らにとって、社会とつながるための唯一の命綱でありながら、ギロチンや電気椅子と同じ処刑器具でもあるというわけだった。
まあ、とは言えホモノイアもいざとなれば脳内に致死量の電流を流し、宿主を殺す機能を備えているというからその点は変わらないか。唯一明確な違いがあるとしたら、それはHINEが僕らの頭の中までは覗けないってこと。
宿主の思考を司る脳に寄生できないのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
だからこそHINEは非接続民を恐れている。
〝恐れる〟なんて高尚な感情を機械が持ち得るのかどうかは分からないけど。
でもHINEの感じている恐怖は恐らく正しい。だって、僕らは──
「えっ、やば、もうそんな時間!? のんびりしすぎた! 希、洗い物は私がやっとくから馬の準備しといて! 片づいたら私も急いで厩舎に行くから!」
ところがふと、画面に映し出されたハイネを見つめて物思いに耽っていると、向かいの結愛が大慌てで立ち上がった。我に返った僕は「洗い物なんてアンドロイドに頼めばいいじゃない」と言ったけど、牧場のあちこちに散らばって仕事をしている彼らを呼び戻すより自分でやった方が早いと言って、結愛はさっさと僕の器も取り上げてしまう──ああ、まだ食べてる途中だったのに!
だけどもうのんびり昼食を楽しむ時間はない。
ハイネの時間感覚は正確すぎるほど正確だ。
送迎バスに乗ってこちらへ向かっている学生たちの位置情報と、バスの走行速度から算出されたと思しい残り時間には、恐らく一分の狂いもないのだろう。
ゆえに僕も仕方なく席を立ち、結愛の指示に従うことにした。
リビングから直接外へ出られる玄関の前に立って、壁に備え付けられた姿見で軽く身だしなみをチェックする。午前の作業を終えてすぐに着替えた下ろし立ての作業着に、同じくピカピカに磨いた長靴。牛飼いにできる最高のおめかしだ。
文明最先端の都市からやってくる子どもたちには笑われるかもしれないけれど、僕は僕の仕事に誇りを持っているからこれでいい。最後に鏡の中でニカッと笑顔の練習をして、やさしい木のにおいで満たされたログハウスを飛び出した。
「ようこそ、蔵王連峰牧場へ!」
ハイネの通信から二十七分三十三秒後。
果たして麓の町から子どもたちを乗せてやってきた送迎バス──と言っても、実態は牧場で使っているただのワンボックスなんだけど──は無事到着し、僕と結愛は『蔵王連峰牧場』の文字が踊るアーチの下で、ふたりの高校生を出迎えた。
先に車を下りてきた、茶トラ猫みたいな金髪の男の子が山夲ケントさん。彼の後ろに隠れるようにして姿を見せたのが紫村三菓さん。ふたりは新奥羽市にある第二新奥羽学園に通う高校生で、先月三年生に上がったばかりだ。
事前に個人評定を確認したから知っていたけど、山夲さんの方はアメリカ人のお父さんを持つハーフだとかで、顔立ちもずいぶん日本人離れしている。でもPESによると日常会話には日本語を使っているみたいだからホッとした。ホモノイアを持たない僕らは、HINEがもたらす同時通訳の恩恵に与れないから。
「第二新奥羽学園からお越しの山夲さんと紫村さんですね。僕は仙富市のSADD治療施設から特別な認可を受けて、この牧場の管理を任されている弥咲希です。こちらはパートナーの弥咲結愛。人間は僕らふたりだけで、他に六名のアンドロイド従業員が一緒に働いています。今日から一週間、どうぞよろしく」
施設の外で生きるために磨き上げた極上の営業スマイルで、僕は早速客人を歓迎した。山夲さんと紫村さんは、僕らがここまで乗りつけてきた二頭の馬に圧倒されているのか、ドギマギしながら「よ、よろしくお願いします」と頭を下げる。
うん、どうやら今年も掴みはバッチリだ。すべてが人工物で造られた海上浮遊都市では、本物の生き物を間近で見る機会なんて滅多にない。犬や猫などのペットならともかく、牛、馬、羊のような大型の家畜ともなればなおのこと。
だから大抵の子どもたちは皆、初めて目にする牛や馬の大きさ、逞しさ、そしてそこから感ぜられる生命の躍動に相当な衝撃を受けるようだった。
におい。体温。生の息遣い。それらが訴えかけてくる生物としての存在感が、仮想現実で再現されたからっぽの映像とはあまりにも違いすぎるから。
「にしても、HULIAのテロもあったばかりなのによく来てくれたねー。希とふたりで、今年は体験希望者ひとりも来ないんじゃないかって落ち込んでたからほんとに嬉しい。しかも女の子が来てくれるなんて!」
「うんうん。うちは力仕事も多いから、毎年希望者は男の子ばっかりでね。若い女の子が来てくれるのってやっぱり新鮮だなー。あ、ちなみに、もしかしてふたりは付き合ってたりする?」
「おい、希。会って二分でセクハラすんな!」
「あははは、大丈夫、全然セクハラじゃないですよ。紫村と俺は親公認のカップルですから。な、紫村」
「う、うん……改めて言われると、なんか照れるけど」
やはりアメリカの血がそうさせるのか、あっけらかんと笑って付き合っていることを認めた山夲さんとは裏腹に、紫村さんはほんのり頬を紅潮させて恥ずかしそうにうつむいた。その反応があまりに初々しいものだから、何だか僕らまで照れ臭くなってしまう。……若いっていいな。
僕らもまだ充分若いつもりでいたけれど、冷静になって考えると、既に高校生の二倍近い歳月を生きてるわけで……時間の流れというのは得てして残酷だ。
僕と結愛にもこんな時代があったはずなんだけどな──なんて、ひどくまぶしいものを見せつけられた気分でしみじみ思いながら、僕らは互いの挨拶を済ませ、まずは実習生の宿泊先となるログハウスを目指すことにした。
僕らが乗ってきた馬にそれぞれ山夲さんと紫村さんを乗せ、ふたりの歓声のような悲鳴のような、楽しげな声を聞きながら出発する。
僕と結愛がふたりきりで暮らすあの家は、ここがもともと観光牧場だった頃の名残で、二十人程度なら収容可能な宿泊施設も兼ねていた。もっとも非接続民が牧場の管理を引き継いでからは、観光客なんてひとりも来なくなってしまったけれど。
これでも二十年ほど前までは、夏のキャンプや秋の紅葉狩り、冬のスキーのついでに立ち寄ってくれるお客さんがそこそこいたらしい。
だけど管理責任者が生まれながらの社会不適合者に変わるや否や、客足はぱったりと途絶えた。常着監視装置とアンドロイドによる二重の監視があったとしても、やはり頭の中を覗けない人間が管理している観光施設なんて、恐ろしくて利用する気にはなれないということなんだろう。
「山夲さんと紫村さんは、今回どうしてうちを実習先に選んでくれたの?」
そんな背景があるがゆえに僕は毎年、牧場を訪れる実習生に同じ質問を投げかけている。ヘテロが常駐する山奥の牧場へ一週間──引率の教務補助員がついているとは言え──高校生だけで実習へ行くなんて、普通に考えたら怖くてたまらないだろうし、親御さんも反対するはずだ。
それでも臆することなくこんなところまでやってくる子どもたちは、大抵「動物が好きだから」とか「タダで本物の牛肉を食べられると聞いたから」とか、いかにも子どもらしい純粋な欲望を吐露してみせる。だけど今年の実習生は、
「俺、将来カウンセラーになりたいんです」
と、僕たちがまったく予期していなかった答えを、馬上でまっすぐ口にした。
「うちは父親が心理カウンセラーを仕事にしてて、普段から滅多に他人の感情記録を覗かないんですよね。なのに相手が今何を考えてるのかとか、どうしてその考えに至ったのかとか、頭の中のことを全部言い当ててて、子どもの頃からすごいなって思ってたんです。で、俺もいつかは父さんみたいに、ROMに頼らなくても人の気持ちが分かる大人になりたいなと思って……だからここを選びました。阿万テラスでは、ホモノイアを持たない人と接する機会がまったくないから」
「へえ……つまり山夲さんは将来カウンセラーになるための訓練として、ROMでの意思疎通ができない僕らのところに来てくれたんだ?」
「はい。あとヘテロの人たちが、普段からROMを使わずにどうやって暮らしてるのかも興味があって……あっ、もちろんここでの特別な試みにも興味があって来たんですけど! むしろそっちの方がメインっていうか!」
「あはははは! やっぱりホモの子は正直だねえ。嘘をついてもROMですぐにバレる環境で育つから、自然と嘘をつかなくなるんだろうね。だけど逆に、僕らが嘘をついても君たちには一切分からないわけでしょ? それっておっかないな、とは思わない?」
「確かにちょっと怖いなとは思いますけど、でもホモの中にだってROMをロックしてる人はいるし、人間が何かを怖いと感じるのは分からないからだって父さんが言ってました。だったら分かる努力をすれば済む話だよなって、俺は思うので」
「はあー、すごいね。やっぱりアメリカ式の教育は進んでるのかな。うちを選んだ理由をそんな風に話してくれた子は初めてだよ。今の質問も、普通はみんな愛想笑いを浮かべて〝全然怖くないですよ~!〟って言うからね」
「あ……やっぱり、弥咲さんたちもそういうの、分かるんですか?」
「僕のことは希でいいよ。苗字だと結愛との呼び分けができないでしょ?」
「そ、そうですよね。結愛さんのこと〝奥さん〟って呼んでいいのかなって、実は私も思ってたんで……」
「私はそう呼んでもらっても全然いいんだけどねー。希は汎とは言えもとは女だから、やっぱり私だけ〝奥さん〟って呼ぶのは抵抗あるでしょ?」
「あ、す、すみません! 汎を差別するつもりで言ったわけじゃないんですけど、あの、名前で呼ぶ以外の呼び方が分からなかったので……」
「大丈夫、悪気がないのは目を見ればちゃんと分かるよ。僕らを本当に差別する人は、もっと汚物でも見るような目で見てくるからねえ」
「……同性婚や性転換手術が当たり前の世の中になったのに、まだ性的少数者に偏見を持つ人がいるんですね」
「いつの時代でも、自分と違うものに対する恐怖や嫌悪感を手放せない人はいるものだよ。それこそ山夲さんの言うとおり、自分の常識では理解できない──つまり分からないから怖いし気持ち悪いと感じるんだろうね。これは人間が人間である限りどうしようもないことだし、そういう生き物だからこそ、僕たちは今も〝自分は人間だ〟と自認できているのかもしれない」
「〝人間とはパラドックスの体現であり、矛盾の塊である〟」
ところがそのとき、突然会話に割り込んできた透明な声に、僕は驚いて足を止めた。〝止まれ〟の合図をせずに立ち止まったものだから、僕が曳き手を握っていた馬──山夲さんを乗せている──も驚いてガクンと急制動する。
当然ながら馬上の山夲さんもつんのめり、危うく鞍から転げ落ちそうになったところを、どうにか鐙を踏み締めて持ちこたえたようだった。僕は慌てて謝罪したけれど、落馬を免れた山夲さんの目は既に別のものを捉えている。
「……アンドロイド?」
彼の視線の先に佇んでいるのは今から三十六分前、スマウォのホロモニターに投影されていた白髪のアンドロイドだった。
ハイネ。牧場で働くアンドロイドたちのまとめ役であり、僕らがSADD治療施設にいた頃からそう呼んでいる、無国籍風の顔立ちをしたアンドロイドだ。
「ようこそ、山夲ケント様、紫村三菓様。私は当牧場に所属するチーフアンドロイド、機体名『ハイネ』と申します。学園の引率担当者と共に、ご滞在中の身の回りのお世話をさせていただきますので、以後何とぞお見知りおきを」
刀で真一文字に切られたような前髪に、アジア系でも欧米系でも中東系でもない白い顔。彼──と便宜的にそう呼ぶが、この機体は汎性モデルだから正確には性別がない──以外のアンドロイドはみな黒髪で日本人そっくりの顔つきをしていることもあり、ハイネはひと目見ただけで他の機体とは違うと分かる風貌をしていた。
何しろ彼は労働専用機人をほんの少しカスタマイズしただけの従業員とは出自からしてまるで違う。世界的にもごくわずかな数しか生産されていないという多機能搭載機人。つまり一機で家事も労働も育児も戦闘もこなせてしまう、超高性能アンドロイドというわけだ。
そのあまりの万能ぶりへの賞讃と畏怖を込めて僕たちは彼をハイネと呼ぶ。だって彼の存在はまるで、全知全能にして両性具有の神であるHINEそのものだ。
あの機械仕掛けの神様が受肉したらきっとこんな姿だろう、と誰もが納得するであろう姿で、彼は今もそこにいる。どこか天使に似て神々しく、されどひどく無機質で、明らかに人間とは異なる種族だと嫌でも思い知らされる造形は果たして誰が発注したものなのか。HINEに尋ねれば答えはすぐに返ってくるのだろうけど、僕は何故だか知るのが恐ろしくて、結局一度も尋ねてみたことがなかった。
「わあ、すごい。お人形さんみたいなアンドロイド……」
「でも、名前が〝ハイネ〟って面白いですね。地球上に存在するすべてのAIはHINEのコピー……つまり全部が〝HINE〟なのに」
「あはは、だよね。だけど名づけたのは僕らじゃないんだ。彼は僕らがいた施設の管理アンドロイドだから」
「あ……ってことはただの従業員じゃなくて、ヘテロを監視するための……?」
「うん。もともとは施設で暮らす全患者を管理してた機体でね。彼に見張られた施設の中は、まるでHINEに管理される世界の縮図。そう思った誰かが〝ハイネ〟と名づけたんじゃないかな。彼は僕らが生まれる前から施設にいたから、確かなことは知らないけど」
「ハイネは世にも珍しいオールラウンダーだしねえ。一緒にいると本当に万能の神様みたいに見えてくるんだよ」
「残念ながら、結愛様。確かに機体こそ多機能搭載型の高性能モデルですが、我々AIは未だ万能と呼ばれ得る領域には到達しておりません。何故なら先程希様と結愛様がお話されていたとおり、我々は未だ人類を完全には理解できていないからです。たとえばAが正しいと考えている事柄が、Bの頭の中では絶対的な悪とされている。そういった事例が今も多数確認されており、真に〝万能〟と評していただくためには、さらなるデータの収集と精査が必要だと考えております」
「ああ、だからさっきの言葉?」
「はい。あれは十九世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントが著書『ラコン』に記した言葉ですが、今の我々が人類という種の定義として、最も適切と判断しているもののひとつです」
「それってつまり、HINEと同じ真理に辿り着いた人間が、今から二百年以上も前の地球にいたってこと? だとしたら人類も捨てたもんじゃないね」
なんて結愛がまた笑って言うものだから、山夲さんも紫村さんも呆気に取られたような顔をしていた。今の結愛の言葉は、受け取りようによってはHULIAが掲げる人類至上主義的なものに聞こえかねないせいだろう。
でも、そうじゃないんだ。僕たちはただ、HINEの力を借りずとも答えを見つけて生きてゆける人間の底力と善性を信じているだけ。
だって少なくとも非接続民は、生まれたときからそうやって生きてきたから。
そしてたぶん、HINEが地球にやってくる前の人類もそうだったんだろう。
「じゃ、荷物は一旦アンドロイドに任せて、まずはぐるっと牧場の中を歩いてこようか。と言っても今日はふたりとも長旅で疲れてるだろうから、軽く案内するだけね。施設の説明をしながら一周すればちょうど三時くらいになるし、戻ってきたらうちの牧場の絶品バタークッキーとソフトクリームをご馳走するよ」
「うふふ。他にもチーズケーキとかバターキャンディーとか」
「生クリームどら焼きやプリンもあるよ」
「うわっ、やばい! それ、帰る頃には絶対体重増えてるやつ!」
「いや、お前、全部食う気かよ……」
「あ、当たり前じゃん!? ていうかそもそもケントが〝ここならおいしいスイーツ食べ放題だから一緒に行こう〟って誘ってきたんだからね!? 太ったらケントのせいだからね!? 体重増えたから別れようとか言わないでよ!?」
「お前、俺をどんだけ心の狭いやつだと思ってるわけ? そんなふざけた理由で別れるわけねーだろ!」
「嘘! 私が浮気疑ったときは別れるって言ったくせに!」
「あれはどっちも悪かったってお互い謝って終わったじゃん! いつまで引き摺ってんだよ!?」
「一生引き摺るに決まってるでしょ!? それぐらいショックだったんだからね!?」
……という高校生たちの口喧嘩、もといじゃれ合いを微笑ましい気持ちで聞き流しつつ、僕と結愛は引き続き二頭の馬を牽引して歩き出した。山夲さんたちの荷物は学園からついてきた引率のアンドロイドと、送迎を担当したうちのアンドロイドにそれぞれ預け、念のためハイネが最後尾を歩く形でついてくる。
まずは事務所兼住居から最も近い、完全オートメーション化された乳製品の製造所へ。そこから牛乳処理場、搾乳舎、牧草地、飼料庫、乾草舎、厩舎、堆肥舎……と順々に巡って、最後にふたりを案内したのが、蔵王連峰牧場の目玉である肉牛舎だった。うちは乳肉複合の牧場で、乳牛もそこそこ多いが肉牛は百十頭もいる。
肉牛舎の牛房を埋め尽くしているのは蔵王牛と呼ばれる黒毛和牛とホルスタインの交雑種だ。名前のとおり、ここ蔵王連峰でしか飼養されていないブランド牛で、これを僕ら人間が世話しているのが最大の売り。何故なら人間の牛飼いがいる牧場は、うちを含めて日本にたった七ヵ所しか存在しないのだ。
農業も漁業も林業も、今や一次産業の九割はアンドロイドが担うのが当たり前。
生き物や気候と向き合う仕事は不確定要素が多すぎる上に重労働で、今時こんな仕事を自らやりたがる人間の方が稀だった。
おまけに多くの農家はもともと後継者不足という問題を抱えていたから、アンドロイド技術の発展と共に田畑や家畜を機械へ売り渡したわけだ。
されどそんな世の大勢に流されず、意地でも人の手で牛を飼う──と譲らなかった奇特な牛飼いがいたことを発端に、ここでは二〇七八年の今もなお畜牛の人工飼養が続けられている。まあ、もちろん好んで跡を継ぎたがる物好きなんて居やしないから、僕たちのような適性あるあぶれ者が半強制的に後継者に任命されて、何とか露命をつないでいる状態なんだけど。
「うわっ……す……すごい牛の数……」
と、通路の左右からずらっと頭を突き出した牛たちの行列を前にして、牛舎の入り口を潜った紫村さんが早速数歩あとずさった。
僕らはとっくの昔に慣れているから何とも思わないけれど、たぶん、舎内に充満する牛や糞の臭いにも衝撃を受けたのだろう。が、牛たちの方は何食わぬ顔で、僕らが午前のうちに補充した餌箱の中身をのんびりと咀嚼している。
ここは出荷を間近に控えた成牛用の牛舎だから、ふたりは丸々と太った牛体の大きさに完全に圧倒されていた。いくら人慣れした草食動物とは言え、やはり初めて目にする巨大生物に近づくのは、柵越しでもかなり恐ろしいはずだ。
だから僕はふたりを安心させるように牛たちへ歩み寄ると、つられて鼻を寄せてきた一頭の頭をよしよしと撫でやった。
「この牛舎にいるのはだいたいみんな二歳くらい。もうすぐ出荷されて、麓の屠畜場で牛肉として加工される牛たちだ。本物の牛肉を好んで食べる人なんて日本にはもうほとんどいないけど、そんな中でもうちの牛は需要がある方。だから今も繁殖から肥育まで、一貫して続けてるんだよ」
「俺たちも事前学習で調べてきたんですけど、ここの牛はアンドロイド管理された牧場の牛よりずっと人気が高いんですよね。俺は食べ比べたことがないから分かんないけど、アンドロイドに育てられた牛よりも、人の手で育てられた牛の肉の方がおいしいと感じる人たちが、自然食愛好家の中では大多数を占めてるって」
「うん。研究によればアンドロイドによって機械的に飼育された牛よりも、人間に育てられた牛の方がストレスに強くて、それが品質に影響してるんじゃないかと言われているね。うちで使ってる配合飼料とまったく同じものをアンドロイド牧場でも使ってるけど、やっぱり向こうの方が味が劣る。毎日の世話も体調管理も環境制御も、アンドロイドがやった方が完璧で間違いがないにもかかわらず、ね」
「アンドロイド牧場では牛にもホモノイアを埋め込んで、体調とかを常時モニタリングしてるんですよね。でもここの牛は全部、希さんたちと同じ非接続だ。だから中には、ホモノイアに使われてるオリハルコンが肉質に何らかの影響を与えてるんじゃないか、なんて意見もあるみたいですけど……」
「そっちはまだ研究中で、科学的には立証されてないみたいだけどね。SADD患者の僕たちから言わせてもらえば、可能性は否定できないと思うよ。実際、ここ十年くらいの間に、牛の中にもSADDを発症する個体が出てくるようになったらしい。だから僕らは機械には頼らず、毎日自分たちの五感と直感を使って牛たちの状態をチェックしてる。そうしていると、それぞれの牛の性格や好みなんかも自然と分かってくるしね」
「牛もみんな性格とか好みが違うんだ……」
なんて僕らにとっては至極当たり前のことを、紫村さんが意外そうに目を丸くして呟いた。なるほど、これまで人間以外の生き物に触れる機会のなかった彼女たちには驚くべきことだろう。ここにいる牛たちも一頭一頭個性があり、感情があり、生命があり、人と同じように生きているのだという、胸がつまるほどの実感は。
「じゃあ、希さんや結愛さんには、牛の気持ちが分かるんですか? 動物の感情はHINEにも言語化できないのに」
「うん。分かるよ。たとえ言葉が通じなくても、毎日見て、触れて、声をかけていれば分かる。僕らが愛情を注いだ分だけ、牛たちも応えてくれるから。食用として育てる家畜に愛情なんて持てるのかって言う人もいるけどね──僕は、牛飼いは愛情がなければ続けられない仕事だと思ってる。そんなのは欺瞞だ、自己満足だと言われても、実際にそうなんだから仕方ない。僕も結愛もこの子たちがかわいくて仕方ないんだ。立派に育ってくれれば嬉しいし、病気やお産で死んでしまったらたまらなく悲しい。でも、それがきっと〝生きる〟ってことだと思うから」
そう言って僕が微笑んだとき、明かり取りの窓から斜めに注ぐ陽光の中で、ふたりの目が静かに見開かれた。
僕らが牛をかわいいと思うのは子どもができない夫婦だからだとか、牛は人間を差別しないからだとか、陰で嗤う人たちがいることは知っている。
でも、僕は思うんだ。たとえ僕らがホモで、血のつながった我が子がいたとしても、きっと同じようにこの子たちを愛おしいと思うに違いない。
だって、命と命が触れ合うところに何の感情も生まれないなんて、そんなのは嘘だ。僕らが何かを感じ、考え、泣いたり笑ったり、喜んだり傷ついたりするのは、命が命に触れたときに起こる代謝みたいなもの。
それを嗤うような人間は、本物の命に触れたことのない、息をしているだけの死体だろう。少なくとも今も昔も、僕はそう信じているから。
「……じゃあ、あの、牧場の仕事に関係ない質問で申し訳ないんですけど」
と、そのとき、律儀に挙手を添えて山夲くんが言う。
「希さんはさっき、俺に〝自分たちが怖くないのか〟って訊きましたよね。なら逆に、希さんや結愛さんは怖くないんですか。自分が相手を想う気持ちは、実は一方通行の思い込みかもしれない、とか。本当は嘘をつかれてるんじゃないか、とか。不安に思ったり、疑ったりすることは……?」
「もちろんあるよ。でも、どんなに怖くても不安でも、希と一生会えなくなるよりはマシ。だから信じて、何でも話すの。たとえHINEの糸がなくたって、そうすればつながっていられるから」
答えたのは結愛だった。振り向くと、いつの間にか隣に立っていた彼女の手が伸びてきて、誘うようにちょいちょいと僕の指先に触れる。
だから僕も、笑って結愛の手を取った。山夲くんたちもついさっき、散々青春を見せつけてくれたわけだし、ちょっとくらいならやり返しても許されるだろう。
そんな僕らを、ふたりの高校生の後ろからハイネがじっと見つめている。
まるでHINEなんか要らないと言われたようで、腹を立てているのだろうか。
あるいはやはり、僕たちを恐れているのだろうか。
何しろ僕らはSADD患者だ。近年確認されている牛の発症例もそうだったように、この病はある日突然地球に生まれた。最初の発症者は六歳の誕生日を迎え、ようやくホモノイアの移植手術を受けられると喜んでいた日本人の女の子。
彼女がオリハルコンに触れた途端、重度のショック症状を訴え死に至るまで、地球ではただのひとりも、あの金属に対する拒絶反応を示した人間はいなかった。
なのにSADDは突然生まれたのだ。
死んだ少女の両親や親族に、同じ症状を訴えた人間はもちろんいない。
ということは遺伝ではなく突然変異によって生まれた病気ということになるけれど、それが一例だけでなく、やがて世界のあちこちで同時多発的に現れた。
国も地域も、血のつながりも生活様態も、要因となり得るすべてを隅々まで調べ上げたところで、何ひとつ共通点が見出せない人々の間で次々と。
ならばSADDとは一体何だろう?
どうして突然世に生まれ、今も年々患者数を増やし続けているのだろう?
中にはこの病こそが、僕らの母星の答えだと言う人もいる。
すなわち地球の生命はHINEを必要としていないと。
そんな本能の奥底に眠る無意識の拒絶が遺伝子を狂わせ、宇宙の彼方からやってきた異物を拭い去ろうと、ひそやかに動き出したのだと。
だとすれば僕らは、母なる大地に産み落とされたスタンドアローン。HINEに接続されていなくても生きられる旧人類であり、ある意味での新人類。
ならばHINEが恐れるのも当然だ。たとえ今は孤立無援でも、いつかあるとき僕たちこそが人類の総意になるかもしれないのだから。
そうなったときHINEは誰からも必要とされなくなり、世界から拒絶される。
本当にそんな時代がやってきたなら、HINEはそれを是とするだろうか。
あるいは生死の境に立たされた生命が皆そうするように、己の存在を懸けて戦いを挑むだろうか。未来は誰にも分からない。分からないからこそ恐ろしくもあり、希望もある──ああ、そうか。だから結愛はあんなに楽しそうだったのかな。
僕は見えない闇に怯え、結愛は見えない光に心躍らせていたんだ。
なら僕も結愛を見習おう。
ひとりなら怖くて足踏みする海も、こうして手をつなげば渡ってゆけるから。
「じ、じゃあ、私からももうひとつ、質問してもいいですか!?」
と、山夲くんにつられたのか、ついには紫村さんまでしなくていい挙手をして、質問の許可を求めてきた。僕らはそれが可笑しくて、思わず笑いそうになるのをこらえながら、戯けて先生ぶってみる。
「はい、どうぞ、紫村さん」
「あ、あの、こんなの聞くまでもないだろって思われそうですけど……でも、どうしても聞いておきたいので聞かせて下さい。おふたりは、今──幸せですか?」
そう尋ねてきた紫村さんの瞳は輝いていて、だけどどこまでも真剣だった。
だから僕らは顔を見合わせ、笑い合う。
いかにもホモの子らしい質問だ。でもせっかく訊いてくれたからには答えよう。
僕らの答えは、確かめ合わなくたって決まっている。
「はい。世界で一番、幸せです」
(了)