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不合理な僕ら


 王茸(しめじ)榎茸(えのき)、そして松茸(まつたけ)の乗った黄金色の(あん)の下の、滑らかな光沢をそっと(はし)で切り分けた。極上の舌触りを誇る京豆腐と、松茸の風味をゆっくり口へと運ぶ。

 餡と共に乗せられた穎割大根(かいわれ)の、自然な辛味と食欲をそそる彩りも良い。

 やはり素材にこだわった食事というのは最高の娯楽だ。


 次いで箸をつけた天麩羅(てんぷら)の衣をまとった車海老(くるまえび)も、昨今市場に出回っている安い人工海老(ニセモノ)などではない。愛媛の大八幡市(おおやわたし)で水揚げされた天然ものだ。

 口に入れた途端に広がるほのかな甘みと、弾力のある食感から滴る旨味は藻で偽造された贋物(がんぶつ)とは比較にならない。本土の大自然の中で育まれた〝命〟を味わう感覚。それを山形の棚田で()れた白米と共に噛み占めた。


 海面上昇の影響で耕地面積が激減したとは言え、やはり東北の米どころが誇る天然米は絶品だ。この(つや)の美しさと瑞々(みずみず)しい食感を一度知ってしまったら、いくら栄養調整の恩恵があると説かれても人工米など食べる気にはなれない。

 そもそもアレも米ですらなく、ただ小麦粉を細断して米のように見せかけただけのまがいものに過ぎないのだから。


「ああ……うまい。これを味わえるのが私だけというのが実に至福だ。しかし古戸ふると君、和食の腕もここまで上達したなら、いっそメニューに加えてみてはどうかね。そうすれば私のような年寄りの来店も増えて、客層に厚みが出ると思うのだが」

「ははは、ありあわせの食材で作ったものをそこまで絶賛していただけるとは恐縮です。ですがうちはあくまでカフェレストランですからね。コテコテの和食のあとにコーヒーやケーキをお出しするというのは、やはりどこかちぐはぐで違和感がありますし、和食専門のお店との()()けも大事にしないと」

「ふむ、そういうものか……私に言わせれば、人工食品を小手先で誤魔化しながらやっている料亭などより、よほど売れると思うのだがな。まあ、店の内装と和食の組み合わせがミスマッチすぎるというのは確かに否めないが」

「ええ。とは言え四坂(しさか)先生には感謝していますよ。少しでも先生のお口に合う和食をと研究する中で、色々なアイディアが生まれて新メニューに困ることはなくなりましたから。どのメニューも幅広い年代のお客様に好評なんです。ですので和食(これ)は、ほんの感謝の気持ちということで」


 と、古めかしい黒縁眼鏡の奥で目を細め、カウンターの向こうの古戸君はいつものように微笑んでみせた。この落ち着きぶりでまだ三十六歳だというのだから驚きだ。少しは彼を見習うようにと、うちの家事手伝い(きのみやくん)にも言って聞かせてやりたい。

 などと内心ため息をつきながら、私は静かなジャズピアノの旋律が揺蕩(たゆた)う十九世紀西欧風の店内で、若き店主の手料理に舌鼓を打った。


 カフェレストラン『Rodi(ロディ)』。阿万(あま)テラスフロート第四タワーの最上層で営業しているこの店は、私が新奥羽市(しんおううし)内で最も足繁(あししげ)く通う料理店だ。

 店を切り盛りしているのは店主の古戸一夢(すぐむ)と、彼の所有する二体の給仕係(アンドロイド)のみ。


 ひと月前までは狭いカウンター内の厨房にもうひとり、調理補助(アシスタント)の青年がいたのだが、本土に残してきた親もとへ帰ることになったとかで、今は古戸君がひとりで料理の提供を行っていた。とは言えもともとは古戸君が単身開業した店であるから、座席の数は初めからさほど多くない。


 満員時に客が入りすぎるようでは、とても店を回せないと判断したためだろう。

 しかし昔(なつ)かしく洗練された内装と、こだわりの自然食料理のおかげか客足が絶えることはなく、昼時ともなれば予約なしでは入店できないほど繁盛している。


 市場や家庭の食卓に安価な人工食品が溢れ返った今の時代に、高い(BENS)を払ってまで天然の食材を食べようという人種はそう多くはないはずなのだが、それでも『Rodi』が愛され続けているのは、ひとえに細部まで美しい店内、窓際の席から海の見える立地、そして店主である古戸君の温厚な人柄ゆえなのだろう。


「ところで、新作の執筆の方は順調なんですか。ここ数日、珍しく一度もお見えにならなかったものですから、てっきり締切に追われていらっしゃるのかと……」

「ああ、いや。実はしばらく本土の方へ、旅行を兼ねた取材に行っていたのだよ。所詮仮想現実(VR)では、舞台となる土地の風やにおいまで感じることはできんからな。何より長年現地で暮らしている人々の生の声が聞きたかった」

「おや、遥々本土まで行かれていたのですか。向こうでは最近人類解放戦線(HULIA)によるテロがあったようですが、大事ありませんでしたか?」

「何、私が取材に行ったのは宮城の田舎町だったからな。例の事件があるまで、現地ではHULIA(ヒュリア)の〝ヒュ〟の字も聞かなかったよ。おお、そうそう、それで今日は、いつも世話になっとる古戸君に土産(みやげ)を持ってきたんだ。君、日本酒もイケるクチだと言っていただろう?」

「そんな、お気持ちだけで充分ですよ。むしろ私の方が先生にはお世話になっていますのに」

「いいから、いいから。私も歳を理由に無理を言って、いつもうまい和食(メシ)を食わせてもらっているからね。これでも君に感謝しとるんだよ。ここはひとつ、今後も年寄りのわがままを聞いてもらうための賄賂(わいろ)ということで受け取ってくれたまえ」


 私がそう言って足もとに置いていた紙袋を掲げると、古戸君は終始恐縮しながらカウンター越しに土産を受け取った。時刻は十七時十四分。


 いつも閉店間際に夕飯目当てで店を訪れる私はこの時間、店内にほとんど客がいないことを知っている。だからこそ人目を気にせずメニューにないはずの料理を頬張ったり、店主と親しく雑談したりできるわけだ。


 『Rodi』の閉店時刻は十七時半。ゆえに古戸君は最後の客である私の相手をしつつ、カウンターの向こうでせっせと店じまいの支度をしていた。私が渡した土産は欧米人風のアンドロイドが、彼に命ぜられてバックヤードへと運んでいく。


 確かアレはレトとかいう名で、もう一体、女の方がソムという名だったか。

 機械嫌いの私はアンドロイドの名前がなかなか覚えられない。いや、覚える気がない、と言った方が正確か。『Rodi』に限っては長く通っているから自然と記憶に定着しただけで、どちらがどちらかまでは未だにあやふやだった。


 自邸(じたく)にもアンドロイドは置かず、人間の家事代行人を雇っているし、他人に許可なく覗かれるのが不快で感情記録(ROM)も常に非公開措置を取っている。


 当然ながら私自身、他人の頭を覗くような不躾(ぶしつけ)な真似は控えているわけだから誰にも文句は言わせない。だいたい他者の心のありようを、機械の手を借りねば汲み取れぬ、などとのたまうようでは作家としてお(しま)いだ。


 私は地球が異星人の技術と思想に侵蝕されてしまう以前から、文壇の人間として筆を執り続けている。若い頃に比べると己を取り巻く環境は目まぐるしく変わってしまったが、文字によって人の心の機微や結びつきを描く者として、機械ごときに眼を曇らされてなるものかと、今も作家としての矜持(きょうじ)を厳粛に貫いていた。


 もっとも共栄主義社会到来以前の、古き良き日本の姿を描こうとする私の作風は時代遅れだ何だと批判も絶えないが、私としては互いの心を覗けずとも確かにつながっていた、当時の人々の絆やその美しさが時代と共に理解されなくなったことの方が嘆かわしい。私の作品を嫌う読者は揃いも揃って「古くさい」だの「価値観の押しつけが激しい」だのと的はずれな感想を並べる。


 だが温故知新の精神を忘れた現代の日本人が、代わりに手にしたものは何だ。

 近年声高に騒がれている、若人(わこうど)たちの読解力や共感能力の著しい低下は、彼らが「古くさい」と言って押しのけてしまった美徳の欠落が招いたことではないか。


 おかげで昨今、創作(クリエイティブ)業界では若者の映画やドラマ離れが深刻化している。


 何故なら今の子どもたちは、映像の中で活躍する登場人物の思考や感情が理解できないからだ。主人公は一体何を思ってあのような行動に出たのか。何に怒り、何に悲しみ、何に喜んであんな台詞(せりふ)を吐いたのか。


 彼らがそれを知るためには主人公の頭の中(ROM)を覗く必要がある。が、物語の中にのみ存在する架空の人物に、そんなものが用意されているはずもない。ゆえに文学界隈でも、近頃は登場人物の一挙手一投足の動機すべてを作中に記述する必要があるなどと言われ、かつて日本の出版業界を支えた漫画でさえ同じことが起きていた。


 絵と台詞の組み合わせによる化学反応が読者を楽しませていたはずのコンテンツが、今やコマを圧迫するほど大量の独白(モノローグ)を詰め込まなければ見向きもされなくなり、登場人物たちが不自然なまでの独り言や静止したままの長考を繰り返すような作品にしか買い手がつかなくなっているのだ。


 果たしてこのありさまに悲憤を覚えぬ表現者がいるだろうか。今のままでは本当の意味で人と人とが理解し合う社会というものが死に絶えてしまう。


 だからこそ私は六十一になった今も筆を執り、人間の本来あるべき姿を()(つづ)っているわけだ。異星人のもたらした機械に飼い殺されようとしている人類に向けて、未来への警鐘を鳴らすために。


「いらっしゃいませ」


 ところがほどなく餡掛け豆腐も天麩羅も完食し、古戸君が私のためだけに仕入れているという静岡茶を馳走になっていると、不意に背後でドアベルが歌うのが聞こえた。それが店の出入り口──今時珍しい手動扉(ひらきど)──にぶら下げられたものだということも当然私は知っていて、思わず歌声の出どころを振り返る。


 そこに佇んでいたのは髪型も服装もずいぶんとみすぼらしい、三十がらみの男だった。くたくたになった着古しのジャケットを羽織り、伸び放題の髪はとりあえずという形でひとつにまとめている。


 もしや床屋へ行く(BENS)もないのだろうか、とひと目見て思う程度にはこの最上層外縁部の高級住宅地には不釣り合いないでたちで、私は思わず眉をひそめた。

 あと五分で店が閉まるというときに……なんと無作法で場違いな客だろうか。


「すいません……面接に呼ばれた笹木(ささき)ですけど」


 が、今日はもう店じまいだと、古戸君に代わって追い払ってやろうかと思った矢先に、男がボソボソと暗い声で名乗りを上げた。

 笹木というらしい男はしゃきっと背を伸ばして立つこともできないのか、やや首を突き出すような姿勢でカウンターの向こうの店主(ふるとくん)に上目遣いを送っている。


「ああ、笹木さんでしたか。ようこそいらっしゃいました。私が店主の古戸です。今回は当店の求人にご応募いただきまして、どうもありがとうございます」

「いえ……」

「面接は十七時半からのお約束でしたね。私もすぐに支度を済ませますので、どうぞ奥でお待ち下さい。ソム、笹木さんをバックヤードにご案内して」

(かしこ)まりました」


 LEDチョーカーとか呼ばれる首のランプを光らせた女のアンドロイドが、銀髪を颯爽(さっそう)(なび)かせて主人の指示に従った。男は無言で顎を突き出すような会釈(えしゃく)をすると、アンドロイドにくっついてバックヤードへつながる自動扉の向こうへ消える。

 失礼します、のひと言も言えない、いかにも今時の若者らしい男だった。


「……またずいぶんと教養のなさそうな男が来たものだな。面接と言っていたが、古戸君、まさかまた犯罪者をスタッフに雇おうとしているのかね?」

「犯罪者ではありませんよ、先生。確かに彼は市民安全管理機構(CSCO)が更正を支援している男性ですが、一年前に一度、カッとなって暴力沙汰を起こしかけただけの一般人です。個人評定(PES)を見ても、社会貢献意欲と生活能力が著しく低いことを除けば、他にこれといった問題はありませんよ」

「何を馬鹿な。一度でも暴力事件を起こしかけている時点で立派な犯罪者予備軍だろう。何より社会貢献意欲が著しく低いというのも問題だ。この共栄主義の時代に進んで人の役に立とうともせず、国のスネを(かじ)ってのうのうと暮らしてきた男だということだろう?」

「ええ、まあ、そうとも言えますが。しかし彼は今回、こうして求人に応募してきてくれたわけですから、少なからず改善意欲はあるということでしょう? であれば私は、可能な限り手を差し伸べてあげたいんですよ。先月店を辞めた彼だって、採用当初はPES(ピース)に難のある青年でしたが、最後はうちで磨いた料理の腕で親孝行がしたいと言って退職していったんですから」


 洗い物を片づけながらそう言って、古戸君はふと、カウンターの直上にある垂れ壁を見上げる仕草をした。そこには彼が面倒を見てきた歴代アシスタントの写真があるとかで、それを厨房に飾ることで、古戸君も初心を忘れぬようにしているらしい。中には古戸君のもとから巣立って、自分の店を構えた弟子もいるというから。


「先生にはまだお話してなかったかもしれませんが、かく言う私も食に救われた人間でしてね。十八のとき、生まれて初めて自然食を使った料理を口にして、世の中にはこんなにうまいものがあるのかと衝撃を受けました。あの感動があったから、料理の道に進みたいという夢を持って頑張れたんです。それまでの私の人生は散々で、自分のような人間には何の希望も未来もないと将来を諦めていたんですがね」

「ほう……そいつは興味深い話だ。しかしだからと言って下手に前科のある手合いなど雇えば、せっかく叶えた夢に傷をつけられるおそれだってあるだろう? 他人の人生をよりよくする手伝いがしたいと言うのなら、何もわざわざリスクを負って前科者など雇わなくとも、PESの低い人間はいくらでも……」

「大丈夫ですよ。先生のご心配もごもっともですが、人類統合ネットワーク(HINE)の目がある限り、店が立ち直れないほどの損害を被るようなことはまずありません。もちろん中にはお客様に暴言を吐いたり、働くのが嫌になって逃げ出してしまう人もいますが、その程度のことならいくらでもやり直しがききますから」

「ううむ……しかしだねえ……」

「先生だって長年執筆活動を続けておられるのはご自分の好きなこと、得意なことを活かして人の心を動かしたいとお考えだからでしょう? 私のような調理師も、スポーツ選手も、演奏家も同じです。自分の〝好き〟が誰かを励ましたり、楽しませたりできるのなら、これほど嬉しいことはない。それが共栄主義社会の本質ですから。私もそんな社会の一員として、できる限り世の中の役に立ちたいと思っています」


 最後に濡れた手を白い腰巻きエプロンで拭いながら、古戸君は微笑んだ。

 まったく彼には驚かされる。

 同じ年の頃、私は彼ほどの信念を持って執筆に勤しんでいただろうか。


 いや、当時の私は怒濤(どとう)のごとく押し寄せる時代の変化に溺れかけ、ただ必死に原稿にしがみつくだけの若造だった。AIやアンドロイドの進歩によってあらゆる仕事が人から取り上げられてゆく中で、異星人の掲げる共栄主義の何たるかなど考えもせず、どうにか自分の食い扶持だけは守ろうと。


 だがもちろん今の私は違う。古戸君の言うとおり、この歳になっても筆を離さずにいるのは、作家(わたし)にしか果たせない使命を見つけたからだ。

 現代の技術があれば小説を書くのも、料理をするのも、試合で観客を湧かせるのも、楽器を演奏するのも機械の方がうまくやる。


 だのに我々が今もその行為を続けているのは、作文も調理も試合も演奏も、機械は()()()()()()()()にしかこなせないためだ。

 そこには人間にしか描けない心の機微や、真心という名の隠し味や、勝利のための努力、情緒や想像力が生み出す旋律の揺らぎがない。


 だから私たちは機械に任せず今も人の手で文章を綴る。調理する。試合をする。演奏をする。人間にしか生み出せぬものの力によって、何かを変えるために。


「……そうか。君がそうまで言うのであれば私ももう止めんがね。まあ、CSCO(クスコ)が支援する人材の社会復帰に貢献すれば、店にも相応の報奨(BENS)が出るのだろうし」

「おや。それじゃ私がBENS(ベンス)目当てで人を選んでいるみたいじゃないですか」

「はっはっはっ。もちろん君がそんな人間でないことは分かっているとも。だが世の中にはそういう穿(うが)った見方で物事を判断する輩がいることも忘れてはいかんぞ。何かの間違いでこの店に潰れられては、私が困るのだからな」

「ご忠告、有り難く拝聴します。ですがそう言う先生も気をつけて下さいよ。私はもうずいぶん長い付き合いですから、先生のお人柄についてはよくよく存じ上げておりますが、先生のキッパリとした物言いは、相手によっては誤解を招きますからね。特に先生は普段からROM(ロム)を閉じていらっしゃるからなおさらです」

「何、それこそ心配は無用だ。こう見えて私もちゃんと、ときと場合と相手によって慎重に言葉を選んでいる。作家は人間観察も仕事の内だからな。相手がどんな人間で、何を求め何を考えているのか……その程度のことは機械なんぞに頼らずとも読み解けるさ。でなければそもそも小説など書けるわけもないからな」

「はは、先生の機械嫌いは筋金入りですからね。ROMに頼らない分、日々心眼を磨いていらっしゃるというわけですか」

「うむ、そういうことだ。では、私はそろそろお暇しよう。長々と閉店間際まで居座ってしまってすまなかったね」

「いえ、本日もありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」


 古戸君の気持ちのいい挨拶に見送られ、私はようよう椅子から腰を上げた。


 会計は脳内極小端末(ホモノイア)を通して済ませ、海松茶色(みるちゃいろ)の着流しと羽織りの袖を(ひるがえ)しながら店を出る。小気味良いドアベルの音色を(せな)で聞きつつ、カラコロと下駄を鳴らして歩いた。今時着物姿で出歩く日本人など絶滅危惧種に相当するためか、このナリで街を歩くとどうも悪目立ちしてしまうのが難点だ。


 だが古き良き日本の伝統衣装は、憂国の志を片時も忘れてはならぬという己への戒めであり、私にとっての〝弟子の写真〟だった。古戸君があれらの写真を見上げるごとに気持ちを新たにしているように、私も着物に袖を通すたび、作家としての闘志を奮い起こす。機械の支配ごときに負けていられるか。


 人間には、AI(やつら)には決して汚せぬ精神(たましい)の深淵というものがあるのだ。


 人類に残された最後の聖域──それを守り抜くために、私は今日も筆を執る。


「あ、先生、おかえりなさいませ」


 『Rodi』を出て全自動歩行者道路(スロープ)中央竪穴(チューブ)エレベーターを経由すること三十分余り。ようやく我が家へ帰り着いた私は、家事代行人として雇用中の甲乃宮(きのみや)君に迎えられた。彼女に家のことを任せるようになってから、気づけばもう半年が経つ。私は作家業に専念すべく妻を(めと)らなかったから、家事全般を任せられる相手を余所から雇う他なかった。


 もちろん家庭用アンドロイドを購入するという手もあったが、この歳になって機械とふたり暮らしなど冗談ではない。何より私が家事手伝いを募集することで雇用の創出にもなっているのだから、まあ、これも一種の社会貢献というやつだ。


 特に甲乃宮君は作家志望で、プロの指導を受けながらもっと腕を磨きたいという志も持っていた。しかも今時の若者にしては珍しい、私の作品の愛読者(ファン)だと言うので──うちに置くにはいささか若すぎると思ったものの──本人の熱意に折れる形で採用と相成(あいな)ったわけだ。


 もっとも雇ってみてから彼女のそそっかしさに頭を痛める羽目になったのだが、勝手に書斎を掃除して資料を紛失したり、頼んでおいた買い物を忘れたりと、よくポカをするところに目を瞑ればハキハキとした気立てのいい娘さんだった。


 時間のあるときには彼女の書いた作品を読み、添削を手伝う中でつい厳しいことを言ってしまうこともあるのだが、彼女はめげないどころかむしろそれを喜んでいるようにも見える。どれだけ赤を入れられようと、指導のあとには必ず笑顔で礼を言ってくるあたり、私の意見が彼女の成長を願ってのものであることをちゃんと理解してくれているのだろう。


「おや、甲乃宮君。まだ帰ってなかったのか。今日は外で夕食を取るから、上がっていいと言わなかったかな」

「いえ、すみません。実は先生にお話があって……ご迷惑かもしれないと思ったんですが、お帰りを待っていたんです。少しお時間よろしいでしょうか?」


 生まれてから一度も染めたことがないという黒髪を、今日も清楚にまとめた甲乃宮君は、帰邸(きたく)した私を迎えるなり遠慮がちにそう言った。

 彼女とは年齢の垣根を越えてずいぶん打ち解けつつあるのだが、その甲乃宮君がずいぶん畏まった様子でいるところを見るに、よほど大切な話らしい。


「何? 仕事を辞めたい?」


 ところがほどなく書斎へ通した彼女の口から(つむ)がれたのは、まったく予想もしていなかったひと言だった。あまりにも突然の申し出に私が呆気に取られていると、書斎机(つくえ)の前に佇んだ甲乃宮君が伏し目がちに「はい」と頷く。


「急なお話で申し訳ありません。実は三ヶ月前、Web同人誌に寄稿した作品に、出版の打診をいただきまして……ただ元が三万字程度の短編なので、出版に当たって大幅な加筆をすることになったんです。ですので今までのように、毎日こちらへ通わせていただくのが難しくなるかと思いまして……」

「そ、そうか……そいつはまた、ずいぶんとおめでたい話じゃあないか。アマチュアの同人誌からいきなり商業デビューとは素晴らしい。これでついに甲乃宮君の夢が叶ったわけだ、おめでとう」

「ありがとうございます。先生のご指導の賜物です」

「う、うむ。しかし作品の執筆ならば、ここで働きながらでも続けられるんじゃあないか? そういうことなら私も融通するし、手の空く時間はうちで作業をしてもいい。せっかくのデビュー作だ、どうせなら少しでもクオリティの高い作品に仕上げるために、私からもアドバイスできることがあるだろうし……」

「いえ、いつまでも先生のご好意に甘えていてはご迷惑がかかりますから……それと先日、二年付き合った恋人と婚約もしたんです。籍を入れるのはもう少し先の話になると思いますが、来月から同棲することになりまして……ですので今後は、自分の執筆と家事に専念させていただきたいと思っています」


 ──〝婚約〟……。


 さらに続く予想外の告白に、束の間言葉を失った。

 何しろ私は今の今まで、甲乃宮君に恋人がいることさえ知らなかったのだ。

 三十四にもなって未だに結婚していないということは、彼女もまた私と同じように、作家の本懐を遂げるため独身を貫くつもりなのかと思っていた。


 だがそういった事情があるなら仕方がない。家事は機械にやらせるものという認識が広まりすぎた今の時代、そもそもまともに家事全般をこなせる人材というのは非常に少なく、私は今日まで雇った家事代行人を何人もクビにしてきた。


 そんな中、半年も続いた甲乃宮君なら今後もうまくやっていけるだろうと思っていたのだが、結婚と商業デビューを目前に控えた女性をこれ以上引き留めるのは、不粋が過ぎるというものだろう。


 何より彼女がプロとしての一歩を踏み出せたのは素直に喜ばしい。古戸君にはまだまだ遠く及ばないが、私もこの歳にしてついに弟子を持ち、一端の作家として育て上げることができたのだ。短い間とは言え、同じ物書きとして私と心通わせた彼女なら、きっと日本文学界の未来を担う人材となってくれることだろう。


「……分かった。であれば仕方がないな。半年間よく勤めてくれたね、甲乃宮君。私も文壇の先輩として、ようやく始まった君の作家人生の成功を祈っているよ。無事に書籍が刊行されたら、ぜひ連絡をくれたまえ」

「はい……! 本当にお世話になりました!」


 ぱっと花が咲くように頬を染めた甲乃宮君は、満面の笑顔で頭を下げた。

 確かに粗忽(そこつ)なところもあったが、それ以上に真面目で容色も良い彼女を手放すのは正直惜しい。しかしこうなってしまったからには、私も古戸君を見習って次なる人材を育てるとしよう。年長者が率先し、彼女のような若者に教養と気づきを与えることが、社会のさらなる改善につながるのだから。


 ──などと、甲乃宮君を見送った日、しみじみとそう思ったはずだったのだが。


 数ヶ月後、私は彼女の人生初となる商業作品を手にして仰天した。

 何故なら作中で使われている舞台や登場人物、筋書きといったアイディアが、私の温めていた次回作の構想とあまりに酷似していたからだ。


 もちろん何もかも丸々同じというわけではない。私の作品はHINE導入以前の日本を舞台にした、いわゆる時代小説と呼ばれるジャンルのものばかりだが、甲乃宮君はデビュー前から現代社会を舞台にした群像ものを多く書いていた。


 しかしこれはどこからどう見ても、私が次回作に使おうと思っていたネタの土台を現代社会に()()えて書き上げたものとしか思えない。

 甲乃宮君は家事代行時、書斎にも頻繁に出入りしていたから、あるいは私の目がないときを狙ってネタ帳や資料を盗み見ていたのか……。


 思えば私は機械嫌いが(こう)じて原稿も手書きしていたし、頭に浮かんだ構想も思考出力装置を使って紙で打ち出していた。

 アンドロイドも仮想現実装置(VRデバイス)も持たない私が唯一手もとに置いていた機械がこれで、人の思考を自動で言語化してくれるこの装置だけは重宝していたのだ。


 だがそれが仇となった。今時の作家は資料もネタもHINE(ネットワーク)上のストレージにデータで保存するのが一般的なのだろうが、私はどちらも紙で手もとに置いておきたいと思うあまり今回の事態を招いてしまった。


 いや、そもそも甲乃宮君は、電子書籍が市場の九割を占める今も紙での出版を続ける私のこだわりを逆手に取って、初めからネタを盗むために近づいてきたのかもしれない。そんな彼女の魂胆にいち早く気づき、頭の中(ROM)を覗いていれば……。


 しかしすべてはあとの祭りだった。


 私はとても偶然とは思えぬ作中の符合の数々に身震いし、すぐさま甲乃宮君に連絡を取ろうとしたが、電話もメールも完全に無視された。

 仕方なく家事手伝いの求人に応募してきた際の住所も訪ねてみたがもぬけの殻。


 婚約者と同棲することになったというあの話は事実だったのか、ひと足先に余所へ引っ越し、逃げられたあとだったようだ。ならばと節を屈してHINEに頼り、彼女の脳内公開領域(ターミナル)へアクセスしようとしたものの、


『ERROR──あなたは甲乃宮マリに基準値を超える精神的苦痛を与えた実歴があるため、アクセスを許可できません』


 というメッセージと共に、何度試しても私の申請は却下された。


 ──(クソ)が。


 何が〝基準値を超える精神的苦痛〟だ。今それを与えられているのは私の方だ。

 だというのにAI(こいつ)は何故盗っ人をかばう?

 作家(わたし)からアイディアという名の資産を奪った女を罰しもしないで!


 甲乃宮とHINEの共謀に激昂(げっこう)した私はついに版元へ電話をかけ、事情を説明した上で今すぐ当該作品の配信を打ち切るよう厳重に抗議した。


 が、私が証拠となる資料等の記録まで提示して盗作を訴えているというのに、出版社はまるで聞く耳を持たない。それどころか多分な嘲笑を含んだ声色で、屈辱に打ち震える私に電話口でこう言ったのだ。


「あのですね、四坂先生。お話が事実ならお怒りはごもっともですが、甲乃宮は偶然似ただけだと言っていますし、そもそも設定やストーリーといったアイディアそのものに著作権が発生しないことは、先生も()()ならご存知でしょう? しかも先生が既に出版された作品の内容と酷似しているならまだしも、まだ作品として完成もしていないものの中身を盗られたと言われましてもね。こういうのはどこの業界も早い者勝ちですから。まあ、今の時代、どんな創作物も過去二千年の間に作られたものの焼き増しみたいなもんですし、いかなる先例にもまったく類似していない作品を探す方が難しいですよ。ですからどうか気を落とさずに、先生も新作の執筆に励まれて下さい。次回作、楽しみにしていますよ」


 そんな妄言を最後に電話は切られた。


 以降、どれだけかけ直しても、電話が編集部につながることはなかった。


 ああ、もういい。そちらがその気なら私にも考えがある。


 人類をここまで狂わせた異星の機械が、あの女の罪を裁かないと言うのなら──私は機械ではなく群衆(にんげん)の良心に、真の正邪を問うまでだ。


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