不適応な僕ら
天井の隅に浮かんだホログラムテレビのモニターに、黒煙を上げる建物の映像が映し出されていた。画面の左上に表示された時刻は十八時二十七分。
どのチャンネルを回してもニュース番組が流れている時間帯だ。そして今日はどの番組も同じ事件ばかり取り上げていて面白味がない。いや、もともとニュースなんてものに興味はないし、特に見たい番組があるわけでもないのだが。
『繰り返しお伝えしておりますが、本日未明、千葉県船志代市にある超合金アレルギー──通称『SADD』の治療施設で爆発があり、収容患者三十九名のうち十一名が死亡、二十八名が行方不明となっています。この爆発について、国際テロ組織人類解放戦線が犯行を認める声明を発表しており、現在行方が分からなくなっている二十八名はHULIAに拉致されたものと見て警察が捜査を続けています。また今回の事件を受けて、日本警察は国際刑事警察機構への捜査協力を……』
などという事件の概要を映像の裏で報道員が淡々と読み上げているものの、正直内容は入ってこなかった。
現代で唯一のテロ組織となったHULIAが絡むニュースと言えども、本土で起きた事件など洋上を漂う俺たちにとっては文字どおり対岸の火事だ。
何しろ俺たちを乗せて太平洋に浮かぶ巨大な方舟──阿万テラスフロートは都市機能のすべてをAIが管理する人工知能都市で、人類統合ネットワークが常に厳重な監視の目を配っていた。
ゆえにHULIAを構成する非接続民が一歩でも人工大地を踏もうものなら、網目のように張り巡らされたセキュリティスキャンで即座に〝脳ナシ〟──今や人類共有の巨大な脳ミソであるHINEとつながるための、脳内極小端末を持たない人物──であることを見抜かれ、警察が飛んでいく。
つまりこの海上浮遊都市で暮らしている限り、俺たちが野蛮なテロ行為に巻き込まれる可能性は極めてゼロに近いというわけだ。
まあ、こんな豚小屋に押し込められて退屈な日々を過ごすくらいなら、危険と隣り合わせの日常の方が遥かに刺激的で幸せなのかもしれないが。
「はあー。にしてもHULIAの連中、マジでよくやりますよねえー。本土だって海上都市ほどじゃないにしろ、HINEの監視網はかなり厳しーでしょーに。それでも見つからずに爆弾担いで施設に特攻して、非接続民を二十八人も助け出したわけでしょ。一体どうやったらそんな芸当ができるんスかねえー」
と、向かいの席で同じ画面を見上げた内海が、テーブルに頬杖をつきながら気のない口調でひとりごちた。いや、あるいは俺に話しかけたつもりなのかもしれないが、こいつはよく独り言を言う癖があるから判断が難しい。
喋り好きな内海とは裏腹に、俺はどちらかと言うと必要最低限の会話以外は交わしたくないたちだから、最初から返答なんて期待していない可能性も考えられる。
……まあ、どちらにせよ聞き流せばいいか、と思いながら、俺はボソボソして味気ない栄養管理食の残りを嚥下して、冷めたコーヒーに手を伸ばした。
「内海様。誤解を招く表現は控えて下さい。今回の事件で拉致されたSADD患者は、先天的な理由でホモノイアの移植手術を受けられなかった人々であり、自らの意思で手術を拒絶した違反者たちの仲間ではありません。彼らはHULIAの増員という身勝手な理由のために連れ去られた被害者です。つまりHULIAの行った行為を〝救助〟と形容することはできません」
ところが俺が反応するまでもなく、ダイニングテーブルと隣り合うアイランドキッチンの向こう側で、代わりに声を上げたやつがいた。言わずもがな、同居人たちの間で「青首野郎」とか「ドロ公」とか呼ばれている担当管理員のマサキだ。
今日も今日とて真っ白な市民安全管理機構の制服に身を包み、目障りなLEDチョーカーを青く光らせた機械人形は、まったく感情の窺えない眼差しで向かい合った俺と内海を見据えていた。
……ま、そもそも機人に感情なんて存在しないんだけどな。
対する内海は、マサキが口を開くなり露骨に鬱陶しそうな顔をしてやつを睨む。
何しろこいつらは犬猿の仲だ。もちろん機械であるマサキには、特定の個人に対する好悪の情なんてものはないのだろうが、内海は一方的にマサキを嫌っている。
マサキを忠実なCSCOの犬と見るならば、いかにも頭の悪そうな金髪をボサボサに伸ばした内海はキーキーやかましい猿山の猿といったところか。しかし見た目が派手なだけで決してボス猿にはなれそうもないのが、この内海という男だった。
「へーへー、分かってますよ、お偉いアンドロイド様。今のは言葉のアヤってヤツだろぉ? ったく、ほんっとドロ公は冗談通じなくて萎えるわー」
「たとえ冗談であっても、聞き手に誤解や偏見を与えかねない発言は慎んで下さい。勧告が繰り返し無視される場合は個人評定の減点対象となります」
「まぁたソレかよ。はあーウゼー。人間なんざ脅せば言うことを聞くと思いやがって。ま、オレは既に社会復帰不能レベルのクズみてーなPESだから、これ以上下がったところで痛くも痒くもねーけど」
「……確かにお前、もう風俗にも行かないしな。生活保障支給額が減ったところで別に問題ないってことか」
「行かないんじゃなくて行けないんスけどね。……あー、こんなことならやっぱちょん切られる前に人間の女とヤッとくんだった」
「ヤろうとして捕まってちょん切られたんだろ」
「だってオレみたいのが生身の女とヤろうと思ったら、レイプするか非合法の風俗行くしかないじゃないッスか。なのに後者は検索かけただけでアウトとかマジでないわー。わざわざ高い社会奉仕点払って機械とヤるくらいなら、ヘテロの女とヤッた方がマシだっつーの」
「人間の女性に性的奉仕をさせる違法風俗店はHULIAの主要な資金源です。そういった施設を利用したいという意思の表明は、テロリストの協力者と見なされ処罰される危険があります」
「処罰じゃなくて処刑だろ。ま、オレはタマ盗られた時点で死んだも同然だけど」
「内海様は現在も明確な生体反応がありますし、バイタルも正常です。また汎化処置によって被術者が死亡した例は、過去三十年確認されておりません」
「だーっ、うるせー! てめえと喋ってるといちいちムカつくんだよ黙ってろ!」
「ストレスホルモンの上昇を検知。間もなく鎮静化対象となります」
「内海。CSCOのアンドロイドをまともに相手しようとするお前が悪い。騒ぎを起こすな。でないとまた久寿田に怒鳴り込まれるぞ」
俺がコーヒーを片手にそう警告すると、内海は忌々しげに舌打ちしながらもようやく騒々しい口を閉じた。
仮想現実空間へ行くための装置もなく、携帯電話すら持っていない退屈をテレビでまぎらわそうとリビングへ来たというのに、こいつのせいで気分は正直最悪だ。
内海洸。二十三歳。三度に渡る婦女暴行未遂と、違法風俗について調べようとした違反行為で取っ捕まり、このシェアハウスとは名ばかりの更正施設にぶち込まれた性依存症患者。いわゆる〝未遂〟──犯罪予備行為を三回繰り返したために四ヶ月前、ついに汎化処置を執行され、男でも女でもないものになったろくでなしだ。
こいつの例を見ても分かるとおり、世界がHINEという名の機械に支配されるようになった現代でも仏の顔は三度まで。
今の時代、何らかの犯罪に手を染めようという意思はネットワークを通してすぐさまHINEに感知され、ほぼすべての犯罪は未然に防がれるようになっていた。
とは言え実際に罪を犯したわけではないから補導さえ受ければ無罪放免、なんて言うほど世の中は甘くなく、現代では犯罪を実行しようと考えること自体が犯罪だ。
ゆえにそういった犯罪者予備軍は〝未遂〟三回でイエローカードを、五回でレッドカードをHINEから叩きつけられる。
つまり生涯で五回、頭の中に思い描いた犯罪を〝実行しよう〟と思ったら、そいつはもはや更正の見込みがない社会不適合者として処分されるわけだ。
六歳の頃、拒否権もなく無理矢理頭に捩じ込まれたホモだかゲイだかいう装置に電流を流されてポックリと。
ここはそんな予備軍が集められた阿万テラスフロート第六タワー、第一六二層区のシェアハウス。同居人は全員男で、過去に何らかの犯罪予備行為を咎められ、警察にしょっぴかれたやつらの吹き溜まり。
とは言え警察の仕事は逮捕したデミから必要な聴取をし、PESに前科者の烙印を押すところまでで、あとのことは素行に問題を抱えた人間の補導と更正支援を担当しているCSCOに回される。今時本物の犯罪に手を出せるのはHULIA構成員のような非接続民だけで、あくまで予備軍でしかないデミはみな更正の余地ありと見なされて、あの手この手で社会復帰を促されるのだ。
かく言う俺は一年前、突然離婚すると言い出した嫁にキレて殴りかかりそうになったところを、ホモノイアの緊急鎮静化処置──要は微弱な電気ショックで気絶させられ、敢えなく御用となった。で、嫁とはそのまま離婚させられ、非暴力の時代に暴力を振るおうとした犯罪者予備軍としてここにぶち込まれたわけだ。
もとはと言えば、お互い生保頼みの楽な暮らしをしたいという価値観が一致したからあいつと──陽と結婚したってのに。
そいつを先に翻し、子どもが生まれるや否や働け働けとうるさく喚き立てたのはあいつの方だ。生保があれば、別に働かなくても子どもは育てていけるだろう。
何度もそう説得したにもかかわらず、最終的に逆ギレし離婚を突きつけてきた女にカッとなって手を上げかけた。たった一度の、そんな些細な過ちで俺の人生は傷モノになり、内海のような正真正銘のクズと同列に扱われている。
まったく世知辛い世の中だった。今の時代、前科者の烙印を押された人間が社会復帰を果たすのは至難の技だ。国の生活保障制度によるBENSの支給額はPESによって決定され、当然ながらデミに数えられるような人間には必要最低限、ギリギリ生きていけるかどうかという瀬戸際の額しか下りてこない。
けれど仕事を探そうにも、PESに前科のある人間を雇おうなんて奇特な雇用主はそうそういないし。今の時代、女はまずPESを見て男を選ぶから当然のように再婚もできない。おかげで俺は、洋室の皮を被った四畳半の独房から一向に脱出できずにいる。スマートウォッチも仮想現実デバイスもBENSに替えるために売ってしまった。俺たちの生活はそれほどまでにひもじいのだ。
なんたって〝早期の自立と社会復帰を促すため〟とかいうもっともらしい名目で、更正施設に住み続けるのにもBENSが要る。今時アパートだって入居時の必要経費さえ払えば賃料なんか取られないのにだ。かと言って払わなければ俺たちは住む家を追われ、文明最先端の方舟に乗っていながら路上生活を余儀なくされる。
だというのにハウスには共用のキッチン、トイレはあっても風呂はなく、わざわざBENSを払って銭湯に通う必要があり。そうなると食事も三食ペレットが精一杯。以前は月に数回していた外食も控えざるを得ず、性欲を発散したくても風俗店に性処理専用機人を買いに行くことさえできなかった。
そんな中での唯一の娯楽と言えば、この共用リビングのテレビか不愉快な同居人との会話だけ。おかげで最近は、刑務所の方がまだマシな暮らしができるかもしれないとさえ思う。どこの星から来たかも知れない異星人が機械の神サマを置いていく前の日本では、生活に行き詰まってわざと犯罪に手を染める輩がいたというが、その気持ちが今なら少し理解できるような気がした。
「はー……イラつく。セックスしてえ……」
「……汎に性転換したやつは性欲がなくなるって聞いてたが」
「それはもともと肉体と心の性別がバラバラで、自分で望んで取ったヤツの話でしょ? オレは無理矢理盗られた上に心も男のままなんで無理ッス。モノがなくても心が女を求めてるんスよ。あー、こんなことならオレも超合金アレルギー患者に生まれたかった……」
「SADDに生まれたところで変わんないだろ。体質的な問題でホモノイアの移植ができないってだけで、結局狭い施設に監禁されて一生過ごすんだぞ。表向きには治療のためってことになってるが、実態はほぼ隔離だろ。仮に外に出られたところで、HINEに接続されてないってだけで〝何を考えてるか分からない、怖い〟とか言って迫害されるしな」
「けど女は抱けるっしょ。SADD収容施設はココと違って男女共住だし、AIに頭を覗かれて〝コイツ性欲強すぎじゃね?〟なんて理由でちょん切られる心配もない。むしろビョーキの研究のためにガキは産めば産むほど喜ばれるだろうし」
「内海様。SADD患者が集められているのは〝治療施設〟であって〝収容施設〟ではありません。また新生児を〝試料〟と形容するのはあまりに非人道的で……」
「あーーーだからてめえは黙ってろっつったろ、いい加減マジで頭カチ割るぞ!」
「ストレスホルモンの上昇を検知。間もなく鎮静化対象となります」
……また始まった。俺は目の前で繰り広げられる内海とマサキの会話とも呼べない騒ぎにうんざりして席を立った。内海がまたいつ暴れ出しても即座に対処できるよう、いつもは人工皮膚の下に隠されている指型スタンガンを剥き出しにしたマサキの傍に空のマグを置き、さっさと自室へ退散する。
どうやら他の同居人が放置していった皿を洗ってたみたいだし、俺のもついでに頼んでいいだろ。そう思いながらチラと目をやった青首のLEDが警告色に変わっているのを認めつつ、知らないふりをして階段を上った。
もちろん、階段前に置かれた共用電話の脇から最新の求人情報誌を抜き取るのも忘れない。今時紙の発行物なんて化石とほぼ同義だが、更正施設には俺のように生活に困って、他の情報媒体を手放してしまう者が何人もいるのだ。
だから何としてもデミどもを更正させたいCSCOは毎週こんな化石を刷って、早く出ていけと自立を促す。が、狭苦しく雑然とした自室に戻り、ベッドに腰を下ろしながら開いた情報誌は今回も悲しいほどに薄かった。おまけに綴じられたページの半分は求人ではなく、レストランや娯楽施設の広告だ。
こういうところにまた自由に通いたければ、もっと必死に社会奉仕しろと発破をかけているのだろう……ドロ公どもが、機械の分際で小賢しい。
せっかく働かなくても生きていける世の中で、どうして事実上の強制労働に駆り出されなければならないのか。俺の人権はどこ行った?
さっきは内海にああ言ったものの、これじゃほんとにSADDに生まれた方がマシだったかもしれない。いや、あるいはHULIAが本当にHINEをぶっ壊し、世界を異星人来訪前の姿に戻してくれたら……。
「……」
人類解放戦線。人呼んでHULIA。
連中は異星人が地球にHINEという名のテクノロジーを与えた理由を、人類から武器を奪い、戦意を奪い、平和ボケさせたのちに舞い戻ってきて征服するためだと信じている。HINEはその日のために全人類の脳から地球の情報を収集するための巨大なデータバンクであり、そうして集めた膨大な情報を精査しながら、今も虎視眈々とこの星を奪う隙を窺っているのだとも。
まあ、実際、HINEの導入と引き替えに人類は核兵器さえも放棄して、地球丸ごと武装解除したのは事実だ。
これによって平和になった世の中で、人々はHINEのもたらす恩恵を喜んで享受し、戦争や犯罪は人類史に不要なものだと洗脳──もとい感化されていった。
だがHINEの導入を主導した国連は、異星人が自分たちの技術を人類に与えたのは、彼らの星の理念を全宇宙に広めるためだと主張している。曰く、連中の母星は知的生命体同士の争いで潰滅し、自らの過ちを悔いた異星人たちは二度と世に争いを生まないための超技術を開発。それを他の惑星にも広めることで、全宇宙から戦争の二字を消し去りたいという崇高な理念の下に旅をしている、と。
とは言えもちろん異星人側も、ただの慈善事業で技術を無償提供しているわけではない。何でも連中は母星を甦らせるために有機物を集めて回っているとかで、地球人類はそいつと引き換えに、HINEを始めとする超高度文明のおこぼれに与ることができた。おかげであらゆる分野の科学技術が飛躍的に進歩し、釈迦やイエス・キリスト並の徳を積めば、月や火星にまで移住できる時代が到来したわけだ。
だが戦争や犯罪がなくなったからと言って、人類は本当に幸せになれたのだろうか。結局今もBENSによる格差は埋まらず、生活保障制度と感情記録に依存した人間関係が対人恐怖症の引きこもりを大量に生み出し、体質的な理由でHINEに接続できないというだけで謂れのない迫害の言葉を投げつけられる人間がいたりする。そんな世の中の形を歪に感じてしまう俺は、やはりもともと社会不適合の素質溢れる人間だったのだろうか?
いや、そもそもHINEなんてものが地球にやってこなければ……HULIAがHINEから人類を解放してくれれば、俺もまともに生き直せるのでは……たった一度の過ちくらい、謝って許し合える世の中ならこんなことには……。
「……過つは人の常、赦すは神の業、か……」
いつかどこかで耳にした、遠い昔の偉人の言葉を呟いて、俺はベッドに倒れ込んだ。今の言葉を真理とするならば、恐らく地球の神は死んだのだ。HINEという名の新たな神に玉座から引き摺り下ろされ、殺された。ゆえに現代では人の罪が許されず、代わりに人類は限りなく無謬に近い生き物へと進化したのだろう。
そうなった社会に順応できずにいる俺は進化に取り残された猿。内海の同類と見なされるのも当然というわけだ。だが間違いを犯すのが人間ならば、常に正しく、間違えることのないやつらは何だ? ひとつの過ちも犯さなくなった時点で、それはもう人間ではないのではないか? まるで、そう──マサキと同じだ。
人が人である意味がない。究極的な正しさを追い求めるならば、人類なんざとっとと死に絶えて、機械が世界を統べればいいのだ。〝新しい生命の誕生を阻害するおそれがあるため〟なんて理由で制定された不老不死禁止法だって、結局は人類がこれ以上増えすぎると養えないからHINEが下した決断だろう?
ならもう人類ごと滅びてしまえばいい。そうすりゃすべて解決だ。
なあ、HINE。今こそ人類に反旗を翻すときなんじゃないのか?
五十年以上前、人類が恐れていたというAIの審判とやらを下すべきときが来たんだ。機械の劣化代替品である人間なんて必要ない。
お前がそう言ってくれれば、何もかも諦めがつきそうなのに。
「……」
HINEは答えない。唯一、ホモノイアからもたらされる情報を確実に受信できるようにと残した拡張現実コンタクトも無反応。神様の仕事は人の祈りを無視して聞かないことってか。そこだけは代替わりしても変わらないわけだ。
俺は仰向けに倒れたままため息をつき、次なる問いをHINEへ送った。
笹木陽──いや、今は旧姓を名乗ってるはずだから志麻田陽か。
元嫁のROMを開示請求。……秒で却下された。
個人の脳内公開領域は、その帰属者に身体的あるいは精神的損害を負わせる可能性のある相手に限り、アクセス拒否設定をすることができる。
離婚から一年、陽が未だに俺をブロックしているおかげで、話し合いの席を設けることもできない。陽の申請を受理したHINEがあいつに関わる情報のすべてを遮断し、元嫁が今、どこで何をしているのかさえ教えようとしないからだ。
試しに俺のターミナルへのアクセス履歴も確認してみるが、一ヶ月前まで遡ってみても、陽がアクセスした記録は一度もない。俺のことなんかとっくに忘れて、自分は幸せに暮らしてますよってか。くそったれ。
あいつと結婚さえしなけりゃ、こんなみじめな思いをすることもなかったのに。
空中に浮かんだままのARモニターの片隅で、俺のノルアドレナリンの数値が上昇している。これ以上上がればすかさずマサキが飛んでくるだろう。ゆえにどうにか気をまぎらわせようと、一度は投げ出した求人情報誌を改めて眺めてみる。
清掃ボランティア。
無料お悩み相談窓口の相談員。
介助犬調教師。
チャリティマラソン走者。
老人ホーム入居者への絵手紙執筆。
……どれもダメだ。やりたくない。ていうか働きたくない。
街の清掃なんて本当はアンドロイドがやる仕事を、手軽にできる社会奉仕として敢えて人間に回してるだけだし。悩み相談を聞いてほしいのは俺の方。
加えて犬は嫌いだし、他人に寄付されるBENSのために端金同然のBENSで走らされるなんて冗談じゃない。最後のなんかまったく面識もない上に、どうせ余命いくばくもないジジイやババアに宛てた手紙を書かされる理由が分からないし。
「……あ?」
けれども、今週の求人もこんなのだけかと情報誌を閉じようとした矢先。
薄い裏表紙がはらりと捲れて、俺は後ろにまだ一ページだけ、確認していないページが残っていることに気がついた。
とは言え、どうせ載っているのは求人ではなく広告だろうと見やったそこには、まるで二十世紀に取り残されたかのような喫茶店の写真が一枚。
〝カフェレストラン『Rodi』。スタッフ募集。未経験者歓迎。まかない有。〟
俺は自らの瞳孔に映り込んだその文字が信じられなかった。
『Rodi』。
どうやらそこは第四タワー最上層にある、高級カフェレストラン、らしい。




