不幸せな僕ら
疲労という名の重い荷物が今日も肩にのしかかるのを感じながら、私は上昇してゆくガラスの箱の中で、白い奈落を見つめていた。
阿万テラスフロート第三タワーの中心を貫く中央竪穴エレベーター。
美しい真円を描く空洞の外周には、都市の下層から上層までを行き来する透明の籠がびっしりと張りつき、さらに中央の誘導車線上を無数の空中滑走車や空中滑走二輪が上ったり下りたりしている。
いつの間にやらすっかり見慣れてしまって、何の感慨も抱かなくなった無機質で機械的な景色。眺めていたところでこれと言った新鮮味や楽しさなど感じるはずもなく、かと言って携帯電話を起動する気力もない。
ただただ一刻も早く、私を乗せたガラスの箱が自宅のある第一六六層区に到着することを祈るだけの時間。エレベーター内に設けられた座席のあちこちでは、中層にある商業区でお茶と買い物を楽しんできたらしい年配の奥様方や、デート帰りらしい若いカップル、学校帰りの中学生なんかが楽しげに談笑していた。
そんな同乗者たちの雑談を煩わしいと感じる人向けに、喧騒を緩和するためのクラシック音楽が流れていたりもするけれど、今の私にはそのすべてがやかましいだけの雑音だ。疲労と苛立ちに心が掻き乱されていく。
『──ご歓談中のお客様にお願い申し上げます。現在、当機ご搭乗中のお客様の中に心的不快指数上昇中のお客様がいらっしゃいます。大変恐縮ですが、他のお客様のご迷惑にならないよう、搭乗マナーへの配慮をお願い申し上げます……次は第一六六層区西四番ゲート、第一六六層区西四番ゲートに停まります』
ほどなくエレベーター内を常時モニタリングしている運行管理AIのアナウンスが鳴り響き、筐体の中に満ちていた喧騒がすっとボリュームを落とした。
が、直前まで周りの迷惑などお構いなしにお喋りに耽っていた人々は、せっかくの楽しい時間に水を差したのはどこのどいつだと言わんばかりの眼差しをエレベーター内に巡らせる。そして最悪なことに今、この西四番エレベーターにひとりで搭乗しているのは私だけだ。
AIが勝手に心的不快指数を検知して勝手に気を回しただけなのに……まるで私が諸悪の根源であるかのような眼差しを向けられてばつが悪い。だから私は素知らぬふりを決め込もうと、再び分厚い強化ガラスの向こうへ視線を逃がした。
扉に向かって左手の壁に投影されている壁面映像装置の映像を眺めてもよかったのだけど、生憎と私の座る座席とスクリーンの間では、恨めしげな顔をした年配の奥様方がヒソヒソと密談を交わしている。
それを視界に入れたくない一心で、遥か頭上、タワーの天辺を覆う全天ドームの向こうが見えやしないかと顎を上げ目を凝らした。
阿万テラスフロートこと新奥羽市を構成する六つの摩天楼は、最も高いものでは海抜一〇〇〇メートルにも及び、私たちの生活圏はそのうちの中層から上層に限られる。私の居住する第三タワーも全二一二階層のうち、居住エリアとなっているのは最上階を含む上部五十層だけだ。
けれど赤道直下の気候を利用した他国の海上浮遊都市とは違い、日本海や太平洋に浮かぶ日本のタワー型都市は、高い場所ほど当然寒い。
だからタワー内の気温を一定に保つために、阿万テラスフロートの天辺には巨大なドーム型の蓋がされ、AIによる徹底した環境制御がなされていた。けれど私の家がある第一六六層区は、言うまでもなく中層区と上層区の境目に当たる区域だ。
そこから五十層近くも彼方にあるドームの向こうの空なんて、そうそう拝めるはずもなく。せめてタワー外縁部の高級住宅街に住めたなら、自宅からいつでも本物の海や空が見える素敵な暮らしが楽しめるのだろうけど……。
『ご搭乗ありがとうございました。第一六六層区西四番ゲート、第一六六層区西四番ゲート到着です。またのご搭乗を心よりお待ちしております』
心なんてあるはずもないAIの皮肉に見送られながら、私はようやく、針の筵のようだったエレベーターを降りて第一六六層区の全自動歩行者道路を踏み締めた。
ふと目をやったスマートウォッチの液晶には、十七時四十三分という数字が刻まれている。とするとギリギリ十八時前には帰れそうだ。空の見える外縁部からはほど遠く、チューブにもさほど近いわけではない、比較的地価の安い第一六六層区でも特に少ない社会奉仕点で入居できた小さな集合住宅。
まるで私の人生そのものを体現したかのようなアパートの玄関をくぐると、途端に家の奥から「おかえりなさい」と弾んだ声が迎えてくれた。
でも、高い高いBENSを支払ってようやく手に入れた家事代行専用機人のお出迎え──ではない。そんなもの、私に買えるわけもない。
狭い廊下を抜けた先のダイニングキッチンからひょっこり顔を覗かせて、花のような笑顔を見せてくれたのは、訪問保育師の花菜さんだ。
山夲花菜。三十七歳。二〇三層区の外縁部で暮らしている一児の母。
旦那さんは心理カウンセラーのお仕事をしているアメリカ人で、息子さんも今は中層区にある第二新奥羽学園に通う高校生らしい。
一家揃って優秀で裕福な暮らしをしている、いわば名士の奥様だ。
私より十歳も年上なのに、見た目も言動も年齢よりずっと若い。
いつ会っても生き生きしていて、働くのが楽しくて仕方がないって感じ。
別に働かなくたって、生きている間は国が必要最低限の生活を保障してくれる現代で、自ら進んで勤労に励む奇特な人だ。
単にBENSを稼ぎたいだけだとしても、旦那さんが仕事をしていて息子さんも高校生なら、彼女まで働く必要なんかなさそうなのに。せっかく自由に何でもできる世の中になったんだもの、それなら私は困っている人の手助けがしたいの、なんて綺麗事をあっけらかんと笑って口にする、共栄主義社会の申し子。
花菜さんはそういう女性だった。働きたくない、働きたくないと思いながら重い体を引き摺って、週何回かのボランティアを嫌々請け負っている私とは真逆の人生を歩んでいる人、と言い換えてもいい。
「志麻田さん、お疲れ様。ほら、空くん、大好きなママが帰ってきたよー。〝おかえりなさい〟って言えるかな?」
「……おかーりなさい」
花菜さんに迎えられながらダイニングへの入り口を潜ると、窓際に置かれたホログラムテレビの傍に腰かけて、机に向かう息子の姿が目に入った。疲れて帰宅した母親のことなどそっちのけで、どうやら粘土遊びに熱中しているようだ。
子どもが転んで怪我などしないようにと選んだ、角のないローテーブルの上には色とりどりの粘土が散らばっている。春にようやく三歳を迎えたばかりの空は、まだ自分の手で複雑なものを作ることはできなくて、粘土を広げるといつも型抜きや玩具のナイフでの切り分けに没頭していた。
おかげでローテーブルの周りは細かく飛び散った粘土の滓と抜き型だらけ。
あれをまた私が片づけるのか……そろそろ本格的に自動掃除機の購入を検討すべきかも、と内心げんなりしながらその様子を眺めていると、わざわざ自宅から持ってきているというエプロンを脱いだ花菜さんが、爽やかな夏色のロングチュニックをあらわにしながら笑いかけてきた。
「今日もお仕事大変だったみたいね。帰る前にお茶でも淹れよっか?」
「あ、いえ……大丈夫です。もう六時になりますし、花菜さんも帰った方が……」
「あはは、ちょっとお茶して帰るくらい大丈夫大丈夫。実は今日、空くんを連れて動物園に行ってきてね。帰りにおいしそうな紅茶を見つけたの。私もまだ飲んでないんだけど、せっかくなら志麻田さんも一緒にどうかと思って」
「す、すみません……ていうかまた空を外に連れ出してもらって……動物園、入園料取られましたよね? いくらでしたか? お支払いするんで……」
「ああ、気にしないで、今時動物園なんてほとんどタダみたいなものだから。紅茶も私が飲みたくて買ってきたものだし、ね? いま用意するから、志麻田さんは着替えてきていいよ」
といつもの調子で言いながら、花菜さんは早速キッチンへ向かい、ケトルを取り出してお湯を沸かし始めた。
勝手知ったる何とやら、今や家主の代わりに週の半分をこのアパートで過ごす花菜さんは、道具の収納場所や家電の使い方まで完璧に掌握している。
もはや私よりもずっとここでの暮らしに慣れているように見えるくらい。
私はそんな花菜さんのご好意に甘えて……というか何となく断りきれず、半ば仕方なしに隣の寝室へ向かった。私が仕事に出ている間は家のことも空のことも彼女に任せきりだから、どんなに疲れていても邪険にはできない。
それにしても、動物園の入園料を〝タダみたいなもの〟ね……確かにああいう観光施設の入場料は高くても1Bくらいで、大した額じゃないっていうのは本当だけど、やっぱりセレブの奥様は言うことが違うというかなんというか。
自分用に買った紅茶を気前よく他人にご馳走するあたりも含めて、花菜さんの感覚は私とどこか噛み合わない。彼女に悪気はまったくなくて、むしろ好意に基づく言動だと分かっているのに、時々モヤッとしてしまう。
まあ、そこさえ我慢すれば、相場よりもずっと安く子どもを預かってもらえてるし、むやみに感情記録も覗かれないから都合のいい保育師さんではあるんだけど。
今時他人のROMを覗くのにいちいち許可を取る人なんて珍しいし。
なんてことを考えながらふと目をやると、空は相変わらず粘土遊びに熱中していて、正面に佇む私にはやはり見向きもしなかった。後ろに浮かび上がったホロテレビの画面で踊る、大好きな教育番組のマスコットにさえ気づいていないらしい。
あんなぐにゃぐにゃした物体を必死に型に押し込める遊びの、何がそんなに楽しいのだろう……などと、今日も今日とて理解不能な我が子の様子に一瞥をくれながら、私は寝室の自動扉を潜った。仕事用のカジュアルスーツとブラウスを脱ぎ捨てて、適当に取り出したロングパーカーに袖を通す。
「空くん、今度は何を作ってるのかな? ……あ、分かった、今日動物園で見てきたうさぎさんだ! すごいね~、上手だね~」
「うん! あの、くろいもようがあったうさぎさん、つくった!」
「シロクロうさちゃん、かわいかったもんね! ところで空くんにもりんごジュース持ってきたけど、飲む?」
「のむ!」
ほどなくバレッタでまとめていた髪も下ろし、ダイニングへ戻ると、空の傍らにしゃがみ込んだ花菜さんが幼児用のストローマグを差し出していた。直前まで粘土に夢中だったはずの空は、途端に飛びつくようにしてマグを受け取る。
……冷蔵庫にりんごジュースなんてあったっけ。あったかな。近頃は日用品の買い物もほとんど通販で済ませてしまっているせいか記憶が曖昧だ。
そこで脳内極小端末にアクセスし、直近一週間ほどの自分の行動履歴を洗ってみる。〝買い物〟の履歴に絞って検索。答えは一秒もかからずに出た。
結論。りんごジュースなんて買ってない。
つまりあれも花菜さんが買ってきたもの、ということだろうか。
だとしたらお礼を言わないと……。
「花菜さん、それ……」
「ん? ああ、ジュース? ごめんね、勝手に。空くんがどうしても飲みたいって言うから買ってきちゃったの。これもお代は気にしなくていいから」
「で、でも……普通、保育師さんには子どもにかかるお金をいくらか渡しておくものですよね? うちはそれも払ってないのに……」
「志麻田さんはシングルマザーで頑張ってるんだもの、このくらいの応援はさせてちょうだい? 私がしたくてしてることだから、気にせず甘えてくれていいのよ」
「……」
「あと、ちょっと志麻田さんと話しておきたいことがあってね。紅茶、持ってくるから座ってくれる?」
花菜さんは依然微笑みながらそう言うと、ちょうど空の向かいに置いてあるふたりがけのソファを示した。小さく「すみません」と呟いた私は言われるがまま灰色の合成皮革に腰を下ろし、立ち上がった花菜さんを待つ。
彼女は一度キッチンへ引き返すと、ふたり分のマグカップを乗せたお盆を運んできて、片方を私の前に置いた。向き合って話すためだろうか、花菜さん自身はローテーブルの側面の床に直接座り、私と空の間にすとんと収まる格好になる。
「あのね、志麻田さん。ナニーが他の家の教育方針に首を突っ込むべきじゃないっていうのは分かってるつもりなんだけど、ひとつだけ、どうしても気になることがあって……えっと、空くんの食事のことなんだけどね。やっぱりお昼だけでも、私が作ってあげるわけにはいかないかしら。空くんの将来のために、無駄な出費はできる限り抑えたいっていう志麻田さんの意見も分かるし、とても立派だと思うんだけど、空くんくらいの歳の子には食育で食事の楽しさや大切さを教えることも大事だから……毎日三食栄養管理食だけっていうのは、ちょっと寂しいと思うのよね」
ところが間もなく花菜さんの口から滑り出した話題に、心臓が不自然な音を立てた。……またその話題? と、途端に芽生えた苛立ちをとっさに奥歯で噛み殺したものの、私がむっとしたことに、花菜さんも目敏く気がついたみたいだ。
「ああ、余計なお世話だったらごめんなさい。だけど今日出かけてるときも、空くん、色んな食べ物に興味を持ってたみたいでね。ペレット以外の食べ物はなるべく与えないでほしいっていう、志麻田さんの言いつけを破るわけにはいかなかったから、どうにか宥め賺してやり過ごそうと思ったんだけど……そうしたら空くん、ぐずっちゃって。それで機嫌を取るためにりんごジュースを、ね」
「……」
「このジュース、前にママが買ってくれたって空くんが言ってたから、これだったら買って帰ってもいいかと思って。志麻田さんの許可を取らずにあげちゃったのはごめんなさい。でも空くんが喜んで飲むところ、見てほしかったの」
「……」
「志麻田さんも気づいてると思うけど、空くん、レストランやコンビニのCMが流れるといつもテレビに釘づけでしょう? ただでさえ今は色んなものに興味を持って、あれは何? これは何? って興味を持ち始める大事な時期だから、食事も大切な知育になると──」
「花菜さんのおっしゃりたいことは分かります」
──だから空をあまり外には連れ出さないでと、いつも言っているのに。
まず真っ先にそんな文句が口を衝いて出そうになったのをどうにかこらえて私は言った。結果としてかなり険のある口調で、花菜さんの話を遮る形になったけど。
「でも知育なら他のことでいくらでも補えますし、大人だって食事はペレットで済ます人、かなり増えてますよね。食べやすいし、いちいち料理する必要もないし、栄養もちゃんと取れるから食生活が乱れる心配もないし。逆に色んな味を覚えてあれが食べたい、これが食べたいなんて子どもが言い出したら困るんです。そのせいで偏食になるかもしれないし、一度贅沢を覚えたらペレットなんてもう食べたくないって言い出すに決まってます」
「でも最近スーパーなんかに出回ってる食材や加工品は、どれも食品改良技術で栄養が偏らないように調整されたものばかりでしょう? だから昔に比べれば、偏食で特定の栄養が足りないなんてことには滅多にならないし、食材をうまくやりくりすれば、正直毎日三食分のペレットを買うより安く上がると思うのよね」
「いや、だから、安ければいいって話でもなくて……花菜さんの食事に馴れた息子が、朝晩や休みの日までちゃんとした料理を食べたいなんて言い出すのが困るって言ってるんです。うちは見てのとおり貧乏な母子家庭ですから、花菜さんのお宅と違って掃除も洗濯も育児も全部私がひとりでやらなきゃいけないんですよ。家事を手伝ってくれるアンドロイドも、子どもを見てくれる旦那もいないから。なのに毎日三食、食事まで私が用意するとか無理です、絶対に!」
反論しているうちに噛み殺したはずの苛立ちが喉の奥で甦って、気づけば私の語調は荒くなっていた。それに驚いたらしい空がテーブルの向こうで肩を震わせ、咥えていたストローをぱっと離すと上目遣いに見上げてくる。
まるで自分がいけないことをしていると、最初から理解していたみたいに。
──ならどうしてジュースをねだったりしたの!
そう怒鳴りつけたいのをどうにかこらえて、私は空の小さな手からストローマグを取り上げた。中身はもうほとんど残っていなかったけれど、構わず奪い取って、テーブルに叩きつけるように置く。
今日のジュースはもうおしまい! そう叱りつけるためだった。
けれどマグを机に置いた瞬間、妙な感触が掌に伝わる。マグの底が天板に当たる硬い感触じゃなくて、何かぐにゃっとしたやわらかいものが潰れたような……。
「あっ!」
ところが再びマグを持ち上げてその原因を確かめるよりも早く、空が叫ぶような声を上げた。一拍遅れて私がマグの底を見やれば、直前まで空が遊んでいた小さな粘土の塊が半透明のプラスチックに張りついている。……なんだ、ただの粘土か。
そう思って付着した緑色の物体をマグから剥がそうと思ったら、突然空が大声を上げて泣き始めた。ぎょっとして目をやれば、息子は離婚した旦那そっくりの顔をくしゃくしゃにして、獣が吼えるみたいに泣いている。
ああ、またこれだ。たかがジュースを取り上げられたくらいで。
叱られて泣くくらいなら、ダメだと分かっていることには手を出さなければいいだけなのに。どうして叱っても叱ってもこの子は理解できないのだろう。
花菜さんが来ない日──つまり私が家にいる日はいつもこんな感じ。
空はとにかく泣いて騒いで私を困らせる。一体何がいけないっていうの?
理由を確かめたくても、まだ脳内極小端末のインプラント手術を受けていない空は頭の中が覗けない。人類統合ネットワークへの接続は今や全人類に課せられた義務であり、空もいずれはHINEの一員となるものの、子どもが接続可能となるのは六歳からだ。それまでは脳の発育だとか手術を受けるための身体的な条件だとかの兼ね合いで、子どもたちはHINEの外で生きている。
だからROMを使った意志疎通にすっかり慣れてしまった大人には、何を考えているのかさっぱり分からない子どもたちが怪物に見えた。言葉だってろくに通じないし、言動の大半が意味不明。おまけに自分の要求ばかりを一方的に押しつけてきて、叱れば気が狂いそうになるほどの泣き声で親を責める。
そんな息子とふたりきりの生活が耐えられなくて、ある日ついに手を上げかけた私は、急激なストレス反応を検知して飛んできた市民安全管理機構の管理員に補導され、半強制的にカウンセリングを受けさせられた。
そのとき私の担当をしてくれたのが花菜さんの旦那さんであるジョージ先生で。
家事と仕事と育児の両立がつらいと感じるのなら、ナニーを雇ってはどうかと花菜さんを紹介された。で、今に至るわけだけど。
正直彼女を雇ったことが正しい選択だったのかどうか、私には分からない。
だっておかげでこのとおり、空は花菜さんにばかりなついてしまって。
息子の将来を思い、毎日重い体を引き摺ってボランティアや内職に励む母親の前では、こうやって泣き喚くばかりなのだから。
「志麻田さん」
きっとこの子も心の底で私と花菜さんを比べているんでしょう。
だからこんな出来損ないの母親は嫌だと泣くんでしょう。
優しくてお金持ちで美人な花菜さんがいいと泣くんでしょう。
私があんたのために、国の生活保障制度に甘えて働こうともしなかった旦那と別れて、来る日も来る日も苦しんでいることなんか知らずに。本当は私だって働きたくなんかないのに、周りの子を持つお母さんたち──それこそ花菜さんみたいな、優しくて華やかで愛情深い母親でいなくちゃと──もう二度と母親失格ね、なんて嗤われないために、こんなにもこんなにも頑張ってるのに……。
「志麻田さん!」
真っ赤に燃え上がった怒りや憎しみに、視界を塗り潰されていくような感覚。
けれど私がそうして我を失う寸前、沸騰する感情の狭間を縫って、花菜さんの呼ぶ声が意識に届いた。
「志麻田さん、落ち着いて。CSCOが来ちゃうから」
〝CSCO〟。まるで花菜さんの人生を体現しているかのような、瑞々しい桃色の唇から紡がれたその単語が、私の正気を呼び戻した。
ああ、確かに冗談じゃない。人間の苦労なんか毛ほども知らない機械どもの巣窟に連行されて、また犯罪者か精神異常者のように扱われるなんて。そう思ったら視界がすうっと色彩を取り戻して、ようやく目の前の景色が見えた。
そこでは花菜さんが泣きじゃくる空を抱えて、困ったような、哀れむような目で私を見ていた──なんでそんな目で見るの?
「志麻田さん。あなたが潰してしまったそれね。空くんが頑張って作った動物園のうさぎさんなの」
「……はい?」
「あなたが毎日仕事と家事で忙しくて、なかなか動物園なんかには遊びに行けないことを、空くん、ちゃんと分かってるのよ。だからせめて粘土で動物さんをたくさん作って、ママに見せてあげたいって……三歳じゃまだあれを見た、これを見たって、言葉で説明したくてもできないから。だから今の自分にできる方法で、一生懸命志麻田さんに伝えようとしてたのよ」
直前まで真っ赤だったはずの視界が、いきなり暗転するのを感じた。
まるで深い深い奈落の底にいきなり突き落とされたみたい。
この都市の真ん中を貫く、あの白い奈落なんかじゃなくて。
真っ暗でひとかけらの光もない、失意のどん底みたいな場所に。
「……少し待っててね。空くんを落ち着かせてくるから」
花菜さんは静かにそう言うと、未だ大泣きしている空を抱えて自動扉の向こうへ消えた。ソファの上にひとり残された私は、ゆらゆら揺れる紅茶の湯気の向こう、そこに散らばったカラフルな粘土の群に目を向ける。
空の誕生日に買ってあげた、安っぽいプラスチック製の動物の抜き型セット。
いぬ、ねこ、うさぎ、くま、ぶた、きりんにぞう。
それらに力の限り押し込まれたと思しい、不格好な粘土の数々。
これが動物園の動物だなんて一体誰が思うだろう。
少なくとも私には、いつもどおり粘土で遊んでいるようにしか見えなかった。
だけど世の母親はみんな、私と同じ状況に置かれても、これが動物園の動物だと見抜けるものなのだろうか。だから私は母親失格なのだろうか。
「えっ、陽ちゃんのおうちって、旦那さんも働いてないの? 確かに生保さえあれば暮らすのには困らないけどさ……おいしいもの食べたり、旅行に行ったりしようと思ったら、いくら節約してもやっぱり生保だけじゃ足りないじゃん? なんていうか、子どもの将来を考えるとそれじゃかわいそうかなって……私はそう思ったから、手に職持ってる旦那と結婚したんだけどね」
数年ぶりに再会した学生時代の友人に、そんな指摘をされたのが二年前。
既に二児の母として立派に子育てしていた友人が、母親なりたての私に注いだ眼差しには、微かな呆れと軽蔑と嘲笑が見え隠れしていた。
本人は決して口には出さなかったけれど、彼女のROMがそう言っていた。
以来私は当時の旦那に、空のために働いてくれないかと懇願を続けたけれど。
旦那は働かなくてもそこそこの贅沢をして生きていける世の中なのに、何故わざわざ苦労してBENSを稼がなければならないのかと言い「そこまで言うならお前が働けば?」のひと言で夫婦の会話を打ち切った。
だけど言われたとおり私が働き始めても、旦那は家事や育児を手伝ってくれるわけでもなく。家のことや空のことは私に押しつけて、自分は毎日仮想現実空間で放蕩三昧。おまけに私が苦労して稼いだBENSを自分の趣味のために使い込もうとする始末で、ついに我慢の限界が来た私は離婚を切り出した。
何故そうなったのか最後まで理解しようとしなかった旦那は、話し合いの末暴れに暴れて、敢えなく警察に連行されていったけど。
そうしてお荷物を捨てたところで、生活が楽になるわけでもなく。
むしろ世帯人数が減ったことで国から支給されるBENSも私と空のふたり分となり、当然ながら旦那分のBENSをあてにすることができなくなった。
かと言って学生時代、特に何かを専攻していたわけでもなく、結婚するまで働いた経験すらなかった私にできる仕事は滓みたいな報酬の簡単な内職やボランティアだけ。日に数時間、身寄りのない独居老人の話し相手をしてあげたり、海浜区のゴミを拾って歩いたり、細々と新商品のモニターをしたり……そんな自分がとにかくみじめで、周りの幸せそうな人間すべてが妬ましかった。
どんなに頑張っても自分が彼らのような暮らしを送れることはなく、誰にも努力を認めてもらえず、褒めてもらえることもなかったから。
私の人生はいつからこうなってしまったんだろう。どこで間違えたんだろう。
ぼんやりと座り込んだままHINEに尋ねてみるけれど、返答はない。
分からないことはHINEに訊けば、何だって答えてもらえる。
そう思って生きていた頃は、こんな不幸感やみじめさとは無縁だったのに。
空を産んでからは毎日毎日、分からないことばかりだ。
HINEが答えてくれるのは適切なミルクの量や温度、必要な検診とその日程、推薦度の高い知育道具……そういう決まり切った情報だけ。
どうすれば〝いい母親〟になれるのか。幸せになれるのか。
肝心な部分は何も答えてくれない。
代わりに返ってくるのはいつだって『ERROR。定義づけのための情報が不十分のため回答できません』という定型文。もううんざりだ。何もかも。
「志麻田さん、お待たせ。空くんは泣き疲れて寝ちゃったわ。今夜はもう起きないかも。お風呂がまだだけど、今日はこのまま寝かせてあげた方がよさそうね」
そうして一体どれほどの間、脱け殻のように座り込んでいたのだろう。
気づけばさっきまで空がいた場所には花菜さんが座っていて、彼女は机の下に投げ出された道具箱を拾い上げると、あたりに散らばる玩具の類をひとつひとつ、丁寧に箱へ戻しながら言った。
「あのね、志麻田さん。これも余計なお世話かもしれないけど、もしナニーを雇ってもまだ仕事と家事と育児の両立がつらいと感じてるなら、しばらく仕事をお休みしてみるのはどうかしら。全部辞めるのは無理だとしてももう少し回数を減らしたり、負担の少ない仕事だけに絞ったり……ほんの一ヶ月でも二ヶ月でもいいから。そうしたら身も心も休まって、気持ちにゆとりが生まれると思うのよね」
「……でも、私は安い内職やボランティアでBENSを稼ぐしかないから……今のうちから頑張らないと、空の将来が……」
「志麻田さんが空くんを想う気持ちは立派だと思うわ。そのために毎日毎日、家事も仕事もひとりで頑張ってるんだもの。親の手も、旦那さんの手も、アンドロイドの手も借りずに……色んなものが便利になった今の時代に、ひとりでそこまで頑張れるなんてすごいことよ。私も見習いたいくらい」
最後の抜き型を道具箱に収い込み、そっと蓋を閉じながら花菜さんは言った。
途端にぐっと喉が詰まって、私の視界が熱を帯びる。
今のは単なる社交辞令だ。恵まれた環境にいるこの人に、私の気持ちや苦労が本当に分かるはずない──頭では、そう理解しているはずなのに。
「でもね。今は働かなくてもある程度の生活を国が保障してくれるんだから、そんなに焦る必要はないと思うわ。もちろんたくさんBENSを稼いでもっといい暮らしをしたいって目標を持つことは立派だけど、幸せの形って人それぞれだから。心と体を少し休めて、自分や空くんとじっくり向き合えば、もっと別の幸せが見えてくるかもしれない。そうしたら今度はそこに向かって、もう一度頑張ってみればいいんじゃない?」
「……別の幸せ?」
「うん。なんていうか、私は長くアメリカにいたからそう感じるのかもしれないけど、日本人って昔から〝家庭とはかくあるべき〟〝幸せとはこういうもの〟みたいな固定観念が強すぎると思うのよね。だから夫婦別姓とか無痛分娩とか胎外出産とか、ああいう合理的なシステムの導入も外国に比べてかなり遅れたでしょう? ナニーやベビーシッターを利用して子育てするのが当たり前って感覚が広まったのもHINEが導入されてからのことだったし」
「……そう言えば日本では、アンドロイドに子守りをさせる家庭も未だに少ないですよね。機械に育てられた子どもは情緒が乏しくなるとか言って……」
「そうそう。私、昔からそういうのが馬鹿馬鹿しくて仕方なくって。仮に〝夫婦同姓の方がより強い絆が芽生える〟とか〝お腹を痛めて産んだ子の方がより愛着が湧く〟とかいう話が統計的に正しいとしても、どっちを選んだ方がより幸せかは当人にしか分からないことじゃない? それでも別姓を選んだなら、同姓の夫婦より愛し合える努力をすればいいだけの話だし、お腹を痛めずに産んだ子ならその分の愛情を別の形で注いであげればいい。とにかくそんなの他人にとやかく言われることじゃないわ、ほっといて! ……って、私は思っちゃうのよね」
花菜さんは苦笑と共にそう言うと、今度は紅茶入りのマグに手を伸ばし、品のいい手つきで口へ運んだ。言われてみれば花菜さんのお宅は夫婦別姓だ。
旦那さんが外国人だからそうしたのかと思ったけれど、花菜さん曰く、同姓にしなかったのはどちらの家の名前も大切にしたかったからで、息子さんを出産したときも、当然のように胎外出産を選択したという。
「だからね。勝手な願望だけど、私は志麻田さんにも一度立ち止まって、自分にとっての幸せって何だろうって考えてみてほしいの。周りの人たちはみんな、しっかり社会奉仕して裕福な暮らしをすることが幸せだ、とか、まともな相手と結婚してまともに子どもを産んでまともな家庭を築くのが幸せだ、とか、好き勝手言うだろうけど……この粘土みたいに、ひとりひとりの人生は全然違う形をしてるのに、他人の作った型の中に無理矢理押し込められたら苦しいし、歪な形にしかなれないと思うのよね」
花菜さんがそう言って摘まみ上げたのは、空が型抜きの途中で投げ出していったらしい青色の粘土だった。粘土にはくっきりと何かの型の痕が残っているけれど、一体何の型を押し当てたのか判然としない。型の大きさに対して粘土が足りなかったみたいで、不自然に盛り上がった部分と千切れそうなくらい薄くなっている部分と、とにかく何ものにもなれていない不格好な塊だけがそこにあった。
「まあ、とは言えこれも他人の戯れ言だから、最終的にどうするかは志麻田さんが自分で考えて自分で決めることだけど。本当に空くんのためを思うなら何を選ぶのが一番か……それをゆっくり考える時間だけでも作ってみてもらえると嬉しいな。もちろん、私で協力できることなら喜んでお手伝いさせてもらうから。ね?」
マグを手にそう言いながら微笑んだ花菜さんの顔に、私の拡張現実コンタクトが映し出す半透明のモニターが重なった。
そこを滑る漢字とひらがなの羅列はすぐに滲んで読めなくなる。
だって、花菜さんのROMは上から下まで『志麻田さんと空くんには幸せになってほしい』──そんな言葉で埋め尽くされていたから。
ほどなく花菜さんは仕事を終えて、アパートを出ていった。明日は託児の予定もないのに、迷惑じゃなければ様子を見に来るから、とそう告げて。
ひとりきりになったダイニングで、私は夕食のペレットを囓りながら、花菜さんが片づけていかなかった粘土の群を眺める。
いぬ、ねこ、うさぎ、くま、ぶた、きりんにぞう……。
最後に手に取った青い粘土は、やっぱり何の型を押し当てたのかわからない。
けれども、ほんの申し訳程度にチョコレートの味がするブロック状の人工食を口の中へ押し込むと、私は粘土を置いて立ち上がった。
寝室へ続く自動扉を潜り、奥の幼児用ベッドで眠る空にそっと歩み寄る。
「空……さっきはごめんね。今度一緒に本物のうさぎさん、見に行こうね」
そう囁いて、私の傷んだ髪とは似つかないやわらかなそれを何度も撫でた。
そうしながら暗闇の中にARモニターを浮かべて、料理なんて指折り数えるほどしかしたことのない私でも作れそうなレシピを検索する。
何を作るか決まったら、材料や調理道具も一式買いに行かなくちゃ。
今度は通販なんかじゃなく、空とふたりで、空を見ながら。
父親のいない親子なんて、他の人には嗤われるかもしれないけれど。
でも、誰に何と言われようと私たちは幸せだと。
いつか胸を張って、そう言える日が来るように。