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不自由な僕ら


 今から百年以上前、ロンドンのビッグ・ベンから輸入されたという鐘の音を聴きながら、昇降口に出た俺の背に金切り声が降ってきた。


「──ちょっと、ケント! いい加減にしてよね!」


 と、振り向く前からどんな形相をしているのか容易に想像できる声色で、声の主は俺を()(なじ)る。……はあ、もううんざりだ。


 二〇七八年七月十五日金曜日、午後三時十七分。


 夏休みを目前に控えた週末の下校時刻。当然ながら第二新奥羽(しんおうう)学園の昇降口は家路に就く生徒で溢れ返っていて、あちこちから奇異の眼差しが集まるのを感じた。

 けれども俺は可能な限り平静を装いつつ、スニーカーの爪先でタイル貼りの床を叩く。もう一週間もこんな状態が続いているのだ。今更動じたりしない。


 ただ、いい加減鬱陶しいとか面倒くさいとか、そういうネガティヴな感情ばかりが頭の中で渦を巻いていて、それが余計に事態をややこしくしていることは自分でも分かっていた。


 何しろ俺を呼び止めた声の主──同じクラスの紫村(しむら)三菓(みか)は、俺の感情記録(ROM)データを拡張現実(AR)モニタで常時チェックしている。だから俺が日に日に紫村への苛立ちを募らせていることは当然ながら知っていて、どうして自分が責められなければならないのかと、余計にヒステリーを起こしているのだろう。


 ……正直、もうしばらくの間ROM(ロム)をロックしてしまいたい。


 もっとも、この事態を招いたそもそもの原因がそのROMロックなんだけど。


「ねえ! いつまでそうやって無視するつもり? いくら何でも陰湿じゃない!?」


 ため息をつきたいのを根性でこらえながらほどなく俺が校舎を出ると、すぐに紫村の声が追いかけてきた。人工太陽灯に照らされた校庭では、今日も野球部やサッカー部といった運動部の部員たちが練習に熱を上げている。夏休みに入ればどの部も都市間交流大会が開催され、好成績を残した部の部員には社会奉仕点(BENS)が加算されるわけだから、みんな熱心に部活に取り組むのも頷けるというものだ。


 ……やっぱり俺も何か部活に入ればよかったかな。


 なんて思わなくもない高二の夏。うちは両親共働きで──通貨という概念が二十年以上前に廃れた現代では不適当な表現かもしれないが──家計には余裕がある方だから、わざわざ学校なんか通わずに促成学習を受けるだけでもよかった。


 なのに敢えて学校に入ることを選んだのは、今の時代、通学は勤労に準ずる社会改善努力と見なされて、それだけでBENS(ベンス)がもらえるからだ。

 だったら大会やコンクールがある部活に入って、在学中にもっともっとBENSを稼いだ方が賢いやり方だったのかもしれない。まあ、俺は他に勉強したいことがあったから小中高の十年間、部活動を蹴って帰宅部に徹したわけだけど。


「ケント! ねえ、聞いてるの!?」


 ところがそんな校庭の熱気を眺めつつ、俺が何とか精神の均衡を保とうとしていると、ついに痺れを切らしたらしい紫村が後ろから腕を掴んできた。おかげでこれ以上腹を立てないようにと自身を(なだ)(すか)していた俺の努力は一瞬で崩壊する。


 いよいよこらえていたため息が零れた。


 ……俺のROMを見てるくせに、なんで分かんないかな、この女。


「……お前、いい加減しつけえよ、紫村。そうやって毎日毎日つきまとうのやめてくんない? 家に帰ったら帰ったでECHO(エコー)送りまくってくるしさ」

「しつこいって何!? ケントが私のこと無視するのが悪いんでしょ!? 学校で話しかけても無視するし、ECHO送ってもずっと未読だし! いつまでヘソ曲げてんの? 十七にもなって子どもみたいにさあ!」


 と怒りのあまり目を見開き、頬を上気させた紫村はどうやら本気でキレている。

 が、はっきり言ってキレたいのはこっちの方だ。

 制服の方がいちいち服装に悩まずに済んで楽だからと、今日も今日とて黒のブレザーを羽織って登校した俺は、袖の(しわ)になるのが嫌で紫村の手を振り払った。


 一方、毎日上下違う私服で登校している紫村は夏らしいワンピースに身を包んでいる。白とローズピンクのバイカラー。……言われてみれば紫村が今日、こんな目立つ色の服を着ていたことさえ俺は認識していなかった。

 こうやって絡まれるのが嫌で、極力視界に入れないように過ごしていたから。


 とは言え結局はその努力も、完全に無駄だったわけで。


 俺は露骨に舌打ちしつつ、ついに脳内極小端末(ホモノイア)へアクセスした。

 次いで人類統合ネットワーク(HINE)から紫村の脳内公開領域(ターミナル)へ接続し、ARコンタクトを通して言語化された紫村の感情記録(ROM)を閲覧する。

 途端に目に飛び込んできたのは、ARモニターの上を滑る恨み言の数々。


 ──なんでいつまでも許してくれないの。

 ──こんなにごめんって思ってるのに。

 ──私が悪かったって思ってるの、知ってるくせに。

 ──なのに延々無視して嫌がらせとかありえない。

 ──男のくせに性格悪すぎ!


 そうして次々と画面を流れていく悪態を目にした途端、俺はキレる気力も失くしてげんなりしてしまった。脳内でも散々な言われようだが、一応、俺と紫村は半年ほど前から付き合っている。


 去年の九月に新学期が始まってほどなく、紫村が俺に好意を寄せていることがROMからクラス中に広まって、流れで交際を始めたのがきっかけだった。

 だけどただのクラスメイトに過ぎなかった関係を、彼氏彼女という関係へ安易にアップグレードしてしまったのがそもそもこじれた原因だ。


 二年で同じクラスになるまで俺と紫村はほとんど接点がなく、ゆえに付き合い始めるまで知る由もなかったのだが、こいつはいわゆる独占欲の塊で、俺が他の女子と喋っただけでROMが大荒れするような女だった。


 ──山夲(やまもと)ケントは私の彼氏なんだけど。

 ──知っててなれなれしく話しかけてるわけ?

 ──ケントも他の女子相手に何デレデレしてんの、気持ち悪い!


 当然ながらそんな紫村のROMに気づいた女子たちは次第に俺にも紫村にも近づかなくなり。状況を問題視した担任は紫村を呼び出し、個人は誰の所有物でもないのだからこれ以上クラスの雰囲気を悪くしないようにと(さと)したらしいのだが、当人は聞く耳を持たなかった。


 というか、どうして自分だけが悪者にされなければならないのかとより被害者意識を深めてしまい、クラスの女子全員を敵と見なしたかのようなROMを日夜垂れ流した。で、極めつけが一週間前のあの事件だ。


「ケント、最近学校から帰るとしょっちゅうROMにロックかけてるよね。土日もほとんどロックしてるよね。なんで? 私に見られたら困ることでもあるの? もしかして浮気? 隠れて女に会ってるんじゃないの? ロック中にECHO送っても無視するし! 絶対何か隠してるでしょ、ねえ!」


 と、すさまじい剣幕で詰め寄られたのが半月ほど前のこと。


 俺は最近仮想現実空間(アタナトスポリス)でリリースされた新作対戦ゲームにハマッていて、友人たちとローカル対戦する間は思考を読まれないようROMにロックをかけていた。


 当然ながらそれは俺に限った話ではなく、対戦に参加するすべてのメンバーが取っている対策だ。アバターとプレイヤーネームによって個人の特定が不可能なグローバル対戦とは違い、見知ったメンバーのみで開催されるローカル対戦では、お互いがお互いの正体を知っているから簡単にROMをあされてしまう。でも、相手の思考が丸見えの状態で戦うゲームなんてもちろん楽しいわけがない。


 だから俺はゲーム中はROMロックをかけていること、一緒にプレイしている友人もみんなそうしていること、断じて浮気などではないことを懇切丁寧に説明したのだが、紫村は何を言っても信じなかった。


 結果、先週の日曜に友人とサーバーのロビーでワイワイやっていたところに紫村が乱入してきて、せっかくの楽しい時間を台なしにされたわけだ。

 おまけに紫村は、ゲーム内のアバターを着たまま一緒に説得に当たってくれたクラスの友人を「女子がアバターで偽装してるんじゃないの」とまで疑った。


 俺はこれにカチンときてしまって、いい加減にしろ、と怒鳴りつけたわけだ。

 以来一週間、俺と紫村はまともに口をきかなかった。紫村も最初は「疑われるようなことをしていたケントが悪い」というようなROMを垂れ流していたけれど、俺が紫村のROMすら見なくなると、今度は執拗なつきまといを開始した。


 (いわ)く、私が悪かったと認めてるのにどうして許してくれないの、というのが紫村の言い分だ。言い分というか、まあ、それもROMに流れてただけで、本人の口からはひと言もそんな言葉は出てないわけだけど。つまるところ紫村は俺が何を腹に据えかねているのか、未だに理解していないというわけだ。


 いや、そもそも理解する気がないのかもしれない。向こうだって俺のROMを見ているはずなのに、そこには一切言及してこないのだから。


 ──だったら、と、俺は本日何度目かのため息が漏れそうになるのをこらえて、数瞬眉間をぐっと押さえた。冷静にならないと、ここが学校の校門前だということも忘れて怒鳴り散らしてしまいそうだ。


 何よりあまりに感情が(たか)ぶれば、ノルアドレナリンの数値上昇を検知した脳内(ホモ)極小端末(ノイア)が危険信号を飛ばしてしまうかもしれない。

 そうなったらすぐさま市民安全管理機構(CSCO)管理員(アンドロイド)が駆けつけて、俺が補導されてしまう。こんなくだらないことで個人評定(PES)にマイナスがつくなんてごめんだ。


「あのさ、紫村。お前、俺と仲直りしたいなら、そうやって文句垂れるより先にやるべきことがあるんじゃないの?」

「はあ!? 先にやるべきことって何よ!?」

「こないだの日曜の件。俺、まだ一回も謝罪してもらってないんだけど。せっかく集まってくれた江藤(えとう)たちにもあんなに迷惑かけといてさ。なのになんで俺が一方的に悪いみたいな扱いなわけ?」

「そんなの私のROMを見れば分かるでしょ!? 江藤くんたちにも悪いことしたって、ずっとそう思ってるのに! いちいち口で言われなきゃ分かんないの!?」

「……あっそう。つまり俺はお前にとって、直接言葉で謝罪する価値もない人間ってことだな。俺がこの一週間、お前のターミナルにほとんどアクセスしてないことなんて履歴を見れば一目瞭然なのに、だったら口で謝って話し合わなきゃって思考にもならないんだな」

「な……何それ、私が話しかけても全部無視したのはケントでしょ!? だいたいケントが直接ターミナルを覗かなくたって、私が何を考えてるかなんて、江藤くんたちからいくらでも又聞きできるじゃん!」

「なんで俺とお前の問題に江藤たちを巻き込まなきゃなんないわけ? ただでさえ日曜の件で散々嫌な思いさせたのにさ。そもそも俺だって、お前が面と向かってひと言〝ごめん〟って言ってくれたら、無視しないでちゃんと話を聞くつもりだったよ。でも俺がそう思ってるって分かってて敢えてそうしなかったってことは、お前は俺個人じゃなくて、()()()()()()()()()()()()()()()が大事なんだろ。でも悪いけど俺、人の気持ちを()(にじ)ってまで自分のプライドを優先するような女とは付き合えないから。つーわけで別れよ。──じゃあな」


 俺は可能な限り抑揚を殺した声でそう告げると、あとはひらりと右手を振って校門を出た。ひょっとすると紫村は逆上して食い下がってくるかもと思ったけれど、俺が全自動歩行者道路(スロープ)に乗っても追いかけてくる足音は聞こえなかったから、どうやら諦めてくれたらしい。


 俺はようやく、胸の中のムカムカが少しだけ治まるのを感じながら、中央竪穴(チューブ)へ向かうスロープの上で「ウォッチ、オン」と左手首に呼びかけた。

 するとホモノイアからの信号を受信した腕時計型携帯電話(スマートウォッチ)が、手首の直上に小さなホログラムモニターを投影する。


 俺が八歳の頃から通っている第二新奥羽学園から居住エリアにある自宅までは、スロープとチューブエレベーターを経由しても三十分弱だ。

 空中滑走客車(エアバス)に乗るほどの距離ではないが、スロープの上に突っ立っているだけとなるといささか手持ち無沙汰な待機時間。


 そこで音声の出力先をワイヤレスイヤホンに設定し、動画共有サービス(BRIZONE)アプリを開いてお気に入りのミックスリストを再生した。さっきまでの最低な気分を忘れるために、頭の中で好きなバンドのロックナンバーを掻き鳴らす。


 ふと目をやれば通り道のリニア駅の壁面に、今日も今日とてこの海上浮遊都市『阿万(アマ)テラスフロート』を開発した阿万ク()リエイト()コーポレ()ーション()の空中広告がでかでかと投影されていた。耳もとで掻き鳴らされるギターソロのおかげで音声は聞こえないものの、またCMが変わったらしい。


 そう言えば何日か前のニュースで、政府とアマコーが日本で十二例目となる新都市開発計画に合意したとか言ってたっけ。どうりで羽振りがいいはずだ。


 地球温暖化による海面上昇の影響で、沿岸部の水没問題が深刻化している昨今、日本でも海上都市の建設は急務となっていた。全部で六つのタワー型都市が連結している阿万テラスフロートも、完成からわずか一年で最大収容人口に達してしまって、今は本土からの移住希望者を受け入れていない。


 都市の最下層、つまりタワーの土台となっている人工大地(フロート)には自然いっぱいの公園やビーチの他、動物園や水族館、遊園地などの観光名所が揃っているから、本土との旅行客の行き来は絶えていないけれど。


 生まれてこの方、阿万テラスこと新奥羽市(しんおううし)の外へ出たことのない俺は正直、旅行なんて仮想現実(VR)ツアーだけで満足で、わざわざ高いBENSを払ってまで本土へ行ってみたいと思ったことは一度もなかった。


 でも、たぶんこれは海上都市の恩恵を受け、地震や台風といった天災に晒される不安もなく暮らしてきた俺だから言えることであって。今も本土で災害や水没の危機に怯えながら暮らす多くの日本人は、旅行と称して海上の人工大地を直に踏み締めることで、より気持ちを強めるのだろう──いつかは自分もこんな都市で暮らせるように、もっともっと社会奉仕(BENS)を積んで、きっと移住権を獲得してみせる、と。


「……ほんとよく出来た世の中だよな」


 と誰にともなく吐き出された俺のぼやきは、遥か頭上を走る空中滑走車(エアカー)の走行音に掻き消された。人類統合ネットワーク(HINE)なんて、三十八年前に現れたという異星人はずいぶん面倒な置き土産を残していってくれたもんだと思うこともあるけれど。


 おかげで地球社会のシステムが根底から覆され、より金を持っている人間ではなくより徳を積んだ人間こそが高次の安全と豊かさを手に入れられる世界になったこともまた事実。だから一概に紫村とのいざこざの責任を見知らぬ異星人に押しつけることもできない。すべての人類の脳内を監視するHINE(ハイネ)のおかげで世の中から戦争が消え、犯罪も減り、今の俺たちの平和な暮らしが約束されているのだから。


「……ただいま」

「おかえりなさい、ケント」


 ほどなくチューブエレベーターに乗り、タワー上層区にある自宅へ帰り着いた俺を真っ先に迎えてくれたのは、家事代行専用機人(ホームアンドロイド)のイライザだった。ダークブロンドの髪と青い瞳を持つイライザは見るからに欧米人然としていて、アジア人風のアンドロイドを置く家庭が多いこのあたりでは、うちはちょっと浮いている。


 でも、まあ、そもそもイライザは日本製ではなく、アメリカ製のアンドロイドなのだから仕方がない。今日も今日とて毛髪をキリリと団子結び(シニヨン)にしたイライザは、リビングの観葉植物に水やりしていた手を止めると、アンドロイドの証であるLEDチョーカーを青く光らせながら言った。


「グレリンの数値がやや高いですね。空腹ですか? もしそうなら、食事か間食を用意します」

「あー、いいよ。あと二時間もすれば夕飯だし。父さんと母さんは?」

花菜(はな)様はまだお仕事から戻っておられませんが、ジョージ様は書斎にいらっしゃいますよ」

「ふーん。じゃ、俺も部屋にいるから。メシの時間になったら呼んでくれる?」

(かしこ)まりました」


 HINEを通して七千もの言語を自在に操るイライザは、流暢(りゅうちょう)な日本語で答えると優しげに微笑んだ。

 異星人の来訪以来、地球のアンドロイド技術は格段に進歩して、頸部(けいぶ)に埋め込まれたLEDチョーカーがなければ今や人間との見分けがつかない。

 表情も会話の受け答えも、まるで人間そのものだ。もっとも同じHINEに接続されていながらアンドロイドは感情記録(ROM)を持たないから、()()()()()()()()という点において、やはり人間とは隔絶された存在なのだけど。


「ケント。入ってもいいかい?」


 そうして時刻が午後四時を回った頃。


 自室でベッドに寝転がり、拡大したスマートウォッチのホロモニターで動画を眺めていた俺は、部屋の外から聞こえたノックにふと顔を上げた。いいよ、と起き上がりつつ返事をすれば、自動扉が素早く開いて声の主を迎え入れる。


 ジョージ・ブラッドベリ。三十九歳、アメリカ人。でもって俺の父親だ。さっきイライザが書斎にいると言っていたから、てっきり仕事中かと思ってたんだけど。


 父さんは空中を操作してモニターを閉じた俺を見るや、お気に入りのフレームレス眼鏡──と言っても、いかにも知的で理性的な心理カウンセラーっぽく見えるからという理由でかけているものであって、まったく度は入っていない──の向こうで微笑んだ。


「おかえり。今日は仮想現実空間(ポリス)に行かないのか?」

「いや、あとで行こうと思ってたけど。父さんこそ仕事終わったの?」

「ああ、さっき今日の最終面談が終わったところ。ただ、うちにもカウンセリングが必要な人物がいるような気がしてね」

「どういうこと?」

「ここしばらくお前のストレスホルモンの数値が高いって、イライザが報告してきたからさ。学校で何かあったのかと思って」

「……母さんから聞いてないの?」

「花菜が話すわけないだろ。僕が家族のROMは覗かない主義なのは花菜だって知ってるんだから。たとえそれが間接的な手段であってもね」

「あー……まあ、そっか。でも別に大したことじゃないから。今日、半分くらいは解決したし。……たぶん」

「たぶん?」

「あとは相手次第ってこと。……ほら、前に話しただろ。紫村三菓っていうクラスメイトのこと」

「ああ、ケントの彼女か」

「もう彼女じゃない」

「あれ、そうなの?」

「別れた。今日」

「What!?」


 ベッドの上にあぐらをかき、そっぽを向いてそう答えれば、父さんは目を丸くして母国語を口にした。というか、父さんは俺が生まれたときからずっと英語で喋ってるんだけど、脳内極小端末(ホモノイア)が瞬時に通訳してくれるから、俺には日本語を話しているようにしか聞こえない。


 ただ、今みたいな感嘆詞や簡単な定型句は、ホモノイアもわざわざ翻訳しないみたいだ。おかげで俺も時々父さんの口癖が伝染(うつ)って、とっさに「Yuck!」とか「No way!」とか言ってしまうことがある。学校でこれをやらかすと地味に恥ずかしいから、なるべく意識して使わないようにはしてるんだけど。


Oh my gosh(なんてこった)。せっかく我が子が生まれて初めて巡り会ったガールフレンドだったってのに……お前たち、付き合ってまだ半年だろう? 喧嘩でもしたのか?」

「喧嘩っていうか、まあ……あいつ、やっぱりちょっとおかしくてさ。前に言ったじゃん。俺が他の女子と話すだけでブチギレて、クラスで問題になったって」

「あー、うん。お前が思い詰めて、面談してあげてほしいって頼んできたアレか」

「そ。それが最近悪化してさ。関係ない友達にまでめちゃくちゃ迷惑かけちゃって……で、いい加減俺も頭に来たから、今日、別れようって言ってきた。向こうが納得したかどうかは分かんないけど」


 壁一面が太平洋を見渡せる窓になっているオーシャンビューの室内で、俺の勉強机に腰かけた父さんはちょっと困ったような心配したような、微妙な顔色をしていた。で、具体的に何があったのかと説明を求められたので、俺は渋々紫村と別れる原因になった事件の一部始終を話し出す。


 今や人類の労働の七割をAIが担う世界で、数少ない〝AIにはできない仕事〟のひとつ──心理カウンセラーを生業(なりわい)とする父さんは、アタナトスポリスに個人の心理相談所(カウンセリングルーム)を構え、自宅にいながらたくさんの来談者(クライアント)を抱えていた。


 モットーは〝対話による理解と支援〟。つまりHINEによる分析や判定に依存せず、来談者と直接会話することで援助の方向性を固めていくというやり方だ。

 だから母さんや息子の俺にも、何かあればきちんと〝言葉〟で説明するよう要求してくる。父さんが家族のROMは一切覗かないのもそのためだ。


 もちろん、仕事中は対話が困難な来談者のためにROMを利用することもあるんだろうけど、そんなものに頼らなくても、父さんは表情や目線の動き、ちょっとした仕草や声のトーンで、相手の心の中をおおよそ把握してしまうのだった。


()()には、AIには到底理解できないし表現できない来談者の本音が隠れているからね。それを統計(データ)と照らし合わせて診断(カテゴライズ)するのがAIの仕事なら、経験と直感を活かして寄り添ってあげるのが人間(ぼく)の仕事なんだ」


 というのが父さんの口癖だ。


 つまり父さんは、AIが機械的に言語化した感情記録(ROM)には決して上がってこない、人間の心の奥底を読んでいる。いわゆる潜在意識とか深層心理とか呼ばれる、来談者本人ですら気づかない思考の癖や傾向、感情の源に当たるもの。


 誰もがROMを基準に人を判断したり値踏みしたりするのが当たり前になった世の中で、今もHINEを通さず人を見つめ、そういったものをひとつひとつ(すく)()げようとする父さんを、俺は内心尊敬していた。


 もちろん照れ臭いから、言葉にして伝えたことはないけれど。でもたぶん父さんは、ROMなんか覗かなくったってとっくに気づいてるんだろうな。


 そういうのって、なんかいいなって思う。

 言葉にしなくても、ROMを見なくても伝わる気持ち。

 AIがどれだけ発展しても、未来永劫、人と人のあいだでしか成立しないもの。


 だけど紫村がそうだったように、便利になりすぎた世の中では、他人をそこまで理解しようとする人間は少ない。わざわざそんな苦労をしなくったってとりあえずROMさえ眺めていれば、相手のことをすべて分かったつもりになれるんだから。


「なるほどな。つまりケントは三菓ちゃんに〝どうして自分が謝ってほしいと思っているのか〟というところまで考えて理解してほしかったわけだ」


 と、ほどなく俺が紫村との顛末(てんまつ)を話し終えると、父さんはまるで精神潜行治療(サイコダイブ)でもしてきたみたいに俺の気持ちを言い当てた。俺はあくまで紫村との間に起きた()()()しか話さなかったってのに、我が父ながら恐ろしい。

 そう思ったのがまた顔に出ていたのか、父さんは悪戯(いたずら)に成功した子どもみたいに笑うと、立ち上がって今度は俺の傍らに──つまりベッドの端に腰かけて続けた。


「まあ、確かにお前の気持ちは分かるよ。今の若い子たちは特に、ROMに上がってくる情報が相手のすべてだと思い込む傾向が強いからな。人の心の奥深くにある意識はHINEの目には映らず、だからこそROMにも上がってこない。それを理解するために……というか忘れないために人類は〝学校〟というシステムを未だに採用しているわけだが、今となっては親の世代でもその本来の意義を分かっていないことが多い。子どもの教育を機械による促成学習で済ませず、わざわざ学校に通わせるのは、少しでも社会奉仕点(BENS)を稼ぐため……ってな」

「だけど俺たちが学校に通うのって、コミュニケーションの方法や大切さを学ぶためだろ? で、人を思いやる心とか協調性とか、自分で考える能力を身につけることが社会の改善につながるから、通学するだけでBENSがもらえるって」

「ああ。今の子たちは勉強なんかしなくたって、分からないことはHINEに()けば何でも答えてもらえる。だから学校は学問を教えることをやめ、体験学習やボランティア、集団活動に重きを置いて、子どもたちのコミュニケーション能力や思考力の向上を促す機関になった。なのに時代錯誤の大人たちは〝今の子はテストや受験の苦労も知らずにBENSがもらえていいわね〟なんて言うだろ? 人類がよりよい未来を生きるために大切なのは、そんな表面的なことじゃないのに……あまりにも薄っぺらくて浅ましい。そういう人たちには僕も常々腹を立てているからね」


 そう話す父さんの横顔は珍しく真剣で、俺は思わず見入ってしまった。

 家ではいつもにこにこしていて、仕事の愚痴ひとつ言わない父さんが、こんな風に他人を非難するなんて珍しい。

 つまり父さんは、HINEの与えるぬるま湯に浸かり切って、物事の本質や未来に目を向けることを忘れてしまった人々に本気で怒っているということだ。


 でも、次に俺を振り向いたとき。


 父さんはいつもの穏やかな顔に戻って、諭すように優しく言った。


「だけどね、ケント。だからこそ僕らには〝言葉〟が必要なんだ。たとえば今ここに、僕にしか見えていない物体があるとして……その物体がどんなものかを相手に伝えようと思ったら、言葉を使って説明するしかないだろう?」

「まあ、うん……赤くて丸いとか、硬くてトゲトゲしてるとか?」

「そう。自分の気持ちを相手に伝えるという行為もそれと同じだよ。相手には見えていないものを理解してほしいなら、やっぱり言葉で伝えなくちゃ。今の三菓ちゃんには、そもそも〝ROMには表示されない人の気持ちがある〟ということが見えていないんだよ。だったらまずはそこから教えてあげなきゃいけないんじゃないかな? ケントもいつか、僕みたいな凄腕カウンセラーになりたいならね」


 ──ああ、なんだ。やっぱりバレてたか。


 うまく話をまとめるや否や、何もかもお見通しって顔でウインクしてみせた父さんに、俺は苦笑という名の白旗を上げた。


 俺も将来はカウンセラーになりたい、なんて、一度も伝えたことはないのに。


 ほんと、父さんには敵わないよ。自分で凄腕とか言うなよってつっこんでやりたいけど、実際、めちゃくちゃ憧れちゃってるしな、俺。


「……確かに、そうかも。ぶっちゃけ紫村とはもう関わり合いになりたくないって思ってたけど……カウンセラー志望なら、投げ出さないでちゃんと向き合わなきゃだよな。もうすぐクラス替えとは言え、三年でも一緒になるかもだし……」

「そうそう。三菓ちゃんはケントの記念すべきクライアント第一号だと思って、もう一度話し合ってごらんよ。真摯(しんし)に誠実に向き合って、それでもダメなら諦めるしかないかもしれないけれど、案外ケントにもこれまで見えてなかった三菓ちゃんの本当の姿が見えて、惚れ直すかもしれないよ?」

「うーん……ていうかそもそも俺、紫村に惚れてたのかなあ……」

Oh(えっ)……ま、まずそこから見えてなかったのか……」


 なんて、父さんが珍しく意表を衝かれたような顔をするものだから、俺はちょっと噴き出した。まあ、その場のノリで何となく付き合ってみただけなんて、よくよく考えれば動機不純にもほどがある話で、笑いごとじゃあないんだけど。

 でも、父さんのおかげで俺にもひとつ、新しく見えたことがある。

 袖振り合うも多生の縁ってやつだ。俺と紫村がこんな形で出会ったのにもきっと何か意味があると思って、逃げずにぶつかってみなくちゃな。


「まあ、うん……とりあえずメシ食ったら、紫村にECHOしてみるよ。直接会話するより、まずは文字でやりとりした方が、色々考えながら話をまとめられる気がするし……」

「そうだな。それがいい。ただし文字だけだと、見え方や感じ方が相手によって変わってくるものだから、そこもちゃんと配慮して話を聞いてやるんだぞ」

「分かってるよ。〝ROMを見れば分かるだろ〟なんて甘ったれたこと言ってちゃダメってことだろ?」

「Yes。ROM(そんなもの)は最初から存在しないと思って(のぞ)むことが、よりよい対話への近道だよ。HINEが生まれる前はみんなそうして相手の心に触れようとしていたんだから、より進歩した未来を生きる今の人類(ぼくたち)に、同じことができないわけがない」

「うん……じゃなきゃ進化じゃなくて退化してるってことになっちゃうもんな」

「そう。〝便利さ〟は人間がより多くの自由を手に入れるために追求されるものであり、怠惰で愚かで不自由になるために与えられるものじゃない。ケントはちゃんとそれが分かってるみたいだから、大丈夫だよ。もっと自信を持って。OK?」


 そう言ってポンと背中を叩いてくれた父さんに頷いた。聞いた話によると、アメリカを始めとする欧米諸国は日本に比べて、ROMにロックをかけたまま生活している人の割合が多いらしい。自分の思考を他人と共有するかどうかなんてのは個人の自由で、誰かに強制されるものじゃないという考えが浸透しているからだ。


 だけど日本では、ROMを非公開にするのは他人に見せられないようなやましいことがあるからだと考える人が大多数で、ほとんどの国民がそんな同調圧力に屈している。父さんはそういう日本社会の息苦しさを少しでも解消してあげたくて、この国でカウンセラーを続けているのだと言っていた。


 だから、俺もいつかは、HINEという名の見えざる糸で雁字搦(がんじがら)めになってしまった人たちを少しでも助けられる仕事がしたい。


 それはAIには決して代行できない人間(おれたち)使命(しごと)で。


 俺にだって父さんと同じ、自由の国の血が流れているのだから。


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