その3
「もう泣くのはよして、ねえさん」葬式が済み、壊れた新郎が運び出された翌日のことだ。閉めた店を何個かの時計が訪れた。ハンカチーフを取り出したのはデジタル目覚まし、死んだ金属目覚ましの弟である。彼はなんとか娘の気を鎮めようと、優しい努力を続けていた。日時計と腕時計もいた。彼らはゼンマイを持っていなかったから、寡婦のもとを見舞うことに対して、何のてらいを疑われる心配もなかった。店の常連たちは娘を好いてはいたが、同時に死んだ目覚まし時計への複雑な感情が拭いきれない。時計たちはおしなべて律儀だったから、こういうとき、自らの本分をこえた出しゃばりはしないものなのだ。
娘は泣きはらしていた。当然である。状況はすべて、新婦の心を打ちのめすように作用していた。目覚まし時計は遺書をしたためていなかった。理由は不明である。娘に知らせることなど何もない、ただ死にゆく、それが目覚ましの望みだったということなのか。あるいは、死ぬことが目覚まし時計の本然で、いまさら何の説明も要しないということなのか。あるいは、その両方だった――のか。
目覚まし時計は部品取りのために、腹時計の爺に引き取られていた。ただし、二つの古風なベル――目覚ましの上についていた、あの――と、それを打つハンマーだけは、ほかの時計には使い道がなく、娘のもとに残された。女が男を裏切ったのか、あるいは男が女を裏切ったのか。寡婦が優しくベルを撫でるのを、三つの時計は複雑な心持ちで眺めるのであった。
うち沈んだ空気にあてられて、誰もがずっと無言だった。もっともこの三人組、僅かに音の出る腕時計以外、もともとチクタク喋り続けるのが得意な時計たちではなかった。と、きゅうに窓の日が陰って、日時計の影が床の中に溶けた。日時計ははっとして、大きな体をぶるりと震わせた。そして、言った。
「まったく辛気くさい。みんないかれてしまうぞな。腕時計、踊れ。デジタル時計、スロットマシンでもやってみろ。目覚ましの野郎はもうおらん。残ったものは残ったものでやっていくしかないのだよ、エヘン」
腕時計は頷くと、金属のバンドをくねらせて、奇妙なダンスを踊りはじめた。静かな部屋に、ちゃらちゃらというリズミカルな音が響きはじめた。日時計は鈍重な足もとを床から上げて、尖った先端を剣のように振り回して踊った。見るからに危なっかしいが、止めるものは誰もない。まるで馬鹿のような振る舞いだったが、娘の気を紛らすために、彼らにできるのはその程度だった。
ひとりデジタル目覚ましだけが、娘に直接話しかけ、彼女の絶望を共有することで、それを直接和らげようとしていた。すでにふたりは身内だったが、あるいは、兄に似た弟は、たんなる義弟として以上の――よそう、デジタル目覚ましの誠意をくさすのはこの物語の目的ではない。ともかく、これだけはいえる。デジタル目覚ましの優しさは、寡婦の危機的な精神状態を僅かなりとも和らげることに成功した。泣き疲れた人間の娘は、いつもどおりパジャマのままで、テーブルに突っ伏して眠りに落ちていったのだ。打ちのめされた体は完全には弛緩しなかったが、ともかく、極限まで追いつめられている人間は、このような開けた姿で眠りにつけるものではない。
デジタル目覚ましはそれを見届けると、なお床を鳴らして踊り続ける日時計と腕時計に、静かにするよう小声で命じた。
「二人とも、どたばたするのはやめてくれ。せっかくねえさんが眠ったんだから。でも、これでひとまず安心だ。少なくとも、あすの朝まではね。日時計さん、毛布を持ってきてくれないか。風邪を引かせちゃいけないから。僕にはちょっと重たいんだ。腕時計さん、どんな食べ物があるか見てきてくれ。明日の朝食は、ぼくらで用意しようじゃないか。ぼくらに作れるかわからないけど」
娘の肩に毛布を掛け、蜂蜜とパンが台所にあるのを確認すると、時計たちは明かりを消して、居間の適当なところに収まった。「おやすみ」
翌朝、もっとも早くに目を覚ましたのは日時計だった。彼は夜明けとともに活動を開始した。日頃傲岸な警察官である日時計も、眠る仲間を無理に起こして付き合わせるような無法はしない。彼は台所で湯を沸かし始めた。次に目を覚ましたのは腕時計だった。彼は戸棚から紅茶の缶を探し出し、なんとか蓋をこじ開けると、ポットに茶葉を流し込んだ。最後に起きたのはデジタル目覚ましだった。しかし彼は台所のほうには参加せず、娘の前のテーブルに鎮座して、表示パネルの数字をゆっくりと、確実に、カウントアップさせていった。デジタル目覚ましの役割は、適切な時刻に娘を起こすことだったからである。
やがて、紅茶の香りが台所から漂い始めた。日時計がポットとパン、そして腕時計を載せた盆を運んできた。6時59分だった。彼らは『7時に』娘を起こすと予定していたのだった。彼らは時計たちであったから、予定時間を過とうはずがなかった。日時計が盆をテーブルに置き、腕時計がぴょいとテーブルクロスに飛びのった。デジタル目覚ましは、予定の時刻が近づいてくるのを感じていた。そう、7時に、目覚ましの電子音が鳴るのだ。娘はどんな顔で目を覚ますだろう。暖かい食事が用意されているのを見て、少しは笑ってくれるだろうか。三つの時計は、その時がくるのを計測しながら、待った。
6時59分50秒、51秒、
(おはよう、朝ですよ、ねえさん――)
デジタル目覚ましは、すでに頭の中で第一声を決めている。
56秒、57秒、58秒――、
そのとき、娘が目を瞑ったまま、がばりと上体を起こした。三人は驚愕した。パジャマの腕が乱暴に伸びて、舞い降りる鷲のような正確さで、デジタル時計の天辺にあるスイッチ――目覚ましオフのスイッチ――を殴りつけた。ぱちん。すべては一瞬のうちに起こった。何が起こったか時計たちが理解するよりも早く、腕はぱたりと卓上に落ちて、娘は肘を伸ばしただらしない恰好のまま、まるで何ごともなかったように、また、机の上に突っ伏した。大きく息を吸い込む音が響いて、それを吐き、今度は中くらいの勢いで長い深呼吸をおこなうと、娘はそのまま深いまどろみに落ちていった。
7時0分4秒。デジタル時計の電子音は、鳴らなかった。
目覚まし時計と娘がなぜ惹かれあったか、娘の時計とはなんだったのか、もうおわかりであろう。目覚まし時計は起こすべき人を必要としていた。娘は目覚まし時計がなければ、時計としての本領を発揮できなかった。ふたりが結ばれたのは必然であった。そして不幸なことに、お互いを求め合うことによって、ふたりは別な必然をたぐり寄せてしまったのだ。娘の存在は、目覚まし時計の目覚ましたる機能を、殺してしまうことによって意義を得たのである。
物語はここで終わる。ただ、ひとつだけ付言しておこう。ふたりの弟であったデジタル目覚ましは、兄が生きてゆけなくなった理由を、ついに義姉には説明しなかった。イデアの空に見下ろされたこの島では、それは避け得ない結果だったからだ。そして繰り返しになるが、夫たる目覚まし時計も、妻に遺書を残していなかった。彼女の心を守るために。どこにも罪はないのだ。だれにも罪はないのだから。
あなたの家には目覚まし時計があるだろうか。あなたの心にはこの娘が住んでいるだろうか。もし両方ともイエスなら、たまに、たまにでいいから、あなたの目覚まし時計を労ってやってほしい。まどろみを揺するあの音は、時としてあなたの心をかき乱すだろう。だが、あの音はあなたのために鳴るのだから。あの音がなければ、あなたは決して安心して床に着くことはできないのだから。たとえ毎朝あなたに拒まれようとも、目覚まし時計は律儀に、明日も、また――鳴ろうとするだろう。あなたが彼を壊してしまうまで。
(了)
ありがとうございました。ちょっと変わったお話でした。