表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

その1

 新婦は絶望にうちひしがれていた。あまりにも早すぎる新郎の自殺、一夜にして寡婦となった若い娘。ああ、世界はすべからく無情とはいえ、こんなことがあっていいものだろうか?

 新郎が自ら命を絶った理由について、周囲の者にはようとして知れなかった。新妻との不和? だとしたら、なぜ新婦はあんなにも泣きはらしているのか。お互いの気持ちの行き違い? だとしたら、もう少し様子を見てもよさそうなものだ。しかし夫婦を知るもので、新婦の涙の理由を疑うものなどいなかった。この喪服――黒いパジャマ――を着た娘は、まさしく最愛のひとを失った悲しみのどん底にあるのだ。だったら、なぜ? なぜ夫は自ら命を絶ったのか?


 自殺した夫は目覚まし時計であった。丸い文字盤のうえにふたつのベルを乗せたその体は、愛嬌ある寝室の友として、また安眠と起床の番人として、世界中で根強い人気を保っていた。これはつまり、この奇妙な町での彼の立場が強いことと同義であった。形而の海に浮かぶこの小さな有人島は、ふたつ名に時計の島とも呼ばれるとおり、ほとんどの住人が時計で占められていたのである。その希有な例外は、ながらく一羽の鶏と一人の老人だけであった。

 目覚まし時計は愛用のステッキで石畳を突きながら、毎日決まった時間に決まった経路を散歩してまわった。時間に正確なことはこの町の住人すべてに共通した美徳で、これを具えない者はこの町に住む資格がないといってよかった。比喩ではない。時を刻むに正確なことは、彼ら全員が共通して奉じるただ一つのアイデンティティなのだ。

 さて、時計が散歩するというと奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、イデアの空には遠く届かぬこの島では、呼吸する空気の濃さのためか、注ぐ日差しの薄さのためか、物質界の表象たちといえども、相当に気楽な暮らしが許されていたらしいのだ。厳しく運用されるルールはさきにあげた一つのみ、それ以外は自由気ままだ。目覚まし時計にとって昼間は完全なオフだったから、もてあました時間をどのように使うかは、彼にとって悩ましい問題だった。ともかく、目覚まし時計は散歩したのである。


 散歩路は港を経由していた。港には定期的に船が入った。船乗りは計量スプーンや物差しといった度量衡の子孫たちで、時計島の住人にとっては従兄弟のようなもの、仕事の正確さに関しては彼らにもまさる優秀な海の男たちであった。なにしろ時計たちは道端で顔を合わせるたびに相手の時刻を確認し、ずれているようなら物かげでこっそり較正するというようなズルをやっていたが、計測機器たちは概して強力な自己を保持しており、定期検査の合間に大きな誤差を抱え込むようなことは、ほとんどまったくといっていいほどなかった。これは彼らのすぐれた資質であった。

 だから船乗りたちがひとりの人間の娘を桟橋に降ろしたとき、誰もがなにかの間違いだろうと考えた。彼女はどこからどう見ても時計の仲間ではなかったからである。

 娘は質素なパジャマを着ていた。子供というほど幼くはないが、大人というほど独り立ちしているようにも見えなかった。持ち物といえば、小脇に抱えた枕だけ。目覚まし時計が通りかかったとき、娘は石畳の上で時おり裸足を踏み換えながら、眠たそうな目であたりを見まわしていた。


 こんなところで何を? 目覚まし時計は尋ねた。娘ははじめ、呼びかけられたのが自分だということに気づかず、ぼうっとあたりを見まわすだけだったのだが、目覚まし時計がちりんとベルを鳴らすに及んで、ようやく自分の注意を引こうとしている者がいることに気がついた。

 わたし? に何かご用? 娘は答えた。目覚まし時計は困惑した。別にご用はないのである。ただこの奇妙な客人に、ふとした興味を覚えただけだ。そんなとき不意に話しかけることをためらわないほど、時計の島は変化に乏しい土地であった。目覚まし時計は赤面した。

 いや、あの、妙だなと思って。妙? ここは時計の島で、人間が来ることは滅多にないんだ。そうなの。旅行ですか? いいえ。尋ね人でも? 違います。じゃ、なぜここに。さあ――。

 そこに警官が通りかかった。警官は日時計で、時計たちの長老格であった。彼が警官を拝命したのには理由がある。つまり、彼が厳格なること他の追随を許さぬ極端なモラリストだったからである。他の時計たちはゼンマイ切れやムーブメントの故障で時を見失うことがあったが、彼は決してそのような失態を犯さなかった。誤差知らず。それが彼の誇らしい渾名だった。彼の得意は、普段自分の正確さを自慢している他の時計たち、特に原子時計のような若造が、数年に一度、『日時計に』合わせるために、一秒間心臓を止めることだった。だがむろんこの優越感は錯覚にすぎない。時刻が厳格に定義された現代においては、日時計はつねに系統的な誤差を含んでおり、お世辞にも正確な時計とは言いがたかった。それより彼が決して夜直を受け入れないことを皮肉って、住人たちは彼をして『ひる時計』、などと陰口を叩いていた。夜直はすべてもう一人の警官、ランプ時計が担当していたのだ。


 話を戻そう。

 通りがかった警官こと日時計は、問答する目覚まし時計と人間の娘に職業的な関心をよせた。どうしたんです? 日時計は尋ねた。気の置けない市民の友。笑って傾げた頭のうえで、鋭い指針が宙を円く引っ掻いている。

 やあどうも。こんにちは。何かお困りでも。いいえ。こちらは? ええ、どう説明したら。いったいまた。私はべつに。楽になさって。ははあ? ええと、待ってください。ちょっと。待ってください。困っているかと言われても。ああ、あなたが。え? 待ってください。どういう意味? 一体誰が喋ってるんです? 失ごめん礼なさい。

 ホンカンは! 本官がいう。お困りの方をお助けするのが勤めでありますから、その要するに、お嬢さんがお困りなのではないかと。はあ。靴も履いていらっしゃらない。まあ。一体どうされたんです、この男に何か。ちょちょちょっと待ってくださいよ。あらそんな。私はそう、あなたと同じで、このお嬢さんが困っているのではないかと。ふうむ。……。で、お困りではないんですか? 実は少し困ってます。どういうふうに? なんでここにいるのか、よくわからないんです。ほう。その質問は私がさっき。君は黙っていたまえ。……。いつここへ? 気がついたときにはもう。ここにくる前は? さあ。どちらへ行かれるご予定で? わかりません。日時計は肩をすくめた。

「妙な話ですね」怪訝そうにつぶやく目覚まし時計に、背の高い日時計は、阿呆を見るような視線をおろした。「そう妙というわけでもない、当面の行き先を知らない者はありふれているし、誰しも最初はどこでもないどこかからやって来るのだからね」警官の声はいかにも落ちついている。だが、頭上の針が値踏みするように小さな輪を描くのを娘は見逃さなかった。次の声は娘に向けられたものだ。

「事情はわかった。ただ、ここは時計しか住めない町でね。き み が 何 者 か、ここに定住することを希望するのか、立ち去ることを望むのか、色々はっきりさせねばならないことがある。署まで来てくれるかね。ここじゃ足も冷たかろうし」

 娘ははいと答えた。

「それじゃ目覚まし時計くん悪いが――」日時計は目覚まし時計を見下ろしながらいう。「役場に行って、住民課のハト時計に署まで来るように伝えてきてくれないか」「お安いご用です」

 日時計は娘を導きながら、警察署に向かって街路を渡りはじめた。一方目覚まし時計は役場へ向かって歩きだしかけたが、はたと立ち止まって振り向いた。

「待って、お嬢さん」

 警官と娘も振り返った。

「?」

「これを使って。なるべく足に体重をかけないようにすれば楽でしょう。ここの街路は磨り減っているけど、デコボコがないわけじゃないからね」

 目覚まし時計は娘に歩み寄ると、持っていたステッキを差し出した。娘は一瞬ぽかんとしたが、すぐに微笑んでそれを受け取った。

「ありがとう。ときどき石が痛かったの」

 目覚まし時計はベルの端をつまんでお辞儀をすると、二人に背を向けて歩み去った。警官と娘も、何ごともなかったように歩き出す。朝の空気に、ぺたぺたという裸の足音が軽く響いた。

 ステッキは娘には短かった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ