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CoRD -Call of Real Desire-

落花 ~探偵有瀬言怜の依頼記録~

作者: 柚科葉槻

 ――それは大晦日のことだった。


「ごめんねー怜ちゃん、つき合わせちゃって」


 その日、ボクは知人の飯島八重子さん宅へ大掃除に来ていた。


「大丈夫ですよー。それに、ボクの方も有り難いですし」


 一応ボクは私立探偵をやっているが、まだ"名"も"迷"も付いていない。だからかボクの依頼には今回のような大掃除手伝いやペットの散歩といったものが多い。そしてこれが主な収入となっているのだから、謝られる必要はない。


「じゃあ、ボクはこれで失礼します。よいお年を」


 挨拶をして僕は玄関のドアを開けた。その瞬間。


 目が、合った。


「……はい?」


 人が、落ちていった。たぶん女性。歳はわからない。ただ白い服を着た塊が、落下した。


「そんなこと、ないよね?」


 驚いて固まったのは少しだけだ。ボクはマンションの廊下を突っ切り、背伸びして下を覗いた。


 下には何もない。ワンピース(しろ)髪の毛(くろ)(あか)も。


「どうしたんだい?」


「ん、ううん。何でもないです」


 ボクは改めて八重子さんに挨拶をした。


 年終わりに落下死体なんて見たくない。気のせいだったのだとボクは思うことにして、その日は帰路についた。ただ少し、夢見が悪かった。


***


「やーっと終わったーっ!」


 三箇日(さんがにち)も終わった一月四日の昼。新聞類を縛ったビニール紐の端を切ると、ボクは床に寝転がった。その拍子につけていた大ぶりのペンダントが跳ねる。

 そのペンダントを弄りながら、ボクは溜め息を吐いた。年末に「大掃除手伝い」と「買い出し」の依頼を詰め過ぎ、事務所兼自宅のそれは年を跨いでしまった。年越し蕎麦は近所の神社で、おせちとお雑煮は彼に食べさせてもらうことができたが、掃除だけはどうにもならない。それでいて「仕事始めは綺麗な職場で!」という信仰があったせいで、ボクは年明け早々ここの大掃除をした。


 ごろんと明るい日が差し込む方へ転がる。商店街通りに面した窓にはそれぞれ文字が張り付いている。「鏑木探偵事務所」。ボクが勤める探偵事務所の名前だ。住所は世田谷区四ッ鳴町の商店街にある(からたち)ビルの二階である。


 事務所兼自宅だと説明するから、だいたいボクの名前は「鏑木」かと言われる。実はボクが本物の「鏑木」探偵からこの事務所を譲り受けた世帯主だ、そう続け様に伝えないと勘違いが水紋のように広がっていって大変なことになる。その大変なことの大半が児童相談所に通報されること。ある界隈では高名な鏑木先生の元に依頼を持って来たら、年端もいかない娘が放置されている。そう噂が立ったことは一度や二度ではない。百五十センチに満たない身長と類いまれなる童顔のせいで実年齢より遥か下に見られることは多々あるのだが、決してボクは先生の娘ではないし、ましてや危ない趣味の被害者でもない。あと、一人称が「ボク」なのは恥ずかしい癖だと思ってもらえればそれでいい。


 昔、ある事件でお世話になり、その成り行きで居場所をもらったこと、そしてその過程で先生に師事し、探偵を職にしてしまったこと。これがボク、有瀬言(ありせごと)(れい)が鏑木探偵事務所にいる理由だった。探偵、といってもボクの元に来るのは年末のときのように「掃除」や「買い出し」の手伝いといった日々の雑用事。何でも屋と言った方が本質は射ているのかもしれない。


 つかの間の休息の後、ボクは雑誌を片付けるために起き上がった。ゴミ回収は明日から再開されるが、資源ゴミは水曜日だ。ゴミ捨て場はコンテナみたいなものじゃないから当日に出さないと悲惨なことになる。ただでさえ最近烏が多くなってきたのだから、その辺りは商店街組合の会長さんからきつーく言われている。


 取りあえずボクはゴミが玄関や応接セットから見えないように自室部分、事務所と薄い壁を隔てた向こう側にある部屋へと持っていった。入ってすぐに簡単なキッチンとダイニングセットがあり、その奥にベッドなどが置いてあるコンパクトな空間。身長が小さいお陰かボクにはちょうどいいが、先生からすると「牢屋を思い出す」のだという。どこの牢屋にいたのか、といった野暮なことは聞いていない。いつも忙しい先生へと尋ねるタイミングはなかなかないのだ。


 時計を見ると十四時を回っていた。昼食はおろか、数少ない食品の為に朝食も食べていない。さすがにこれ以上は生存活動に関わるし、彼に怒られる。ボクは冷蔵庫と棚から適当なものを見繕って、湯を沸かした鍋に放り込んだ。


 テレビを見ながら女子力が見られない食事を終える。画面の中では昨日の歴史的快挙と今朝雪山で保護されたスキーヤーたちの会見が繰り返し流れている。どうやら世間は平和なようだ。「明日も快晴でしょう」とお天気予報のお姉さんが言った。その通り、今日は穏やかな気候だ。暖房を入れなくても窓際はほどほどに暖かい。


 ……ぴーんぽーん。


 微睡みに落ちた瞬間、間抜けな音に起こされた。


「っは、はーい!」


 出かけたよだれを引っ込め、ボクは玄関へと向かった。自室へと至る扉と事務所を挟んで向かい側にあるスチール製のドア。そこの曇り硝子に映った人影が来客を告げていた。


「お待たせしました。鏑木探偵事務所です。ご用件は……?」


 玄関を開けると一人の女性がいた。化粧はしていないのか、もしくはかなり薄く、髪は片側で結んでいる。茶系のコートに飾り気のないスカートとブーツという目立たないが、しかしどこかおしゃれな感じの(ひと)だった。


「あの、ごよ――」

「お願いします! 梅を、妹を見つけてください!!」


 突然目の前の彼女は泣き崩れた。



 古ぼけたエアコンが息を吐く。ボクはキッチンで淹れたお茶とちょっとしたお菓子を彼女に出した。訪れたときよりは落ち着きを取り戻した彼女は、ゆっくりと手を温めるようにしながらそれを取った。

 もう大丈夫だろうと見切りをつけ、ボクは彼女への質問を再開した。


「えっと、まずお名前とか教えていただけますか? ボクは有瀬言怜、怜って呼んでもらって構いません」


 大抵、ボクに依頼を持ってきてくれるのはこの近所の人や学生時代の知り合いたちで、名前や職業などはある程度知っている。だが彼女には初めて会った。


「すみません私……美作(みまさか)、私は美作椿と言います。ここは、あなたのことは飯島さんからお聞きして」


 八重子さんと同じマンションに住んでいるという彼女、美作椿さんは鼻を啜りながらもぽつりぽつりと言葉を続けた。


「妹は梅といいます」


「私たちは一卵性の双子で、良く似ていると言われます」


「梅は大学を卒業しました。私は近所のケーキ屋さんに、梅は都内の会社に就職しました」


「梅には大学時代から付き合っている人がいましたし、その人との結婚も考えていました」


「ですが去年の夏、別れてしまったようです」


「仕事もあまり上手くいっていなかったようで、それから梅は……」


 ゆっくりと、三十分ほどをかけて椿さんはそこまで話した。ほかにも梅さんの写真や手帳などを見せてもらいながら色々話してもらったが、重要な事柄は以上のことだろう。写真に写っている梅さんは本当によく椿さんに似ていた。


 これらのことから察するに「私生活、仕事共に躓いた梅さんがそれを苦に失踪、行方を探して欲しい」そういった類いの依頼であろう。家出人や行方不明者の捜索は過去に何度か頼まれたことがあり、一応解決はできた。これならボクも手伝うことができる、そう思ったボクは椿さんに依頼承諾の意を伝えようとした。だが。


「大晦日の日、マンションの屋上で梅の靴が見つかりました」

「――――――えっ?」

「梅はマンションから飛び降りた、みたいなんです。その日私たちは年越しの準備をしていて、梅にはちょっとした買い物を頼んだんです。でもいつまで経っても帰ってこなくて。そしたらマンションの管理人さんから屋上に梅の靴があると」


 突然の告白にボクはしばし声を失った。

 マンションの屋上から飛び降りた? あのマンションは十四階ある。普通、飛び降りでもしたのなら死ぬ。なのに何故、ボクに梅さんを捜せと?


「えっと、どうして管理人は屋上にあった靴が梅さんのものだと?」


 結論が出ぬまま、ボクは他に気になったことを尋ねた。小学生の上履きみたいに名前が書いてあるのなら別だが、普通靴に自分の名前は記さない。そこに梅さんであるという証拠、例えば本人がいたということがなければ、それが彼女の物だとは思われない。ああ、もしかして彼女はいなかったのか。


「靴の側に買って来た物と梅の荷物が置いてあったんです。だけど、梅は見つかりませんでした」


 目の前をまた、白い塊が落下した気がした。彼女とは目が合った。そこには生気がまだ宿っていた。だが地面に彼女はいなかった。


「一つだけ聞いてもいいですか? 当日の彼女の服装は……」

「白のワンピースだったと思います。彼女は白が好きでした」


 そしてボクは死んだはずの女性を探すことになった。



***



 人を探すとき、人はまず何をやるだろうか。ボクの場合はネットを使う。SNSが発達した時代、地道に聞き込みをするよりはこちらで情報を探した方が対象者の足取りを辿り易かったりする。


 椿さんが事務所から帰った後、ボクは早速パソコンを開いた。ボクが短大生のときに鏑木先生からもらったノートパソコンだ。型が古くて最近は画面がよく固まるが、スマートフォンやインターネットの通信費を得る為には買い替えはできない。


「ほら! 早く動いて!」


 殴れば直るという信条のもと、ボクはこの相棒を大切に使っている。煙が出たり、立ち上がりにものすごい時間がかかるようになるまでは一緒にいる予定だ。


 ボクはそれから夜にかけて梅さんが使っていたSNSやサイトを見て回った。有り難いことに梅さんは残していった手帳に自分が使っていたサイトとそのパスワードを書いておいてくれた。主なところは呟きサイトやブログ、服のコーディネートを公開し交流する女子力の高いサイトなどで、数は少ない。失踪、もとい飛び降りの原因が恋人や仕事のことと考えると、見る範囲は去年の頃から。情報たちをゆっくりに見て回ることができる。


「……んー?」


 だがその結果出た答えはあまり芳しくない。画面上から読み取れるのは椿さんから聞いた話と同じことばかりで、新発見はない。梅さんは椿さんとよほど仲が良く、常に相談をしていたのだろう。


 苦し紛れにボクは大手掲示板サイトなどに入って、梅さんの目撃情報を探った。もしボクのほかに梅さんが飛び降りたところを見たり、飛び降りた後の以上な姿を見たりした人がいたりすれば少しは探し方の方向を見出せる。しかし残念かな。ボクの求めている情報は運良く転がってなかった。試しにオカルト系のサイトにも行ってみたが、この辺りだと初夏くらいに起きた女性の不審死のことくらいしか書かれてはいなかった。


 気付けば寝落ちていた。椿さんが来たときにつけたままだったエアコンがなければボクは凍死していたかもしれない。


 起きたのは朝の八時頃。学校へと向かう元気な子供たちの声で目が覚めた。変な格好で寝ていたせいか身体中は痛いし、また変な夢を見たせいか頭はぼうっとする。意識を覚醒する為に熱いお風呂に入って、ボクは昨日調べたことを反芻した。


 何も問題はない。家出する、特定の場所に行く、ましてや自殺する、それらを暗示する書き込みは一切なかった。むしろ年末になるにかけて新しい目標でもできたのか、明るい話題を振っていることの方が多いように見受けられた。


 お風呂を出るとまず、椿さんに昨日の調査状況をメールで報告した。そしてまたパソコンとにらめっこをする。どのサイトも大晦日かその前日を最後に更新はなく、ボクが寝ている間に書かれたような新しい情報はない。掲示板サイトもしかりだ。スマートフォンも使いながらそれらを短時間で見直し、ボクは次の作戦を考えた。


 昨日ちらりと警察庁や近隣県の身元不明遺体サイトを見たが、ヒットするような案件はなかった。これは梅さんが死んでいないからかもしれないし、ただ最近のこと過ぎて開示していないだけかもしれない。事実、サイトに載っていた一番新しい物は八月頃に死亡したと思われる男性だった。


「……行くしかないかなー、警察」


 仕事柄と先生の交友の広さ、あと彼のお陰で警察関係者に知り合いは多い。頼めば梅さんの目撃情報、もしくは遺体の有無を教えてくれるかもしれない。お偉い人やあまり快く思っていない人に見つかるのが嫌で積極的に行こうとは思っていなかったが、一人の命が関わっている以上情報は多く、正確な方がいい。


 利害を考え、ボクは出かける支度を始めた。ポストマンバッグに財布や身分証明書といった最低限度の荷物を放り込み、コートを持った。……外に出た途端、強風に煽られて転んだことは気にしないでもらいたい。



 警察へと出向いた結果、ここでも梅さんの消息はわからないままだった。数人の知り合いに聞いたが、彼女と一致する特徴を持った人物は見ても聞いてもいないという。そもそも年末年始にこの界隈で起こった事件は未成年の飲酒運転事故と高齢者が餅を詰まらせて病院に運ばれたのが数件、あとは神社の放火未遂があっただけだという。


 清々しいくらいの空振りに、ボクはため息さえつけない。そのまま警察署内にとどまることもできなく、ボクは鑑識のお姉さんにもらったコーンポタージュ缶を携え署の前にある公園へと向かった。


 昼過ぎの公園には昼食をしに来た会社員や遊びに来ている親子たちで賑わっていた。日当たりの良いベンチは彼らに、花壇の縁といった段差は野良猫とその愛好家に占領されていた。仕方なくボクは木の陰になっているベンチを目指した。


 今朝霜が降りたのか、木製のベンチは冷たく、そのまま座れば染みてしまいそうだった。お気に入りのハンカチを持ってきてしまったことを後悔しつつ、ボクはそれを敷いて座った。


 これからどうしようか、コーンポタージュ缶を飲みながらペンダントを触った。これをくれた彼は外出しているらしかった。彼が一番情報を融通してくれるからできれば会いたいが、仕事中の彼を邪魔してはいけない。


「まあ、いいか。次だ次」


 まだ梅さんの勤め先と元恋人のところなどには行ってない。椿さんが知らず知らずのうちに梅さんと喧嘩して、彼らの元に泊まらせてもらっているのかもしれない。


 椿さんに教えてもらった梅さんの勤め先と元恋人の真田和希についてのメモを取り出した。会社は新宿、真田さんは吉祥寺に住んでいるらしい。行く前にアポイントを取ろうとスマートフォンを出したとき、ボクに声がかかった。


「……怜?」

「!? あゆ……志熊さん! どうしてここに! 仕事は」


 驚いて顔を上げればそこに、会うことを望んでいた人物がいる。志熊(しぐま)(あゆむ)、そこの警察署に勤める刑事さんであり、ボクのか、彼氏である。


「ん、なんかいるような気がして。それに聞き込みも一段落ついた」


 志熊さんはボクの頭を撫でようと手を伸ばした。ボクはそれをさっと避けると、彼の後ろにいたもう一人の青年に挨拶をした。志熊さんとコンビを組んでいる丸山君だ。高校時代のボクの後輩で、明るい良い青年。つまり知り合いである。ボクは知り合いの前でいちゃつくほどの公害バカップルになりたくはない。ただでさえお正月の初詣に連れ出され、近所の人の注目の的になってしまったのだ。当分は警戒しておかなくてはいけない。


「怜センパイ、あけましておめでとうございますっす! いやー今日ほんと風強いっすよね? センパイ飛ばされたりしませんでしたー?」


 ボクの決心を悟り、かつ丸山君の空気を読まない絡みのお陰で、志熊さんはしぶしぶ上げた手を下ろした。そして一度咳払いをした。


「それで怜、どうかしたのか? ここはお前の行動範囲じゃないだろ? まさか、また変なのに巻き込まれて」

「変じゃないよ! ちゃんとした依頼。それで、ちょっと警察の人にお聞きしたいことがあってこっちに」


 警察署は普段ボクが動き回っている四ッ鳴町商店街から駅を挟んで反対側の商店街を越えた、その先にある。バスや車を使えば数分で辿り着く場所だが、歩きだと少し時間がかかってしまう。それに反対側の商店街にもボクと似たような職業の人がいるため、線路を越えて仕事をしに行くようなこともない。そのことを知っている志熊さんからしたら、ボクがここら辺をうろうろしていることはつまり、何か事件があってボクが警察の手を借りようとしていると簡単にわかってしまうのだ。


「なんっすか! 一体センパイは何が知りたくていとぐはっ……」

「何? 内容次第じゃあ教えられないがな」


 殴って丸山君を黙らせた志熊さんが聞いてきた。パワハラにならないのか一瞬心配したが、丸山君は丸山君で嬉しそうなので、そのまま彼の質問に答えることにした。


「大したことじゃないよ。妹さんを探してるお姉さんからの依頼があってね、それでその妹さんの情報とかそういうのがないかなって聞きにきたの。美作梅さんっていう白いワンピースを着た人なんだけど。行方不明になったのは大晦日の日」

「………………いや、その名前は知らないし、年末年始に死体が出るような事件は起こってない。だが」

「だが?」


 少しの間、志熊さんは何かを考えるように腕を組んで黙ってしまった。何も「だが」とかいう気になる接続詞で止めなくてもいいと思う。向こう脛を蹴りたくなるが、ボクがやったところで威力のない戯れ付きにしかならいからやめておいた。何せ丸山君がにやにやした顔でこちらを見ている。


「また後で会えるか? 少し調べたい」

「え、いいよそんなに気にしなくて! ボクの依頼だし、わざわざ調べてもらわなくても」

「二十時には仕事を上がれる。そのときまた連絡するから、夕飯は食べるなよ?」


 それだけ言い切ると、志熊さんは踵を返して署の方へと歩いて行ってしまった。


「ちょ、志熊さん! 待ってくださいよ! あ、センパイ、失礼しますっ!」


 慌てて丸山君も彼の元へと走って行く。

 ああ、やってしまった。あの目は何か非常に気になることがあるときの目だ。多分彼はこの後、仕事を丸山君に放り投げて、そのことについて調べようとするだろう。すみません警察署長様、優秀な刑事さんをサボらせてしまいました! 志熊さんはボクのような三流探偵と違って、本庁行きとの噂があるくらいに非常に高い検挙率を持つ刑事なのだ。損失の大きさにボクの胃は若干痛くなった。


 だが、良いこともある。彼が調べてくれるということは解決への道が大きく開けたということだ。他力本願かもしれないが、何も解決できないよりはいい。


 ボクは気合いを入れ直して、梅さんの勤め先と真田さんへのアポイントを取り始めた。一瞬お昼ご飯のことが過ったが、夕飯にありつけそうなので今日は我慢しようと思う。



 チャンスが巡ってきたと思っても、空振りする日は本当にするらしい。何度か勤め先にも真田さんにも電話をしたが、繋がることはなかった。何度目かの電子的な女性の声を聞いて、ボクはアポイントを取るのを諦め、そのまま向かうことにした。……嫌な予感もする。


 乗り換えなども考慮して、ボクは最初に勤め先に行くことにした。この駅からなら電車一本で行ける。同じタイミングで入って来た急行に乗り、ボクは新宿へと向かった。


 今日から仕事の始まる会社員やまだ冬休み中の学生が多いせいか、新宿はいつも以上に混んでいる気がした。人ごみに流されつつやってきたのは花園神社だ。この近くの通りに梅さんの勤め先があるという。梅さんの仕事はアパレルショップ関連であまり大きい会社ではないという。


 その会社の名前を地図検索しつつ歩く。新宿は学生時代よく来たが、それも駅周辺だけでこちらの方までは来たことがなかった。ボクは迷うことも覚悟した。


「!?」


 が、案外簡単に見つけることができた。

 何故ならそこは黄色と黒のテープで線が引かれ、厳重な警備の中にあったからだ。


(――すげー。何これ撮影とか?)

(ガチの事件だって。しかも殺し。ネットに流れてたじゃん)

 通りすがりの誰かが何かを言っていく。


 「ネットに流れていた」、それを信じ、ボクはスマートフォンで検索ページを出した。適当な言葉を入れて、確定ボタンを押す。悲しいかな、この結果だけはすこぶる良く、ネットニュースの記事が出てきた。発見したのは花園神社の参拝客。被害者の死亡推定時刻は大晦日の夜だった。


 そしてそのニュースの下に誰かが事件発覚直後に撮ったらしい画像が出てきた。赤黒い染料で描かれた悪趣味な窓ガラスアート。(はりつけ)にされた人形が虚ろな目でカメラを見ていた。


「……人が殺されたの? それも大晦日、一人の関係者が消えたその日に」


 ここに繋がりがあると思ってしまうのは、小説やドラマの見過ぎだろうか。

 グロテスクな画像を見てしまったせいか、気分が悪い。その画面の履歴を消し、その代わりにボクは吉祥寺までの道のりを調べた。負は連鎖する。ここがそうなら、向こうも。


 駆け足気味に駅へと向かう。いつもなら待てる待ち時間も今日ばかりは苛立の要素だった。乗っても電光掲示板ばかりに目が行く。たった十五分だ。あと何分で着く?


 吉祥寺駅に着いた。真田さんの家は線路沿いにあり、少し新宿方面へ戻る。両親が早くに亡くなり、一人で古い一軒家に住んでいるのだという。店の呼び込みを無視し、ボクは目的の家に走った。それで、誰かが助かるわけでもないのに。


 真田さんの家の前は新宿よりも騒がしかった。それは今まさに、何かが見つかったからだ。


 一人の女が喚いていた。男の名前を部屋の中から何度も叫ぶ。遠くで鳴っていたと思ったサイレンがアパートの前に止まった。その音は救急車ではなく、警察車両だった。


 警官たちが怒鳴りながら観客たちを散らした。中にいる女にも声を掛け、いったん外に出るように促す。だが、女は一人で出てこようとはしなかった。恋人を助けたいという考えしかない。警官が女を止めようと動いたが、もう遅い。


 観客の一人が悲鳴を上げた。また一人、二人の観客がカメラのシャッターを押した。


 その人形は不出来だった。白濁した球体が目として飾り付けられている。胴体には穴が開いていて、そこから垂れ流された赤い管は服を汚していた。


 破損した主役のお陰で、この演目の幕はすぐ閉じられた。


▼▼▼


 あたしはその日の夜に家を出をした。理由は家族とのちょっとした喧嘩だった。多分テレビのチャンネル争いとか、テストのことでぐちぐち言われたりだとか。


 あたしはその頃気に入っていた公園に行った。そこは小高い丘の上にあり、そこの展望台で誰かに対する罵詈雑言を叫ぶのがストレス解消法の一つだったから。


 あたしはその日もいつもと同じように家族に対する悪口を叫んだ。近くに誰かがいた気もするが、それよりも日頃溜まっていた悪態を吐き出すのが大切だった。


 あたしはその時どんな言葉を使っただろうか。「死ね」とか「消えろ」とか、中学生がよく使う意味のない言葉だった。


 あたしにとってその日は最高に清々しい日だった。色んな人間の悪口を吐いて、そしてそれが叶うような気がしていた。


 あたしにとってその日は本物の力を持っていた日だった。みんな、あたしが言ったようになったからだ。


 あたしにとってその日は恐ろしい日となった。あたしの家族は死んで、赤だけ残して消え去った。


▲▲▲


 気がつくとわたしは家にいた。暗がりの中でソファーに寝転がっていた。身体が怠い。嫌な夢を見た気がする。


 起き上がると、窓際のデスクにバッグが載っていた。そしてそこから転げ落ちたらしいスマートフォンが床で震えている。ディスプレイに表示された名前は「志熊歩」。そういえば、食事に誘われていた。スマートフォンの時計は二十時過ぎを示している。彼がかけてきてくれた電話のお陰で、わたしは目が覚めたらしい。


「はい……」

『……何があった?』


 たった一言だけで見抜かれたらしい。でもわたしは彼の考えを肯定することができずに、曖昧に流した。


「何でもない、です。少し苦手な物を見過ぎて疲れただけ」

『すぐ迎えにいく。場所は……家か?』

「うん、そう」


 「了解した」と彼は通話を切った。わたしも準備をしなくてはと立ち上がったが、目の前が暗くなってソファーに落ちる。夢見の悪さと空腹で貧血が起こったらしい。


 その貧血が収まる頃には、歩さんはもう事務所に辿り着いてしまった。


「電気ぐらいつけろ、と言いたいが、その調子じゃ無理そうだな」


 事務所の合鍵で入ってきた歩さんは、そう言って電気をつけた。一瞬で明るくなった室内にしばし目が眩んだが、それもすぐに影がかかる。


「熱はないようだけどな。歩けるか?」


 わたしの横に座った歩さんが質問する。わたしは答える気力もなくなり、微かに首を振る。それだけでも吐き気が催される。


「重症だな。買い物しておいてよかった。適当に作るからまずこれ飲んどけ。話は食べ終わってからする」


 そういって歩さんはキャップを開けてゼリー飲料を渡してくれた。これならまだ飲める。わたしは容器を両手で持つとゆっくり飲み始めた。


 わたしが飲み始めたのを確認すると、歩さんはわたしの頭を一度ぽんと撫でてからキッチンへと入っていった。うん、掃除はしてあるし、問題はないだろう。


 すぐにリズムのいい音が聞こえてくる。歩さんはわたしよりよっぽど料理上手だ。一体今日は何ができるのか、いくらか回復した思考でわたしは考え始めた。

 そして出てきたのは、


「あからさまに残念そうな顔をするな。病人は身体にいい物食べてれば良い」


 具のたっぷり入った粥だった。そういえばそろそろ七草粥の時期、表の八百屋さんが商品台に出していたのを思い出した。


「ごちそうさまでした」


 余分に作ってくれた分とデザートのアイスも全て食べきり、わたしは体調がかなり回復したのを感じた。勢い良く立ち上がっても立ちくらみはない。片付けをしようと元気よく動き始めると、苦笑した歩さんが止めた。


「片付けは後でやるからいい。取りあえず、何があったのか説明」


 口は軽そうに言っているが、目が笑ってない。わたしは素直にソファーに戻ると、午後見たことを全て話した。梅さんの勤め先と元恋人の家で起きた惨劇を。


「……事情はわかった。その二つの件はまた調べるが、お前はその人探しの依頼を断れ。まだ報酬はもらってないんだろ?」


 わたしが話し終わった途端、歩さんはばっさりと言い切った。


「そんなことできないよ! 人が一人消えて、その周辺でおかしな事件が起こってるんだよ? もしかしたら椿さんだってひどい目に」

「その女の行動が明らかに変だ。何故今になって探し始める?」

「今になってってどういう意味!? そこまで言うなちゃんと説明を……っ!?」


 ひらりとわたしの前に一枚の紙が出された。


「『美作梅』は半年前から捜索願が出されている。届け出はお前がさっき行って来た会社だ。美作椿はどうして今になって妹を探し始めた?」


 わたしの前に提示されたのは確かに梅の勤め先からの彼女の捜索届けだった。『一週間ほど無断欠勤し、連絡には出ない。同居者も心配している』、その紙にはそう書いてあった。


「それに彼女たちにはある事件の嫌疑がかかっている。そんな奴らにお前を関わらせたくない」

「事件の、嫌疑?」


 実際に会っていない梅さんはともかく、椿さんは良い人そうだった。何故そんな人に嫌疑がかからなくてはいけない。わたしはじっと歩さんを見つめ、その事件を聞き出そうとした。言わなきゃ引かないと思ったのか、もしくこれを言った時点で腹を決めていたのか、歩さんは簡単に口を割ってくれた。


「……去年の夏前、あのマンションで不審死事件があったのを覚えているだろ? 身体中を滅多刺しにされた女性が自室で発見された事件だ。被害者女性と美作椿は同じケーキ屋で働いていて、それなりに親しかったらしい。だが事件当日、二人が言い争っているのを、また死亡推定時刻頃に彼女の家から椿が出てくるのを見た人間がいる。まず事件の容疑者として椿が上がった。ただ椿にはその日熱で病院に行っていたというアリバイがあり、変わりに美作梅が会社を欠席していたという記録がある。被害者と言い争ってたのが椿のふりをした梅だったとしたら、話はひっくり返ることになるが、その後梅が行方をくらました理由にはなる」

「なんでそんな入れ替わりとか」

「仕事を休みにしたくなかっただとか、面白そうだったからだとか、理由はいくらでも考えられる。俺たちには方法しか思いつかないよ」


 捜索届けを仕舞いながら歩さんが言った。本当は部外者に見せてはいけない物なのだろう。


「でも、じゃあ何で椿さんはわたしに依頼を……?」

「さあな。ただ、良い方に転がらないのはわかる」


 そういうと歩さんはわたしを抱きしめてきた。


「これは俺のエゴだが、怜、俺はお前に危険なことをして欲しくない。昼間、お前が見た二つのことにこの二人が関わっているのだとしたら、お前も巻き込まれる可能性が高い。今すぐに調査をやめて、できれば警察の保護を受けてくれ」

「……」


 歩さんの言う通り、この依頼が危険に満ちていることは直感した。だがいなくなった人を思って泣いていた椿さんのことを思うと、それだけで決めつけて良いのかと考えてしまう。今のわたしはまだ、答えを決めることができなかった。


***


 翌朝、志熊さんは一人で帰っていった。本当はボクも連れて警察に行きたかったのだろうが、答えの出ていないボクはそれを断った。


 いや、答えは半分出ている。これはボク一人で解決できる問題ではないし、危険だ。降りた方がいい。だがここまで来て電話一つで依頼を断ってしまうようなことはしたくない。ちゃんと会って話をつけなくてはいけない。


 電話で椿さんに今日会えるかどうか聞いてみると、答えは「大丈夫」だった。今日は店のシフトが入っていないのだという。電話を切ったボクは出かけるために事務所へと向かった。バッグがそのまま向こうのデスクに置いてあるのだ。


 その中をもう一度改めて出かけようとしたボクは、ふと見慣れない物が入っていることに気付いた。工具入れのような黒いケースだ。それほど重くはないし、変な音もしない。誰かの物を間違って持って来てしまったのだろうか。昨日の行動と記憶から鑑みてみると、本当に持って来てしまったような気がして危うい。


 取りあえずボクは中身を確認する為にケースを開こうとした。ところがこのケース、鍵か何を使わないと開かない構造になっていた。ケースの外側にその鍵がある訳もなく、ましてやボクが持っているはずがない。一般的な鍵ならピッキングできなくもないがこれは電子ロックのようで、専用工具を持っていないボクには挑戦することさえ無意味であろう。


 中身のわからない物をそのままにして置けるほど能天気ではない。今日は椿さんのところに行った後は、歩さんに言われた通り警察に行こうと考えている。その時彼にこれを渡せば良いだろう。窃盗してしまったのなら、ちゃんと償おう。


 そのケースを鞄の底に入れ直し、ボクは事務所をあとにした。外は昨日と同じで風が強い。しかも今日は雲が厚く、余計に寒く感じられた。飛ばされないように踏ん張りながらボクは歩き始めた。


 商店街を抜け、住宅地少し歩いた先にそのマンションはある。十四階建てのコンクリートマンションで、入居者は一人暮らしや夫婦だけの世帯といった割合が大きかった。


 オートロック機能はなく、ボクはそのままエレベーターに乗った。椿さんの部屋がある八階を指定すれば、ゆっくりとエレベーターは上っていく。その間ボクは椿さんに何というか考えた。昨日あったことを話し、ボク一人では手に負えないからと警察に行くように頼むか、信用できない部分があるから捜索を降りると言うか。穏便に済ますなら前者だろう。考え終わったところで、エレベーターは目的階に着いた。


 再び冷たい風に晒される。コートの前を握りしめたボクは、廊下の欄干を見遣った。烏が一匹止まっているだけで、当たり前だが落ちていくような影はない。


 ボクの出現に驚いた烏は飛び去っていった。その後ろ姿を見送りつつ歩いていたボクは、危うく部屋を通り過ぎるところだった。


 表札は合っている。緊張した心を解す為に一息ついてからチャイムをに指を伸ばした。うちのチャイムよりリズムのいい音がする。そしてその音が鳴り止まないうちに、玄関の扉は開いた。


「怜さん! いらっしゃい!」


 酷く嬉しそうにボクは出迎えられる。それに虚をつかれたボクは今日の来訪の意を告げる前に部屋の中へと通された。


 部屋の隅々まで掃除が行き届いた室内には、女性らしい小物がほどよく置かれている。いたるところに花も生けられ、ボクは女子力の差を痛感した。


「そういえばこういう時って、部屋の中とかも見せた方がいいのでしょうか? 日記とかに何か書いてあるかもしれませんし」


 口を挟む暇なく、椿さんはボクを梅さんの部屋へと案内した。彼女の部屋はシンプルで、レースカーテンがかかった窓からは灰色の空が見える。もしかしたら雨が降ってくるかもしれない。傘は持って来ていなかった。


 そんな調子で外を見ていたボクの元に、椿さんが一冊のノートを渡したてきた。ボクは思わず受け取ってしまった。流れでそのノートを開こうとしたボクは、やっと今日ここに来た理由を言い出すことができた。


「その、ちょっといいですか? 実は昨日、想定外のことがありまして」


 少し格好を正すと、ボクは椿さんの顔色を窺いながらゆっくりと昨日あったことを話した。ボクの報告を聞いて、椿さんは時折顔を手で覆ったが、そこまで気分を害した様子はなかった。


「まあ、本当にそんなことが……」

「それであの、こういったことが起こってしまいますとボク一人の力では手に負えなくなってしまいまして……。とても身勝手だとは思いますが、ボクがこの調査を続けることは断らせていただいても大丈夫でしょうか?」


 最後の方は若干早口になってしまい、椿さんが聞き取れたか不安だった。案の定、彼女はきょとんとした顔をしてボクを見ていた。


「これ以上ボクは役に立つとは思えません。もっとしっかりとした探偵の方やそれこそ警察に行ってもらって相談する方が安心できると思うのです。もちろんそれらの仲介は喜んでやらせていただきますが」


 自分で言っていて悲しくなる。しかし事実だ。ボクは物語のような素晴らしい探偵ではなく、一般人に毛が生えた程度の素人探偵である。自分の身の安全を考える一方、梅さんの安否を気遣えば気遣うほど手慣れた人間にやるべきだとボクは考える。今までの分の調査費用は、今回はもらわない方がいいだろう。


 椿さんはボクの言葉を聞いて沈黙してしまった。その間の居心地が悪く、ボクは室内に目を向けた。ベッド、机、クローゼット……生活必需品だけが置かれた殺風景な部屋だった。だが壁紙も光って見えるくらい、この部屋はモデルルームのように綺麗だった。


「……そうですか、残念です。あなたなら見つけていただけると思ったのに」


 椿さんが小さな声でぽつりと呟いた。


「えっと、あの……?」

「わかりました、私は問題ありません。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」

「……いえ、こちらこそ急に降りてしまって」


 まるで何もなかったかのように、椿さんはボクの申し出を承諾してくれた。ボクが報酬のことについて言うと、彼女は「迷惑料です」と快く支払いに応じてくれた。


 お金の準備をするからと、椿さんはボクをリビングの方に案内した。ボクは手に持っていた梅さんのノートを傷一つない新品のような机に戻した。


 リビングに入ったボクは椿さんに示されたソファーに座って、窓の外に目を向けた。空は先ほどよりどんよりとして来ている。これは本当に雨が降るかもしれない。ネットでこれからの天気を調べ、夕方からが荒れた天気になると知ったところで封筒を持った椿さんが戻って来た。


 それを受け取り、一応金額を確認する。料金表通りのお金を手に入れられたボクは、立ち上がって椿さんにお礼を言った。


「ああ、仲介のことを忘れてはいけませんね。いくつか案はあるんですが、何か希望とかありますか? 女性がいいとか、料金が安いとか」

「いえ、それは結構です。お手数をおかけしました」

「いや、でも警察に言うくらいは……」


 だが椿さんは「大丈夫です」と言い切り、ボクを玄関へと促した。急かされるように靴を履いてドアを開けたとき、また烏が飛んでいった。


「あの、今回はご利用あーー」

「……あなたなら梅を見つけてくれると思ってました。私と同じ、あなたなら」


 可愛らしい笑顔で呟いて、椿さんはドアの影に消えた。


「『私と同じ』?」


 彼女の最後の言葉を繰り返し、ボクは首を傾げた。どこが同じなのだろうか、あんなに立派な女性と。


 風が吹いた。来たときよりも湿ってきている。早く事務所に、じゃなく警察の方に向かおうとエレベーターの方に向き直った。白地に赤い花の咲くワンピースがあった。


◆◆▼


 初めて私になった日、私は私の仕事に感心した。一つ一つの行為が重労働で、この小さな身体のどこからそんな力が出てくるのか、不思議に思った。


 少し手間取りながらも、私は一生懸命仕事をした。私は楽しかった。あいつが来て、私に親しげに話しかけるまでは。


 私らしく聞いていると、あいつは私とつき合っているらしく、「次のデートはどうしよう」といつも通りの顔で提案した。


 ああそうか。最近よく薄笑いしてるなと思ったらそういうことだったんだ。


 私はあいつと同じように薄笑いをして次のデートの日時と行き先を決めた。あいつは楽しそうに帰っていった。


 買っていったのは小さなやつ一つだけ。話して時間を取らせた割には、利が少ないと思った。


 少しして彼女が入って来た。私も良く顔を知っている。


 「――はいますかー?」とショーケースを見ながら聞いて来た。行儀が悪いと思いながらも、私は「いない」と答えた。


 そうすれば彼女は今日は大仕事の日なんだと言った。私は知らなかった。それなのに年下の彼女は知っていた。


 そういえば、最近嫌な仕事しか回ってこないと思っていた。私は嫌われていたんだろうか。そして私は彼女からその事を聞いていたんだろうか。


 その大仕事に使う物をいくつか買って、彼女は帰っていった。


 むしゃくしゃしたまま、私は残りの仕事を片付けていった。


 仕事が終わった後のロッカールームであの女が言った。本当に――?


 当たり前ですよーと冗談っぽく返しても、あの女は訝しげに私を見ていた。


 そして――はと心配そうに聞いて来た。うざい、本当に。苛ついてちょっと怒鳴れば、あの女は静かになった。


 いつもそうだ。心配されるのは私で、後回しにされた私だった。優先されるのは私で、差別されるのは私だった。褒められるのは私で、怒られるのは私だった。


 やっと私になれても、私は嬉しくなかった。だって今日しか私ではないんだもの。


 あの女が寄っていく? と聞いて来た。私は早く帰りたかったが、私はご好意に甘えてあの女の家に行った。コーヒーを一杯だけ飲んで、私は家に帰った。


 夕食を作ってから、私はあの女の家に大切な物を忘れて来たことに気がついた。


 あの女の家に戻ってチャイムを鳴らすが、返事はない。試しにドアノブを回したら、すんなりと開いた。


 探し物は玄関のところに置いてあった。すぐに返せるようにあの女が置いてたらしい。お礼でも言おうかと部屋の奥を見たら、あの女に――が群がっていた。



 その時、私は私であることを肯定した。



 私が私である。私は私を保つ為に――を閉じ込めた。


 私は私として生活を始めた。誰も私を私だとは思わない。ずっと私は私である。私は私になれた。なりたかった私に私はなったのだ。


 でもあの日――が逃げた。私は私であるために――を追って、突き落とした。


 それで終わりのはずだった。――が――で、私だけになるはずだった。だが終わらなかった。――はいなくなった。私が消えてしまう。私は私である為の方法を考えた。そしてあの人がいることを知った。


 私と同じ人。あの人なら――を見つけられると思った。――を見つけて、私のところに持って来てくれると思った。


 だけど違った。あの人は私とは違かったのだ。それなら私はあの人は必要ではない。


 でも一つだけ良かったことを知れた。――は私の為にあいつと彼女を――てくれた。犬みたいに私の言うことの聞いてくれた。


 ――はそろそろ帰ってくる。私の元へ。そんな気がする。


 これでやっと、私はちゃんとした私になれるのだ。


▲◆◆


  そのワンピースが今までボクが探していた女性だと認識するのに、少し時間がかかった。写真と姉の姿に見慣れていたボクからしたら、彼女があまりにも酷い状態だったからだ。それは昔、テレビか何かでやっていた虐待された犬に似ている。やせ細って不衛生で、可哀想だと思う反面、生理的な嫌悪感を抱いてしまう。


「……あの、もしかして梅さんですかっ!? 椿さんが、お姉さんが随分探していましたよ。あ、椿さんも呼んだ方がいいですかね?」


 その第一印象を払うように、私は声を張り上げて宣言した。この二人を引き合わせれば、依頼の全ては終わるのだ。


 ボクは腕を上げてチャイムを探す。目を離してはいけない。なんとかしてチャイムを見つけたボクは、そのボタンを勢い良く押した。


 「ピンポーンッ」と大きな音が鳴る。今度はなかなか開かない。もう一度押そうかと指を離した時、やっとドアの向こうで何かが動く気配がした。


「椿さーん! 梅さんが! 梅さんが帰ってきましたよーッ!」


 そう言って立っている位置から一歩下がった。その瞬間、ドアが開いた。


「ああ、お帰りなさい」


 椿さんはドアの向こうでそう言っただけだった。


 少ししてドアが閉まった。もうそこには誰もいない。二人とも中に入ったんだろう。


 終わった。これで妹を捜して欲しいという依頼は完全に消えた。ボクはもう帰れば良い。事務所に帰って、また明日からの仕事を探せば良い。


 そう思って、ボクは閉じたばかりのドアに手をかけた。


 丁度、首が落ちたときだった。


「あら、どうかしました?」


 振り向いた椿さんが言った。


「本当にどうしました? とても具合が悪そうな顔色ですよ?」

「そういうあなたは、とても嬉しそうですね?」

「ええ。だってやっと私は私になれたんですもの」


 本当に嬉しそうに、美作梅(かのじょ)は笑った。


「私はずっと私になりたかったんですもの」


 それは妹の姉に対する屈折した羨望だった。


「私は椿といいます」

「私たちは一卵性の双子で良く似てると言われてましたが、大抵は私が可愛がられていました」

「私は大学に行かないで働き始めました。梅の学費を稼いであげる為です。人は私を偉いと褒めました」

「梅には大学時代から付き合っている人が、その人は私ともつき合っていました」

「ですが去年の夏、私はそのことを知ったので別れました」

「仕事でも梅は差別されていることを知りました。でも私は仕事仲間から大切にされていました」

「だから(わたし)は、椿(わたし)になりたかったんです。みんなが肯定してくれる私に。そしてこの子は私の夢を叶えてくれました」


 首の落ちた椿を抱いて、彼女はにこりと笑った。


「この子は私が私になりきる前に、私の未練を消してくれました。だから今の私は本当の私なんです」


 愛おしそうに椿の断面を撫でる梅は、不意にボクに笑いかけた。


「怜さんもそうですよね? あなたも願ったんですよね? それは叶いましたか?」


 記憶にこびり付いた血は。



 あたしはその日。

 あたしはその頃。

 あたしはその日も。

 あたしはその時。

 あたしにとってその日は。

 あたしにとってその日は。

 あたしにとってその日は。

 その日あたしは自分を殺そうとした。あたしが彼らを殺したのだから。



「だから何? あんたはあたしに同調して欲しいの?」


 あたしはケースの中からそれを抜き出し、美作梅に向けて発砲した。


 身体が(やわ)いせいか撃った反動が大きい。だがごく至近距離のお陰で、弾は美作梅の頭を通り抜けた。


 また美作梅は驚いたような顔をしている。


「どうし、て……?」

「あたしはあんたみたいに自分で殺してない。いや、少なくともあんな殺し方は人間(あたし)にはできない。だから『怜』はあたしを殺しそびれた。ただ心の奥底に追いやっただけさ」


 二発、美作椿の頭に入れた。


「そのくせ、最後はあたしに頼りっきり。『怜』は化け物を嫌悪している。それを排除する為なら同じく嫌悪しているあたしを呼び出すんだ」


 ただ狂っているだけの美作梅より美作椿(こっち)の方を残してはいけない。美作椿は人間を超越した。 人ではないナニカになった。


「それじゃあ、さようなら」


 あたしはもう一度美作梅の頭に銃弾を打ち込んだ。


 二つの死体が転がっている。疲れたあたしは後ろのドアに寄りかかって、ぼーっとそれを眺めていた。


 何分かすると、自分の重心が後ろに下がった。


「ああ、お帰りなさい」


 誰かを真似て、彼を出迎える。くすくす笑いが止まらない。


 彼、志熊歩はあたしを厭った表情で見下ろしていた。そしてあたしの口に液体を流し込むと、右手に持ったままの拳銃を奪い取った。


「あーあ、雑に扱って。あたしは嫌うよ。『あたし』のことがだーい好きな歩さん?」

「貴様は『怜』じゃない」


 あたしを一瞥した志熊歩は、殺人現場に「有瀬言怜」の証拠が落っこちていないことを懸命に確認した。そんなミス、あたしがするはずない。あたしだって「怜」が大事だ。そう言いたいが、糞不味い精神安定剤のせいであたしの思考と身体の動きが合わなくなってきた。


「あー、今日もまた、『歩さん』の小細工ぶっ壊すの忘れたなー。何だっけー? 盗聴器? 発信器? 『怜』も良く、こんなもの身につけられるよねー?」


 だから今も警察が来る前に「有瀬言怜」が関わった証拠を消していってる。彼氏が警察でストーカー気質だと、楽に化け物を殺せて便利だとあたしは思う。そこだけに関しては、あたしは「怜」を讃えるよ。


 証拠を握り潰した志熊歩の顔が少し綻んだ。もうタイムミリットか。


 今日のところはもうやり残すことはない。あたしは素直に「怜」に身体を渡した。


***


 目を覚ますと、やはりボクは事務所にいた。今回はベッドの方だ。


 意識が覚醒してくると、漂っていた良い匂いが味噌汁だということがわかった。その匂いにつられてボクの腹はぐーっと鳴った。その音で作ってくれている人が、ボクが起きたことに気付いたとなるととても恥ずかしい。歩さんはそんなボクの頭を撫でながら、目線を合わせてきた。


「おはよう怜。調子は?」

「大丈夫……なのかな? 右腕が何がすごく痛い」


 筋肉痛のような感じで、起き上がろうと手をついただけで涙目になってしまった。ボクは一体片手で何をしていたんだろうか?


「あ、そういえば梅さん見つかったよ。ちゃんと椿さんに合わせて、それで…………どうしたんだっけ?」

「覚えてないなら別にいいんじゃないか? 大したことじゃあなかったんだろう。それよりも朝飯できたぞ」


 また腹が鳴った。恥ずかしくてお腹を押さえたくなるが、思わず右腕を動かしてしまったせいで悶絶してしまう。


「全部大盛りで持ってきてやるから、ちゃんと食べろよ?」

「うう、わかりました……って、え、あれ?」


 ボクの利き手は右だ。つまりご飯を食べる為には、動かすだけで激痛の走るこの右腕を酷使しなくてはいけない。


「どうしよう……」


 唸っていると歩さんが旅館のような朝ご飯を持ってきてくれた。


「ん、食べられないんなら食べさせるけど?」


 「アレもやるときはやるな」と意味不明なことを呟いた歩さんは、本当に嬉しそうな顔で笑った。


 ――その表情をボクはどこかで見た気がした。だが笑った顔なんてどこでも見られると思い直し、ボクは差し出されたスプーンを口に入れた。


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