ACT.7 生け贄の価値
西暦4192年4月1日。
内通者確保の一報から2週間が過ぎた今日。
京澪(仮)に壮絶なる拷問或いは惨殺の限りを尽くし続け、人前に一切姿を見せなかった源以が職員達の前に現れた。
その傍に精神を破壊されナノマシン・ジャックの被験体となった京澪(仮)を引き付けれながら、悪びれる事なく然とした姿で三課に向かう様はまさに魔王の凱旋が如し。
同時に敵対勢力と言えど職員達からある種の哀れみを一身に受けた京澪(仮)も、源以にベッタリと寄り添いながら三課に入って行く。
日本政府に対して、福祉技研に対して、なにより源以に対しての強烈な敵対心を燃やしていたであろう女のあまりの豹変ぶりに人間の乗っ取りの恐ろしさを痛感した職員の中には目眩を起こし、その場で倒れ込む者まで出る始末。
だが福祉技研の中にいながらこの騒動を一切知らない者もいた。
フォシルである。
「あれは・・・まさか源以の彼女!?」
「バカ!そんなわけないでしょ!?明らかに年の差がヤバい事になってんじゃん!もしそんな事があったら彼女と言うよりも公開不倫だよ!!」
「そ、そうですよね・・・だったらあの人は?」
「世の中には知らなくてもいい事だってあるの。それとも何か?所長が羨ましいのか?フォシルには私やアーティがいるじゃんよ」
休憩スペースの一画、フカフカすぎて逆に腰が痛くなると噂されるソファーにどっぷり埋もれながら楓は冗談交じりに話題を逸らすべく何気ない一言を放つ。
刹那テーブル越しにキラキラした視線を感じた彼女が横目でチラッとそれをたどると、そっぽを向いて対談していたハズのフォシルが何かを期待したような目でコチラを見つめている事に気付かされる。
ため息1つ投げ捨てて最高に面倒臭さそうな表情を浮かべながらも楓は無言を貫き通し、隣に座っていたアーティの背中を力任せに押し立たせフォシルの前に差し出した。
「該当データ、フォシルは異性との性交渉を望んでいると判断。対象の危険度を8に引き上げ、貞操の守備を固めます」
「わあぁあぁぁ!?みんなの前でなに堂々と言ってんだよ!?」
「アンタらさぁ・・・ちょっと景勝に毒され過ぎてんじゃないの?シャワーでも浴びてウィルスを落として来いチビ勝共め!」
ソファーで踏ん反り返り、冷たい目でフォシルを見下した楓の心境は、まさに冷え切っていた。
この1ヶ月でフォシルという人間をプロファイリングした結果、楓の中に出来た彼のイメージはおとなしそうに見えて実はむっつりスケベの奥手型。
そのクセ一度考え込むと自分が納得するまで追求したがる面倒臭さを兼ね備えた人間味溢れる童貞君。
要するに人間だとか生け贄だとかそんな事は関係なく楓にとってフォシルは相思の親友であり、彼女がとった冷たさの正体も彼を特別扱いしない事を体現した優しさの裏返し。
それを知ってか知らずかフォシルも"湊さんも一緒にシャワーを──"などと言い出し、必殺の飛び蹴りを食らう始末。
周りの心配をよそに本人達は実に生き生きとしているが、フォシルという存在はあくまでもEscapeGoatを遂行する為に必要なキーパーソンであり、後にも先にも代用の効かないキーパーツそのもの。
その絶対的価値故、本人に自覚がなかったとしても楓の暴挙は福祉技研職員達の他、一部の政府官僚達にとってもまさに肝を冷やす一大事件だった。
これを例えるなら幻の未確認動物ツチノコに蹴りを入れるようなモノ。
源以直々の命令でフォシルの全てを任されているとは言え、こればかりは不安と不満の声が出てきても致し方ない。
だがそれを源以に言える者など誰1人としていなかった。
アーティに守られつつもソファーから転げ落ちるフォシルを横目に、三課演算室では源以と銑十郎が洗練されたナノマシン・ジャックのデータを吟味するのと同時進行で京澪(仮)が本来持っていたナノマシン情報の解析も行われていた。
「これが京君に偽装する為に凍結した、いわば彼女本来のナノマシンか。Nコードで凍結されているようだがDコードを使って解凍したまえ。なにがあるとも思えんが目を通しておこう」
デジタルディスプレイの前、メガネを光らせながら物凄い速さで演算を開始する白露に続けと三課職員達も源以の指示で作業を開始する。
「これからどうするつもりだ?死の遺伝情報が完成して、今まさにナノマシン・ジャックも完成しようとしている。早ければ数時間後には俺達は未来に於ける究極の武器を手に入れる事になる。タイミングとしても日本政府から新しい指令が下ったばかりだろ?すぐにでも動くか?」
「急いては事を仕損じる。死の遺伝情報は十君のナノマシン情報と死神ウィルスのデータを基に造られた、いわば"模倣品"。完成度で言えば6割弱の代物・・・現段階ではまだ物事の基礎が出来たに過ぎん。死神ウィルスが人為的なモノである場合、既に対応策も作られているハズだ。つまり今のまま動けば何者かに我々に手の内を見せるも同じ事になる・・・違うかね?」
「慎重になり過ぎて出遅れなければいいがな。それとお前の求める10割と言うのは何を以ってして完成と言えるんだ?」
「その答えにたどり着くには死神ウィルスを理解せねば話にならん。アレには不明な点が多くてね。無作為に対象を選んでいるのか或いは狙っているのか。もし後者だとした場合、その感染経路はなんなのか。物理的なモノなのか、ナノマシンリンクを応用した外部からの操作なのか・・・おかげで私も退屈せずに有意義な時間が過ごせるよ。つまり死の遺伝情報の完成とは狙った対象を外部から確実に死滅出来てこそと言えよう」
「・・・確かに、現状死の遺伝情報が効力を発揮する為の条件は限定されすぎている。物理的に対象の体内に注入した時に初めてソレはナノマシンに異常をもたらす。逆に言えば物理的にナノマシンと結合させない限り発症はしない」
「付け足すなら死の遺伝情報はまだ完璧に制御しきれていないのだよ。対象を殺すまでの期間を設定する事は出来ても瀕死に留めておいたり弱らせるだけと言った器用なマネができん」
「改めて見れば課題は山積みか」
二大巨頭が議論を繰り広げる中、ものの数分で京澪(仮)のナノマシン情報を解析した三課職員達が源以の前にソレを差し出した。
当初の予想通り、そこに目新しいモノはなに1つ存在しないが源以の目から見て1つだけ"面白いモノ"が記されたナノマシンを発見。
長い付き合いだからこそ読み取れる彼の表情の僅かな変化が気になった銑十郎はテーブルから身を乗り出して資料を覗き込む。
そこに記された情報の意味を理解したのち2人は複雑な顔で見合わせた。
「これが解放者全体に言える事かどうかは知らんが彼らの言葉を借りて言えば、私は既に"癡かなる諂曲の修羅"とでも言っておこうか」
同日の22時。
とっくに定時を迎えた福祉技研内部はガラリと雰囲気が変わり、不気味な静けさに包まれていた。
夜間勤務の職員達がカサカサと動き回る中、源以から依頼されたナノマシン・ジャックの洗練をキリのいいところまで終わらせる為に約3時間の残業をこなした白露も遅れながら1人帰宅の準備をしていた。
その最中、彼女は不意に誰かの気配を感じ取りパッと顔を上げて辺りをキョロキョロ。
わざわざこんな時間まで残ってる物好きと言えば真っ先に景勝を想像するが、意外にも視界に入ってきたのはショルダーバッグを下げた楓の姿だった。
「・・・?」
「白露・・・今日これから時間ある?」
特に予定もなかった白露が小さく頷くと楓に先導されるまま福祉技研近くの路地裏、しかもかなり遠慮がちに構える小さな飲み屋へと連れてかれていた。
まだギリギリ未成年の楓のチョイスに白露は慌てふためくが、基本押しに弱い彼女は説得虚しくあれよあれよと店内端のテーブル席に座っていた。
「なんで白露が緊張してんの?アンタ22でしょ?別に大丈夫だよ、お酒なんか飲まないし」
「・・・」
「違うの。ただ雰囲気に飲まれて誰かに悩みを打ち明けたかっただけ。こんな事さぁ、本当は誰かに言う事でもないんだろうけどさ・・・プチ女子会だと思って少し聞いてよ」
楓の行動の理由を知った白露はそれ以上なにも言わなかった。
彼女の優しさを理解した楓は一言だけ"ありがとう"と答えると未成年らしくオレンジジュースを注文する。
ここで面白いのが未来に於ける金銭のやり取りである。
人類史上最初の"お金"は綺麗な貝殻から始まり、古代メソポタミア時代で本格的な金銭へと姿を変え、西暦2800年頃まで紙幣や硬貨として流通してきたとされる。
しかしそれらを製造するコストと物価が釣り合わず、また物体として存在する事から物理的な犯罪も後を絶たなかった為、遂には西暦3000年代初頭に"物体としての金銭"は完全に廃れてしまった。
そして未来に於いて廃れてしまった金銭の代わりになるモノが"Q"と呼ばれる世界共通のナノマシン情報単位である。
Qは個人情報と共にナノマシンにより管理され様々な行いに対する対価として増減される。
これにより個人が管理するQはその個人のみ使用する事ができ盗難、窃盗、紛失といったトラブルを事前に回避し、なおかつ特定の条件を満たせば他人に付与する事もできる為、逆に紙幣や硬貨を使っていた時代が不便で仕方がないとまで蔑まれQは人類史上最後の大発明とも言われている。
そんなQの使い方を楓の例に挙げれば目の前に展開されたデジタルディスプレイに触れてオレンジジュースが届いておしまい。
非常に簡単である。
「・・・飲みたかったら、お酒でも頼んでいいよ。私は飲めないだけだから」
「・・・」
その後、楓のオレンジジュースと白露が頼んだ香草系リキュール、アイリッシュミストが届いたところで2人は乾杯。
大ジョッキになみなみと注がれたオレンジジュースを一気にグラス半分まで飲み干した楓は今の心境を白露に打ち明ける。
「なんとなくわかってるとは思うけどさぁ・・・悩みってフォシルの事なんだよね」
「・・・」
「いや、そうじゃないの。寧ろ逆だよ・・・所長も言ってたけどアイツってほら・・・生け贄として生かされてるでしょ?それなのに・・・なんでフォシルは、あんなに生き生きとしてんのかなぁって」
「・・・?」
「普通さぁ・・・自分が殺されるってわかってたらさ。もっと自暴自棄になったり誰かに八つ当たりしたりとかすると思うの。なのにアイツ・・・毎日毎日"湊さん"って私を呼ぶの・・・なんかさぁ・・・それがさぁ・・・フォシルを裏切り続けてるみたで・・・辛くてさぁ・・・!!」
ガヤガヤとした店内の雰囲気を打ち砕くように震えた声でフォシルに対する思いを告げた楓は突然俯き、そのままポタッポタッとテーブルに大粒の涙を零しながら泣き出してしまった。
実質フォシルと最も長く時間を共有しているのは楓その人であり、フォシル自身も彼女の事を誰よりも信頼していた。
その為楓は源以すら知らない彼の素性を知る唯一の人間として2人は互い違いに晒し合いを続ける中で今の関係を築いていった。
人としての絆が深まれば深まるほどフォシルが殺される未来を否定したくなるのも人の情。
だがそれは変えようのない決定事項・・・天命を全うして逝くのならある程度の覚悟も出来ようが彼の最期を決めるの日本政府と源以である。
1分1秒が過ぎゆく度にフォシルの死が着実に近づいて来るような不安と恐怖。
ナノマシンの入った未来人ならデータ上で生きながらえる事もできようが人間は死んでしまえばそれまで。
あとは記憶の中でのみ生きる愚像と化す。
1秒でも今を過ぎれば、それは既に過去となり"彼という存在がいた"となってしまう未来の光景が楓にとっては怖くて仕方がないのだ。
「別に自惚れてるわけじゃないけど・・・その・・・フォシルってたぶん・・・私の事・・・好きなんだと思うの。そういうバレバレのオーラを出すヤツって、どこにでもいるでしょ?でも私とアイツとじゃ存在する次元が違うと言うか・・・」
「・・・」
「好きは好きだよ・・・LoveじゃなくてLikeの方だけどさ・・・それでも・・・辛いよ・・・」
その後も楓の言葉を聞き続けるうちに白露は得体の知れない違和感と疑問を抱いていく。
彼女が感じた違和感の正体、それは辛い辛いと嘆く楓に"明確な自分の意思"が一切見えなかったからだ。
辛いから彼女はどうしたいのか?
逃げたいのか、乗り越えたいのか、それとも何も考えられないのか。
ナノマシン制御があろうとも未成熟な楓の精神は知らず知らずのうちに決して避けられぬ親友の死というモノからくる重圧に侵されている。
つまり彼女の言う悩み相談とは無意識下で誰かに助けを求めるSOS信号だと白露は気付いた。
死に逝く者に対して何もしてやれない無力感。
今という日々が2度ともどって来ない事に対する恐怖。
未来を悲観し、自分で自分を追い込んでいく負の連鎖に陥った楓の心を救う為に今、自分に出来る事はなんなのか。
グラスに残ったリキュールを飲み干し、俯きながら泣き続ける楓に顔を上げるよう言葉をかけると白露はビン底メガネを外して目線を合わせる。
美しくも禍々しい深緑のオッドアイに静かなる炎を宿した白露の瞳を見据えて、楓は彼女の言葉を待った。
本当は心のどこかでこの瞬間が来るのを待っていたのかも知れない・・・何がわからないかもわかっていない自分自身に対する答えとして。
そして白露は痛烈ながらも的確に"彼に対して何をしてあげればアナタは納得するの?"と楓の苦しみを切り取り問い掛ける。
「わからない・・・わからないよ!だから辛いんじゃんよ!!」
やり場のない怒りをぶちまける楓の脳内にナノマシンリンクを介した白露の声が響き渡る。
(わからないのはアナタ自身がフォシル君を恐れているからよ。彼がアナタに何を求めているのかも知らないで、理解しようともしないで辛い辛いって嘆くだけなら、それはアナタのエゴよ。アナタは彼に自分のエゴを押し付けてるだけ)
「知ったような口を聞くな!白露にとってはただの生け贄だろうけど私にとっては"親友"なんだよ!それを何がエゴだ!ふざけるなよ!!白露に ・・・白露ならわかってくれると思ってたのになんなんだよ!!」
(ならフォシル君に聞いてみたら?彼がアナタに何を求めているのかを。親友だから何かしなきゃイケないなんて誰が言ったの?驕るのもいい加減にしなさい!もし彼がアナタに何も求めていなかったらアナタの友情はそれまでなの?違うでしょ?)
「そんなの・・・そんな・・・」
(楓・・・自分を追い込みすぎよ。こんなになるまで、どうして誰にも言ってくれなかったの?所長や柳さんには話せなくても、近くに三佐さんや景勝さんだっていたでしょ。もし女同士じゃなきゃ難しいって話だったら私がいたじゃない。今までも、そしてこれからもアナタの隣にいるから・・・辛くなったら、いつでも言っていいの。アナタがフォシル君を弟だって言ってるのと同じで、私にとってアナタは可愛い妹なの。それに3つ上の経験は伊達じゃないわ)
その言葉に楓は泣いた。
心の奥底から溢れ出た涙は頬を伝い、乾ききった木製のテーブルを悉く潤した。
その後、楓は白露に問い掛けながら自らの気持ちを理解していく。
10分、20分と時間が経つにつれ泣き顔を晒していた彼女の表情にも笑顔がもどり、時刻が深夜0時を過ぎた頃には福祉技研随一の賑やかしとしてのポテンシャルを取りもどしていた。
一方の白露はリキュールがジワジワと効いてきたのか頬杖を付きながら、とろ〜んとした妖艶な表情を浮かべている。
お通しの小松菜と追加で頼んだナスの一夜漬けを箸で突きながら雰囲気と酒に飲まれ、珍しく饒舌になった白露はひょんな事から楓に新たな話題を提供してしまうのだがそれはまた別の話。
こうして日付も変わり4月2日の午前3時を迎えた頃2人はようやく帰路に着く。
まだまだ闇の帳が辺りを支配する中で白露に甘えながら寄り添う楓の後ろ姿だけが一際輝いて見えた。
「白露・・・」
「・・・」
それから7時間後の午前10時。
昨日の飲み会を引きずる事なく気怠そうに出社した楓は、とりあえず三課の前を通り過ぎると同時に白露の姿を探してみる。
彼女の定位置は三課入り口から対角線上、一番奥の角。
大きな観葉植物がちょうど目線の高さ、絶妙な位置に垂らした扇状の葉っぱとの陣取り合戦を余儀なくされる場所にいた。
楓は彼女に気付いたが向こうはビン底メガネのせいで表情や視線がわからない上、葉っぱがカムフラージュとなって辺りの景色を遮断してしまっている。
が、なんとなく2人は目が合ったような気がした。
それから日課である銑十郎の診断を終えたフォシルと合流、昨日の白露の言葉を胸に楓はさりげなくフォシルに"今望む事"を聞いてみる。
するとフォシル目線を逸らしたりモジモジと女々しく言葉に詰まったりを繰り返しながら何かを伝えようとするも、一向に話は進展しない。
ある意味で生け贄の立場を理解しているフォシルからしてみれば難しすぎる質問だったかも知れないと少しばかり不安になる楓だが、それでも聞いておかねばならない事だと迷いを振り払う。
そして死に逝く運命にある者としてフォシルが願った事とは楓の予想の遥か上を突き抜けた答えだった。
「じゃあ・・・湊さんの事を・・・その、名前で呼んでいいですか!?」
「・・・は?」
「あっ、いや・・・三佐さんとか景勝さんとか駿河さんも湊さんの事を名前で呼んでるじゃないですか。だからその距離感に踏み込みたいなぁって・・・べ、別に変な意味とかはないですよ!?」
奥手な青年からすれば異性を名前で呼ぶ行為は決して簡単な事ではない。
ましてやそれが限りなくLoveに近い感情を抱いているならばなおの事。
だが願ってもないチャンスを前にしてフォシルの中に眠る、ひと握りの益荒男精神が唸りを上げて自分の殻を打ち砕く。
誰もいない地下通路のど真ん中、何処となく顔全体を赤らめたフォシルは1対1でその想いを楓に告げた。
「しょうがないなぁ・・・なんだかよくわからないけど特別に許可しよう!それと、その妙に畏まった喋り方もやめるか!別に礼儀作法なんて最優先じゃなくてもいいと思ってるし。だから私の事はフレンドリーに楓って呼んでくれていいよ」
フォシルの望みは思わぬところまで発展した。
どういう風の吹き回しかは知らないが暦も4月を迎えた今日という日の季節は春。
つまりコレは草木が萠ゆる春の風。
約2000年という永きに渡る沈黙を経て、遂にフォシルの世界に春が来た。
脳天を突き破り、頭から色鮮やかなラナンキュラスが咲き乱れそうなこの暖かさ胸に抱き早速フォシルは彼女の名前を呼んでみる。
「か、楓・・・さん・・・」
「なんか硬いな?ってか、そもそもで言えば恐れ多くも、あの所長を源以って呼んでるクセに・・・それとも私と君の距離感は所長以下なのかねフォシル君?」
嬉しさ65%、戸惑い20%、躊躇い15%で構成されたフォシルの心境を見抜いた楓は、その35%分のマイナスを断ち切るべく敢えて源以のマネをして場を和ませようとする。
遠慮がちなフォシルが唯一牙を剥く相手に成りすませばと考えた彼女の狙いはビンゴ。
ひどい棒読みながらも必死に平常心を演じるフォシルを嘲笑い、楓は華麗なターンを決めて背中で語る。
「フォシルは私達の事をどう思ってるの?」
「どう思う・・・?」
「たとえばだけど私達がいなければフォシルは、こんな目に合わなかったんだよ?福祉技研なんてモノがなければフォシルは自分の時代で遊んで、恋して・・・夢とかやりたい事とかあったでしょ」
「そういう意味で言ってるんだったら、なんだろ?ほら、俺ってさ・・・その頃の記憶が殆ど無いって言うか、自分の事を思い出せないって言うかさ。それに源以が言ってたけど俺は冷凍冬眠されて未来にいるんでしょ?その頃には福祉技研なんてなかっただろうし逆に言えば福祉技研があって源以達がいたからこそ俺は"今を生きる"事が出来るのかなぁって。もしかしたら俺は、その時代でとんでもない悪党だったのかも知れない・・・でなきゃ冷凍冬眠なんてさせられなかったと思う。確かに福祉技研、特に源以には色々思うところはあるけど・・・でも、こんな目に合わなきゃ楓に会えなかったって考えると・・・それはそれでよかったような気もしないでもないような・・・」
「・・・0点!!」
「えぇっ、なにが!?」
「該当データ、女性を泣かせる男は最低。口舌の刃で湊楓の精神を攻撃し、泣かせたフォシルの言動は最低の一言です」
人気のない通路の曲がり角、ひょっこりと現れたアーティが不意に言葉を放つ。
フォシルの定期診断と同じく、2週間に1度の機体調整、AIの学習内容などのチェックを終えたアーティは大至急マスターとの合流を図ると同時に周辺警護の為ナノマシンリンクで楓の波長を解析。
結果、彼女が背を向けたまま泣いている事を認識し、その事をフォシルに告げる。
"なんで!?"と混乱するフォシルを放置して楓は狭い通路を猛ダッシュ、一切振り返る事なく立ち去ってしまう。
去り行く彼女を引き止める以前に処理すべき事が多すぎてフォシルは指先1つ動かなかった。
"あ、あぁ・・・"と間の抜けた声を漏らすフォシルは当然、彼女の涙の理由など理解してはいない。
無論それが誰の為に流された涙なのかも。