ACT.9 P→Q
西暦4192年4月10日。
汚れた天の下、行き交う人々の活気に別れを告げてたどり着いた先は殺風景な工場地帯。
辺りをいくら見渡せど、あるのは無機質な塊群とだだっ広い巨大な敷地のみ。
そこに佇む倉庫の一画、サードメイカンドにより全自動管理された機械の城には昼夜を問わずガガガッ!と唸りを上げる機械達の声が響き渡っているが耳を澄ませば微かに聞こえるそれとは別の何者かが奏でる悲しい歌。
"Очи черные очи жгучие
Очи страстные и прекрасные
Как люблю я вас Как боюсь я вас
Знать увидел вас я не в добр ый час
Очи черные жгуче пламенны
И манят они в страны дальни е
Где царит любовь где царит покой
Где страданья нет где вражд е запрет
Не встречалбы вас не страда л бы так
Я прожил бы жизнь улыбаючис ь
Вы сгубили меня очи черные
Унесли навек мое счастие
Очи черные очи жгучие
Очи страстные и прекрасные
Вы сгубили меня очи черные
Унесли навек мое счастие
Очи черные очи жгучие
Очи страстные и прекрасные
Как люблю я вас Как боюсь я вас
Знать увидел вас я не в добр ый час"
「"黒い瞳"・・・何に対して捧げた歌なんですか?」
柱の影にいるであろう悲しい歌声の主に声を掛けたのは解放者の一員にしてスカウトの1人、久茂師杏花。
そしてこの場所の正体は裏で彼らを支援する権力者によって提供された解放者のアジトの1つ。
フッと鼻で笑った歌声の主は杏花の問いに"人の姿をした神に対してだ"と答えゆっくりと柱の影から姿を現した。
薄茶色のインバネスコートに合わせた同色のスーツとハット。
フォーマルな装いを崩さぬよう黒で統一された革手袋に革靴。
かと思いきや、その雰囲気には凡そ似つかわしくない不気味なデザインのペストマスクで頭部全体を覆い尽くし無機質な天井から降り注ぐ僅かな光を受けて煌びやかに反射する大きなラウンドレンズと鳥の嘴を思わせる防塵フィルターはまさに怪異の一言。
そしてこのペストマスクは未来に於いて解放者のパーソナルマークであると同時に"ある人物"の象徴とされている。
推理小説に登場する怪人を想像すれば難なく浮かび上がるシルエットを身に纏ったその人物の名は国際指定テロ組織解放者の絶対的指導者"パン=エンド"。
神とも悪魔とも畏れられ、常に世界中を釘付けにする圧倒的カリスマ性を醸し出す反面、その素性については不明な点が殆ど。
その為、国連議会が開かれる度にパン=エンドの正体についてが議題となるが納得のいく結論が出た試しはない。
映像の中で語られる犯行声明が全て日本語である事から日本人或いは日本出身だと言う意見もあれば、カムフラージュの為に敢えてこの小さな島国だけで行き交う唯一無二の言語を使用しているだとか。
世界中から首脳と呼ばれる賢い人間達が一堂に会し、必死に意見を交換し合うが結局のところそれらが憶測の域を出る事はない。
パン=エンドの正体をここまで不透明にする最大の理由としてWCNSが管理する統括コードにナノマシン情報が登録されていない事が挙げられる。
本名は疎か出身、年齢、性別も不明。
いつどこで生まれ家族構成はどのようになっていて、いつからパン=エンドを名乗っているのかも不明。
その上、常にペストマスクで顔を覆っている事もあり正直を言ってしまえば人間なのかどうかすらも怪しいレベル。
とどのつまり、パン=エンドという存在を肯定する行為自体が既に困難極まりなく、西暦4192年現在に於いて世界で最も謎に包まれた"なにか"として各国の首脳達を翻弄しているのだ。
にも拘らずパン=エンド率いる解放者には常時溢れんばかりの志願者達とそれを支持せんと名乗りを上げる権力者達があとを絶たない。
まさにこれこそが彼の者をカリスマと謳わせる所以であり姿形や存在する次元を問う前にパン=エンドには世界中を惹きつける不思議な力があるのだろう。
パン=エンドがパン=エンドとして存在している限りそれ以上でもそれ以下でもなく、後にも先にもパン=エンドはこの世にただ1人。
偉大なる指導者を前に杏花は近況報告をしながら世界中のお偉いさん方が頭を抱えて悩み狂う滑稽な様を嘲笑い、締めの情報として人間を隠し持つ福祉技研についての近況を語る。
社会福祉法人 技能開発研究所としての"表の顔"ならいざ知らず、日本政府がその存在をひた隠しにする暗躍組織の情報が外部に漏れているという事はイコールで京澪(仮)の他にも福祉技研内部には解放者の内通者が潜んでいる事を意味していた。
この事実に杏花は"悪魔と呼ばれる男も噂ほどではないですね"と源以を見下すが、パン=エンドだけがその先にある真意を見抜いていた。
「噂ほどでもないか・・・こんな見え透いた罠に掛かるようでは、いつ松永に足元をすくわれるともわからんな。あの男が悪魔たる所以は、なにもキチガイっぷりだけではない。どうやら福祉技研は俺達を必要としているらしい」
逆に彼女を嘲笑いながらコンッと、指先で杏花の額を弾くとパン=エンドは悪魔の御心を特殊なルールのジャンケンに例えて説き始める。
そのジャンケンはグー、チョキ、パーの三竦みの他、同じ手を出した時には相殺になるという基本は変わらないものの、特殊ルールとして決着がつくまでの間はたとえ100戦だろうが10000戦だろうが互いが常に相手の出す手の内がわかるというモノだった。
相手がパーを出すとわかればコチラはチョキを出せばいいのだが、すると相手からはコチラがチョキを出すという事がわかってしまう。
そして相手の手の内がグーに変化したのを確認してコチラも手の内をパーに変更する。
そうやって延々と手札を変え続けても所詮はグー、チョキ、パーの三竦み。
決着のつかない戦いの中で最終的に両者が出す手札は決まって相殺になる事を知っているからこそ福祉技研は内通者を泳がせ、相手の手の内を知り得たと錯覚させるような情報をコチラ側にプレゼントしているのだとパン=エンドは語る。
事実解放者はナノマシン・ジャックや死の遺伝情報を始め、人間の存在こそ知ってはいるもののそれらの詳細、特に人間に関しては何世紀頃の誰で今現在ドコにいるのかなど本当に必要な情報は何1つ入手出来てはいない。
「真実を知らせるも真相は教えず。日本政府から入手したEscapeGoatに関する情報と松永が語った内容とでは、かなりの違いがあるようだが日本政府の狙いはおそらくWCNSであると見て間違いない。となれば必然的にその飼い犬である福祉技研もWCNSを狙うのが道理・・・?」
なぜ福祉技研が京澪(仮)以降、内通者を捕えずに泳がせているのか。
その理由を杏花に説明しながら自らも情報の整理をしていた最中、まるで魚の小骨が喉に引っかかったような小さいながらも大きな違和感にパン=エンドの口は言葉途中で止まってしまう。
刹那に感じたこの違和感の正体はなんなのか・・・突然黙り込み、首を傾げるパン=エンドを前に杏花の頭には"?"が浮かぶが彼女は何も喋らない。
真実という名の闇から突如現れ、真相に向けて伸ばした手を遮るかのように絡まり縺れた不可思議の糸を1本1本解いていく事約10分。
じっくりと体感すれば確かに長い沈黙を経てパン=エンドは1つの答えを導き出す。
「なるほど・・・そういう事か。どうやら飼い主を気取っていた日本政府は初めから飼い犬にリードを奪われていただけではなく、そのまま首輪を付けられ逆に支配されてしまっていたようだな。飼い主が思い描いていた当初のEscapeGoatは松永の手により大幅に書き換えられた・・・これなら辻褄が合う」
「どういう事ですか?」
「不確定な情報は不安を煽るだけだが、俺の想像するモノ全てが正しかったとして説明しよう」
コートを巻き込まぬよう揺れる裾を手で押さえ柱に寄り掛かったパン=エンドはゆっくりと足を交差させながら腕を組み"脆弱者の集まりであるハズの日本政府がEscapeGoatなるプランを下した発端は死神ウィルスと松永の狂気だ"と話の切り口を作り、少し俯きながらも間髪入れずに言葉を続ける。
その中で語られたキーワードは死神、EscapeGoat、 人間 、ナノマシン・ジャック、S。
これらを元に語られた筋書きは以下の通りである。
当初日本政府が計画していたEscapeGoatとは今回の死神事件の為に発令されたモノではなく、それこそ何十年、何百年も昔から日本国最重要機密として人間と共に封印されていた禁忌のプロジェクト。
そして本来のEscapeGoatの内容は、世界のドコかに存在するWCNSの在処とソレを管理する12人(通称十二支聖)のナノマシン情報を見つけ出しそれをナノマシン・ジャックで乗っ取り、書き換え、日本政府ないし時の内閣総理大臣が十二支聖に成り代わりWCNSという名の何物にも侵される事のない絶対的抑止力の管理者として君臨する事で世界の規範、世界の秩序を示そうとするモノであると。
ナノマシンを命の根本に据えた未来に於いて、全てはWCNSの管理の下に成り立っており人類の領域がこの世界そのものだとしたらWCNSは差し詰め神の領域。
そこに人間という名のキーを組み込む事でEscapeGoatは完成する。
そもそもWCNSの始まりは今から1200年ほど前のナノマシン黎明期。
当時はまだナノマシンの危険性を唱える声などもあった事からWCNS開発者達は"念の為に"全ナノマシンを一括強制停止させる為のプログラムを組み込み、これらの声を鎮めたと資料に残っている。
そしてそのプログラムを発動させる条件こそ、かつて "ごまん"と存在していた人間の生体情報をWCNSに認証させる事。
だがそれを未来で行なってしまえばどのような結末が訪れるかなど言うに及ばず、寧ろそれこそが日本政府の狙いであった。
使えば世界を終わらせる事ができる最強の力と、その力を発動させる為の条件が手の内にある事をチラつかせれば実質相手が誰であろうとも無条件降伏せざるを得ない。
無論、日本政府としてはこのプログラムを発動させる気など毛頭もなく世界が生殺与奪の緊張感に包まれようと誰もが死ぬの事ない"アザゼルの為の山羊"として生き続けられる未来を想像していた。
決して殺される事のない、寧ろアザゼルの為に生かさねばならない生け贄から転じてEscapeGoatの名を冠したそれは、何かしらのキッカケでこの計画の存在を知ってしまった"あの男"の登場により生け贄の意義を変貌させる。
どんな計画であろうともそれを実行する度胸と勇気なくしてはただの妄言。
どんな兵器であろうともそれを使う覚悟と責任がなければただのガラクタ。
そして脆弱な日本政府には度胸も勇気もなければ覚悟も責任もなかった。
つまりEscapeGoatとは日本政府が自らの意思で下したモノではなく、日本政府にそう決断させるべく裏で源以が仕向けたモノであると。
計画を改竄した理由については不明だが悪魔の考える事にろくな事はない。
そして源以は死神ウィルスを撒き散らしたのはSだと睨んでいる。
死神の感染経路には現状不明な点が多いが、もしこれがWCNSを介したモノだとしたら全ての謎は面白いほど簡単に解けていく。
事実、世界中の諜報機関が利用している統括コードはあくまでWCNSの中枢機関程度の代物であり、それをどうしたからといってWCNS全体を掌握した事にはならない。
その上で今回の死神事件の主犯がSだとした場合、それはイコールでWCNSの在処ないし十二支聖の情報を知っているという事になる。
まして相手が衛星軌道上に国家を構え、科学の域を超えた圧倒的技術を魔法と豪語するならば、この仮説もまんざらではない。
そこで源以は真相を確かめるべく彼の国の壊滅を掲げる解放者を餌として選んだ。
その為、解放者には活き餌として元気に跳ね続けてもらわなければならず、その活力剤代わりに"餌が喰いつくであろう餌"として日本政府からの指令と福祉技研内部の情報をチラつかせている。
これがパン=エンドの推測した全てである。
「まさかっ!それじゃまるで──」
「仕方あるまい?国の代表という名の椅子にしがみ付く口先だけの無能ならともかく悪魔と魔法使いが相手では先の先の先の先まで見据えなければ遅れを取る。予想を予想する究極の先読み・・・不毛の極みに思えるかも知れないがこれが現実だ」
「なら・・・今後はどうするつもりなのですか?」
「ふん、俺達のやる事は変わらない。人間はもっと自由になるべきだ・・・だが世界を腐らせる事が自由の証明ではない。人間は自らを人間という名の檻に閉じ込め、その中で必死に人間らしさを求めて彷徨っている。閉じ込められた世界のドコを探したところで、求めるモノなどない事を知っておきながらだ。だからこそ人間は地球と・・・世界と1つになるべきなんだ。自らを解き放つ方法を忘れた人類に代わり全ての柵を解き放つ者、それが俺達解放者だ」
一通りの会話を終え、今後の予定を立てるべくパン=エンドが倉庫の奥にもどろうとした刹那、杏花がスカウトしてきた小さな報復者照史がその行く手に立ち塞がりパン=エンドに訴えかける。
「そこまでわかってるなら、どうして福祉技研を放っておくんだ!今すぐにでもアイツらを叩き潰せば邪魔者はいなくなるんだろ!?」
「ガキが・・・パン=エンドの話を聞いてたってんなら、どうしてそんな結論が出るんだい?」
「だってアイツらは──」
「お前と福祉技研との間に何があったかは理解している。だからこそ言おう、復讐心に飲まれるなと。確かに福祉技研は最たる敵だが俺達の根本は殺し屋じゃない」
「パン=エンド!!」
「ったく・・・パン=エンドは今のアンタにゃ何も出来ないって言ってんだよ。その時になりゃ嫌でもヤツらとはドンパチすんだから、それまで・・・って、聞いてんのかい!?」
腰に手を当て呆れ顔を見せる杏花とは裏腹に1人焦りの色を見せ、半ば感情を暴走させた照史は2人の間をすり抜けるように倉庫の出口へと走り出す。
舌打ち混じりに照史をドヤしながら若さ故に暴走する復讐心を引っ捕らえるべく杏花は大きく1歩踏み出すが相手もさるもの。
なかなかに小回りの効く小さな体を駆使して彼女の手を躱し、とうとう倉庫を飛び出してしまう。
パン=エンドの手前、照史の狼藉を許すわけにはいかない杏花が追跡の体勢をとった刹那、突如パン=エンドが彼女の前に腕を突き出し"やめておけ"と一言。
大方はその意思に従っていれば間違いない事を知る彼女は照史の背中に向けて特大のため息を投げ捨てると体ごとパン=エンドに向き直り、何か気の利いた言葉を探していた。
呆れて怒鳴って疲れ果て、休む間もなく繰り広げられていた周囲のゴタゴタが少し落ち着いてきたかなと思った矢先、今度はナノマシンリンクに同志からの連絡を意味する"CALL:Le"の応答が入る。
"このクソ忙しい時に!"と胸の内で文句を垂れながら同志の応答に接続。
イラッとした表情で立ったまま貧乏ゆすりをしながら黙り込む杏花だが、これで会話自体は成立しているのだ。
現代に存在する携帯電話などと違いナノマシンリンクによる会話は口から発する音を必要としない為、その内容は当人達にしか聞き取れない。
約5分、良くも悪くも秘匿性の高すぎるナノマシンリンクによる会話を終えた杏花は改めてパン=エンドに向き直り、誰から何の為の連絡だったのかを伝えると解放者には良い意味で、それ以外の者達には悪い意味で事態は急変する。
「"亦左"からです。半年前に日本海沖300km地点で発見した"例の兵器"の調査が完了したそうです」
「そうか。結果は何と出た?」
「やはり汚染海水による腐食が激しく、また設計自体もかなり古い事からジェネレータを含む殆どのパーツが互換性に欠けるとの事です。ですがジェネレータに関しては海底に張り巡らされているプラント用の動力パイプや、大型戦艦をジェネレータとして外部接続すれば理論上それらを補える数値にはなるそうです。それでも問題は山積みで各部を補強したとしても最大出力を維持できるのはせいぜい1分が限度。それ以上は内部に溜め込まれた海水により水素爆発を起こす危険があるとも言っています」
「なるほど。だが逆に言えば1発限りの最終兵器として割り切れば稼働させる事は出来る・・・こんなモノが海底に沈んでいたとなれば、さながらケルト神話に登場した伝説の槍を思い出さずにはいられんな。それによれば"アラドヴァル"は穂先を水に浸しておかなければ都市を焼き尽くしてしまうそうだが、俺達のアラドヴァルが焼き尽くすモノは大宇宙を彷徨う亡霊の国 ・・・いつの時代も古い武器より、新しい武器の方が性能は良い。未来の神器を見たら古の神々とて、あまりの悔しさにその顔を歪ませるだろう。大至急現場の同志達に連絡を取り、必要な物資と技術を確認しろ。それと日本海沿岸部の第7除染プラント付近に偽装した戦艦3隻を用意させるように伝えろ」
日本を含む4つの国に接する日本海で解放者が自由に行動できる理由はそれぞれの国に解放者の支援者がいる事に他ならず、その後パン=エンドの指示により急遽予定を変更した解放者は4ヶ国の同志と結束して謎の兵器"アラドヴァル"の復活を急ぐ。
泳がし泳がされ手の内の知れた駆け引きを繰り返し、 様々な目論見が交差する42世紀の暗躍合戦は制するのは誰なのか・・・その行く末を見据えているのは世界でも僅か数人だけだった。