三、幸せの形
顔に残った水分を拭うのにタオルに顔をうずめたホズは、はたと手を止めた。眼窩が露出している今の自分の顔は、幼い子供にはさぞ恐ろしく映るに違いない。気づいた瞬間、ホズはタオルから顔を上げられなくなってしまった。
タオルで顔を覆ったまま、ずるずるとその場にへたりこんだホズに、ナリとナルヴィは首をかしげた。
「どうしたの?」
ナルヴィの問いかけにナリも続ける。
「腹でも痛いのか?」
二人の不思議そうな声に、ホズは無言で首を横に振った。誰も何も話さなかった。しばらくして、兄弟の疑問の視線に耐えられなくなったホズが小さく口を開いた。
「今の僕の姿は、お二人には凄く不気味なんじゃないですか? それなのに、こんなことを手伝わせてしまって……。嫌でしたよね。ごめんなさい、僕、気が付かなくて」
ナリとナルヴィは顔を見合わせた。ナリはため息をついて、仕方がないとでも言いたげに肩をすくめた。
「そりゃ、見てて凄く気持ちがいいってわけじゃないけどさ」
「目隠しすれば大丈夫だよ! ホズは前と何も変わらないよ?」
ナルヴィはタオルと一緒に用意した目隠し用の黒くて細い布を、右手でぶんぶん振り回した。
「だけど、こんな見た目になってしまっては……」
「それ、オレらの兄弟をバカにしてるのか?」
不満げに口をとがらせたナリが、まだ言い募ろうとするホズを遮って言った。
「え?」
「そうだよね。フェンリルにぃなんて、毛むくじゃらのでっかいオオカミで、オーディンだって丸飲みにしちゃう怪物だよ。牙だって、大人の脚くらいはあるもんね!」
ナルヴィはフェンリルの大きさを表現しようと、両手を目一杯広げながら言った。
「それは、そうかもしれませんが……。でも、フェンリルくんはおとなしい子ですよ。人の言葉もわかりますし、賢いし、いい子です」
慌てて反論するホズに、兄弟は目を見交わせてニンマリと笑った。後ろ手に手を組んでナルヴィが続ける。
「それに、ヨルにぃなんて蛇だし」
同じようにニヤニヤ笑いながら、ナリがさらに続ける。
「ただの蛇じゃないんだぜ。ミッドガルドを取り巻いて、自分の尻尾をくわえられるくらいデカいし、猛毒の霧を吐ける毒蛇だし、ヨルにぃが暴れると海は荒れてミッドガルドは大騒ぎだし!」
「でも、ヨルムンガンドくんだって、悪い子じゃないんですよ。彼、凄く無口で、僕はあまり話したことないですし、何を考えてるのかも解りづらいですけど……。でも、悪い子じゃありませんよ」
ホズの反論に、ナリがますますニヤニヤしながら言い募る。
「ヘルねぇなんてさ。左半分、死んだみたいに黒くなってるぜ」
「左側は表情もほとんど動かないしさ。あれ、薄暗い中でばったり会うと、凄く怖いんだよね」
妙にしみじみと言うナルヴィの言葉にホズはカチンと来て、無意識のうちにタオルから顔を上げて二人の声のする方を睨みつけた。
「二人とも女の子に向かって、その物言いはないでしょう。それに、ヘルはとても優しい子です。誰にだって別け隔てなく親切にしますし、とても公平な子です。左半身がうまく動かないせいでとても苦労もしているのに、人を見かけだけで判断するのは感心しません!」
最後には声を荒らげたホズに、兄弟はにっこり笑って頷いた。
「だろ? だからさ」
「ホズのことだって、別に全然怖くなんかないよ」
ナルヴィは言いながら、ホズの目元に黒い布で目隠しをした。眼窩の見えなくなったホズの顔は、ぽかんと大口を開けた間抜け面だった。
「きみたち、わざと……?」
あっけにとられるホズにナリは肩をすくめて言った。
「ま、だからさ。ホズはいつもどおりでいいんじゃん?」
「変わらない変わらない」
ナルヴィがクスクスとおかしそうに笑った。
ホズはなんだか脱力して、つられて口の端に笑みを浮かべた。ナルヴィが巻いた目隠しをぎゅっと結びなおして立ち上がる。
「お二人とも、さすがはあのロキの息子、といったところですか」
苦笑しながらタオルを差し出すと、かわりに小さな手がホズの手を握った。
「ま、そういうことだな」
「僕たちだって、伊達にフェンリルにぃたちと兄弟やってるわけじゃないんだよ」
ホズは、ナリとナルヴィのどことなく自慢げな物言いに笑みをうかべ、手を引かれるまま元の部屋へと歩き出した。
一通りの事情を話し終えたロキが口を閉ざした時、ナンナは俯いて唇を噛んでいた。膝の上で握った拳が震えていた。
「酷い……。実の息子に、なんてこと……」
シギュンが何か慰めの言葉をかけようと口を開きかけたが、その前にナンナが続けた。
「あいつは、いつもそうだ。あたしの大切なものばかり奪っていく。家も、子供たちも、あの人も……!」
ナンナは叩きつけるように言葉を吐いた。彼女がどんな経験をしてきたか知っているシギュンは、かえって何も言えなくなってしまった。
「ナンナ……?」
部屋の扉が開いて、戸惑いながらホズが顔をのぞかせた。その腰のあたりでは、ナリとナルヴィが、まるで警戒心の強い野生動物のように顔を少しだけ出して部屋の中の様子をうかがっていた。
「ホズ!」
ナンナは椅子を蹴ってホズに抱きついた。それを危なげなく受け止めたホズは、ナンナの肩口で切りそろえられた髪を撫でて、首を傾げた。
「……怒ってるんですか?」
「あなたの父親にね」
ホズの胸に顔をうずめたまま、ナンナが答えた。背中に回した手をぎゅっと握りしめる。
「ナンナ、僕は父を恨みには思っていません。理由はわかりませんが、僕の為らしいですし。だから、父に何かしようなんて考えないで下さい」
「……どうして? あなたは罪もないのに傷つけられた。その傷に対して当然、報復する権利があるはずだわ」
「ナンナ、あなたがアスガルドに入れるのは、僕がヘイムダルに掛け合ったからなのは知っているでしょう? 彼は僕への信頼を担保に、あなたがビフレストを通ることを許可してくれています。あなたのアスガルドでの行動に、僕は全責任を負っているんです。あなたが万が一問題を起こせば僕がどうなるか、ナンナは十分わかっていますよね?」
「……ずるい。そんな言い方されたら、あたしは何もできないじゃない……!」
「何もして欲しくないんです。あなたが今までどおりでいてくれるのなら、僕は何も損なわれていません。あ、でも……」
ホズの言いかけた続きを聞こうとナンナは顔を上げた。黒い目隠しをした顔が、ナンナにはとても痛ましく思えた。
「もし、よければなんですが、ほら、目が見えないと色々と不便でしょう? だから、あなたが嫌じゃなかったら、僕の家に越してきてくれると嬉しいかな、なんて……」
ホズは照れくさそうに明後日の方向を向いた。目の前にさらされた赤くなった頬を見ながら、ナンナは目をまたたいた。
「え?」
「あの、もちろん、別に、無理にってわけじゃないんです。あなたにとって、アスガルドは決して住みやすいところじゃないだろうし——」
「ねぇ、ホズ。それって、プロポーズよね?」
「えっと、あなたが子供たちを大切にしていることは知ってますし、彼らが嫌だって言えば、僕はもちろん身を引くつもりですし——」
「言うわけないじゃない! いったい、誰のおかげであの子たちともう一度会えたと思ってるの!」
「それで、あの、プロポーズ、だと思います、はい。たぶん、僕は、一生、迷惑かけることになると思いますけど、……いいんですか?」
不安げに問いかけたホズに、ナンナは優しく微笑んで答えた。
「あたしに断る理由があると思うの?」
「少なくとも、僕には色々あるように思えます」
ホズの答えにナンナは笑った。おかしそうに、愛おしそうに。
「馬鹿ね、あるわけないじゃない。それで、あたしはいつから、あなたと一緒に住めるの?」
「ナンナが来てくれるのなら、いつだって大歓迎ですよ」
「なら、今すぐね」
ナンナはホズの頬に手を添えると、目を閉じて爪先立った。お互いの顔が近づいていく。
ナンナとホズの様子に、ナリとナルヴィは息を呑んだ。兄弟は目を真ん丸にしたまま、母親を見やった。見つめられたシギュンは目をまたたいた。一瞬の後、三対の目が今度は一斉にロキに向けられた。
「な、なんだよ」
シギュンはいたずらっぽく笑うと、ナンナがホズにしたように、隣に座るロキに抱きついてキスを見舞った。
去っていくホズとナンナを見送りながら、シギュンはため息をついた。
「恨みには思わない、か。強いわね、彼」
シギュンの小さな呟き声をロキは聞き漏らさなかった。口の端を上げて、茶化すように返事を返す。
「お前もなかなかだと思うけどなぁ。なんたって、俺を捕まえておけるくらいだし」
「あら、強い女はお嫌い?」
強気に問い返したシギュンにロキは大げさに驚いてみせる。
「まさか! お前ほどのいい女なんて、これ以上どこを探したって見つかりゃしねぇよ」
「ふふふ」
シギュンは照れくさそうに笑うと、肩でロキを小突いた。ロキはシギュンに柔らかな視線を向け、ふっと小さく笑みを浮かべた。
ロキは無言でシギュンから視線を外すと、ナンナに支えられながら遠ざかっていくホズの背中へと目を向けた。
「なぁ、シギュン」
ロキに静かに呼びかけられて、シギュンは甘えた声を出した
「なぁに?」
「お前、今、幸せか?」
「幸せよ。なに? オーディンが予言に抗おうとする姿を見て、感化されちゃったの?」
「まあ、そんなところだ」
「私、今が一番幸せよ。たとえ、この先に何があっても、あなたの隣にいるのが、一番幸せ」
シギュンはロキの左腕に両腕を絡めて、彼の肩に頬を寄せた。目を細めて幸せそうに笑う彼女の手を、ロキがぎゅっと握りしめた。
サイトで連載しています。
続きはこちらへどうぞ。http://no19465.web.fc2.com/north/edda/an04.html
目次はこちらhttp://no19465.web.fc2.com/north/edda/index.html