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二、バルドルの夢

 ホズが目を覚ました時、目の前は真っ暗だった。まぶたを持ち上げようとして、それが困難であることに気づく。右手で目元に触れてみる。そこには柔らかな手触りの包帯が巻かれていた。


 瞬間、自分の身に起きたことを思い出して、ホズは飛び起きた。腕を抱いて身震いする。いくら他に方法がないからといって、息子の両目をえぐり出す父神が信じられなかった。そもそも、一体どういうわけなのか、自分は一切聞いていないし、わからない。

「あら、起きたのね。傷は大丈夫?」


 優しく話しかけられてホズは声のした方に顔を向けた。当然のことながら相手の姿は見えない。凛とした女の声だった。記憶に残るほどの聞き覚えはない。エイルの眷属の女神だろうか?

「あなたは両目をえぐり取られて、高熱に三日もうなされていたのよ。残念だけれど、例えエイルに頼んでも、あなたの両目は戻らないわ。それに、今回のことを仕掛けたのはオー……」


 ホズは右手を上げて彼女の話を遮った。自分の両目をえぐり取ったのが誰なのか。今はその名を聞きたくなかった。

「それより、手当をして頂いてありがとうございます。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


 女はころころとかわいらしい声を上げて笑った。

「わからなくても仕方がないわね。シギュンです。その節は大変お世話になりました」


 彼女が礼を取ったのが空気の流れで伝わってきて、ホズも頭を下げた。ホズが再び口を開こうとした時、扉を壁に叩きつける大きな音が響き、少し冷たい空気が流れ込んできた。駆けまわる子供の軽い足音と楽しげな笑い声が部屋を満たす。

「母さん! 母さん! 連れてきたよ!」

「連れてきたよ!」

「ナリ、ナルヴィ、おかえりなさい」


 微笑みを含んだ声で言って、シギュンは子供たちを迎え入れた。一方、ホズは首をかしげた。いったい誰を連れてきたのだろうか?

「ホズ! ああ、探したのよ!」


 聴きなじんだ女性の声に、ホズは顔を上げた。柔らかな指先が優しい手つきで彼の頬を包み込んだ。

「……ナンナ?」

「そうよ。家に行ったら誰もいなくて、びっくりしたんだから!」


 ナンナは傷の具合を確かめるように、ホズの包帯の巻かれた米神の辺りに触れた。ホズが痛がる様子を見せないことを確認すると、彼女はホズの頭を胸に抱き寄せた。

「まさか、ここにいるなんて思わなかった! 無事でよかった。本当に、無事でよかった……」


 頭上から降ってくる声が涙に震えていた。ホズはそっと両腕をナンナの背中に回した。抱き寄せるナンナの腕に一層力が込められた。

「信じられない。こんな酷いこと……」

「はいはい、人の家でいちゃつくのはそれくらいにしといてねー」


 突然、割って入ってきた声にナンナが振り返る気配がした。ホズは彼女の背中に回していた腕をほどき、声の方へ顔を向けた。

「ロキ? なぜ、あなたがここに?」

「なぜって、それはー、ここが俺の家だからですー」


 笑みを含んだ機嫌良さそうな声が答えた。少し離れたところで扉を閉じる音がする。家という単語がロキの人物像と結びつかず、ホズは内心で首をかしげた。

「ロキにも家があったんですね」

「なに言っちゃってくれてるんですか、こう見えても俺は妻子持ちよ」


 誰にだって家はある。当たり前のことだが、どうにも奔放なロキと家庭のイメージが上手く結びつかない。


 ロキは左手に持っていた角杯を軽く掲げた。角杯は溢れそうなほどの清水で満たされている。

「ヘイムダルからギャラルホルンを借りてきた。これで眼孔を洗え。首だけになったミーミルの命を繋ぎ止めてる泉の水だ。気休めにはなるだろう」

「ありがとう」


 ホズは頷いて足もとにかかっている布団をのけた。手探りで床に足を下ろして、立ち上がる。

「ホズを家の流しまで案内してくれるの、だーれだ!」


 ロキが角杯を持った左腕を高く伸ばせば、ナリとナルヴィが我先に、と手を上げて飛び上がった。

「はい!」

「はいはい!」

「はい、じゃあ、手を引いて案内してやってくれ。足もとに注意してな」


 ロキはナリに角杯を渡し、ナルヴィの手を引いてホズの手を握らせた。

「では二人とも、しっかりと案内してくれたまえ!」

「任せてくれたまえよ!」

「たまえよ!」


 子供たちは胸を張って返事をすると、「こっちだよ」、「歩ける?」など、口々に好き勝手な声をかけながらホズと共に部屋を後にした。

「さて、と……」


 残ったナンナとシギュンの顔を見て、ロキは腕を組んだ。

「ナンナ、どこまで知りたい? ホズに話すかどうかは、あんたに任せる」


 問われたナンナはまっすぐな強い目でロキを見返した。

「起こったこと、全てを」


 ロキは頷くと、先程までホズが寝ていた寝台の縁に腰掛け、足を組んだ。ナンナはロキから目を離さずにシギュンが用意した椅子に座った。

「今回のことは、バルドルの夢が発端だ。ホズの兄が、自分が殺される夢を見るようになったのは、今から一月と少し前のことだ」


 ◆ ◆ ◆


 冥府へと続く暗い道をオーディンは一人、馬を走らせていた。手綱を取る乗り手の顔がスレイプニルの鬣に触れるほど前屈みになっている。焦る主人の心情に応えようと八本足の馬は出来る限りの早さで足を運んだ。


 バルドルが最初に凶夢を見てから、もうすぐ一月になる。一度だけならただの夢だと笑い飛ばせもするが、それが毎晩のことで、しかも一月近く続くとなれば、もう笑ってはいられない。夢は、しばしば現実を映し出す鏡となる。オーディンは息子に迫る死の危険に対処する必要があった。


 山の谷間を北に向かって斜めに伸びている道を下へ下へと駆けて行く。陽の光さえ差し込まぬ地下深くへ、躊躇もせずに馬を進める。


 そうして、オーディンはとうとう生者の国と死者の国の堺に流れるギョルの川岸までやって来た。寒さに息が白く凍る。手綱を握る手がかじかんで痛むほどだった。それでも、彼は馬を止めず、感慨にふけることもなく橋を越え、ヘルの館の東門を目指した。そこに巫女の墓があることをオーディンは知っていた。


 高くそびえる門扉の前で、スレイプニルは、ようやっと足を止めることを許された。久々に訪れたニブルヘイムを見渡して、オーディンは眉をしかめた。


 あちらこちらに美しい宝石が飾られ、ところどころ氷の張っている川の底では黄金がきらめいていた。以前に一度来た時には、冷たい霧と凍った土ばかりの場所だったというのに。やはり、何かが起ころうとしている。


 馬から降りたオーディンは巫女の墓の前で死者を目覚めさせる第十二のルーンを描いた。オーディンの呪文に、地の底から響くような微かな声が応えた。

「わたしに骨の折れる道をとらせた見知らぬ者は誰だ。雪に埋もれ、雨に打たれ、露に濡れ、わたしは長いこと死んでいた」


 それは、くすんだ女の影だった。陽の当たらない地下の屋敷の暗い影に隠れることで、なんとか存在しえるモノだった。

「ヴァルタムの子、ヴェグタムだ。巫女よ、ニブルヘイムのことを語ってくれ。この浮かれたような様子はなんだ。何故このように大規模な宴会の用意をしているのか。それに……」


 オーディンはいつものように偽名を使った。目だけ動かして、ちらと屋敷の中を窓から覗き見る。

「あの壁際の高座は誰の為のものだ」


 女は眉間にシワを寄せたようだった。影が不機嫌になったような気配がした。

「我らは近く迎え入れる者達のため黄金に輝く蜜酒を醸すことに忙しい。あの高座にバルドルが座せば、偉大なる神々の運命が始まるのだ。語ったのはやむを得ずだ。わたしは口を噤もう」


 オーディンは、薄れていこうとする影を引き止めて尋ねた。

「巫女よ、黙らないでくれ。全ての事柄がわかるまで、そなたに尋ねたいのだ。世界の終焉が、バルドルの死と共に始まるというのなら、バルドルの殺し手となり、その生命を奪うのは誰だ」


 影がにやりと嗤ったような気配がした。

「そのようなことを尋ねてどうしようというのか。予言は変えられぬ。いくら足掻いたとて無駄なこと。語ったのはやむを得ずだ。わたしは口を噤もう」


 オーディンは挑戦的に睨み返して言った。

「ラグナロクがバルドルの死をもって始まると言うのなら、その前にわしが殺し手を討ち取ってくれる。さあ、巫女よ、黙らないで教えてくれ。バルドルの殺し手となり、その生命を奪うのは誰だ」


 重ねての問いに、影は答えなかった。影はしばしの沈黙の後、静かな声で言った。

「わたしの考えでは、あんたはヴェグタムではなく、アスガルドの高御座に座すオーディンだろう」


 質問には答えずに、オーディンは言い返した。

「そなたは巫女でも賢者でもなく、三人の巨人の母だろう」


 影は一瞬黙り込み、次いで哄笑が爆発した。

「そう、わたしは過去、現在、未来の母親だ。オーディン、そなたにルーンを教えてやった旧世界の住人よ。お前がこの世界を造る前から、わたしはここで、死にながらにして世界を見てきた。よいか、予言は変えられぬ」

「くだらない予言など、わしが打ち壊してやるわ。バルドルは決して殺させん」


 激高するオーディンを嘲笑って、影は殺し手の名を告げた。

「では、教えてやろう。バルドルをここに運んでくる者の名は、ホズだ」


 オーディンは息をのんだ。

「なん……だと……?」

「何を驚く? バルドルが殺される前に、殺し手を討ち取ってしまえば良いだけなのだろう?」

「貴様……、ふざけたことを抜かしおって!」


 オーディンは怒りにまかせて女の影に槍を突き立てた。影は槍など気にした風もなく、言葉を紡いだ。

「帰れ、オーディン。愚か者が。せいぜい足掻いてみることだ。わたしを呼び覚ませたことを褒めてやろう。ロキが縛めから逃れ、破壊者として神々に終末をもたらすまで、二度と再び、わたしを訪ねる術を持つ者はいないだろうよ」


 影は言葉とともに薄れていき、言い終わる頃にはすっかり姿を消してしまった。

「……帰るぞ」


 不機嫌な顔でスレイプニルに跨がり、オーディンは鬣を撫でて馬首を返した。アスガルドに向かいながら、彼は息子の命を守るための奸計をめぐらせ始めた。


 オーディンがアスガルドの自分の屋敷に着くと、息子の未来を心配していたフリッグが駆け寄ってきて尋ねた。

「オーディン! バルドルは、あの子は大丈夫なんでしょう?」


 オーディンは馬から降りるなりフリッグを強く抱きしめた。妻が落ち着くのを待って、身体を離す。

「状況は良くない。やはり、バルドルの夢は一種の予言だ」

「そんな……。それでは、あの子は夢の通りに死ぬって言うんですか」


 息巻くフリッグを前に、オーディンは暗い表情でため息をついた。

「ただ死ぬより悪いかもしれん」


 フリッグは訝しげに眉を寄せる。

「どういうことです?」

「バルドルの死がラグナロクの引き金になる。……殺し手になるのは、ホズだ」


 フリッグは息を呑んだ。一瞬、頭の中が真っ白になる。フリッグは考えるよりも先に甲高い声で叫んでいた。

「そんな、嘘よ! そんなのでたらめです! 質の悪い占い師に騙されてきたんだわ! 兄弟で殺し合うだなんて、最も忌むべきこと、私の息子たちがするはずありません! 第一——」

「わしは!」


 オーディンの鋭い怒声にフリッグはびくりと身をすくませた。

「いや……、すまぬ。しかし、力ある者とそうでない者の見分けは付くつもりだ。あれは本物だ。わしがルーンの手解きを受けたのも、あの女だ」

「では、どうすることもできないと言うのですか。ただ黙って指を咥えて見ていろと?」

「いいや、予言は絶対ではない。誰も殺させはせん」


 オーディンは毅然として言い放った。オーディンの頼もしい言葉に、フリッグは少し肩の力を抜いた。

「でも、相手がホズでよかったわね。説得することは難しくないし……」

「説得? 何を言っている」


 厳しい声で問い返されてフリッグは不安げに夫を見返した。

「え? だって……」

「心は変わりやすい。嘘も付く、騙されも、操られもする。物理的に手出しできぬようにするより他ない」


 先ほどよりも厳しい顔をして言うオーディンにフリッグは再び不安な気持ちがわき上がってくるのを感じた。

「閉じ込めておくってことですか?」

「しかし、それではバルドルが生きている限り、ホズには一切の自由がなくなる」

「それじゃあ、あまりにも不憫です!」


 フリッグの訴えを取り合わず、オーディンは深刻な顔で呟く。

「いっそのこと腕を切り落としてしまうか……」

「そんなことをしたら、一人では何もできなくなってしまいます!」


 叫ぶフリッグをオーディンは苛立たしげに怒鳴りつけた。

「わかっておるわ! わかっておる……。しかし、ホズに兄殺しの大罪を犯させたくはない。それに、ラグナロクが始まった場合に失われるものとは比べ物にならぬ。生半なことでは運命は変えられぬ。確実にラグナロクを止めようと思えば、ホズを殺してしまうより他ない。それでさえ、絶対とは言い切れぬ。バルドルの死の要因が変わって徒労に終わるだけかもしれぬのだ」


 頭を抱えて肩を落とす夫の姿に、フリッグはなんと言って慰めれば良いのかわからなかった。彼女の心が千々に乱れているように、普段は強い夫の胸中も複雑なのだと察せられた。

「オーディン……」

「すまんが、少し考えさせてくれ」


 フリッグは励ますようにオーディンの肩にそっと手を置くと、屋敷へと歩みを促した。

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