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一、ホズとナンナ

 自室に向かって慌ただしい足音が迫ってきて、ホズは何事かと腰を浮かせた。何やら言い争いをしているらしい。


「オーディン! いい加減にしろ!」


「邪魔立てするな、ロキ!」


 扉を開ける間もなく自室になだれ込んできた二人を見てホズは目を見開いた。相当急いできたのか、それとも道中の争いが激しかったのか、二人とも息が荒い。


「何かあったんですか?」


 ぎろりと、隻眼のオーディンに睨まれて、ホズは身をすくませた。オーディンの霜を頂いた前髪から鋭く覗く眼光だけで人が殺せそうだった。


「あの……」


 神々の王である父の立場と、老齢が醸し出す威厳のある迫力に、ホズは慣れているつもりだった。しかし、オーディンのあまりの迫力にホズは思わず後じさった。


「……こうするより他に、方法がないのだ」


 肩で息をしながらオーディンが一歩踏み出す。押されるようにして、ホズが一歩さがった。


「なんの……、話ですか」


 ホズの声には隠しきれない戸惑いがありありと浮かんでいた。


「やめろ、オーディン! どんなことをしたって予言は変えられない。無意味なことは――」


「無意味かどうかは、わしが決める!」


 オーディンは灰色の外套を翻しながら、掲げた杖を打ち下ろした。床に叩きつけられた石突きが硬い音を響かせる。


 次の瞬間、ホズには何が起こったのか全くわからなかった。ロキには、オーディンのふくれあがった魔力が爆風のようにあたりに満ちていくのが感じられた。力の差が大きすぎて、とてもではないが対抗できそうにない。


 オーディンがホズへ向かってゆっくりと歩みを進める。後ろにさがろうとしたホズは息を呑んだ。身体が、動かない。


「許せ、ホズ。お前の為にも、こうするのが、一番いいのだ」


 かみしめるようにして、オーディンが低くうなった。


 ――いったい、なんのことですか!


 ホズは叫ぼうとしたが、舌が上顎にぴたりとくっついて離れない。言葉は苦しげなうめき声にしかならなかった。恐怖と焦りに心臓の鼓動が早くなる。


 ぎらぎらと光る隻眼に覗き込まれて、ホズは息を止めた。ぐっと、左目の瞼を押し広げられる。目の奥が痛い。眼球が押さえつけられてぼやけた視界に、銀色の細い影が見えた。恐怖のあまり身がすくんだ。下瞼から眼球にそって冷たいナイフが突き入れられる。


 ホズが声にならない悲鳴に喉を鳴らし、身動きのとれない身体をビクリと揺らした。


 ナイフの入った場所が熱い。眼球の奥が引っ張られる。束になった絹糸が一度に切れるような音がして、眼孔に風が入り込む感触がした。


 痛みに震える青年の様子には構わず、残った右目にも同じようにナイフが突き立てられる。硝子体を包む固い網膜にナイフが滑った。しばしの苦戦ののち、再び絹糸の束が切れるような感触がした。ぐちゅり、と湿った音を立てて、少しへこんだ眼球が取り出される。


 瞬間、オーディンの集中がわずかに途切れた。途端にホズの口から怒涛のように悲鳴が溢れ出す。あたりを支配していた強大な魔力が、戸惑ったように薄れ始める。拘束から解放されたホズは両目を覆って倒れ伏した。ほとばしるような絶叫の合間に荒い呼吸を繰り返す。


 未だ身体にまとわりつく魔力を振り切ってロキが動いた。立ち尽くしているオーディンの肩を掴む。


「それ以上は――」


 オーディンはゆらりと振り返った。先ほどまでの覇気が嘘のようだ。オーディンは無言で血に濡れた己の手を見つめていた。自身の犯してしまったことが、信じられないようだった。


 しかし、だからといって、怪我をしているわけではない。こちらは放っておいても大丈夫だろう。問題は、ホズの方だ。


 ロキは倒れている青年の傍らにかがみ込むと、ブナの枝に素早くルーンを彫り込んで、そっとホズに触れさせた。たちまち彼は深い眠りに誘われ、ホズは悲鳴を上げるのをやめた。徐々に全身の緊張も解けていく。


 ロキは険しい顔でホズを抱え上げた。止めきれなかった。今回のことは、双方に深い傷を残す。


 予言を変えることなど、ロキはとうの昔に諦めてしまっていた。けれども、いや、だからこそ、予言に抗い続けるオ-ディンの姿に少しも憧れないと言えば嘘になる。それでも――


 どんなに足掻いたところで、結果が変わらないのなら無駄なことだ。


 いまだ動けないでいるオーディンの背中を横目で睨みつけ、ロキは部屋を後にした。


 


 ナンナは上機嫌で神々の国への道をたどっていた。昨夜に振った雨のせいでぬかるんだ地面も、ナンナを不機嫌にすることはできなかった。それどころか、彼女は青い空を写す水溜りを覗きこんでは、鼻歌を歌いながら写り込んだ自分の姿を何度も確認した。肩口で切りそろえられた髪を手で梳いては小首をかしげ、くるぶし丈のスカートの裾を整える。軽やかな足取りは、今にも華麗なステップを踏み出しそうだった。


 虹の橋を渡ったナンナは、目の前に聳え立つ巨大な城門を見上げた。城門には普通、門番が暮らす門衛塔があるものだが、ここでは代わりに天の断崖と呼ばれる荘厳な宮殿が建っていた。今日も城門の上にある出窓から下界を眺めている神々の門番にナンナは声をかけた。


「おはよう、ヘイムダル」


「おはようございます。ずいぶんとご機嫌ですね」


「んふふ、まぁね」


 ナンナは笑って手を振った。ヘイムダルは無表情のまま、黙ってアスガルドへと続くヒミンビョルグの城門を開けてやった。歌い出しそうな様子で、ナンナが堅牢な城門を通り抜けていく。その背中に向かって、ヘイムダルが小さくため息をついたことを、彼女は知る由もなかった。


 目的の家の扉の前で、ナンナは改めて髪を手櫛で整えた。深呼吸して、何度もスカートの裾を払う。ニッと唇の端を持ち上げて笑顔の確認をしてから、意を決してドアノブに手を伸ばした。


 しかし、ドアノブに指先が触れる直前、唐突にナンナは硬直した。


 ――嫌な予感がする。


 さっきまでの上機嫌など、ウトガルドの果てまで吹き飛ばしてしまうほどの、嫌な予感がする。先ほどまでとは違う意味で高鳴る胸を右手で抑えて、ナンナは深く息を吸いこんだ。三秒止めて、意識してゆっくりと吐き出す。


 指先がドアノブに触れる。いつもと同じ、なんの変哲もない扉だ。静電気が走ることさえなかった。静かにドアノブが沈み、ゆっくりと扉が開いていく。


「ホズ……?」


 呼びかける声は小さかった。家の中は死んだように静まり返っている。その時、ナンナの鋭敏な鼻が、平穏な生活の匂いの中に交じる微かな血の臭いを嗅ぎ分けた。


 扉を大きく開けて、ナンナは家の中へ足を踏み入れた。


「ホズ……、いないの?」


 返事はなかった。家の中は、なにか奇妙に感じるほどに物音一つしなかった。


 警戒しながら居間へと足を進める。住む人がいない家のように、空気がよどんで血の臭いがわずかに濃くなった。


 ここ数日、使われていないのだろう。椅子やテーブルがうっすらと埃をかぶっていた。きれい好きなホズが生活していたら、絶対にあり得ない状況だ。


「ホズ、いないの! どこにいるの!」


 焦るあまり口に出してみるが、当然のように返事はない。嫌な予感に心臓が早鐘のように鳴っている。いてもたってもいられなくなって、ナンナは踵を返した。足早に扉に向い、外に出た瞬間には、もう走り出していた。


 あれは間違いなく血の臭いだった。ホズは、きっと医の女神のところにいるに違いない。好きな人が怪我をしていることに気が付きもしないで、上機嫌でいたなんて。あたしは、なんて馬鹿で情けない女なんだろう。数分前の自分をぶん殴ってやりたいわ。


 全速力で駆けながら、ナンナは唇を噛み締めた。


 


 エイルの屋敷の扉をナンナはせわしなく叩いた。すぐに音を聞きつけて、屋敷の主が玄関を開けた。肩で息をするナンナを見て、彼女は驚きの声を上げた。


「まぁ、どうしたの。そんなに慌てて」


「ホズが、お世話になっていませんか。怪我をしているみたいだったから、ここにいると思って」


 弾む息の下からナンナが途切れがちに尋ねると、エイルは包帯を巻いていた手を止めて首をかしげた。


「さあ、ここには来ていないわ」


 エイルは心配そうに眉を寄せて続けた。


「変ね。アスガルドで何かあったら、みんな、ひとまずここへ来るのに」


「そう、ですよね。彼の家を訪ねたのですが、もう何日も帰ってないみたいで……」


 血の臭いが、と続けそうになって、ナンナは慌てて口をつぐんだ。ナンナの鼻の良さは、人間としても、神々にとってさえも一般的ではない。


「だったら、ただの留守かもしれないわ。オーディンもかなり放浪癖があったでしょう? あの人の息子ですもの」


「そう……ですね」


 血の臭いのことを話せない以上、ナンナはおとなしく引き下がるしかなかった。


「大丈夫。ここに来てないってことは、怪我なんてしていないってことよ。家でもう少し待ってみたら?」


 エイルに促されて、ナンナは屋敷を出た。背後で扉が閉まった後も、しばらく呆然としていたが、本来の目的を思い出してナンナはまた焦り始めた。


 怪我をしているなら、きっとここにいると思ったのに当てが外れてしまった。


 しかし、エイルのところに居ないのなら一体どこへ行ったというのだろうか。ナンナは手当たり次第に尋ねて歩いたが、誰も首を横に振るばかりだった。


 ナンナは段々と不安になってきた。そもそも、ナンナにはあまりアース神族に知り合いがいない。相談もできず、答えを教えてもくれない人たちに延々と尋ねて歩くのは、心細さを増長させた。ナンナの足は知らぬ間に彼女を、アスガルドの西の端にある湖のほとりへと運んでいた。


 中心地から離れた湖にはリュングヴィと呼ばれる中島がある。それほど大きくは無い中島に、黒い巨狼が横たわっていた。ふわふわとした毛で覆われた背中は大きく、大の大人が六、七人乗ってもまだ余裕があるだろう。ナンナは湖岸からリュングヴィにいる巨狼に向って呼びかけた。


「フェンリル! フェンリスウールヴ! ホズがどこにいるか知らないか」


 狼は鼻面が大人の身長ほどもある顔をゆっくりと動かして、ナンナを見た。その表情には呆れの色が浮かんでいた。半眼でぴくぴくと耳を動かすと、フェンリルは背中に向って短く唸った。


 ナンナが様子を見ていると、フェンリルの背中から、子供の頭がぴょこぴょこと飛び出してきた。


「ああ、いた!」


「いたー!」


 一人がナンナを指差して叫ぶと、もう一人も同じようにした。ナンナはびっくりして目をまたたいた。


「さすがフェンリルにぃ! ナンナを見つけたな!」


「これで、うちに帰れるね!」


「ありがと! また来る!」


「フェンリルにぃ、また遊んでね!」


 口々に騒ぎ立てる二人の少年に、フェンリルは尻尾を振って返事をすると、紐で拘束された前足の間に頭をうずめて目を閉じた。少年達はこけつまろびつしながら巨狼の背中から降りると、小さな船で湖を渡り、ナンナの両隣に陣取った。


「あなた、ナンナでしょ?」


「ホズを探してるんでしょ?」


「ホズなら、うちにいるよ」


「母さんがめんどう見てるんだよ!」


「父さんが、ホズの為にナンナを連れて来いってさ」


「だから一緒に来て!」


 両側から矢継ぎ早に呼びかけられたナンナは、返事もままならない。目を白黒させているうちに、ナンナは両手を引っ張られ、兄弟の家へと拉致されていった。

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