15
温泉は、キセの塚の岩山から少し離れた裏山の中にある。キセの塚の周辺にはこのような温泉が幾つか点在しており、キセの人々に愛されている。アシャンが皆を案内したのはそんな温泉の一つだった。ここは高台にあり、辿り着くには少し苦労するが、お湯につかりながら谷を見渡す風景は、その苦労に値するだろう。
エンティノもサリカも、湯気を立てるお湯につかり、月光に照らされた谷の眺望と、時折吹き付ける風と森の音を楽しんでくれたようだった。
「うわぁ、すごい大きいんだね、エンティノ」
アシャンは思わず驚嘆の声を上げた。
「まあね。これだけが取り柄だもの」
水音を立てながら、エンティノが答える。
「触ってみてもいい?」
「いいよ」
エンティノは頷く。アシャンはおずおずと手を伸ばし、触れた。
「すごく硬いな、力瘤」
「鍛え方が違うからね」
自信に満ちた笑みを浮かべると、エンティノは腕に力を込めた。力瘤はさらに盛り上がる。その力強さに、アシャンは思わず唸る。
「並の男には負けないけれど、やっぱり、紅旗衣の騎士の中では非力な方なのよね。まあ、槍を使わせたら負けないんだけど」
エンティノは自慢げに言う。
この女はすごいな。アシャンは思う。きっと自分には想像もできないような訓練を積んで、死地をかいくぐり、その強さを得たに違いない。火照った体に幾つも浮き上がった赤く醜い傷跡は、白い肌と対照的で、ことさら目立つ。紅旗衣の騎士が体に施した調律と呼ぶまじないも、過去の傷跡を消してくれることはないらしい。その大きな傷跡は、彼女の歩んできた道の過酷さを物語っていた。
そして、思う。この女のような強さが欲しいと。アシャンは意を決してエンティノに言った。
「ねえ、エンティノ。私にも槍を教えて。お願い!」
「ええ? ……何を言ってるのよ」
エンティノは、アシャンの懇願に戸惑いの表情を浮かべた。
「私、強くなりたいんだ」
エンティノは、アシャンを見つめると真剣な表情で言う。
「アシャン……、シアタカやウァンデと肩を並べて戦うつもりなら、無駄よ。足を引っ張るどころか、二人の命を危険にさらすことになるから止めておくのね。なまじ自分が強くなったと勘違いしたら、命取りになる。下手に武術を学んだ女より、力自慢の大男が棒を振り回すほうが強いのよ。女が男に勝つには、厳しい訓練と、何より素質が必要になる」
「分かってる……。力がない者が出しゃばれば、力ある者を殺してしまう。それは、よく分かってる」
アシャンは小さく頷くと、エンティノを見つめ返した。その視線を受けて、エンティノの目が大きく見開かれる。
「戦士と肩を並べて戦う。そんなことは考えてないよ。でも、怯えて、立ち竦んで、守られるだけなのは嫌なんだ。戦いの中で、自分が自分のままでいられる。自分の身は自分で守る。自分で何とか切り抜けることができる。そうなりたいんだ」
「……身を守る程度なら、学んでも損はないかもね」
しばらくアシャンを見つめていたエンティノは、そう言うと意地悪い笑みを浮かべる。
「訓練は厳しいよ。痛い思いもする。あんたに耐えられる?」
「私、がんばるよ。痛みも、我慢できる」
「女が男と戦うには、汚い戦い方も覚えないといけない。相手を騙し、弱みを攻める。そんな陰湿な戦い方がアシャンにできるかな」
「私、性格が悪いもの。きっと向いてるよ」
鼻息荒く頷くアシャンの様子に、エンティノは耐え切れない様子で笑い始めた。自分がからかわれていると感じたアシャンは、怫然とした表情でエンティノを睨む。
「ごめんごめん。……まあ、これでアシャンにどんな戦い方を教えればいいのか何となく分かった」
「え、それじゃあ……」
アシャンの表情が一転、輝いた。エンティノは小さく頷く。
「アシャン、あんたは体はあまり大きくないし、力もそんなに強くない。だから、敵を倒そうと思わず、攻撃をしのぎ、最後には逃げる。勇ましくない、情けないと思うかもしれないけれど、その為の技なら教える。どう?」
「うん。それで充分だよ。エンティノに教えてもらえるなら、とても嬉しい」
アシャンは笑顔で頷いた。エンティノは照れた様子で顔をそらす。
「キセの塚には女の戦士はいないの?」
「うーん……、昔は何人かいたみたいだけど、今はいないな。大槍は大きいから、女が使うには重すぎるし、何より、戦士は男の役割だから、女が武器を持つことはあまり良いことだと思われていないんだ。男は男の、女は女の役割が決まっているから、その役割を越えるのは良くないことだって言われている」
「なるほどね。儀式にはこだわるし、男女の区別にうるさいし、まるでシアートみたいね」
エンティノは鼻を鳴らすと、言った。
「シアートって何?」
「ウル・ヤークスに住んでる民の一つね。シアート人って、何か、堅苦しいのよね。ウルス人の方がいい加減で、付き合うには気楽な感じがする」
アシャンの問いに、エンティノは笑って答えた。
「キシュガナンが、そのシアート人に似てるんだね」
「似てるってほどじゃないけどね。まあ、気のせいだとおもうけど」
「気のせいではないかもしれませんよ」
サリカが口を開いた。その言葉に、二人は彼女に顔を向ける。
「気のせいじゃない?」
サリカは頷くと、アシャンに問う。
「キシュガナンの先祖はどこから来たと伝わっていますか?」
「長い旅の後、北の山を越えてこの地に辿り着いたって言われてるけど、どこから来たのか詳しくは知らないんだ。長老や賢者たちなら知っているかもしれないけど」
アシャンはあまり伝承に興味がない。語り部たちの長い語りの中で居眠りしてしまうことがあるほどだ。
「そうですか。この地に来て、気付いたことがあるんです」
サリカはアシャンの言葉に頷き、言う。
「キセの塚の人々の話していた言葉、それに、清めの儀式での呪文が、セイオンの古い言葉に似ているんですよ」
「セイオン? どこかで聞いた名前ね」
エンティノが首を傾げた。
「昔、碧き岸辺に暮らしていた民の一つですよ。他にも様々な一族が多く暮らしていましたが、皆、姿を消してしまった。その中で、セイオンの人々だけは古い言葉を守り、今もその言葉を伝えているんです」
「ああ、聖典に記されていた『宝殿を建てた人々』のことね」
「そうです。相次ぐ戦乱の中で、彼らはシアート人やカザラ人、ウルス人と混じりあい、あるいはイールムやアシスの地へ移り住み、姿を消した。その中で、行方知れずになった一族もいるんです」
「キシュガナンの先祖はその一つだって言いたいの?」
「推測に過ぎませんが」
「どちらにしても、もう確かめようがないわね。シアート人に、大きな蟻と暮らしている民が遠い親戚です、何て言っても信じないだろうな」
エンティノはアシャンに顔を向けて笑う。アシャンも笑って頷いた。
自分たちの先祖が、はるか昔にウル・ヤークスの土地からやって来た。もしそれが本当ならとても興味深い。はるか遠い東の地に、もしかすると先祖を同じくする者がいるのかもしれない。そんな想像を楽しみながら、アシャンは目を閉じた。
ウァンデに連れられて、ウル・ヤークスからやって来た客人たちは歩く。
岩山の中に造られたこの回廊は広い。岩壁には採光のために窓穴がいくつも穿たれており、滑らかな床と壁は、城の通路だと言われても通じるほどだ。
ハサラトの言葉通り、エンティノも同盟の使者となるウァンデとカナムーンに同行することになった。当然のように、ウィトとラゴ、そしてサリカも同行する。
こうして客人を引き連れながら、ウァンデは長老たちが待つ一室へ向かっていた。カラデアとの同盟について話し合うためだ。
「兄さん!」
聞き覚えのある少女の声に、一行は立ち止まった。彼らを追って、アシャンが駆け寄ってくる。
「どうした、アシャン」
「兄さん、どうして私は呼ばれていないの?」
自分を睨み付けるアシャンに、ウァンデ困惑した表情で言う。
「どうしてだって? これは同盟のための話し合いだ。アシャンには関係ないだろう」
「私が関係ないわけないじゃない。私も一緒に行くのに、呼ばれないなんておかしいよ」
「これは男の仕事だ。アシャンは塚で待っていてくれればいい」
「男だ、女だなんて関係ない! 私も……、私が行かないといけないんだ!」
「この旅は危険だ。敵対する一族も訪ねなければならないんだぞ。無人の沙海を歩くのとは訳が違う。お前を連れて行くわけにはいかない」
ウァンデは厳しい表情で頭を振る。アシャンは縋るような表情でシアタカに顔を向けた。
「シアタカ、シアタカも何とか言ってよ」
「アシャン。ここに残るべきだ」
シアタカは簡潔に言った。アシャンはその言葉に顔を歪めた。
「どうして? どうして私を置いて行くの? 私を守ってくれるんじゃなかったの?」
「キセの塚の人々は、アシャンを優しく守ってくれる。もう俺は必要はない」
「どうしてそんな風に自分で勝手に決めるの?」
「俺は、あの戦いで我を失っていた。エンティノがエンティノであることを忘れ、ただ、冷たい殺意に支配され、草を刈り取るように殺そうとしていた。俺は、いわば使い手さえも傷付けてしまう刀なんだ。俺の中にあるその刃は、いつか俺を殺して、そして周りの人を殺してしまう。そんな人間が、アシャンの側にいてはいけないんだ……」
「知ってるよ!」
アシャンは叫ぶ。シアタカは驚き、彼女を見つめる。
「そんなこと、とっくに知ってる! シアタカの中に、恐ろしいものがいること、知ってる。でも、そのために私がいる!」
アシャンはシアタカの服の裾を握った。そして彼を見上げる。
「そして、皆がいる。シアタカがシアタカでいるために、皆がいるんだ!」
シアタカは、その言葉になぜか動揺し、周りを見回した。エンティノが、ハサラトが、ウァンデが、ウィトが、ラゴが、サリカが、カナムーンが、彼を見つめている。
「騎士シアタカ、進言をお許しいただけますか」
ウィトが口を開く。
「なんだ、ウィト」
「アシャンを連れて行くべきです」
「何を言ってるんだ?」
ウィトの意外な言葉に、シアタカは困惑した。ウィトはアシャンを嫌っているために、同行を認めないと思っていたからだ。
「アシャンの力は、我々に必要なものです。彼女がいなければキシュと話ができません」
「それは確かにそうだが……」
シアタカは助けを求めるようにエンティノを見た。
「エンティノ、アシャンを止めてくれ」
「悪いけど、私、アシャンの味方だから」
エンティノは腕組みすると微笑を浮かべる。
「あんたがおかしくなったら、私がぶん殴って元に戻してやる。それでも駄目なら、アシャンの出番ね。私がアシャンに武術を教えるから、シアタカ、覚悟しておくのね」
エンティノはアシャンと顔を見合わせると笑顔で頷きあった。
「シアタカ、何を怯えてるの?」
アシャンは強い力を帯びた瞳でシアタカを見つめる。
「怯えている……? 俺が?」
シアタカは、その言葉に意表をつかれて目を見開いた。
「そう、怯えてる。……昔のことを忘れられないから? でも、今のシアタカは、昔の無力な子供じゃない。今のシアタカは強い。そして、私たちは、『兄弟たち』のようにいなくなったりはしないよ」
「アシャン……、ま、待ってくれ、俺は……」
シアタカは、言葉を続けることができなくてうつむいた。なぜか、身体が細かく震えている。それを止めようと、自分の肩を掴む。
「シアタカは一人残されたんじゃないんだ。皆に、助けられたんだよ」
アシャンは、掴んだ裾を強く引いた。身体の震えはとまらない。
「シアタカよぅ」
ハサラトがシアタカの襟首を掴む。
「お前は紅旗衣の騎士を辞めたつもりだろうが、俺の中では、お前は今でも仲間なんだよ。だから、仲間を頼れ。お前一人で何でもやろうとするな。アシャンが言ってるのは、そう言うことなんだよ」
「シアタカ。あなたはあの戦いの時、隣を頼めるか、と私に言った。同じように、皆に頼めばいい。皆でアシャンを守ろう」
傍らに立ったカナムーンが言った。アシャンはハサラトとカナムーンに頷いてみせると、再びシアタカを見つめた。
「皆が守ってくれる。私を、それに、シアタカを」
シアタカは頷いた。自分がどれだけ臆病だったのか。それを今、悟った。これまでずっと、失うことが怖くて、受け入れることを拒んできた。失うことへの恐れに比べれば、己の死すらも怖くはなかった。しかし、それは何の解決にもならない。アシャンの言うとおりだ。恐れが、己の中の何かに、力を与え続けてきた。それを断ち切らなければ、自分は前に進むことができない。
もう、震えは止まっている。
「やれやれ。このままだと、俺だけが悪者か」
ウァンデが大きく溜息をついた。