8
遠くに雪稜をのぞむ褐色の大地に、柄杓から撒いた水のように緑が点在している。大地には渓谷がいくつも刻まれ、そこには豊かな水が流れていた。
とある渓谷の斜面には狭い道が刻まれている。白くゆったりとした僧服を着た修道女の列が、その道を辿って谷底へ降りていた。
岩だらけの頼りない道だというのに、水瓶を持った修道女たちはしっかりとした足取りで歩く。
その列から少し遅れて最後尾を歩くのは、他の修道女たちよりも年若い、二人のウルス人の少女だ。
一人は黒髪で碧眼。その隣を歩くのはこの辺りでは珍しい栗色の髪を持つ少女。
碧眼の少女は、ふと立ち止まると足下から遠くへと視線を向けた。
牧者たちが、羊と山羊の群れと共に山道を登って行くのが見える。少女は、その様子をじっと眺めていた。
「何してんのユハ!」
ユハと呼ばれた碧眼の少女は、我に返って厳しい表情の栗色の髪の少女に顔を向けた。立ち止まっている間に皆から随分と置いていかれている。
「ごめん、シェリウ」
栗色の髪の少女に謝りながら、慌てて歩き出す。しかし、視線は時折牧者と群れへ向けられていた。
牧者たちは一、二日は村に帰ってこないこともある。村から離れた山々の草場へと、家畜の餌を求めて歩くのだ。険しい山のさらに向こうへ。そこにあるのは、ユハが見たことのない景色だ。
今年十五歳になったユハは、これまでイラマール修道院から遠くへと離れたことはない。決して修道院を出て行きたいわけではない。ただ、山々の向こう、道の先にある広大な世界を見てみたいという思いがある。
イラマール修道院は、ウルス地方の西部に位置する。
この地は北の山脈や高原へと続く山岳地帯であり、通商路から外れた辺境であるため、行商や旅芸人以外に外部から訪れる人は少ない。それは修道院も同様だ。そんな環境で育ってきたユハにとって、外の世界は書物と他の修道女たちの故郷の話で得られる知識でしかない。
そのため、先日修道院を訪れた客人と会ってから、世界を知りたいという思いは強くなった。修道院長の知人であるその客人を迎え入れた時に一騒動あったのだが、落ち着いた後に聞いた旅の話は、ユハを夢中にさせたのだ。
牧者たちを見送りながら細い道をくだり、余所見がちで時折恐い思いをしながらようやく谷底へ到着した。
谷底には緩やかな流れの川が流れている。遠浅の川岸では、修道院の近隣にあるイラマール村の女たちが水汲みや洗濯に励んでいた。
ここイラマールは、岩だらけの土地で井戸を掘るのが困難だ。そのため、村人も修道女たちも、水を求めてこの川へと集うことになる。
女たちは、修道女たちを見て明るい声で挨拶をした。イラマール村の人々は、修道女たちに敬意をもって接してくる。修道女たちも丁寧な礼を返した。
「こんにちはユハさん、シェリウさん」
ユハたちに歩み寄った女が笑顔で言った。ユハも笑みを浮かべて一礼する。
「こんにちはスエナさん。お元気そうですね」
「おかげさまで、調子が良くなりました」
スエナは胸に手を当てると一礼する。先日、体調を崩していた彼女を癒しの技によって治療したが、幸い経過は順調のようだ。ユハは、スエナを“観て”安堵した。
スエナは、最近よく話すようになったイラマール村の女だ。他の村出身で、イラマール村に嫁いできたという。明るく優しい性格の彼女に、ユハは親しみを覚えている。
「お二人とも、これをどうぞ」
腰の袋に手を入れたスエナは、乾燥させた木の実を差し出した。微かな甘みがあり、間食として好まれている。ユハとシェリウは礼を言ってそれを受け取った。
初めて会った頃から、スエナはユハに親切にしてくれた。なぜなのか疑問だったが、ある時、自分が彼女の亡くなった妹に似ているのだと人づてに聞いたのだ。その時感じた複雑な思いは、今も忘れない。
そのことについて、スエナはユハに何も言わない。ユハもそれに触れるつもりはなかった。
スエナとユハたちは、木の実を口にしながらその場で談笑する。他の修道女たちも村人と話しており、これはいつもの光景だった。画一的になりがちな修道院の生活に落ちて、村人たちとの会話はちょっとした息抜きだ。
ふと傍らを見たユハは、携えている大きな袋に洗濯物は入っていないことに気付いた。
「洗濯をしに来たんじゃないんですね」
ユハの問いに、スエナは袋に目をやった後頷いた。
「そうなんです。これから村の皆で、溜まっている樹液を回収するのと、瘤石を採りに行くんですよ」
ユハは得心して頷いた。瘤石は、特別な木の幹に生る石のことだ。
瘤石が生る木は、炯木や琺瑯の木とよばれている。普通の草木が疎らな乾燥した大地に生えることが多いこの木は様々な種があり、葉や幹が硬く、まるで水晶や硝子を塗したように艶がある。その名はどの種にも共通するこの外観や特性に由来していた。
他にも炯草や硝子の草とよばれるものがあり、同じように硬く艶のある草だ。炯木と同じように、荒れた土地によく生えている。
いずれも、よほど飢えていなければ山羊でも口にしないような硬い葉をもつ植物だったが、その特性ゆえに人間にとっては様々な役に立つ。その一つが瘤石だ。
瘤石は、その名の通り幹の表面に木の瘤のように生まれる。そのほとんどは白褐色や黒褐色のただの石だが、木の種類によっては美しい輝き、珍しい色合いになった。イラマール村の外れの林に生える木々は、紫石の木と呼ばれ、薄い紫色の美しい瘤石がとれることがある。その樹液も釉薬や工芸品の材料となり、村人の貴重な収入源となっていた。
「母ちゃん、そんな奴放っておいてさっさと行こうよ」
スエナの背後から六、七歳くらいの子供が不満げに声をかける。その少年はユハも良く知っている。スエナの息子、クウだ。
「馬鹿、そんな失礼なことを言わないで」
慌てた様子で、スエナはクウを叱った。
「それに、まだ皆集まってないでしょう。もう少し待ちなさい」
スエナは溜息をつく。確かに、他にも空の袋を携えた女たちがいるが、皆、のんびりとした様子だ。その言葉に、クウは不貞腐れた表情で口を噤んだ。
「ごめんなさい、うちの子が失礼なことを言って」
「いいんです。待つのは退屈だものね?」
ユハはクウに微笑みかける。しかし、クウは顔をそらした。どうやらこの子には嫌われているらしい。苦笑に変わったユハを見て、スエナは申し訳なさそうに頭を下げる。
「瘤石はとれそうですか?」
雰囲気を変えようと、ユハは明るく問いかけた。スエナは安堵の表情で頷く。
「ええ、去年は手を付けなかった林だから、沢山生っていましたね。そろそろ行商人が来るから、それまでに収穫しておかないと」
「ああ、そういえばそうですね」
「イラマールには中々商人が来ないから、この機に色々と買っておきたいんです」
「ここまで来るのも大変ですよね」
ユハは辺りを見回して言った。イラマール村は幾つもの山を越えなければ辿りつけない。冬ともなれば雪が積もることもあり、峠道は通ることができないこともしばしばだ。
「そうですね。故郷は平野にあったから、気にしたことはなかったけれど、ここに嫁いで初めてうちの村が恵まれていたんだって知りました。もっとも、うちの村では瘤石があまり採れなかったから、助かってます。代わりに、水汲みはこんなに大変じゃなかったんですけどね」
そう言って笑う。
そうして彼女の故郷の話となった。
畑への道は、白樺の木にも似た、白く艶のある稈をもつ皚竹の竹林が日陰を作っている。なだらかな平原には水路が張り巡らされ、麦畑や果樹園が視界いっぱいに広がっている。定期市には各地から商人や旅芸人、遊牧の民が訪れ、王国各地から運ばれてきた様々な品が並ぶ。家畜の鳴き声と美しい歌声と明るい楽器の音で、普段は静かな村が騒がしく賑わう。
スエナの語る言葉を聞いて、その情景が浮かぶようだった。
「ユハさんの故郷はどんなところなんですか?」
何気ないスエナの問いに、ユハは答えた。
「私、生まれ故郷がどこか、知らないんです。赤ん坊だった頃に拾われて、修道院に預けられたので」
その言葉を聞いて、スエナは狼狽した様子で言う。
「あ、ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」
「謝らないで。私、気にしてませんから」
ユハは慌ててスエナの肩に触れた。ユハにとって親がいないというのは、修道院では周知の事実であり、それを語ることに何の感情もない。しかし、それによってスエナが罪悪感を抱いたとしたら、己の配慮のなさに悔いるばかりだ。
「何だ、お前捨て子だったんだ」
クウが、好機を得たという表情で口を開いた。
「お前の親は、きっとお前が邪魔だったんだろうな」
表情を変えたスエナの傍らで、クウは嘲るように言う。
思いもしなかった言葉に、ユハは目を瞬かせた。
親にとって、自分が邪魔だった。それは、ユハがこれまで考えもしなかったことだ。
物心ついた時から、修道院で暮らしていたユハにとって、家族というのは、“姉たち”のことであった。自分に親がいるというのは、現実のこととは思えず、想像もできなかったのだ。増してや、自分がなぜ親と離れることになったのか、そんなことに思いが至ることはこれまでなかった。
「このガキ……」
微かな呟きに顔を向けると、微笑むシェリウが目に入る。しかし、その目は笑っていない。静かな怒りを感じて、ユハは慌てた。
シェリウを制しようとしたその時。
「あんた、何言ってんの!」
スエナが、鋭い怒りの声を上げて頬を打つ。大きな音が鳴って、クウは頬を抑えた。
「痛えな! 本当のこと言って何が悪いんだよ!」
「何が本当のことだ! 世の中には、育てられなくても育てられない人だっているのよ!」
目に涙をためたスエナが叫ぶ。
「くたばれクソババア!」
顔を歪めたクウは、一言吐き捨てると駆け出していった。
「本当にごめんなさい、あんな失礼なことを言って」
悲痛な表情でスエナは詫びる。ユハは頭を振った。
「いいんです。それよりも、クウを追いかけてあげてください。一人で遠くに行くのは危ないですから」
クウは谷の向こうへと姿を消している。この谷は大小の岩が転がって足場の悪い場所も多く、流れが急だったり、深い淵が幾つもある。子供が歩き回っていると危うい場所だ。
「後で必ず謝らせます」
スエナはそう言って一礼すると、クウの後を追って駆け出した。
「ユハ……」
その後ろ姿を見送るユハに、シェリウが声をかける。シェリウの気遣う様子を見て、ユハは微笑んだ。
「大丈夫だよシェリウ。私、本当に気にしてないから……」
それは決して強がりではない。物心つかない時から十五歳になるまで、大いなる愛に包まれ、育まれてきた。その事に何の不満もない。シェリウにその気持ちを伝えたくて、ユハは彼女の手を握った。
「私には姉妹たちが……、シェリウがいるからね。皆、私に大いなる愛を与えてくれたもの。それは、父親や母親が与えてくれる愛と同じくらい尊いものだと思ってるよ」
「……そうね。私もそう思う」
頷いたシェリウの目は潤んでいる。
微笑んだユハはシェリウの頬にゆっくりと触れた後、再び谷の向こうに顔を向けた。
「クウも、本気で言ったんじゃないと思うな。きっと、お母さんをとられると思ったんだよ」
「どうしてユハが平然としてるのよ」
振り返り、笑うユハを見て、シェリウは溜息をつく。
「心配してくれてありがとう、シェリウ」
ユハはシェリウを見つめ、言った。シェリウは照れくさそうに顔をそらす。シェリウが我が事のように憤慨してくれるのを嬉しく感じる。皆が与えてくれる愛があれば、どんな辛い事でも耐えることができる。ユハはそう信じていた。
「と、とにかく、あんなクソガキのことは放っておいて、仕事しないとね!」
シェリウは顔をそらしたまま、大きな声で言う。ユハは笑いながら頷いた。
シェリウの言う通り、仕事に戻らねばならない。他の修道女たちは、村の人々との話を終えて水を汲み始めている。自分たちもここで立っているだけでは叱られてしまう。
水を満たした水瓶は重い。それを担いで修道院まで戻るのは大変だったが、これも修行の一つだ。何とか水瓶を持ち上げようとしたユハは、何か異様な音が聞こえたような気がして振り返った。
再び音が聞こえた。それもさらに大きく。
それは、女の甲高い悲鳴だった。悲鳴は、谷の向こうから聞こえてくる。
スエナが、クウを追って駆けて行った先だ。
ユハは、シェリウと顔を見合わせる。
「……シェリウ」
「スエナさんの声、かも……」
小さく頷いたシェリウは、ユハに答える。
ユハにも、スエナの声のように感じた。何かが起きたのか。嫌な予感が渦のように頭を巡る。
「私、見てくる! シェリウは姉さまたちに報せて!」
「ちょっと、ユハ!」
叫ぶシェリウを残して、ユハは駆け出した。
嫌な予感に駆り立てられて、ユハは走る。
「ユハ、待って! ちょっと待って!」
背後からの声に振り替えると、シェリウがいる。追いかけてきたようだった。
「シェリウ、どうして」
「それはこっちの台詞よ! あんた一人で行ってどうするのよ!」
ユハの問いを遮って、シェリウが激しい剣幕で叫んだ。
「でも、嫌な予感がしたの。急がないと、駄目だって、そんな気がして」
「分かってる、だから、あたしも来たのよ」
溜息と共に答えたシェリウにユハは無言で頷いた。
その時、女と子供が悲鳴交じりに叫ぶ声が谷間に響く。
ユハとシェリウは顔を見合わせると、再び駆け出した。
谷間が開け、広い岸辺に出る。
目に飛び込んできたのは八本の長い枯れ木だった。異様なことに、木々の間には巨大なクモの巣のようなものが広がっている。
近付けば、すぐにそれが木ではないことに気付く。伸びた木の先には、異形の姿があったからだ。それは、巨大で毛深いクモの頭、そして体だった。
「コウモリグモ!」
シェリウが驚きの声を上げる。
地や海や川に生命が満ちているように、空にも生命が満ちている。鳥や虫は言うまでもないことだが、それらとは姿形や性質が全く異なる様々な生き物がいた。その筆頭である空ノ魚や空ノ蟲といった生き物は、人にとって無害で、むしろ害虫を食べてくれるありがたい存在だ。一方で、人を獲物とみなして襲ってくる恐ろしい生き物もいる。
それらの生き物が人里近くに舞い降りてくることは滅多になかったが、落雷や嵐のように、稀に襲いくる恐れるべき災厄として知られていた。
鷲獅子、翼蛇、竜などが真っ先に挙げられる名だ。そして、博識な者ならばコウモリグモの名も挙げるだろう。
八本の長い足の間に自らが吐いた糸を張り巡らし、それを広げ、まるで凧のように空を漂い、獲物を狙って舞い降りてくる。地上に降りれば、その長い足は枯れ木のようで、林や森に紛れれば気付くことが難しい。静かに舞い降り、潜む。コウモリグモはそんな恐ろしい狩りをする生き物だ。
コウモリグモから少し離れた場所には、地に倒れ、見上げているクウの姿が見える。そして、コウモリグモの足の間に広がった網には、スエナが捕らえられていた。
「スエナさん!」
ユハが叫ぶとほぼ同時に、スエナの首にコウモリグモの鋭い顎が突き刺さる。
飛び散る血しぶきに思わず悲鳴を上げた。
「な、汝、邪まなるもの……」
上擦った声で聖句を唱えるシェリウは、己の頬を叩いてコウモリグモを睨み付けた。再び口を開き、はっきりとした声で聖句を唱える。
「汝、邪まなるもの! 聖なる鉄槌を受けよ!」
シェリウがコウモリグモを指差した次の瞬間、不可視の力がその頭部を打った。
その激しい衝撃によってコウモリグモの身体は揺らぎ、捕われていたスエナが地面に放り出される。
それを見たユハは、無意識のうちにスエナのもとへ駆け出した。
「ユハ!」
背後から聞こえるシェリウの悲鳴のような叫び。
コウモリグモの足下に転がるスエナの首からは、血が噴き出していた。みるみる顔色が蒼くなっていく。
クウが叫んだ。見上げればコウモリグモが足を延ばしてくる。しかし、その足は破裂音と共に折れ曲がった。シェリウが再びコウモリグモを指差している。コウモリグモは巨体と恐ろしい姿を持つ怪物ではあったが、その外見と反してそこまで頑丈ではない。
その激しい攻撃により、コウモリグモは怯んだ様子だった。二、三歩後退る。
その機を逃さず、ユハはスエナの服を掴んだ。
「手伝って!」
ユハはクウに向かって叫んだ。
クウは大きな怪我を負っていない。ユハはそのことを“感じ取れる”。
その声に弾かれるようにしてクウは跳ね起きると、同じようにスエナの服を掴んだ。
「あっちへ、引きずるの!」
ユハはそう言ってコウモリグモから出来るだけ離れようとスエナの身体を引きずる。クウもそれに従った。
「ユハ! シェリウ!」
谷間に、朗々とした声が響いた。
見れば、谷の向こうから修道女たちが、敬愛する“姉”たちが駆けてくる。
「聖なる王の名において、汝、畏れよ! 去れ!」
修道女の一人が腕を伸ばし、手を広げながら聖句を唱えた。シェリウの聖句とは段違いの声量。そして、大きく空気が震えた。シェリウの行使した魔術と違い、コウモリグモに直接的な打撃を与えてはいないが、明らかにその動きは鈍り、八本の足をもつれるようにして大きく後退る。
それは魔術の力なのだろう。初めて感じる凄まじい魔力に驚きながら、ユハはクウと共に必死にスエナを引いた。
再び聖句が響く中、二人は何とかスエナを岩陰に運ぶ。
首筋の傷からは血が流れつづけ、スエナの顔色は蒼白になっていた。
「クウは……、無事ですか……」
弱々しい声でスエナが言う。涙を浮かべたクウが叫んだ。
「母ちゃん、死なないで!」
命の火が消えようとしている。
このままでは、彼女は死ぬ。
そして、今何とかできるのは自分だけだ。
その現実に恐慌に陥りそうになる。
己を叱りつけながら、ユハは意識してしっかりとした口調で言う。
「息子さんは大丈夫。それよりあなたを助けないと」
「どうしよう! くたばれ何て言ったから! 母ちゃんが死んじゃう!」
我を失っているクウの頬を両手で包むと、ユハはその目を見詰めた。
「大丈夫。私が、助けるから」
ユハの言葉に、クウは口を噤んだ。ユハはスエナに視線を移すと、大きく息を吸い込む。傷口に右手を置き、胸に左手を置いた。ゆっくりと目を閉じる。
呟くように聖句を唱え、力を発する。
冷えていくスエナの体に、己の力を巡らせていった。
鼓動が弱まり、呼吸が止まる。
弱々しく、消えて行こうとする命の光。
それを、まるで闇雲に手を伸ばすように、必死に力を送り込む。
「頑張って! お子さんを置いて逝かないで! 生きて!」
ユハは思わず叫んだ。
己の叫びに触発されたかのように、体の内側から、凄まじい力が湧き起ってくる。初めて感じるその怒涛のような感覚に、慄きながらも何とか御して、癒しの形にしようと念じた。
スエナの身体に癒しの力が満ちていく。
スエナが大きく喘ぎ、呼吸を始める。
手を離せば、大きな傷口は塞がり、規則正しい呼吸に戻っていた。その容態を“観ると”、心配がないことが分かる。
「母ちゃんは、母ちゃんは助かったの?」
呆然とした表情のクウに、ユハは微笑んだ。
「もう大丈夫だよ」
辺りを見回すと、遠くでコウモリグモが倒れ身じろぎもしない。どうやら脅威は去ったらしい。シェリウと、修道女たちがこちらに駆けよってきた。
「ユハ!」
「シェリウ!」
シェリウが飛び込むようにユハを抱擁した。ユハもその背中に腕を回す。
「ユハ……、よくやりましたね」
修道女の一人が、スエナの様子を見た後、ユハに頷いて見せた。
「はい、何とか癒すことができました」
「あの傷を癒したのね。やっぱり、ユハは凄い……」
シェリウの言葉に、ユハは小さく頭を振った。
「必死だったから、いつも以上に力を使うことができたのかも」
「……そうね」
頷いたシェリウが修道女と視線を交わしたのが気になったが、谷間の向こうから聞こえてくる人々の声に気付いてそちらに顔を向けた。
村の男衆たちが手に棒や鍬を持って必死の形相で駆けてくる。
そして、現場の状況を見て困惑した表情で立ち止まった。
「後はあの人たちに任せましょう。体を清めた後、改めて見舞いに行ってあげなさい」
修道女が言った。そこで初めて己が血塗れであることに気付く。
「私も、もっと強くならなくちゃ……」
シェリウが微かに呟いたが、ユハはそれに気付かなかった。
自分があんな力を持っていたことが信じられない。ユハは今さらながらに己の発揮した力に驚きを覚えていた。
確かに、自分は人より優れた癒しの力を持っている。そのことは自覚していたが、それはあくまでありきたりな治療の範疇だった。まるで死の淵から人を引き摺り戻すような、あんな凄まじい癒しの力など、施術した今でも信じられない。
その力の残滓は、今も自分の中に残っている。それは、恐ろしくも、甘美な感触だ。
まるで夢から覚めていないようで、ユハは、血塗れの己の手を見つめていた。