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砂塵の王  作者: 秋山 和
追うもの、逃れるもの
64/220

15

 シアタカは、 駆け出した。そして、振り下ろされた刃を止めようと、届かないと分かっていながら虚空に左手を伸ばす。その瞬間、世界が変貌した。





 肉体の中にある魂が、取り巻く世界へと解放された。広大な白い砂漠。そして青い空。その隅々にまで自分という存在が溶け込んでいるような、奇妙な感覚だ。小さな囁き声がどこからか聞こえてくる。男の声なのか、女の声なのか、大人の声なのか、子供の声なのか。そもそも、人の声なのか。それすらも分からない。その囁き声以外に、何の音も聞こえない、静寂の世界だ。世界を見る視点は茫洋としており、広大な大地すべてを同時に認識している。それによって今、自分はどこにいるのか、それも分からない。いや、そもそも自分など存在しているのか? 己の存在と世界の境界すら曖昧になっている。


 そして、突如、世界の一部に意識の焦点が合った。


 そこでは、小さなヒトたちが蠢いている。


 救わなければならない。魂が、そう欲した。


 そして、それは、魂の要求に応えた。


 


 砂丘が爆発した。


 人の身の丈の倍はある高さまで、白い砂が噴きあがる。その砂柱は、アシャンやウィト、ラゴを丸ごと呑み込み、天へと放り出した。


 その音と顔に当たる砂粒で、シアタカは我に返る。


「アシャン!」


 視界一杯に砂塵が立ち込め、辺りは真っ白の世界になった。しかし、なぜかシアタカには、アシャンが落下した場所が分かった。


 大量の砂が上空で拡散して、雨のように落下してくる。降り注いでくる砂に構うことなく、シアタカは駆けた。その後を、一瞬の逡巡の後、ウァンデが追う。


 音を立てて砂の雨が降り注ぐ中、シアタカは地に伏せたアシャンを見付けた。駆け寄り、傍らに跪く。そっとその体を抱き起こした。


「アシャン、アシャン大丈夫か?」


 アシャンは、激しく咳き込みながらその問いかけに頷いてみせた。口の中一杯に入り込んだ砂を何度も吐き出している。


「怪我はしていないか?」


 ウァンデも跪くと、アシャンの埃まみれの白い顔を覗き込んだ。 


「ち、ちょっと体は痛いけど、大丈夫だと思う。びっくりしたけど……」


 少し喋りにくい様子だったが、アシャンの答えはしっかりとしていた。どうやら、砂の大地が落下したアシャンの体をうまく受け止めてくれたらしい。


「ああ、口の中がじゃりじゃりする……」


 その暢気な言葉に、ウァンデは安堵の溜息を吐いた。


「兄さん、何が起きたの?」

「噴砂に巻き込まれたんだ。カラデアに行く時に、音だけ聞いただろう。覚えているか?」

「うん、覚えてる。……まさか、自分が空に放り投げられるなんて思ってもなかった。横で見てみたかったなぁ」


 そう言って顔をしかめるアシャンに、シアタカとウァンデは顔を見合わせた。ウァンデが苦笑する。


「すまんな、シアタカ。我が妹ながら、ずいぶんと度胸があると思うよ」

「何それ、遠まわしに馬鹿にしてるでしょ? 酷いよ」


 アシャンは上体を起こしてウァンデに顔を向ける。そこでようやくウァンデの腕の怪我に気がついたのか、驚き、顔を強張らせる。


「兄さん、腕の怪我、血がいっぱい出てる!!」

「ああ、そうだな。少し不覚を取った」

「笑ってる場合じゃないな。早く血を止めよう。このままでは危ない」


 シアタカはアシャンの肩から手を離すと、短剣を抜いた。そして自分の外套の裾を切り裂く。


「診せてくれ」


 ウァンデは頷くと腕を差し出した。左腕の傷は深く、前腕を貫通していた。


「腕は動くか?」

「いや、ほとんど力が入らない」

「そうか、指先に感覚は?」

「痺れたような感じはするが、大丈夫だろう。少しなら動かせる」

「ああ、分かった」 


 シアタカはウァンデの上腕を強く縛る。


「シアタカ、兄さんは、大丈夫だよね」

「大丈夫だ、アシャン。まずは血を止めて、傷をふさごう」


 シアタカは、縋るような表情を浮かべ、己の肩を掴んだアシャンに頷いて見せた。命は大丈夫かもしれない。しかし、その左腕が使えなくなるかもしれない。シアタカは、その考えを口にはしない。ウァンデと視線を交わす。ウァンデは小さく肩をすくめた。彼も自分の傷について楽観はしていない。そのことが伝わってきた。そして、妹に心配をさせないようにしているということも。


「すまなかった、アシャン。守ると言ったのに、また危ない目に合わせてしまった」


 シアタカの詫び言に、アシャンは頭を振る。 


「謝らなくてもいいよ。シアタカは私を守るために戦っていた。でも、シアタカは一人しかいないもの。どんな場所にでもいることはできないし、どんな場所にでも手が届くわけがない。仕方がなかったんだよ。そうでしょ?」

「ああ……」


 それでは駄目なんだ。そう答えようとしたシアタカだったが、口から出たのは、曖昧な声だった。突然襲ってきた激しい疲労感に耐えかねて、倒れそうになる体を両手で支える。


「シアタカ、どうした?」

「シ、シアタカ、大丈夫?」

「う……あ……」


 答えようとするが、言葉が出てこない。疲労感は凄まじい重さのおもりとなってシアタカの肉体に圧し掛かってきた。視界が歪む。何とか上体を起こそうとするが、それもできない。身体が傾く。


 ひどく遠くから聞こえるアシャンとウァンデの声。


 そこで、意識は途切れた。





「シアタカ!」


 ウァンデは、無事な右腕で、シアタカの体を支えた。その体は力を失い、ウァンデにもたれかかってくる。 


 キシュが、触覚を盛んに動かしながらシアタカに歩み寄った。


「どうだ、アシャン」


 ウァンデもキシュがシアタカの容態を診ていることが分かったのだろう。アシャンに問う。

「分からない。呼吸は穏やかだね。眠っているみたいだ」


 キシュが伝えてくる情報からすると、危険な状態ではないようだ。アシャンは少し安心する。しかし、キシュは癒し手ではないし、アシャンもキシュから伝わってくる情報全てを理解しているわけではない。確信は持てなかった。 


「そうだな。俺も、疲れて限界が来たように見える」


 ウァンデの答えに、アシャンは同意した。しかし、同意しながらも納得はできない。シアタカが疲れて倒れるなんて。何日も沙海の只中でカナムーンと戦い続けたシアタカが、こんな戦いで疲労のあまり倒れてしまうのだろうか。


「アシャン、シアタカの頭を高くして、日陰を作ってやってくれ」


 ウァンデが、シアタカを寝かせる。アシャンは頷くと、砂原に座り、シアタカの頭を膝にのせた。自分の外套で日差しを遮る。


「ウァンデ、シアタカは大丈夫かね?」


 カナムーンの呼びかけに、ウァンデはそちらを向いた。カナムーンは、長剣を手にしたまま、エンティノとハサラトの側に立っている。ハサラトは、深手を負ったエンティノの様子を診ているようだった。


「ああ、大丈夫だ。どうやら疲れが溜まっていたようだな」

「そうか。それよりも、彼らをどうする?」


 カナムーンの問いに、ウァンデは右手を上げて見せた。


「少し待て」


 ウァンデは砂丘の頂を睨み付ける。


「そこの呪い師! お前の仲間たちは、皆倒したぞ!! どうする!!」


 ウァンデの声が響く。こちらの様子を伺っていたらしい魔術師は、大きく両手を広げたまま、砂丘を降りてきた。


「何をしてる、サリカ! 早く逃げろ!!」


 エンティノが叫んだ。しかし、魔術師は止まることはなく、歩みを進める。


「抵抗はしません」


 穏やかなその声は、若い女のものだった。意外に思って、アシャンは魔術師を見つめる。

 カナムーンの前で立ち止まった女は、外套の頭巾フードをおろした。明るい黄褐色の髪をもった女は、微笑とともにカナムーンを見た後、ウァンデやアシャンにも顔を向けた。


「サリカ、どうして……」


 エンティノはサリカを見上げた。サリカは、エンティノに顔を向けると言う。


「エンティノ……、降伏しましょう」

「サリカ、何を言ってる!!」


 エンティノは怒りの声を上げるとサリカを睨み付けた。


「私たちに勝ち目はありません。私も、もう何もできません。私たちは負けたんですよ」


 静かな口調でサリカは答える。


「馬鹿な!! 紅旗衣の騎士は、その命尽きるまで戦う!! 手足を失おうと、這ってでも敵の喉笛を喰いちぎる!!」  

「よせ、エンティノ。もう俺たちに出来ることはない。ここで足掻いても、ただの無駄死にだ」


 叫んだエンティノに、傍らのハサラトが言った。エンティノは、ハサラトにも鋭い視線を向ける。


「ハサラト! あんたまで臆病風に吹かれたの?!」

「そうかもな。俺は、無駄死には御免だ。死ぬなら、意味のある死がいい。ここで死ぬことは、俺には何の意味はない。それに、お前も言ったはずだ。生き残るために最後まで足掻くと。今は、その時だと思うんだがな」


 猛るエンティノとは対照的に、ハサラトは落ち着いた、冷徹とも言える口調だった。


「やれやれ、ウル・ヤークスの騎士というのは面倒だな」


 そのやり取りを見守りながら、ウァンデが苦笑した。


「あの人たちが降伏しなかったらどうするの?」


 アシャンの問いに、ウァンデは彼女に顔を向けて言う。


「殺すさ。そう望んでいるんだからな。沙海の只中で余計な荷物を増やす余裕もない。乾き苦しみながら死ぬよりも、一思ひとおもいに殺してやるほうが情けというものだ」


 皆、簡単に死ぬ、殺す、などという。アシャンはそんな彼らに苛立っていた。勇ましく、潔く見せかけて、それは考えることを放棄することだ。生きるために、そして生かすために、悩み、考えなければいけない。それが戦士なのではないだろうか。


 アシャンたちの近くで、咳き込む声が聞こえた。アシャンとウァンデはそちらを向く。


 咳き込みながら起き上がる者がいる。それは、ウィトだった。


「こいつ!」


 ウァンデは唸りと共にウィトに歩み寄る。そして、その肩を蹴った。耐えることができずに、ウィトは砂丘の斜面を転がり落ちる。ウァンデは大槍を小脇に抱えると、ゆっくりとその後を追った。


 砂を撒き散らしながら、狗人が二人の間に割って入った。牙を剥き出しにすると、唸り声をあげてウァンデを威嚇する。ウァンデは立ち止まると、槍の穂先をラゴに向ける。


「まだやるか、狗人。悪いが、妹を殺そうとした奴を許してはおけん。邪魔するなら、お前も殺すぞ」


 ウァンデの言葉に、狗人は一際大きな唸りで応えた。


 アシャンは慌ててシアタカを砂丘に寝かせると、そこへ駆け寄る。


「だめ、兄さん!!」


 傍らに駆け寄ったアシャンを、ウァンデは見やる。


「アシャン、こいつはお前を殺そうとしたんだぞ?」

「ウィトを殺せば、シアタカを殺すことになる」

「どういう意味だ?」


 怪訝な表情を浮かべるウァンデに頷いてみせると、アシャンは大きく息を吸い込んだ。


「ウル・ヤークスの人たち、私の話を聞いて欲しい」


 その大きな声に、エンティノとハサラトはアシャンに顔を向ける。


「ウル・ヤークスの人たち、皆にシアタカを助けて欲しいんだ」

「助けるだって? 助けを乞うのは俺たちのほうだぜ」


 ハサラトが苦笑と共に言う。


「今は、私があなた達にお願いしたいんだ」


 アシャンはハサラトに答えた。その視線を受けたハサラトは、真顔で口を閉じる。


「シアタカを助けて欲しい。シアタカには、あなた達が必要なんだ」

「私はシアタカを止めることをできなかったのよ。シアタカが私たちを必要としてるわけがない」


 エンティノが切りつけるような口調で言うと、アシャンを睨み付ける。アシャンはその視線を受けて頭を振った。


「違う。あなた達は、シアタカと苦しい時も楽しい時も共に過ごした人達なんだ。それは、シアタカにとって、かけがえのない時。あなた達はシアタカの一部なんだよ」


 何もないシアタカに何があるのか。沙海の暑さに朦朧としながらも、アシャンは歩きながらずっとその事について考えていた。そして、彼らとの戦いによって、一つの答えを出していた。


「シアタカは、戦場で育ち、死に囲まれて生きてきた。父も、母もいない。戦って、生き延びて、シアタカは、紅旗衣の騎士になった。そして、あなた達という友達ができた。一緒に過ごしてきたあなた達のお陰で、今のシアタカがあると思う。でも、私のせいで、シアタカは紅旗衣の騎士ではなくなってしまった。友達と戦わなければいけなくなった」


 アシャンは、どもりながらも何とか自分の言葉を形にしようとしていた。エンティノも、ハサラトも、そしてウィトも、口を挟むことなく彼女を見ている。アシャンは、必死で言葉を紡いだ。


「今のシアタカは怖い。このままだと、シアタカは、シアタカでなくなってしまうと思う。シアタカが変わらないために、かけがえのない友人である、あなた達が必要なんだ。シアタカを救う。それは、私にはできないことなんだ」


 アシャンは、シアタカに視線を向けた。シアタカは、目覚めることなく目を閉じている。アシャンは、ウル・ヤークスの人々の顔を見回すと、言う。


「お願いです。……シアタカを助けてあげてください」


 アシャンは両手のひらで顔を覆うと、深く身を沈めて頭を下げた。それはキシュガナン独特の作法だったが、そこに籠められた精一杯の誠意は、他の人々にも充分に伝わってくるものだっただろう。


「はは、こいつはすげえ」


 ハサラトは笑い声を上げる。エンティノを横目で見ながら、言った。


「大したお嬢さんだよ。そりゃあシアタカが……命を懸けて守るわけだ」


 エンティノは無表情にアシャンを見詰めていたが、一瞬身震いする。その表情は歪み、目に涙が浮かんだ。


 次の瞬間、エンティノは泣き出していた。大きな声を上げ、涙を流す。地を両手で叩き、突っ伏した。傍らのハサラトは、呆気に取られて彼女を見ている。


 ひとしきり号泣すると、やがてその泣き声は小さくなった。嗚咽で体を揺らしていたが、それも収まった。


 そして、エンティノは顔を上げた。


「ああ、すっきりした」


 鼻をすすり、涙をぬぐう。その顔は心なしか晴れやかに見えた。


「ああ、負け負け、私の負け。完敗ね」


 エンティノは口元を歪めると天を仰いだ。その目は眩しげに細められる。


「それじゃあ……」

「降伏するわ。捕虜にしてちょうだい」


 エンティノは、アシャンに頷いて見せる。


「あなた達は捕虜じゃない。キセの客人として迎えるよ。シアタカもそうだったように」


 アシャンは微笑む。エンティノは困ったような表情を浮かべ、ハサラトは苦笑する。アシャンは、振り向くと、ウィトに歩み寄った。ラゴは、小さく頭を下げると彼女に道を開けた。


 砂原に座り込んでいるウィトは、アシャンを見上げると、そっぽを向く。 


「ウィトも、お願い」

「私は、お前が嫌いだ」


 横を向いたまま、ウィトが吐き捨てるように言う。


「それでも良いよ。シアタカの側に居てあげて欲しい」

「くそ、そんなの汚いじゃないか。そんなこと言われて、断れる訳がない」


 ウィトはアシャンを睨み付けた。


「そうかもね。じゃあ、嫌々従ってもらうよ。あんたにはついて来てもらう。文句は言って良いけど、断ることはできないから」


 アシャンは、わざと憎らしい口調で言った。


「アシャンはああ言ってるが、良いのかね?」

「隊商頭の言うことだ。従うさ」


 カナムーンの問いに、ウァンデは肩をすくめた。それを聞き、アシャンは笑顔で頷いて見せる。


 アシャンは、いまだに眠ったままのシアタカを見た。その寝顔は、とても穏やかだった。


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