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砂塵の王  作者: 秋山 和
追うもの、逃れるもの
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8

 シェリウは、ユハに毎朝、魔術を施す。


 聖句を唱えながらたらいに水を張り、そこに人指し指をつけた後、ユハの額と左右の頬に触れる。じんわりと自分を包み込んでいく不可視の力を感じ取ることができた。


 これが、ヤガンの屋敷に来てから日課になっている。“失せもの探し”の術から逃れるためだという。


「ユハの形質はムアム司祭に知られている。だから、探索の目から隠れる必要があるのよ」


 初めてこの術を施されたとき、シェリウはユハにそう説明した。形質とは、生命がもつ性質のことだ。そして、それは各々が異なるために、形質を知ることで個人を特定することができる。初めてムアムと出会ったとき、ユハの形質は魔術によって知られてしまったのだという。シェリウにそのことを教えられたユハは、ムアムがそれらしき聖句を唱えていたことを思い出していた。


「シェリウは大丈夫なの?」

「あたしの形質は調べていないだろうけれど、念のために術を施してるよ」


 ユハの問いに、シェリウは笑って答えた。その答えに安堵したのだった。


 毎朝の儀式が終われば、一日の始まりだ。


 朝早く起きて、湯を沸かし、食事の支度をする。カラデア風――西の砂漠にある街だという――の食事は独特で、最初は戸惑ったが今は慣れた。


 そして屋敷の掃除だ。修道院ほど広くはないこの屋敷を掃除することは苦ではない。何より、不安を忘れて仕事に没頭できるというのはとても気が楽になる。


 この屋敷に来てからすでに一週間がたった。


 屋敷での暮らしにもすぐに慣れた。それは、彼女たちを指導してくれた女性のお陰でもある。


 屋敷での家事を取り仕切っているラテンテというルェキア族の老女は、人の好い女性だった。注意をする時の口調はきついが、悪意は感じられない。むしろ笑顔でいることのほうが多いようにも思える朗らかな人だ。彼女は、親切に仕事を教えてくれた。以前は彼女とラハトだけで家事をおこなっていたらしく、ユハとシェリウが加わったことで楽になったと喜んでいた。


 それまでラテンテを手伝っていたというラハトは、数日の間ユハたちに仕事を教えてくれたが、それ以降は頻繁に外出するようになった。ヤガンやラテンテの夫であるデワムナと共に出かけることもあれば、一人で出かけることもある。


 彼が何の仕事をしているのか。はっきりとは分からないが、察することはできる。自分たちが身の上を詳しく話さないように、ラハトに仕事の内容を聞かないほうが良いのだろうかと考えていた。


 この屋敷の主であるヤガンは、毎日朝から出掛けて日が暮れてから帰宅する。外泊することも多い。そして、珍しく屋敷にいる日でも、来客と長く話し込んでいるのだった。


「ヤガンさんもラハトさんも、何をしているのかよく分からないよね」


 庭で洗濯をしながら、ユハは言った。


みやこの商人なんだもの、そりゃあ、忙しいわよ」

「そうなんだけど、仕事だけじゃないような気がするなぁ」

「好奇心が騒ぐのは分かるけど、あまり首を突っ込まないほうが良いと思う」


 手を止めると、シェリウはユハに顔を向ける。


「あたしも、ヤガンさんたちが危ない橋を渡っているのだろうということは何となく分かるわ。でも、あたしたちも危うい立場にいる。お互いに、これ以上踏み込むべきじゃないと思う」

「うん……、そうだね。私たちを匿ってもらっているだけで、もう充分お世話になってるから」

「あたしとしては、本当に給金をもらえるのかが心配なんだけどね。結局ただ働きでき使われただけだったなんて泣くに泣けないわ」

「きっと、大丈夫」


 断言したユハに、シェリウが訝しげな視線を向ける。ユハはそんなシェリウに頷いて見せた。


「あの人は、確かに善人ではないかもしれないけれど、信用できる人ではあると思うな」

「どうしてそう言い切れるの?」

「それは……、そう感じるからかな」


 自分の直感を上手く言葉にできずに、曖昧な答えを返す。


「頼りない答えだなぁ。まあ、信じるしかないけどね」


 シェリウは微妙な表情を浮かべて肩をすくめた。


「うん……。信じるしかない。身元が怪しい私たちを、黙って雇ってくれるんだから、今は、働くしかないよ」


 ユハは強く頷く。


 二人は桶の水を交換するために水道へと歩く。


 この屋敷に来て驚いたのは、水道が引かれていることだった。さほど高級な住宅地にあるわけではないのに、家庭に水道が引かれている。修道院から川まで水を汲むために往復した日々を考えると、信じられないほどの贅沢だ。とはいえ、この辺りで水道が引かれている屋敷は珍しいのだとラテンテは自慢げに語っていたのだが。


 地面に汚水を捨てると、水管から流れ出る水が溜まっている水槽から水を汲む。暑い外気とは対照的に、地下を通ってきた水はひんやりとして心地よかった。


「まあ、修道院の姉妹たちよりも楽な生活なんだけどね。これでお金がもらえるなら、使用人暮らしも悪くないかな、って思うわ」


 シェリウは笑う。


「あー、シェリウはもう怠惰の病に犯されてるね。修道女にあるまじき態度ですよ、悔い改めなさい」


 ユハは修道院長の口調を真似ながら言う。シェリウはそれを聞いて笑い声を上げた。


「似てる似てる。なかなか上手じゃない。でも、修道院長の前では止めておきなさいよ」

「当たり前でしょ。どんなお仕置きが待ってるのか想像できないもの」


 大袈裟に怖がる振りをして、二人は笑いあう。


「ああ、早くイラマールに帰りたいなぁ……」


 ユハは呟いた。しかし、その時はまだ遠い。そんな予感がする。不吉な想像を頭から振り払おうとして頭を振った。


 洗濯物を干した後、屋内に戻った二人は、椅子に座るヤガンを見た。部屋の隅には、ラハトが立っている。二人とも、珍しいことに今日はまだ出かけていない。


 ヤガンはラテンテと向き合い、話し込んでいる。


「うーん、そいつはなぁ……」


 ヤガンは顔をしかめると腕組みする。ラテンテも困ったように口を閉じた。


「どうしたんですか?」


 ユハは声をかける。


「ああ……」


 ヤガンはユハとシェリウに顔を向ける。


「今度、仕事相手が身内で執り行う儀式に参加しないといけなくなったんだ。その相手というのがシアート人でな。男女で訪ねて行って、男と女で分かれてそれぞれ聖王教会の儀式をするそうなんだ。普通なら嫁や家族を連れて行くんだが、生憎、俺は独り者だ。ラテンテも聖王教会の儀式は全く分からないしな……」


 ラテンテも、その言葉に頷く。


「断れないんですか?」

「断る訳にはいかないんだ。とても大事な話し合いが一緒にある」


 シェリウの問いにヤガンは頭を振る。


「何をする儀式なんですか?」


 ユハは聞いた。ウル・ヤークスには様々な民族が暮らしている。聖王教会の儀式や祭りにしても、教派や民族によって様々なものがある。同じ聖王教会信徒の儀式とは思えないこともあるという。もっとも、シアート人に関して言えば、ウル・ヤークス建国以前から聖女王の大きな力になってくれた人々であり、正統派の聖王教会と深く結びついている。ユハの知識から大きくかけ離れた儀式は行っていないはずだった。


「女が大きな役割を果たす儀式らしくてな。男はまあ、立ってるだけらしい。そういうわけで、俺は参加するだけで問題ないんだが、ラテンテは信徒と一緒に儀式を進行させないといけないわけだ。確か、聖人を祭る儀式らしいんだが……。何て言ったかな……」


 ヤガンは唸りながら記憶を探っている様子だ。ユハは少し考えた後、口を開いた。


「それはエルムルアの儀ではなかったですか?」

「おお、それだ、それ。さすがだな」


 ヤガンはユハを指差し頷く。ユハは自分の推測が当たっていたことに安堵しながら、言葉を続けた。


「シアート人の聖女を祭る儀式です。シアート人に聖王の教えを布教する中で殉教したお方なんですよ」

「じゅんきょう……、ってのはどういう意味だ?」


 ヤガンの質問にユハは咄嗟に答えることができない。ユハにとっては常識である言葉の意味を問われたことで意表を突かれたからだった。


「それは……、教えのために己の命を捧げることです」

「自分の命を?死んだら何かあるのか?」


 ヤガンは困惑した様子だった。


「いえ、そうではなくて、どんなに迫害されたとしても、その教えを信じ、殉ずることなんです。教えに殉ずることで、死の運命が待っていることがある。それでも己の信念と教えを貫き徹してその運命を受け入れる。それが殉教です。あくまでも、死は結果なんですよ」

「はあー、おっかねえ話だな」


 大袈裟に両手を広げて見せると、ヤガンは溜息をついた。


「俺たちルェキア族やカラデア人は、黒石っていう偉大な石を崇拝してる」

「石、ですか……。それは、精霊ですか?」

「精霊?どうなんだろうな。俺は良く分からんが、とにかく、偉大な存在だ。それで、その黒石を崇めている俺たちからすれば、あんた達、聖王教会は少々気味が悪いんだよな。何と言うか、堅苦しいというか、度が過ぎているというか……」


 ヤガンはそこまで言ってから、片手を振った。


「いや、悪かった。あんた達の教えにとやかく言うつもりはなかったんだ」

「構いませんよ。他の民の教えを理解するのが難しいことは良く分かっています」


 ユハは微笑む。ユハからすれば、石を崇拝するということが理解できないのだから、似たようなものだ。皆が皆、聖王教会の教えが素晴らしいと思うわけではない。シェリウが言っていたことを思い出す。そして、ユハは意を決して言った。


「それより……、エルムルアの儀に、私が参加しましょうか?」

「何だって?」


 ヤガンは、その申し出に微かに片眉を動かす。


「私なら、儀式について大体は分かると思います。皆さんにはお世話になっています。私もお役に立ちたいんです」


「ユハ、今、外に出るのはまずいわよ」


 シェリウがユハの腕に触れると、言う。


「そうなんだけど……、シアート人の身内だけの儀式でしょう?大丈夫じゃないかな?」


 ユハはシェリウを振り返ると、首を傾げた。


「なるほど、確かにそうだな……」


 ヤガンはじっとユハを見詰める。


「俺は反対だ」


 壁際に立っていたラハトが口を開いた。


「ユハたちを探しているのは教会や聖導教団なんだ。どんな目や耳が俺たちを見張っているのか分からない」


 その言葉に、ヤガンは肩をすくめる。


「とりあえず使用人としてそのまま参加するんだ。内々の集まりなんだからばれないだろう。それに、お前が監視してるんだ。大丈夫だろ?」

「……そんなにユハが必要なのか?」


 ラハトの問いに、ヤガンは真剣な表情で頷いた。


「ああ、この会合に参加しないわけにはいかない。シアート人の有力者や議員たちの機嫌をとる必要があるんだよ。ここまで来て会合に行かないなんてのは、商談の最後で証文を破り捨てるようなもんだ」

「そうか……。分かった」


 ラハトは頷く。


「頼りにしてるぞ」


 ヤガンは笑みを浮かべた。


「ユハ、儀式に参加するとして、その髪型だと僧職だって一目瞭然じゃない」


 シェリウは、ユハの頭を指差す。


「あ、そうか」


 ユハは、思わず両手で自分の髪に触れた。


「さすがにまずいよね。どうしようシェリウ……」

「仕方ないなぁ」


 シェリウは苦笑するとユハの髪を撫でた。


「アルティニ人っていうことにして、衿巻スカーフで頭を覆って行こう。それなら、儀式のときにも脱げとは言われないから」

「でも、私、アルティニ語なんて喋れないよ?」

「シア・ラフィーン尼僧院にもいたでしょ。アタミラ育ちでアルティニ語が喋れないって。私たちもそういうことにしておけばいいのよ。ウル・ヤークスのウルス人の村で育ったって言えばいい」

「私たち?シェリウも来てくれるの?」


 シェリウの言葉に、ユハは思わず喜色を浮かべた。


「当たり前でしょ。あんただけで行かせないからね」


 わざとらしい怖い顔で、シェリウはすごんでみせる。


「そういう訳で、あたしもついて行きます。構いませんよね、ヤガンさん」


 シェリウはヤガンに顔を向けた。


 ヤガンは呆れたような、面白がっているような、曖昧な表情でシェリウを見ると、頷いた。


「ああ、構わんよ。母親、姉妹で参加している人たちも多いそうだからな」

「ありがとうございます。それと、あたしとユハに、アルティニ人の衣装を手配してもらえますか?」

「お、おう。分かった」


 ヤガンは、シェリウの要求に目を見開きながら頷く。そして、苦笑すると小さく頭を振った。


「しかし、あんたも中々だな。お互い状況が落ち着いたら、うちの商売でも手伝わんか?」

「申し出はありがたいのですが、修道女は商いに手を出すことを禁じられていますので……」


 シェリウはしおらしく答えると、微笑を浮かべて一礼した。


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