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砂塵の王  作者: 秋山 和
聖なる玉座
45/220

9

 猫は、腹を見せて寝転ぶと、ユハを細長い瞳で見上げた。その口には舌の先がのぞいている。つい今まで毛づくろいをしていたために、仕舞い忘れてしまったのだろう。


 ユハは微笑むと、しゃがみ込んだ。猫の腹を手で触れると、優しく、しかし乱暴に撫で回す。猫は右に左に身をよじりながらも、ユハの両手から逃れることはない。何度も前足で抱えこんだり噛み付くが、それもほとんど力がこもっていなかった。撫で回す手は頭にうつり、顔を念入りに指で揉む。その頃には猫は喉を鳴らしながらされるがままになっていた。


 ユハがしっかりと猫を堪能した頃に、猫も満足したのか身体を起こした。


 尾を垂直に立てたまま去っていく猫を見送って、ユハは書庫へと向かう。


 尼僧院での日々は楽だった。毎日、朝と晩に礼拝し、瞑想する。ここでは客人扱いのために、それ以外に日課はない。修道院の中を駆け回り雑事を片付け、果樹園の手入れをして、書庫の蔵書を写本していた日々の忙しさを思えば、何もしていないと同然だ。この安楽に浸ったままでいると、体も頭も鈍ってしまうだろう。修道院に帰ったとき、普段の生活に戻ることができるのか、それが心配だった。


 書庫にいるのは、シェリウ一人だけだった。机に向かい、本を熱心に読んでいる。尼僧院の尼僧たちは自らの仕事に忙しく、ここでのんびりと読書をできるはずもない。


 シェリウは入ってきたユハを無言で見やると、読みかけの本に視線を戻す。


 この尼僧院に来てから、シェリウは不安げな様子で落ち着かない。何かに怯えているような、苛立っているような、そんな様子のシェリウを、ユハは見たことがなかった。一度、その理由を尋ねたが、気のせいだと切り捨てられてしまった。


 ユハはシェリウの向かいの椅子に腰掛ける。


「ねえ、シェリウ」


 ユハの呼びかけに、シェリウは顔を上げた。


「何?」

「私たちだけのんびり過ごしていて良いのかな。何だか気が引けるよ」


 シェリウは小さく溜息をつくと、両手を合わせた。 


「『よき羊飼いとは、まずその丘をよく知る者である』。何も分からない部外者が横から手を出しても、引っ掻き回して迷惑をかけるだけでしょ。頃合を見計らって手伝いを申し出たらいいのよ」

「その頃合はいつ頃くるの?」


 ユハは半ば睨むようにシェリウを見つめる。


「それは……、まあ、もう少し先ね」


 シェリウは曖昧な表情を浮かべてユハから視線をそらす。


「もう少し先か。本当かなぁ」


 今度は、ユハが溜息をつく番だった。きちんと自分たちから申し出なければ、自分たちはこのまま怠惰の病に犯されてしまう。ユハはそう確信した。肩をすくめて見せるシェリウに呆れながら、視線は卓上に置かれた本に移る。


「何を読んでいるの?」

「アユルム記」


 シェリウはその本を半ば閉じて、表紙を見せた。


「ああ、聖女王陛下の伝道の物語ね」


 ユハは頷いた。アユルム記は、ウル・ヤークス王国建国以前の聖女王を、弟子が記した書物だった。


「ねえ、知ってる?昔、ウルス人のほとんどは、巨人王の教えを信じていたり、いにしえの精霊を崇めていたのよ」


 シェリウはユハを見つめると問いかける。ユハは、その問いに笑みを浮かべた。


「無明のでしょ。でも、人々は聖王の教えに目覚めたんだよね。そして、ウルス人や周辺の人々に教えは広まっていった」

「どうして広まっていったと思う?」

「それは、人を救う真の教えだから、かな」


 ユハの答えに、シェリウは首を傾げた。


「本当にそうかな?北のエルアエル帝国やイールム王国は、とても大きな国だけど、聖王教会の教えは信じていない。伝道僧は派遣されているけど、国全体に聖王教会の教えが広まるようには思えないな。もちろん、私は聖王教会の教えは素晴らしいと思うけれど、皆が皆、そう思うわけじゃない。『啓示は、魂より求めし者のみにもたらされる。求めざる者にはその言葉は届かぬ。羊は血肉を欲せず、犬は牧草を欲せず』。聖女王陛下もそう仰っているもの」


 ユハは呆気にとられてシェリウを見た。シェリウがこんなことを考えているとは思ってもいなかったからだ。聖女王の言葉の一節をこんな風に解釈するとは、熱心な信徒に聞かれれば怒りをかってしまうだろう。本来、この一節は教えを信じない者を哀れんでいると解釈されていた。


 ユハは合わせていた手を組むと、真剣な表情で言葉を続ける。


「本当は、ウル・ヤークスは戦によって教えを広めたのよ。百五十年ほど昔、ウルス人の間では、聖王教会は信じる者が少ない教えだった。聖女王陛下も、小さな村の癒し手にすぎなかったのよ。もちろん、偉大な癒し手だけどね。それが、信徒を集め、教団が大きくなってくると、周囲と争うようになってしまった。確かに、当時は、教えを信じていなかったウルス人やカッラハ族、狗人に囲まれて迫害されていたから、仕方がない戦だったのかもしれない。でも、無明のが終わってからも、逆に、ますます戦が増えていったのよ。そうやって、ウル・ヤークスはどんどんと大きな国になっていき、信徒も増えていった。そして、今も戦はおこっている。流血を嫌い、弱者を救うはずの聖女王陛下は、どうして戦を止めないのかな……」


 ユハにとって、戦は縁遠いものだった。無論、イラマール村においても、恐ろしい死の危険から逃れることはできない。しかし、それはあくまで流賊や魔物の襲撃であり、村人や、そしてユハにとっては天災に似た感覚だったのである。村から兵士になるべく出て行った若者もいるが、それ以外に戦について意識したことがない。戦や戦場といった言葉は、ユハにとって想像が難しいものだった。


 ユハは、乏しい知識を元に答える。


「それは、敵から民を守るためだからじゃないかな」

「他の人々の信じている教えを奪って、必要もない戦をしていると思わない?」

「私には、分からないな……」


 返答に窮して、ユハは頭を振った。シェリウは、我に返ったように目を大きく見開くと、ユハの手に触れる。


「ごめん。私、変なことを言ったわね」

「変じゃないよ。私、戦のことなんて考えてもいなかったもの」


 ユハは微笑むとシェリウの手をそっと握る。


「シェリウがそんなことを考えていたなんて思ってもいなかった。修道院では話してくれなかったものね。どうして、ここでは話してくれたの?」


 シェリウは、その言葉に躊躇いの表情を見せた。ユハから視線をはずし、下を向く。しばらくの沈黙の後、顔を上げた。


「ここに来てしまったから。そして、ムアム司祭にあんたの力を見せてしまったから」

「ムアム司祭に?どうしてそれが理由なの?」


 ユハは思わず首を傾げた。シェリウは、手を強く握り返すと、ユハの目を覗き込むようにして言う。


「修道院長も、私も、本当は、あんたをここに連れて来たくなかったのよ。でも、もう、ユハの存在は知られてしまった。何とか誤魔化そうと思っていたけど、ムアム司祭はそんな誤魔化しが通用する人じゃなかった。まさか、あんな強引な確かめ方をするなんて……」


 シェリウは嘆息する。


「私は、ここに来てはいけなかった……」


 ユハはシェリウの言葉に動揺した。修道院長とユハは、自分について、己が知る以上の何かを知っている。ユハの癒しの力を祝福しつつも心配している理由も、その何かが原因なのだろう。


「シェリウ。あなたは、何かを隠している。それも、私のことを。それが何なのか、教えて」


 ユハは、強い口調で言った。シェリウは口を噤む。その表情は葛藤と自責の念からか、歪んでいた。


「お願い。教えて欲しいの。自分のことを自分が知らないなんて、不公平じゃない?本当のことを知っておかないと、私は私になれない」


 シェリウは意を決した表情で頷いた。おもむろに口を開く。


「分かったわ……」 

「我らが姉妹たち!ここにいらっしゃったんですね!」


 明るい少女の声が、シェリウの声を遮った。ユハとシェリウは、びくりと身を震わせてそちらに顔を向ける。若い尼僧が書庫の入り口に立ち、笑顔でこちらを見ていた。


「ああ、何でしょうか?」


 シェリウが応えた。


「ムアム司祭がお呼びです。すぐいらしてください」


 尼僧の言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。シェリウの表情は、硬く強張っていた。

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