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「一口飲んで、役人は言った。『なんだ、この妙な味の麦酒は』。牧夫は答える。『さすが都人、一口飲んで違いがわかるとは、舌が肥えていらっしゃる。この麦酒は貴重な香草を加えた、特別な麦酒でございます』。役人は頷いた。『どうりで、微かに香る草の匂いが爽やかだと思ったのだ』」
ヤガンは、大きな手振りで語る。振りかぶった手が、すれ違う男に当たりそうになり、驚いた様子で仰け反った。ヤガンは気にした様子もなく言葉を続ける。
「こうして、いい気になった間抜けな役人は山羊の小便を飲み干したんだ」
ヤガンは得意げに語り終わった後、ラハトに顔を向けた。ラハトは表情を変えることもなく、ヤガンを一瞥しただけだった。
「何だその顔は。笑ってもいいんだぞ」
ラハトは、小さく頭を振る。
「残念だが、旦那、何が楽しいのか全く分からん」
「しょうがない奴だな。笑い話を説明させるなよ、まったく」
ヤガンは小さく溜息をつく。ラハトは手を上げると、話を続けようとするヤガンを遮った。
「いや、言いたいことはわかる。教会が言う所の、“虚栄の病”というやつだろう。そうではなくて、面白い話とは思わないだけだ」
「やれやれ、お前には笑いというものが理解できないようだな。お前が笑ってるところを見たことがない」
「俺も面白かったら笑う」
ラハトの答えを、ヤガンは鼻で笑う。
「嘘つけ、酒場の給仕娘にもにこりともしないだろうが。いつも、俺が大笑い間違いなしの話をしてやっているってのに、眉毛一つ動かさないんだからな」
ヤガンは、ラハトの容姿を餌に給仕娘を口説こうとしているのだが、彼の無愛想が災いして、娘たちはすぐに離れていってしまう。笑顔とともに歌も詩も贈れないような男は、たとえ美男子であろうとも野暮な男でしかない。
ラハトは表情はそのままに肩をすくめた。
「旦那の話がいつもつまらんだけだ」
「こいつ、雇い主に愛想笑いをして機嫌をとることぐらいしろよ」
ヤガンは舌打ちするとラハトを睨んだ。
「旦那は、追従の笑いで喜ぶような御仁か?」
「知ったような口を利く奴だぜ。もういい。お前には、俺様のありがたい話を聞かせてやらん」
ヤガンは大きく打ち払うような手振りとともに言った。ラハトは頷く。
「それは残念だ」
その言葉とは裏腹の表情を見て、ヤガンは苦笑するしかない。
それからしばらくの間、二人は無言で街を歩く。第一の円城が近付くと、通りも広くなってくる。行き来する人々も、商人や、身なりのよい役人、兵士など、市街とは様相が変わり始めた。
「旦那」
ラハトが口を開いた。ヤガンは振り返る。
「どうした。ありがたい話を聞きたくなったか?」
「それはまた今度だ」
「だったらなんだ」
「後をつけられている」
その言葉に、ヤガンは顔を前に向けた。ラハトを見ることなく聞く。
「追い剥ぎの類か?」
「いや、相手は一人だし、よく鍛えられてる。ここまで歩いてようやく確信が持てた。おそらく追い剥ぎじゃないだろう。勿論、例外もあると思うが」
「どうせ、このまま歩いていけば、どんな奴らかはっきりする。それで、どんな奴だ?」
「遠目に見たからはっきり分からんが、商人のような装いをしてるな」
「面倒だな……」
やはり、放って置いてはくれないか。ヤガンは溜息をつく。人生は、常に面倒な方向へ転がっていく。そこから落ちないように上手く乗りこなしていくことが必要だ。だが、乗りこなせる者は少ない。転げ落ちた先に待っているのは、真っ暗な未来だ。
「どうする、旦那?」
「どうもしないさ。気付いていないふりをするしかない。俺たちはやましい所なんてなにもないんだからな。今だって、商いの話をしに行くだけだ」
ラハトの問いに、ヤガンは両手を広げて言う。角を曲がれば、白い城壁が目に飛び込んできた。
第一の円城は、運河によって市街地と隔てられている。運河には石造りの橋が渡され、曲線を描く城壁に開いた城門へと続いていた。王城を取り囲む三つの運河と城壁のうち、最も外側の運河と城壁は“翠玉の環”とよばれている。その名の由来でもある巨大な翠玉が、城門の上できらめいていた。
ヤガンとラハトは、円城の中へ入るために待つ人々の列に並んだ。長い列だが、案外早く進んでいく。すぐに、二人の順番がやってきた。
「ご苦労さま」
ヤガンは、笑顔で鑑札を取り出して見せた。ウルス人の衛兵が、頷くとそれを受け取る。円城の中に入るには、身分の証である鑑札が必要だ。これは、円城の住人や、そこに出入りする商人、役人、武人たちに与えられている。ウルス人衛兵の背後には、二人の狗人衛兵が立っている。彼らは耳と鼻を小刻みに動かして、見えない何かも逃さないようにしているようだった。
ここを通過するのはヤガンにとっては日常だ。今回も特に問題もなく、鑑札を返されて城門を通り抜けた。
第一の円城の中は、市街地の混沌とは対照的だ。道行く人々の数は市街地ほど多くはなく、騒がしくない。道は広く、掃き清められていた。
「まだついてきている」
背中越しのラハトの言葉に、ヤガンは頷いた。
「決まりだな。追い剥ぎ風情が翠玉の門を越えるはずがない」
円城の中での犯罪ほど割に合わないことはない。道行く兵士の数がこの城内の治安の良さを示している。余程肝の座った盗賊でもなければ、ここで危険を犯すよりも、市街地で小銭を稼いでいるほうを選ぶだろう。
「王国の者ということか?」
「もしくは、それに雇われてる奴か、だな。お前に中々気付かせない腕の持ち主だ。軍にいる密偵か、暗殺者の類か……」
ぞっとしない話だな。ヤガンは舌打ちする。腕利きに張り付かれているということは、相手はそれだけこちらを警戒しているということだ。ルェキア族とヤガンは、より慎重な行動を要求されることになるだろう。
「とりあえず、知らぬ振りをするしかないな。気付いていないと思わせておいたほうが有利だ」
「分かった」
振り返ったヤガンに、ラハトは頷いて見せた。
やがて、二人は目的の場所にやって来た。緑がかった青色の彩瓦が鮮やかな塀に囲まれた大きな屋敷だ。
ヤガンは、屋敷の門に立つと、門番の老人に声をかける。
「やあ、爺さん。“駱駝面”のヤガンが来たよ」
「おお、ヤガンさん、仕事熱心だね。ちょっと待ってな。ご主人様に知らせてくるから」
「ああ、頼むよ」
老人は手を上げると、庭を横切り、屋敷へ向かった。
普通のウル・ヤークス王国の民には、カラデア人とルェキア族、その他の民の違いは分からない。皆、一緒くたにして“黒い人々”と呼んでいる。当然ながら、慣れるまでは個人の見分けもつかない。その点、ヤガンのあだ名は、初対面のウルス人たちに覚えてもらうにはうってつけの、印象的なものだった。ヤガンは己のあだ名を積極的に利用して自らを売り込んでいる。
しばらく待っていたヤガンとラハトは、やって来た屋敷の使用人によって案内された。色々な顧客の屋敷を訪問しているうちに気付いたことだが、この屋敷の庭園はウルス人のものと少し造りや装飾が違う。特に目立つのは見事な意匠が凝らされた彫像が何体も置かれていることだ。それはこの屋敷の主人がウルス人ではないからだろう。
この屋敷の主人であるアトルは、シアート人だ。シアート人は海に生きる交易の民であり、ウルス人とは異なる文化をもっていた。
ラハトは別室で待たされ、ヤガンは中庭に面した一室に案内された。
その男は、椅子に座り、小さな円卓を前にして編み棒で何かを編んでいる。その作業に集中している様子だったが、顔を上げると、ヤガンに気付いて笑みを浮かべた。まだ若く、二十代後半だろう。編み物を卓上に置くと立ち上がった。
「やあ、ヤガン。急に会いたいというから予定を空けたが、何事かね?」
「お忙しいところを時間を割いていただいて感謝いたします、アトル様。製作中のところ、お邪魔して申し訳ありません」
ヤガンは右手を胸に当てて一礼する。アトルは、片手を上げて礼に応じると、椅子に腰掛けた。編み物に目をやって、言う。
「これはあくまで手慰みだよ。編んでいるうちに色々と良い考えが浮かぶのでね。それよりも、君が急用と言うのだ。時間を割くことはやぶさかではないよ。何か、重要なことなんだろうね?」
「はい。急ぎ、ご相談がありまして」
「なるほど、とりあえず、座りたまえ」
アトルは、対面する椅子を指し示す。ヤガンは礼を言って座る。
「誰か、酒を持ってきてくれ」
アトルは振り返ると、控えている使用人に言った。使用人は一礼すると姿を消す。
二人が世間話をしていると、使用人が盆の上に硝子杯を二つ載せて戻ってきた。優雅な所作でそれらを卓上に置く。
「エィテンの葡萄酒だ。今年は当たり年だよ。飲んでみたまえ」
「ありがたくいただきます」
ヤガンは硝子杯を手に取ると、そこに満たされた赤い酒を口にする。葡萄酒はアタミラに来てから覚えた酒だが、その甘い味は気に入っていた。
「うまいですね」
「だろう?苦労して仕入れた甲斐があるというものだよ」
アトルは満足気に頷くと、自らの硝子杯を置いた。そして、両手を組むとヤガンを見つめる。
「さてと、ヤガン。本題に入ってもらおうか」
ヤガンも硝子杯を置くと居ずまいを正した。おもむろに口を開く。
「先日、アシス・ルーからウル・ヤークス王国の第三軍が沙海に進軍したと聞きました」
「さすがルェキア族。遥か西の地の動きを、早くも掴んでいるんだね」
「我らの故地ですからね。いやでも耳に入ってきますよ」
ヤガンは己の耳の辺りを指差した。
「元老院は、カラデアを攻め落とすことを決定したということですね?」
「そうだ。残念ながらね……」
アトルは微かに眉根を寄せた。
「この戦争は、アトル様には大変な不利益になると思いますが」
「それはどうかな?戦は商機でもある。色々と稼がせてもらっているよ」
ヤガンの言葉に、アトルは笑みを浮かべた。
「そうですか」
ヤガンは、頷くと硝子杯を手に取った。眼前に掲げ、色々な角度で見る。
「見事な硝子杯ですね。ラーナカ硝子ですか。富裕な方々にとても人気らしい。商店に並んでいる物を見て、その値段に驚きましたよ」
アトルは口を開くことなく口元に笑みを浮かべたままだ。
「ラーナカは、シアート人と先祖が同じだと聞きました。今でも親しく取引をしているとか」
ラーナカは、ウル・ヤークス王国の西方にある国だ。正確に言えば都市国家の連合であり、その盟主である都市がラーナカである。故郷に残ったシアート人とは別の道を歩んでいるが、今も海の道を通じて関係は深い。
「ラーナカ硝子を作るためには、カラデアの砂が必要だと聞いたことがあります。ラーナカの海岸の砂では、この品質は出せないのだとか……」
アトルは小さく息を吐くと肩をすくめた。
「それはルェキア族である君が良く知っていることだろう。ラーナカへその砂を運んでいるのはルェキア族なのだから」
ラーナカと諸都市は、沙海の北にある。その間を遮っているのは東西に伸びる山脈だ。長大で峻険な山々を越えて、ルェキア族はラーナカと交易をしているのだった。
「あなたの遠い親戚には、カラデアの砂が必要です。他にも、アムカム銅。鉱石が沙海を渡るよりも、ラーナカで加工されて輸入するほうが、利益が高いはずです。しかし、カラデアがウル・ヤークス王国に征服されてしまうと、ラーナカへの道は絶たれてしまう。これまで独占できていたシアート商人は、他の商人たちと、真っ向から勝負しなければならなくなる。そうでしょう?」
「ああ……、その通り」
アトルの視線が鋭くなる。ヤガンは口元に微かに笑みを浮かべた。
「それは、ルェキア族にとっても同じです。我々も、ウル・ヤークスの商人たちと真っ向勝負などしたくない。これまで通り、持ちつ持たれつの良い関係でいたいのです」
「私にどうしろと言うのだね?」
「アトル様の力をもって、元老院を動かしていただきたいのです。戦争なんて御免ですよ。皆が仲良く取り引きできれば、万事うまくいく」
ヤガンは大きく両手を広げた。
「もちろん、我々ルェキア族も、カラデアも、アトル様に恩を感じるでしょうね。我々とアトル様との関係はますます親密になり、後々、取引において利益を生むはずです」
アトルは腕組みすると、大きく息を吐き出した。
「この戦争は、元老院でも反対する議員が多い。あまりに性急に開戦したことで、納得していない者がいるんだ。だが、反対派が根回しをする前に、賛成派によって決定されてしまった。シアート派を潰そうとする動きも感じられる」
「ラーナカとの関係も気に入らないのでは?」
「そうだろうね。強硬派は、海の交易も独占したいと考えているようだ。軍もからんでいるだろうな」
アトルは頷くとヤガンを見やる。
「君の話に乗ろう。だが、カラデアはもつのかね。我々が反対派を取りまとめることができても、カラデアが滅んでいては意味がない」
「それは、我々を信じてください」
ヤガンは身を乗り出すと、大きく頷く。
「沙海の民は、死の大地で生きているんです。我々は、しぶといですよ」