12
山稜の向こうから、朝日が昇った。
差し込む陽光は連なる山々に陰影を作る。雲一つない空は澄み切った青だ。強い風が吹き始めている。
焚火の跡から立ち上る煙が、風に吹かれて空に消えていく。
道らしき道もない荒れた斜面に、二人の人影があった。
一人は、背の高い男だ。
外套に身を包んだその男は、カッラハ族のように鉛灰色の肌を持ち、長く伸ばした髪の色は茶褐色だった。風に乱される外套の裾と髪を気にする様子もなく、光が差し込む山肌を眺めている。
その傍らには、同じように旅装の男が座り込んでいた。
外套を身に巻き付けるようにして縮こまっている男は、杖を抱え、ぶつぶつと何かを呟きながら俯き、細かく体を揺すっている。
鉛灰色の肌の男は、振り返り山の斜面を見上げた。
「セエル、来たぞ」
「分かりました」
応えた男は、埃を掃いながら立ち上がる。そして、視線を上げた。
「やれやれ、ようやくお出ましか。待ちくたびれましたよ」
逆光の下、五つの人影が並んでいた。こちらを見下ろしているようだったが、その影が異様なのは、こちらを見下ろしているはずの頭が無いように見えることだ。しばらくそこに佇んでいたそれらは、やがて早足で斜面を下り始めた。陽光が照らしていない日陰に入った時、セエルの目はその異形をはっきりと捉える。
全身を獅子のような明るい褐色の毛に覆われた体は、足よりも手が長く、その姿勢は前のめりになっている。それでも、その体高は人間のそれを大きく上回るだろう。腰に巻いた毛皮は様々な獣の皮を継いだものだ。その体毛は赤や白の顔料、骨や色とりどりの貴石で作った装飾品で彩られている。その長い腕は、骨ばっているが屈強な筋肉を備えているように見えた。何より人と異なるのは、頭の位置だった。
背中や肩周りの筋肉が異常に発達し、頭部が追いやられるように極端に前方に付きだし、胸の中に埋もれているようだった。そのため、まるで頭がなく、顔がそのまま胸についているように見える。その顔は人間に似ているが、口から長い牙ものぞき、半ば獣のようだった。胸の半ばを占めるほど大きいために、凶相ぶりが強調されている。
その異形達は各々が石の刃を持つ槍や斧、骨でできた棍棒といった武器を手にしている。そのうちの一人が、鉄の穂を備えた槍を持っていた。人にとっては長槍だが、彼らの体格に比すればありきたりの長さにしか見えない。
「ラガラウル様、彼らに会うのは久方ぶりでは?」
「……災厄の主との戦い以来だ」
鉛灰色の肌の男は答えた。セエルは、笑みを浮かべる。
「それは、興味深いな。いつか話を聞かせてください」
「昔話をする趣味はない」
「失礼しました」
セエルは小さく一礼すると、視線を戻した。
「はるばる星辰の山脈まで来たっていうのに、中々会えないから、どうなることかと思いましたよ。タウワーリ様に叱られるところでした」
溜息と共に言うが、ラガラウルは答えない。
星辰の山脈は、ウルヤークス王国の西方にそびえる広大な山脈だ。
無数の山と峡谷と高原によって形作られたこの山脈は険しく、越えようとする者を拒む。アシス・ルーの地を貫く大河トク・トの源流があると言われており、沙海と並んで黒き人々の地とウル・ヤークスとを隔ててきた。
一年中山稜に白い雪をいだく高峰は越えがたい壁となってそびえ、その麓には鬱蒼とした森や険しい山々、荒涼とした原野、特異な形をした台地、草に覆われた高原など、多様な地形が広がっている。
古来より大国の支配を拒む様々な種族の逃げ場所であり、時に彼らは低地へと侵攻してくる。その中には遊牧や狩猟を生業とする民の他に、狗人や翼人の諸族が割拠していた。そして、その中でも最も恐れられるのが、“首無し”だ。
特異な体躯からその名がついた種族で、聖典においては、ガァグ・ヤァガァグと呼ばれ、あるいは恐れと蔑みから単に“首無し”と呼ばれることもある。聖王国より伝わる聖典には首無しは、はるか古代においては巨人王に仕え、聖王国とも激しく争ったと記されている。聖王国が巨人の帝国に勝利したことによって首無しは世界中に散り散りとなり、ウル・ヤークスの地においては、星辰の山脈に追われることになった。
それは双瞳王の物語として知られている。双瞳王は首無しを山々の向こうに追いやり、焔の壁で封じ込めたという。
しかし、聖王国が去った後、首無しは度々山を下りて人々を襲うことになる。その恐ろしさは、古の時代よりエルアエルの地をはじめとする西方諸国に知られているほどだ。彼らの古文書には“頭のないものたち”と記され、この地を支配した王朝を度々脅かしたという。
ウル・ヤークス王国が興った後も彼らの侵攻は度々あり、少なくない被害をもたらしたが、諸軍団の奮闘によって押し返されてきた。そして長い争いの末、獣の縄張りにも似た境界線ができていたが、それも僅かな小康でしかないことを皆が知っていた。
近くまでやってきた首無したちは、立ち止まるとそこに佇んだままの二人を睨め付ける。そして、鉄の槍を持った首無しが一歩進み出た。
首が埋もれ一つとなった胸が大きく膨らみ、獅子よりも大きな口を開き、咆える。セエルは、その声から怒りと威嚇の意思を感じ取った。
咆哮が終わった瞬間、セエルは杖を大きく掲げると、叫んだ。
「聖標の担ぎ手、斧刃の掌、古の輩よ! あなた達の領域を侵したことをお詫びする! 我らはあなた達と争うために来たのではない!」
セエルが発したのはウル・ヤークスの言葉だったが、首無したちに通じていることを確信している。
首無したちは、セエルの言葉を聞いて戸惑った様子を見せた。その表情は他の種族には読み取りにくいが、セエルには彼らの感情がはっきりと観てとれる。人の言葉が自分たちに意味を成して聞こえていることに混乱しているのだ。
「私も、同じく巨人王の教えを信じるセイオンの者。ラハシという者たちの言い伝えを聞いたことはないか?」
その問いに、首無したちは互いに体を揺らして顔を見合わせた。唸り声と鳴き声の半ばにあるような声を発し合う。セエルの言葉を確認していることが分かった。やがて、鉄の槍を持った首無しがセエルを見て声を発した。それは、肯定の意思を帯びている。
「それはよかった。巨人王の御世、我らセイオンの民はラハシとして、様々な民の言葉を繋いだ。私はセイオンの裔として、古の知識と技を受け継いできたのだ。そして今、大切な言葉をあなた達に伝えるためにここにやって来た。この言葉が真実であることの証として、この御方を紹介しよう」
セエルは杖をおろすと、ラガラウルに顔を向けた。
「ラガラウル様、お願いします」
「分かった」
ラガラウルは頷くと、一歩進み出た。首無しを見やると、口を開く。そこから発せられたのは、異様な音を帯びた言葉だった。
次の瞬間、ラガラウルの姿は揺らぎ、そして、そこには異形の姿が現れた。
鉛灰色の肌を持つその顔は、人とはどこか異なっている。背丈は首無しに劣ることなく高く、何より、腰から下は人のものではなかった。茶褐色の巨大な下半身は、まさに蠍そのままであり、頭に当たる部分から、人の形をした上半身が生えているような姿だ。まるで幅広の刀ような鋏が対となり、掲げられた長い尾の先には不気味に尖る針を備えている。人の体、蠍の体どちらにも、黒い紋様が描かれ、その手には、奇妙な形に湾曲した刀が握られていた。
その姿を見て、首無したちは大きな声を上げる。それは、驚きと恐怖の声だ。
「偉大なる巨人王の眷属、蠍の王ラガラウル。その名も伝わっているのでは? これで、私が同じ教えを信じる輩であると分かってもらえただろう」
首無したちは、畏怖の感情と共にその場に跪く。ラガラウルは、異様な音を帯びた言葉を発する。はるか昔のその言葉は、もう彼らの間で忘れ去られ、失われたのだろう。セエルは、意味を理解できていない首無したちのために口を開く。
「ラガラウル様はこう仰っている。永い苦難の時を経て、今、古の栄光を取り戻す時が来た。もし偉大なる大王との盟約を守り、今もその教えを信ずるならば、我々と共に来るべし、と」
その言葉を聞いて、首無したちは沈黙し、再び顔を見合わせる。
「勿論、強制はしない。だが、もし我々の言葉を信じ、その力を貸してくれるならば、あなた達には大いなる繁栄が約束されるだろう。それは、巨人王とかわした古の契約と同じものだ」
獅子が喉を鳴らすような低い音が行き交う。人が小声で相談するように、彼らは意見を交わしている。セエルはそれが一段落するのを待って、言葉を続けた。
「かつてあなた達は、聖標や聖塔を築き、偉大なる戦士として敵を屠ってきた。それが今や、このような辺地に追いやられ、貧しき暮らしに甘んじている。それは、我らセイオンの民も同じだ。偉大なる巨人王の元に集った民を介し、繋いできた我々も、紡ぎ編んできた糸を絶たれ、迫害された。諸族は散り散りとなり、偉大な教えを継ぐのは我々のみとなった。そして、我ら古の輩を追いやった災厄の主の教えを信ずる者たちは、我が世の春を謳歌している。まったく、忌々しい話だとは思わないかね?」
一人の首無しが唇を震わせるような連続した音を発した。それは、同意の言葉だ。さらに、次々と同じ音が発せられる。
「あなた達にも伝わっているだろう? 古の時代、巨人王の御世の頃、我らは星と大地の力によって栄えていた。だが、災厄の主によってその恵みは失われ、大いなる遺産は奪われた。奴らは、偉大なる巨人王の遺産を自らの物であると思い込み、愚かにも使い方を誤り、大いなる災厄をもたらした。そんな誤りを犯しながら、それを恥じることもなく、傲慢にもこの地の主であると思いあがり、怠惰を貪っている。そして今や、奴らは血迷い、互いに争っているのだ。哀れな罪人どもが互いの血を啜っている今だからこそ、災厄の主の軛から解き放たれ、失われた物を取り戻すことが出来る!」
セエルは杖で強く地面をつくと、声を大きくした。
「もし新しい時代を望むならば、この地に暮らす同胞たちに呼びかけてほしい。あなた達は大きな力となって奴らを打ち砕くだろう。我々にはあなた達の力が必要なのだ」
彼らの間で交わされる言葉は大きくなっていき、それは複雑な旋律を持つ獣の唸り声のようになった。熱を帯びた言葉は、セエルの要望に応えることを善しとしている。
その言葉を聞きながら、セエルは笑みを浮かべる。
「古の輩よ、復讐の時は来た」
首無したちは次々と立ち上がった。