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「止まれ!」
ハサラトの号令で、キシュとキシュガナンが足を止めた。
「息を整えろ! 水を飲め!」
戦士たちは、素早く革の水筒をあおる。
キシュはキシュガナンの前に壁のように広がると、大きく足を広げて身体を沈めた。低く身を伏せたキシュの後ろで、戦士たちは指示に従って隊列を組む。
キシュと共に隊列を整えた彼らから、混乱するンランギ騎兵は少し距離がある。しかし、この場所に留まることによって、迫る重装騎兵にとってキシュとキシュガナンを無視できない状況が生まれた。このままンランギ騎兵に襲い掛かるならば、その隊列の横腹をキシュガナンにさらけ出すことになるからだ。
ハサラトは敵に逡巡を強いるためにこの位置に陣取った。もしそのままンランギ騎兵に襲い掛かるならば、自分たちも横から割り込めばよい。こちらに向かってくるならば、望むところだ。そして、騎兵部隊がとるであろうもう一つの選択肢がある。
重装騎兵は、駆けながらも二つに隊を割った。ほぼ半分の兵数に分かれ、一方は真っ直ぐにンランギ騎兵に向かう。そして残りの隊は、弧を描きながら向きを変えて、キシュガナンの部隊へと駆ける。それは、最も可能性が高いであろうとハサラトが考えていた選択だ。ンランギやシアタカたちの負担を完全に引き受けることが出来なかったのは残念だが、半数の兵力を割くことが出来たことで良しとすべきだろう。
「おいおい、俺たちは半数で十分だってよ。舐められたもんだ。なあ、ウァンデ」
口の端を吊り上げたハサラトは、隣に立ったウァンデを見やる。
「楽できることにこしたことはない。それだけ早く我らが勝利できるということだからな」
「違いない! さっさと片付けて、シアタカたちを助けてやろうぜ」
笑うハサラトと対照的に、ウァンデは厳しい表情で頷いた。
重装騎兵たちは大きく横に広がり、横隊を組んだ。縦隊を取り、突撃することによってこちらの隊列を喰い破るかと思っていたが、横隊で待ち構えるキシュガナンの包囲攻撃を警戒したらしい。
それは、こちらにとっては好都合だ。自分たちの得意とする戦いを繰り広げることが出来る。
ハサラトは砂塵を巻き上げ迫る敵を見て、仲間を振り返った。
「ジヤ、準備はいいか?」
「き、キ、キシュはいつ、でもいける、る、る」
問いに答えたジヤの目は茫洋として、ここを見ていない。
「よし。始めるか」
ハサラトは笑顔でウァンデの肩を叩く。ウァンデは小さく頷くと進み出た。戦士たちの前にウァンデが立ち、槍を掲げる。
「これより、俺たちは一族の誉れある戦士ではない! 我らはキシュの子! キシュの大顎となり、爪となり、一つの群れとなって敵を討つ! 功名は捨てろ! 勝利だけが我らの歩む道! そびえる巌のように隣に立つ同胞を守り、森の木々のように槍を立てるんだ!」
ウァンデの叫びに、戦士たちは喚声で応じた。
重装騎兵が駆るのは馬であるために、恐鳥程の速さはない。しかし、砂上でありながら隊列が乱れることなく、恐鳥にはない壁のような圧力を感じさせながらこちらに向かってくる。すぐにも目の前にやって来るだろう。
戦士たちは唸るように声を発した。徐々に上がっていく声音は大きな唸りとなって響く。その音と調和するように、キシュも一斉に高い音を発し始めた。二つの音は調和し、大きくその場を包み込んだ。
鉄の塊が砂塵を巻き上げて迫って来る。敵が近付くにつれて戦士たちの唸りが高まり、キシュもカチカチと顎を鳴らし始めた。
「槍を構えろ!」
戦士たちは身を低くして槍の穂先を敵へと向ける。
横一列に広がった騎兵が迫る。
光る穂先を睨み付けていたハサラトは右手を上げた。
「ここだ! ジヤ!」
ハサラトの声。
キシュは一斉に立ち上がると、弾けるように敵へと駆け出した。砂塵が舞い上がり視界を遮る。
押し寄せる鉄の波に、甲殻の壁がぶつかった。
キシュの背に括られていた槍が装甲を身にまとった騎馬や兵士たちにに触れた瞬間、柄が大きく撓り、穂先が甲をかすめて火花を散らす。幸運な者はその刃から身を守ることが出来たが、ほとんどの兵士や騎馬は、何らかの傷を負う。
ただキシュの体に括り付けられただけの槍は、そこまで大きな威力はない。しかし、それでも不幸な者は騎馬、あるいは己自身の命を失い砂の上に放り出される。さらには、足に傷を負った馬や衝撃で鞍から落ちる兵も続出した。騎兵との交錯に耐えられずキシュの体から引き剥がされた槍は、あちこちに飛び跳ねることによって馬の足を傷付け、被害を増やす。
初撃の勢いはキシュが勝った。その圧倒的な突進力で歩兵たちを蹂躙するはずが、逆に痛打を受けて跳ね返されてしまったのだ。
騎兵の壁が乱れる。
キシュは、生じた隙をさらにこじ開けるようにして雪崩れ込む。殺到する鉄と肉の奔流に躊躇なく飛び込んでいく。それはキシュにしかできない芸当だ。
さらに広がる混乱。
水の流れが堰き止められるように、騎兵の速度が滞った。
黒い甲殻の波が渦巻く。
キシュは向きを変え、騎馬の足下を駆け回りその隊列を乱した。キシュは、顎を大きく開いて手当たり次第に馬の足に噛みつきながら進む。馬蹄に潰されるキシュも多く出るが、それに構うことなく押し寄せる黒い甲殻の波濤は、騎兵を混乱に陥れた。
キシュガナンの短い槍と軽装では、突撃してくる重装騎兵の質量に対抗し難い。彼らに対抗するには乱戦に持ち込む必要がある。その為に、まずはその突進力を奪う必要があった。
薬を与えられて恐怖心を抑制されている軍馬たちだったが、足下に無数の甲虫が押し寄せると言うこれまでにない攻撃を受けて、激しく動揺し、錯乱する。いななき、暴れ、足を止め、隊列を崩した。
遂に、騎兵の突進は完全に停滞した。
押し寄せる人馬の波が止まったその瞬間。
「今だ! かかれ!」
ウァンデの号令。
槍を構えた戦士たちは、喚声と共に跳び出した。
早さを失った騎兵は、己の甲冑と鞍上という高所から繰り出す攻撃で歩兵を圧倒するしかない。敵に囲まれた騎兵は足を止め、キシュガナンの戦士と斬り合う。装備でははるかに優るウル・ヤークスの重装騎兵を相手に、戦士たちは巧みに連携して相対した。一人が敵の攻撃を引き付け、その隙にもう一人が槍を突き込む。彼らは必ず連携を保ち、一人になってしまったならば素早く退き、他の戦士に合流する。互いに声を掛け合い、まるで舞いを踊るように騎兵を翻弄した。
鋭い喇叭の音が鳴り響く。それを聞いた騎兵たちは口々に掛け声を発した。それは、転進の合図だ。このままでは、戦士たちの群れに呑み込まれ、完全な乱戦になる。そう考えた隊長たちが、一端態勢を立て直そうと試みているのだ。
「させるか! ジヤ! もっと足元をかき乱せ!!」
ハサラトが鋭く言葉を発した。
間髪入れずに、黒い波が枝分かれし、蛇のようにうねりながら方向を変える。
キシュは幾つもの塊となって、駆け出そうとする軍馬へと襲い掛かった。
馬首をめぐらす騎兵たちは、足下を掬われるようにして次々と落馬する。辛うじて躱した者たちも、まともに駆け出すことが出来ない。そこへ、戦士たちは次々と躍り掛かった。強固に結びついてた騎兵たちの隊列は、今や分断されて、戦士とキシュによってすり潰されようとしている。騎兵たちは、今や味方の助けも頼ることが出来ず、各々の力でここから抜け出すしかなくなった。
喚声、怒号、悲鳴、鈍い音、金属の打ち合う音。地を覆う白塵の中から、様々な音が聞こえる。
しかし、遠くから大きな塊となった音が響いた。
砂を踏みしめる無数の足音。武具がこすれ、ぶつかり合う音。兵たちの口ずさむ聖歌。
それは、歩兵たちの行軍の音だ。
こちらに向かってくる葦原のように揺れる何百もの長槍の穂先。城壁の如く連なる盾。白刃と装甲の群れは、離れていても大きな圧力を感じさせる。
迫る兵たちを目にして、ハサラトは舌打ちをした。
待機していたはずの重装歩兵部隊が近付いてきている。騎兵の混乱を目にして駆けつけたにしては余りにも早い。おそらく、最初から考えられていた動きに違いない。しかし、それは結果として重装騎兵部隊を救うことになるだろう。
「くそったれが……。返り討ちにしてやるぜ」
ハサラトは呟いた。
二手に分かれたキシュガナンの戦士たちは、共に激しい戦いを繰り広げている。ワザンデ率いるルェキア騎兵部隊は、ウル・ヤークスの軽騎兵部隊を寄せ付けまいと戦っていた。
キエサは、小高い砂丘の上で足を止め、戦場の推移を見守り、指示を出している。アシャンもここで戦場を見渡し、他のラハシと共に、重要な務めを果たさなければならない。
これまでの戦場は、アシャンにとって、ただ、“嫌な場所”だった。
父の死を思い起こさせ、恐怖と絶望が心を凍らせ、曇らせる。それから逃れるためには、心を閉ざすしかない。しかし、今や自分はその戦場に立つ戦士の一人だ。心を閉ざすことはできず、それどころか、ラハシとして、新たな目で戦場を観ることになった。
キシュは音と匂い、そして微かな思念の瞬きを群れという大きな形の中で積層させて一つの知性となる。それは、群れが建築、狩り、採取、栽培、養育といった作業を行う中で、個体同士の密接な繋がりによって維持されているものだ。しかし、何百、何千という兵士や騎獣が駆けまわる広大な戦場においては、その繋がりはしばしば絶たれることになる。
キシュは群れで一つの知性ではあるが、それを構成するのはあくまで小さな個体一体一体だ。群れとして、総体として恐れを知らずに突き進めても、個体としてのキシュは生き物としての本能が基本的な行動原理となる。群れから切り離されたキシュは混乱し、苦痛に恐怖し、整然とした行動をとることもできない。
その為に、アシャンや他のラハシたちは、戦場の混乱によって繋がりが絶たれないように保持する役割を担っている。
戦場の近くに在って、ラハシとしての思念をもってキシュの群れと繋がり、彼らの知性を結びつける。見えない思念の糸は戦場に張り巡らされ、網のように群れを覆っていた。
それは、他のラハシと、膨大な数のキシュと繋がるというこれまでにない経験だ。近くにラハシ達の心を感じ、キセの塚にいた頃の何百倍ものキシュと感覚を共有する。それは、明らかに人としての許容範囲を超えており、常に限界を意識しながら己を律する必要があった。そして、この恐ろしくも新しい繋がりによって拡張した感覚によって、“嫌な場所”だった戦場でこれまでになかった“形”を受け取ることになった。それは、渦巻く人の想い。苦痛。恐怖。絶望。怨嗟。
風に運ばれる血の匂いや叫び声と同じように、無数の感情が飛び込んで来る。それは、鋭い刃やざらざらした砂嵐のような形でアシャンを苛んだ。
砂丘の上から見える戦場の景色はどこか現実離れしている。しかし、視覚以外の感覚全てが、アシャンに現実を暴力的な力をもって死という現実を突きつけてきて、逃れることを許してはくれない。
そして、押し寄せる形だけではなく、不安と恐怖が、胸を突き刺して鋭い痛みをもたらす。死の嵐の只中に自分の大切な人たちがいる。ここにいる自分は、ただここにいて、見守ることしかできないのだ。
繰り返される戦いの中で、気付けば押し寄せる大きな絶望に取り囲まれている。
灼熱の砂漠にいるはずなのに、冷たい水に足元まで浸かっているような感覚。そしてその水位は今も徐々に高くなっている。このままこの水に沈み、溺れてしまったとして、自分はどうなってしまうのか。シアタカの言うような、人を殺すことに何の感情も覚えないような人間になるのだろうか。
なぜか、シアタカの中にいた欠片という存在を思い出す。
己の浸っているこの冷たい絶望は、あの時観た彼女から感じた感覚に似ているように思えた。
その冷たさと戦いながらキシュと繋がるアシャンの心に、哨戒する羽翅から警戒の形が飛び込んでくる。
戦場の中心の向こうに、砂煙があがった。無数の穂先を揺らしながら、歩兵部隊が向かってくる。
すぐに、他の兵たちも気付いた。キエサも、目を凝らして歩兵部隊を確認した後、振り返る。
「歩兵部隊が来た! ワンヌヴ、頼む!」
キエサが叫んだ。
「心得た」
ワンヌヴは右手を上げて応えると、すぐにラ・ギ族のまじない師たちが駆け寄った。
まじない師たちは袋から小骨や石を取り出すと、砂の上に置いていく。その形は、ワンヌヴを中心に大きな円を描いていた。配置を終えたまじない師たちは、その円の線上に等距離に立ち、ワンヌヴの方を向いて跪いた。そして、大きく両手を動かしながら唸るように呪文を唱え始める。中心に立つワンヌヴは、ゆらゆらと体を揺らしながら同じように両手を大きく動かしていた。
大きな力が集い始めた。
見守るアシャンは、不可視の力を感じ取る。
次の瞬間、大きな風が吹き寄せた。