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駅逓の周辺は、この沙海において珍しく平坦で開けた道が続く。
おそらく、沙海を渡る風の影響で、砂が吹き溜まりにくいのだろう。そして、岩塊群と水が湧き出る泉が広く分布していることから、南北に続く長い帯のようななだらかな道は、自然と人々の行き来する道となった。
ウル・ヤークス軍も、この先人たちが歩んできた道を“軍路”と呼んで支配したが、今や北から迫るカラデア軍によってそのほとんどは奪還されている。
ついに、最後の駅逓を目前にしたカラデア軍は、遠くに連なる岩塊群と、その北に広がる白い平野を進む騎兵の群れを見た。
斥候である騎兵と羽翅によって、敵の布陣は把握している。
迫る騎兵部隊はおそらく軽騎兵。その後を遅れて重騎兵部隊が追い、さらにその向こうに重歩兵部隊が進んで来る。おそらく、軽騎兵部隊でこちらを混乱させた後、重騎兵部隊で止めを刺すつもりなのだろう。
疾駆する軽騎兵部隊はみるみるカラデア軍に迫る。
駱駝の高い鞍上からみれば、部隊は前衛、中衛、後衛と、大きく三つの隊に分かれてまるで一本の矢のようにこちらに駆けてくる。
「鬣狗の牙だ」
シアタカが緊張の面持ちで言った。
「何のことだ?」
キエサの問いに、シアタカは答える。
「騎兵の陣形の名だ。ああやって隊を分けて、交互に連携して矢を放ってくる。その戦い方をウル・ヤークス軍では鬣狗の牙と呼んでいるんだ」
「獲物の右から噛みつき、隙が出来れば左から別の鬣狗が喰らいつく。鬣狗の狩りで例えているのだな」
ガヌァナの言葉に頷いたシアタカは言葉を続けた。
「鋭い牙で噛みつかれ、獲物は血を流す。だけど、決して無理はしない。翻弄し、出血を強いて、獲物は恐怖と苦痛に狂い、やがて力尽きるか、無謀な賭けに出ることになるんだ」
「まるでウドゥンガの野のようだな」
ガヌァナが微かに笑みを浮かべた。
「ウドゥンガの野?」
「己の名誉を汚したンランギの戦士が死後向かう所だ。祖霊の元にたどり着くこともできず、青い焔の目を持つ豺狼の群れに追い立てられ、人の顔をした獅子に首を噛み千切られ、双頭の禿鷲に腸をついばまれる。そして、その苦痛に終わりはなく、彷徨える魂は常に荒野を追われ続けることになるのだ」
「おっかねえ話だな」
ハサラトが肩をすくめた。
「ウドゥンガの野を恐れる戦士は、流れる血よりも、己の怯懦を恐れなければならん。魂の責苦と比べれば、恐怖と苦痛ならば立ち向かうことが出来る」
「その通りだな! 臆病者は敵よりも味方を殺す!」
エイセンはそう言うと大声で笑う。
「愚か者も味方を殺すぞ。二人とも、名誉のために無謀な攻撃をしないでくれよ」
キエサは、顔をしかめてガヌァナとエイセンを見た。ガヌァナは表情を変えることもなく頷く。
「分かっている。戦士にとって、鋭い目と冷めた頭が最も鋭い刃であり、盾だ。……敵は、我らに矢を射掛け、恐怖と怒りの雨を降らせる。そして、その雨が涸れ川に溢れる濁流のごとく我らを駆りたてる時を待つ。そして、その機が来たならば、敗走を装い、己を餌として狩場に誘い込むつもりだ。そこには、敵を屠るために連なる槍と盾が待ち構えている。そうだろう?」
ガヌァナの視線を受けて、シアタカは頷いた。
「……なるほど。だが、我々がその誘いにのらず、踏み止まって耐えていたならば、背後から来る軍勢に追いつかれることになるな」
エイセンは、北の方を振り返り言った。
「そうだ。だから、血を流すと分かっていても、俺たちは進むしかない」
キエサは答えた。今の自分たちは時間とも戦っている。躊躇いや足踏みは、決して許されない。例えその代価が命だとしてもだ。
「ならば我らは、敵の企てを喰い破る。それだけのことだ」
静かに答えるガヌァナ。キエサは、彼を、そしてシアタカたちの顔を見やった。彼らの表情は闘志や緊張で鋭さを帯びているが、怯えの色は一切浮かんでいない。ウル・ヤークスと戦い、凄まじい力で叩きのめされた。あの時の絶望を思い出す。沙海で戦い続け、今や、自分には頼もしい味方がいる。それは、己の戦いが無駄でなかったという証であり、大いなる希望だ。
「……始めよう。皆、配置についてくれ」
キエサの言葉に、皆が頷いた。
先触れの矢が、死を告げるために襲い掛かって来る。
盾が掲げられ、死の宣告を阻もうとした。
矢の突き立つ音。悲鳴、叫び、雄叫び。
カラデア軍は、中央にキシュガナン達を置き、右翼にンランギ騎兵、左翼にルェキア騎兵を配置した。キエサはキシュガナンと共に中央におり、そこには空を飛ぶ巨大な絨毯、呪毯が移動する帷幕としてあった。アシャンやラハシ達、サリカやワンヌヴとラ・ギ族のまじない師といった行軍に慣れない者たちがそこにいる。
歩兵であるキシュガナンとキシュは両翼の騎兵に遅れて進み、両翼の騎兵部隊が先行している。ウル・ヤークス軍の軽騎兵部隊は、その矢をルェキア騎兵に向けた。
矢の射程において、ルェキア騎兵はウル・ヤークス軍に敵わない。それは、これまでの戦いで痛いほど叩き込まれた現実だ。その為、まず第一射は耐えるしかない。盾を掲げたワザンデたちルェキア騎兵は、砂塵を巻き上げて駆けてくる敵が自分たちの射程に入る距離を測っていた。
「放て!!」
恐怖と苦痛に耐えていたルェキア騎兵たちは、ワザンデの叫びに応じてすぐさま矢を放った。
復讐の矢は、敵へ報いることはなかった。
次々と白い大地に突き刺さる。
矢を放った先頭の部隊はすでに右へ方向をかえていたのだ。
何て速さだ。
キエサはその転換の速さに驚きの声を漏らす。
斉射が終わった瞬間を見計らったかのように、駆けてきた後続の部隊が矢を放つ。その射撃は再びルェキア騎兵を襲った。次の部隊も、二の矢を射かけることもなくすぐさま向きをかえ、先頭の部隊を追う。
最後尾の部隊も同じように一度矢を放っただけで、走り去った。
これらの攻撃は、シアタカから教わり予想していたことだ。カラデア軍は、攻撃を受けながらもただ愚直に南へと向かう。
そして軽騎兵三部隊も、その動きに動揺した様子はない。入れ代わり立ち代わり 矢を射かけてくる。
決して距離を詰めることはなく、自分たちの射撃距離を保ったまま何度も攻撃してくる。それは、殲滅を目的とした矢ではない。自分たちの射程の範囲を見極めて、矢が届く際から放たれる射撃のために、威力も落ちている。しかし、たとえ弱矢といえども、茨に遮られた道をかき分けながら歩くように、確実に出血を強いる。鉄の鏃は途切れることなく、苦痛と焦燥によって兵たちの忍耐を削っていた。
歩けないほどの傷を負った者は、最後尾を進むキシュ、歩荷に載せられていく。しかし、いずれ負傷者を見捨てなければならない時もくるだろう。
たとえ小さな傷であろうとも、進軍の足は鈍る。軽騎兵の翻弄によって進軍を遅らせて、自軍に有利な状況を作り出す。ウル・ヤークス軍はそれを目的として嬲るようにこちらを削っている。
黙って殴られ続けるのはキエサの流儀ではなかったが、その目的が分かっているからこそ、歯を食いしばって進むしかない。ただ、この状況に兵たちがどれだけ耐えることが出来るのか。それがキエサには不安だった。これまで戦ってきたウル・ヤークス軍と違って、自分たちは寄せ集めの軍隊だ。死すらも恐れず、まるで竈の番のように淡々と己の命を火にくべるようなウル・ヤークス軍と、ただの市民だったカラデア兵や、部族同士でまとまってこなかったルェキア族、名誉や誇りを重んずるンランギ戦士の集まりであるカラデア軍。我慢比べをした時に、どちらが先に耐えられなくなるのかははっきりしていた。
遠くにいた重装騎兵も、徐々に近づいて来る。
これからが本番だ。
さらに流れる血を思って、キエサは奥歯を噛みしめた。
カラデア軍は、血を流しながらも進む。
軽騎兵部隊も遠間から牽制するだけで、激しい攻勢に出る様子はない。おそらく、重装騎兵の合流を待っているのだ。
恐鳥に跨るシアタカは、砂塵を巻き上げながら迫る重装騎兵を見る。
その南には、歩兵部隊もこちらへ向かっている。重装騎兵の突撃でカラデア軍を崩したのちに、歩兵部隊で受け止め、あわよくば殲滅しようと考えているのだろう。
シアタカは、戦場にいる部隊の中に紅旗衣の騎士の軍旗と軍装が見えないことが気がかりだった。
南からカラデア軍本隊が近付いているために、北の戦場に向かわず、南から来る敵に備えて砦に控えている可能性も高いだろう。しかし、それで自分を納得させることが出来ない。ここに紅旗衣の騎士がいないことに、どうしても胸騒ぎを覚えてしまう。
気の迷いだ。
頭を振り、息を吸い込む。
心の奥底ではかつての仲間と戦うことに未だに躊躇っているから、不安を感じているのだ。キエサやアシャンたちと共に軍の最後尾にいるため、ルェキア族のように矢面には立っていない。半ば傍観者のような立場が、迷いを生むのだろう。すぐに自分も刃を振るうことになる。こんな心構えでは、思わぬ不覚を取ることになる。そう考えたシアタカは、己を叱咤した。
矢の雨の下、着実に歩を進めるカラデア軍は、駅逓の岩塊群まで到達する。
ここで、突如軽騎兵部隊の動きが変わった。
速度を速めて接近してきた騎兵たちは、ルェキア族ではなく、右翼のンランギ騎兵に矢を放つ。それは、これまでの牽制が目的の矢ではなく、必殺の射程で放たれた矢だ。
危険を察したンランギ騎兵は 矢を避けるために、統率された動きで一斉に岩塊群側へ駆けた。
喇叭の音が鳴り響いたのはその瞬間だった。
シアタカが目を凝らしたのは、岩塊群の岩棚。そこに、武装した騎兵たちが姿を現した。
騎兵たちは、まるで崖のような斜面を、恐鳥たちを操って軽やかに駆け降りてくる。
「騎士シアタカ! あれは……、紅旗衣の騎士です!」
叫んだウィトの声は震えている。
羽翅による空からの偵察でも、潜んでいた敵の存在に気付けなかった。羽翅は匂いも感じ取ることが出来るが、ある程度の高さからの偵察であったために、騎士たちの匂いを嗅ぎ取ることができなかったのだ。敵はかなり前から岩塊群の横穴に身を潜めていたのだろう。
一騎も欠けることなく駆け下って来た紅旗衣の騎士は、あっという間に砂原におりたつと、まるで涸れ川に殺到する濁流のように近付いていたンランギ騎兵の隊列の中に突入した。木の幹に斧を振り下ろすように、騎士団は刃となって騎兵の帯の中に切り込む。
悲鳴や絶叫と共に、血の煙が舞った。
やはり紅旗衣の騎士はここにいた。
己の予感が的中したことを呪いながら、シアタカは舌打ちした。見れば、重装騎兵が向かってくる速度が増した。生じた混乱を利用して傷を広げ、引き千切ろうとしているのだ。重装騎兵と激突する前に立て直さなければならない。さもなければ、ンランギ騎兵は引き千切られ、散り散りとなる。
「シアタカ!」
緊張を帯びたエンティノの呼びかけに、シアタカは頷いた。キエサに顔を向け言う。
「キエサ! キシュガナンが助けに向かう! 奴らは必ずこの隙に付け込んで来る。ルェキア騎兵を展開して牽制してくれ!」
「分かった! 頼んだぞ!」
驚きの表情を浮かべていたキエサは、シアタカの声に我に返ったようだ。
「全速で駆ける! すまないがカナムーンはここを守ってくれ!」
「心得た」
ンランギ騎兵の危機を救うためには、速さが何より必要だ。キシュガナンやキシュ、恐鳥を駆るシアタカたちと比べ、足の遅いカナムーンは置いていくしかない。
「さあて、昔馴染みにご挨拶といくか」
ハサラトはニヤリと笑うと、面頬を着けた。
隣を向くと、エンティノと目が合う。冷静な表情のエンティノは、ゆっくりと頷いた。
「ウィト、お前は……」
「お側はお任せください! 誰も近付けません!」
姿勢を正したウィトは言い、傍らのラゴも大きな鳴き声を上げた。シアタカは言葉に詰まり、そして苦笑する。
「……ああ、任せるよ」
顔を向ければ、強張った表情を浮かべたアシャンと目が合う。自分はここでアシャンを守るべきなのかもしれない。しかし、もう自分の立場はそれを許されていない。今の自分に求められているのは、この戦争を勝利に導くことだ。
「皆! 気を付けて!!」
アシャンが呪毯の上で立ち上がった。祈るような仕草と共に叫んだアシャンに右手を上げて応えて、シアタカは恐鳥を駆った。キシュガナン達の前まで駆けると、刀を抜いた。切っ先を激突の場へ向けて、鞍上から叫ぶ。
「戦士たちよ! 我々の出番だ!! 同胞を救うぞ!!」
戦士たちは喚声で応えた。
「ジヤ!! 大顎を束ねてくれ!」
「承知!」
ジヤが槍で己の肩を叩く。
「お前たち!! ここからが本当の大戦だ!! これまでのような失態は許されんぞ!!」
エイセンの叱咤に、戦士たちは一斉に槍を掲げた。紅刃や白刃が、陽光を浴びて一斉に煌めく。
「行くぞ!!」
シアタカの号令一下、戦士たちは駆け出した。