33
デソエとの道が絶たれた。
『軍営府』の南伐部隊がそのことに気付いた時、すでに脅威は軍路を辿って北から迫っていた。
補給や連絡が途絶え、不審に思った南伐部隊は空兵を北へ派遣した。そして、空兵斥候たちが遭遇したのは、巨大な羽蟻のような化け物の群れだった。
その巨大な羽蟻の化け物は、大鳥や翼人には不可能な動きで襲い掛かって来る。しかも、一体ではなく、四方八方から包み込むように襲いかかって来るのだ。それはまるで、伝説にある『深淵の羽蟲』のようで、襲われた兵たちは混乱し、恐怖した。
当初この巨大な虫たちは、これまで遭遇しなかった沙海の魔物だと考えられた。
しかし、空兵斥候たちがどこへ飛ぼうとその前に現れて行く手を阻んで来る。その行動に何らかの意思を感じずにはいられなかった。
そして、同時に軍路伝いに何度となく送り出していた騎兵たちも戻らなかったことから、彼らは確信した。
北に敵がいる。
おそらく、あの羽蟻の化け物は、敵の操る妖魔の類なのだろう。そう考えた軍営府の隊長たちに、聖導教団の魔術師が一つの推論を提示した。
カラデアには、西の地から巨大な蟻の群れを操る民がやって来ると。
それは、紅旗衣の騎士たちを除けば、ほとんどの軍団兵には知られていないことだった。紅旗衣の騎士たちは、ヴァウラ将軍が蟻使いの民を支配下におさめるつもりだったことを話した。あの羽蟻を蟻の民が操っているのだとすれば、蟻の民はカラデアと手を結び、ウル・ヤークスに敵対したことになる。これまで空兵がいなかったカラデア軍に、厄介な空の戦力が味方したのだ。それは彼らにとって想定外の事であり、敵の脅威が何倍にも増したといえる。
あの羽蟻が蟻の民に操られているとして、あの羽蟻に騎手はいなかった。そもそも、人を乗せることが出来るような体格ではなかったのだ。そして、ウル・ヤークス軍やこれまで戦ってきた様々な敵は、戦場において精霊や妖魔を使役して戦っていた。それはよほど特別な例を除けば、近くに術者がいてその存在と繋がっていなければならない。それらの恐ろしい人外の存在を相手にする時、使役する術者を倒すことが最も近道だ。しかし、戦場の周辺に羽蟻を操っている術者の姿を見付けることはできなかった。
そうでありながら、羽蟻の群れははっきりと妨害の意思をもって空兵を阻み、まるで一つの巨大な生き物のように、あるいは軍団のように整然と襲い掛かって来た。本能のままに動く虫の化け物とはとても考えられない。敵は、自分たちが全く知らない方法で羽蟻を操っている。彼らはそう結論付けるしかなかった。
北の軍路に残る駅逓はあと二つ。
軍路を完全に制されてしまえば、軍営府は干上がり、南のカラデア軍との挟撃という危機に晒されることになる。幸い、今のところ南の軍勢に動きは見られない。敵が軍営府に迫るまでに現状を打破する必要がある。
そして彼らは、敵を突破して北へ伝令を送り出すことを決定した。
地平の彼方に、黒い靄が見える。それはすぐに広がり、風にあおられた帯や吹き流しのようにうねり、広がった。
「来たぞ……。化け物どものお出ましだ」
呟いたその言葉は、風の音にかき消される。
空兵たちは、本来の編成を捨てて、翼人空兵、大鳥空兵と分かれた編隊で飛行している。それは、この特別な任務のために考えられた編隊だ。
大鳥を駆るウリクの前で、翼人空兵たちが横一列に広がった。兵同士で大きく間隔を取り、空中で長く連なる。ほぼ同時に、大鳥空兵たちも同様に横へと広がった。しかし、翼人空兵たちより少し低空を飛んでいる。
黒い霞は、見る見るその大きさを増してくる。それは、この世で形を成した悪夢だ。これまでの羽蟻の群れとの戦いは、ウリクにとって砂嵐に立ち向かうのと似た絶望を感じさせた。こちらを包み込み、喰らいつくそうとする、立ち向かうことが出来ない凶禍が形になったような存在。
しかし、何度か羽蟻の群れと遭遇した空兵たちは、対抗する手段を考えだしていた。
先頭を飛ぶ翼人空兵の一人が、空中に赤い粉をまいた。それは空中で雲のように大きく拡散する。
これを合図に、翼人も、大鳥空兵もここまで携えてきた大きな袋を構える。それは軽さを何より重要視する空兵にとっては途轍もなく重い荷物だったが、この戦いのために必要なものだった。
今や羽蟻の群れは、黒い雷雲のように目の前一杯に広がっている。
黒光りする甲殻と、羽ばたく四つの羽を備えた人くらいの大きさの蟻。耳元で、耳障りな羽音と、金属的な硬い音を聞いた。それは、死の囁きだったのだ。
あの時の恐怖と無力感は今も忘れられないが、それを怒りと戦意に換えて、ここにいる。
風を切り、飛ぶ。
黒い巨大な群れが迫る。
そして、その瞬間が来た。
何度も訓練した、敵に怒りを叩きつけるための距離。
もう一度、赤い雲が空中に出現した。
それは小さく、一瞬大気を漂っただけだったが、機を計り、集中していた兵たちには十分だった。
翼人たちが一斉に袋を振った。
帯状のその袋は、内側に孕んでいた無数の黒い物体、粗く削られた石弾を空中に吐き出す。
翼人空兵たちは、その動作の直後に、一気に上昇した。
宙に放り出された石弾は、無数の点で構成された壁となって空を飛ぶ。そこに、羽蟻の群れが飛び込む形になった。
風の轟音にかき消されて聞こえないが、ウリクには、羽蟻の甲殻が潰れる小気味よい音が聞こえてくるように感じた。
次々と落下していく黒い虫たち。
続く大鳥空兵は、大鳥を下降の態勢に入らせると同時に、鞍上で袋を振るった。
再び石弾の壁が飛んでいき、大鳥の列は一気に急降下を始める。
ウリクは、大鳥を急降下させた後、体を反転させながら向きをかえ、再び上昇させた。それは、他の大鳥空兵も同じだ。空中で騎手の体勢は目まぐるしく変わるが、ウリクは常に上、そして背後と、羽蟻の群れを見失うことなく捉えている。
石弾の一斉投射は、羽蟻の群れに大きな痛手を与えたようだ。その黒い塊は所々で薄く、あるいは千切れており、重装歩兵の密集陣形のようなあの圧力が薄れている。しかし、すぐに互いに結びつこうとしているのも分かった。空兵たちも、あの攻撃で全てが決まるとは考えていはいない。何より、彼らの任務は羽蟻の群れの撃退ではない。あの黒い壁に穴をあける。その為にここにいるのだ。
翼人空兵たちは、すでに次の攻撃を始めていた。敵が迫って来れば群れに捉まらないように散開したまま飛び、距離を取った後は攻撃に転じる。すぐに彼らは集結し、美しい編隊を組んだ。それはまるで椋鳥の群れのようで、黒い雲となって矢の雨を吐き出している。その効率的で正確な射撃は、確実に羽蟻の群れを削っていた。
翼人たちはその飛翔力を失わない為に、重装備を避ける。この戦いにおいても、敵に囲まれないことが何より大事だ。その為、まともな鎧も付けず、大刀や戈のような長柄の武器も持たず、ただ弓矢を携え、石弾を抱えてここまで飛んできた。
恐るべき敵を前にして裸同然の翼人空兵に代わり、ここからは大鳥空兵が前線を引き受ける番だ。
上昇した大鳥空兵たちは再び一列に編隊を組み、翼人空兵と入れ替わるように羽蟻の群れへ向かう。空戦ならば白兵戦となる手前のぎりぎりの距離まで接近した。その瞬間、ウリクは合図の粉を空中に撒くと同時に、鞍の後ろに手を伸ばした。捩じり、絞り上げられた太い縄のような物を放り投げる。
端に小さな石が何個も括り付けられたそれは、回転しながら空中で広がり、羽蟻の群れへ向かった。宙で四角く開いたのは巨大な網だ。
他の空兵から投じられた投網も次々と空中で広がり、まるで宙に何十もの花が咲いたかのように見える。
黒く鈍く光る群れと投網の列が衝突した。
躱す暇もなく、何体もの羽蟻が網に絡まりもがく。羽の動きを奪われて、次々と落下していった。
これまでの戦いにおいて、空兵は“面”で攻めてくる羽蟻の群れに包み込まれ、握りつぶされる“点”でしかなかった。砂に針を一刺ししても、何の痛痒も与えることは出来ない。対抗するためには、こちらも“面”の攻撃で立ち向かうしかないのだ。その為に彼らは、空戦でも陣形を維持して一斉射撃を繰り返し、石弾、投網を武器として使った。
まだだ。これでも足りない。伝令を突破させるためには、そして奴らに追いつかれないために、もっと大きな穴をあける必要がある。
群れに与えた損害を確認しながら、ウリクは手綱を引き、大鳥を一気に旋回させた。しかし、機敏な翼人と比べて、大鳥の動きは劣る。身を翻そうとしているウリクや他の大鳥騎兵へ、無事な羽蟻たちが追いすがろうとする。特に、先頭を切っていたウリクは少し突出しており、旋回も僅かに遅れた。それが、羽蟻たちには狙うべき目標となって定められてしまったようだ。群れの形は変化し、広く拡散した状態から、太く収束して様々な角度からウリクへと迫る。それはまるで何本もの巨大な手が広げた指で彼らを掴もうとしているかのようだった。
ウリクは左右上下と忙しく頭をめぐらせ、襲い掛かる群れを確認する。そして、機を計り、大きく後ろに体重を移しながら、鐙で胴を打った。
大鳥は右斜め上へ一気に上昇した。迫る群れの隙間をついて舞い上がる。しかし、掠めるように躱した羽蟻の幾つかの塊が、逃れようとする大鳥へ追いすがった。急な上昇によって、大鳥の速度は失われている。このままでは追いつかれると判断したウリクは、鞍に付けた革袋の手を伸ばしながら、何度も振り返り、追ってくる塊を確認する。
ここだ。
このままでは追いつかれるという距離で、ウリクは大鳥を宙返りさせた。同時に、革袋を開き、中身を宙へとぶちまける。それは、投箭と呼ばれる、総鉄製の短い杭状の武器だった。本来、空中からばら撒いて地上の兵を襲うための武器は、上昇してくる羽蟻たちに鉄の雨となって降り注ぐ。黒光りする塊から剥がれるように、何体もの羽蟻が落下していった。
ウリクは、真下を向いた大鳥をそのまま急降下させる。投箭の雨から僅かに遅れて、大鳥は羽蟻の塊とすれ違った。
投箭はウリクが逃れる隙間を無理やりつくりだした。しかし、まだその塊が消滅したわけではない。
傍らを掠めていく大鳥を追って、何体もの羽蟻が飛んだ。
急降下する大鳥の背後から羽蟻が迫る。
振り返ったウリクの視界に、幾つもの黒光りする甲殻、凶悪な顎が飛び込んできた。
死ぬ。
ウリクが死を覚悟した瞬間、空を切り裂いて、白刃が煌めいた。
投槍が間近に迫った羽蟻の頭を貫く。
僅かに遅れて、横合いから猛烈な速度で大鳥が飛来した。大鳥はウリクを追う羽蟻たちのすぐ上へ飛び、鉤爪でその体を引っ掛け、突き掃う。文字通り羽蟻は蹴散らされた。
その大鳥は、勢いを止めることなくそのまま斜め下へと降下していく。
「イェナ!!」
こちらを振り返る騎手の姿を見て、ウリクは思わず叫ぶ。
「助けられたか……」
ウリクは呟くと、笑みを浮かべた。
続けて、他の大鳥騎兵たちもウリクの元へ集い、護るように編隊を組み直す。
度重なる空兵の攻撃を受けて、羽蟻の群れは乱れている。しかし、まだ足りない。北への伝令を送り出すために、もっと大きな穴をあける必要があるのだ。
その為の最後の一手を打つために、空兵たちは機を計っていた。
翼人たちの編隊が、黄色い粉を宙に撒いた。
矢が尽きそうだという合図だ。
それを見たウリクは意を決した。首に吊るした笛を加えて、三度吹く。
甲高い音は、風の唸りに惑わされる兵たちの耳にも届いた。
それを合図に、一人の翼人が鏑矢を射る。
奇妙な音を発する鏑矢が向かった先へ、翼人たちは一斉に矢を放った。それは、これまでの波状的な矢の幕ではなく、鏃の塊となって羽蟻の群れを穿つ。
その時ウリクは、再び宙に赤い粉を撒いていた。
大鳥空兵たちは、赤い雲を目にした瞬間、編隊を組み直しながら羽蟻の群れへと接近する。翼人空兵の編隊は、彼らと入れ替わるように後退した。蛇状の編隊の先頭にいるのはウリクだ。
ウリクは、腰に据えた革袋から大きな瓶を取り出すと、封をされた蓋に埋め込まれた油紙の先端をむしり取る。貴重な火蜥蜴の肝は、空気に触れることで瞬間的に発火した。
翼人空兵が穿った穴。
ウリクは、そこに火のついた瓶を放り投げた。そして、それを見届けもせずに宙返りして反転する。
続く大鳥空兵たちは、同じように火のついた瓶を次々と放り投げ、反転した。
宙で回転する何十という瓶。火蜥蜴の肝の火は瓶の中に満たされた液体にまで達した。引火した液体は空中で爆発的に燃焼する。燃え上がる液体によって連鎖的に瓶は爆発し、宙に巨大な炎の壁が出現した。
その瞬間、羽蟻の群れが爆ぜた。
これまでまるで熟練の重装歩兵部隊のように甲殻を連ねていた羽蟻が、蜘蛛の子を散らすように散り散りとなったのだ。
恐慌を引き起こした。
ウリクは羽蟻の様を見てそう確信した。それは、ウリクが教えられた情報の通りだった。
聖導教団からもたらされた数少ない蟻の民の情報。
その中に巨大な蟻は炎を恐れ、混乱するのではないかという仮説があった。それを元に、最後の一撃として炎漿を使った攻撃を考えたのだ。炎漿は主に城攻めに使われてきた燃える液体の兵器であり、高価で貴重なものだ。岩砦やカラデアを陥とすために用意された物だったが、状況を打破するためにここで出し惜しみをしてはいられない。
そして、その狙いは的中した。
すでに羽蟻は群れでも塊でもない。
炎漿を浴びて消すことのできない炎を身にまとったまま落ちていく羽蟻たち。
無事だった羽蟻たちも、統制を失い、逃げ惑っている。
その間隙へ、待ち構えていた五人の翼人空兵が飛び込んだ。彼らは、戦闘に参加せず、味方を信じて待機していた伝令たちだ。
羽蟻が舞い飛ぶ空を、伝令兵たちは北へと全速で通り抜け飛び去って行く。
それを見届けて、空兵たちは一斉に翼を返して撤退を始めた。
白い砂の大地の上では、広い範囲に落下した何十体もの羽蟻が炎を上げて赤く燃え盛っている。
「隊長!!」
隣に大鳥を並べた騎兵の呼びかけに、ウリクは顔を向けた。
「イェナ。すまんな。お蔭で命を拾ったよ」
ウリクの言葉を聞いて、イェナは顔を覆う襟巻を下ろして破顔した。
「投槍が隊長に当たらなくて良かったです。本当、ぎりぎりでしたから」
「お前は投槍が下手くそだからな。もしかしたら俺の頭に突き刺さっていたかもしれん」
頭を叩いて見せたウリクに、イェナは顔をしかめた。
「隊長、それは酷いです」
苦笑したウリクは、肩をすくめる。
「それでも、虫に噛み殺されるより、味方に殺された方がましだったな。……イェナ。本当に感謝してる。俺はお前に命を救われた。この恩は忘れんよ」
ウリクを見つめていたイェナは、小さく頭を振った。
「あの時は、私が隊長に助けられました。だから、私も隊長と同じように仲間を助ける。それだけです」
「ああ……、そうだったな」
真剣な表情のイェナを見て、ウリクは頷いた。
北へ向かった伝令たちは、各々が広い範囲に離れて散らばり、北の友軍を目指して飛ぶ。
羽蟻の群れがまだ他に待ち受けている可能性があるからだ。
四人が犠牲になっても一人が辿りつけばよい。それが、彼らの覚悟だ。伝令兵たちも、命を懸けて仲間を助ける。その為に飛んでいる。
「……頼むぞ」
立ち上る煙と飛びまわる羽蟻の向こうに、すでに伝令兵の姿は見えない。ウリクは振り返り、呟いた。