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「おお、こりゃあすげえ!」
ヤガンは、海原を覗き込みながら感嘆の声を上げた。
澄み切った海は穏やかで、海底まで見ることが出来る。そこには、ただの岩ではない、巨石の連なりがあった。
立ち並び、あるいは倒れ崩れた円柱の間に、敷き詰められた石畳の道路が見える。積み上げられた小さな石材が散乱し、崩れた構造物が立ち並んでいる。それはおそらく二階建てや三階建てだったであろう石造建築の遺構だ。広大な面積の都市の残骸が、海底には広がっていた。それらは決して海流の悪戯によって奇岩が街並みに見えているわけではない。長い年月の間海中にあったであろう遺構は藤壺や海藻に覆われており、その間を魚や見たことのない生き物が泳ぎ回っていたが、それでも凝った意匠や見事な建築技術を海上からでも見て取れる。
「あんたはアシス・ルーは初めてだったか?」
隣に立ったシアート人の水夫が、怪訝な表情で聞いた。
「いや、当然、アシス・ルーには来たことがあるよ。ただ、海に出たことがないもんでね」
「アタミラにも陸路で来たのか?」
「ああ、そうだ」
「それならこいつを見るのは初めてのはずだな。どうだ。見事なものだろう?」
「すごいもんだな。海の底に街が沈んでいるなんて、まるでおとぎ話だ」
まるで自分の手柄のように自慢げな水夫に苦笑しながら、ヤガンは答えた。
「俺も初めて来た時はたまげたよ。故郷の海にはこんなもの沈んでないからな」
「この海に沈んだ街は、どれくらい昔のものなんだ?」
「色々な説があってな。確かなことは言えんが、巨人王の時代の頃だと言われてる」
「へえ、想像もつかねえ話しだなあ」
かつてこの地は、巨人族に支配されていたという。カラデアで育ったヤガンにとって、その話はおとぎ話にしか聞こえない。しかし、こうして壮大な遺構を目にすると、はるか古代に、人とは全く異なる種族がこの地の主であったことも納得できる。
「何しろ大昔の話だ。遠い北の地には巨人族の子孫が住んでるらしいが、俺も実際に会ったことはないしな。本当のところは分からんよ」
水夫はそう言って笑うと歩き去った。
そうしている間にも、船は滑るように湾内を進んでいく。
遠くからも見えていた巨大な塔が、見る見る存在感を増してきた。
まるで城壁のような厚い方形の下層階の上に、途轍もなく高い塔がそびえている。細い半島の先に建てられたその建造物は、まさしく見上げるばかりに高く、視界を遮るもののない海上から見れば、まるで天から柱が降りてきたように見える。その頂点では、陽光を反射した鏡が眩く輝いていた。
それは、『アシス・ルーの大灯台』と呼ばれている。
沙海を渡り、たどり着いたのはアシス・ルーという巨大な街だった。初めてアシス・ルーを訪れた時、カラデアを何倍にも大きくしたその広さ、繁栄に驚いたものだ。
その中でも一際目を引いたのが、大灯台だった。まるで天にも届くような高層の建築は、決してカラデアでは見られないものだった。
夜、海を眺めた時、灯台の頂点に灯された明りを見て、初めてこの巨大な建造物の役割を納得した。夜の海は暗く、月明かりの下で白く輝く沙海と異なり、自らの位置を見失ってしまうのだろう。船乗りにとっては心強い道標に違いない。
大灯台は海上に睨みを利かせる要塞も兼ねており、近付くにつれて下層部の城壁にいる兵たちの姿や据え付けられた投石機、弩砲が見える。ヤガンが酒場で出会ったアシス人の語ったことを信じるならば、あの頂上にある鏡は魔術の力をもって反射した日光を強め、海上の船を焼くことが出来ると言う。最初はほら話だと笑い飛ばしたが、これまで経験した怖ろしい魔術や精霊の力を鑑みて、今ではおそらく本当なのだろうと思うようになっていた。
「戻って来ちまったな……」
呟いたヤガンは、短く剃り上げた頭を撫でる。
長く伸ばした髪も、はやした髭もなくなり、衣装も変えた。この己の風体にもすっかり慣れてしまった。
今のヤガンの姿は、カラデア人でもルェキア族でもなく、ウドゥ人のものだ。
ウドゥ人は、スアシァ帝国に暮らす黒き人々であり、帝国の主要民族である。スアシァ帝国は、カザラの地の西に連なる峻険な『星辰の山脈』の向こう側、アシスの地を流れる大河ト・ウトの上流に版図を持つ。彼らはこれまでの歴史の中で、アシス人やカザラ人と争い、交流してきた。現在でも、多くのウドゥ人がアシス・ルーに訪れている。ウドゥ人はカラデアにも交易で訪れており、ルェキア族もスアシァ帝国とは交流があった。
その歴史の中で、スアシァの民の中にはアシス人やカザラ人の血が多く混じっている。それはルェキア族も同様で、その為、ルェキア族とウドゥ人はどこか似通った風貌をしていた。今のヤガンはウドゥ人の装束をまとい、サウドの雇ったウドゥ人傭兵に守られている。言わば彼らに紛れているようなものだ。ルェキア族とカラデア人の間に生まれたヤガンからすれば、自分がウドゥ人に成りおおせているか甚だ疑問だったが、ウル・ヤークスの人々には見分けがつかないだろう。
アシス・ルーの港は、アタミラの港とは比べものにならないほど広い。行き交う船の数も多く、船上から見える港の賑わいもアタミラよりはるかに上だ。
アシスの地はウル・ヤークス王国屈指の穀倉地帯だ。大河ト・ウトの周辺に広がる農地で収穫される小麦や玉蜀黍その他の農産物は、ウル・ヤークス王国を支え、さらには国外に輸出するだけの余剰がある。アシス・ルーはそんな穀物などの輸出港としても重要な役割を担っていた。
あの夜、家にウル・ヤークスの官憲が踏み込んできた。
共に酒を飲んでいた取引の相手、ナムドは、リドゥワという港町から来たという。リドゥワの港もとても賑やかだと話していたが、アシス・ルーとどちらが上なのだろうか。見たこともない南の海に面した港町に思いを馳せる。
あの時、ナムドは自分たちの巻き添えで捕まり、自分を逃がしてくれた。カラデア人でもないナムドはそう酷い目にはあわないだろうが、自分と関わったばかりに迷惑をかけてしまった。もしリドゥワに行くことが出来るならば、あの時の礼と詫びをしなければならない。
家から逃げ出したヤガンは、夜陰に紛れて何とかとあるシアート人の商店に逃げ込んだ。そして、報せを受けたナタヴとアトルによって、匿われたのだった。
ナタヴはこの戦争が終わるまで自分の元にいると良いと勧めてきたが、ヤガンはそれを受け入れることは出来なかった。自分は結局敗北したのだ。ルェキア族とカラデアの為に賢く立ち回って来たつもりが、結局全てをご破算にして、異国に暮らす同胞を破滅させてしまった。
そのことについて責任を取ろうと考えるほど自分は殊勝な人間ではない。しかし、同胞が苦境に陥っているというのに、自分だけが安全な場所に匿われているというのは、ヤガンの誇りが許さなかった。
そんな中、アシス・ルーにいる多くのルェキア族が、ナタヴ達の手配によって、何人も匿われていると聞かされた。カラデアに戻って戦いに加わるか、匿われた同胞たちとウル・ヤークスに対して何か行動を起こすのか。具体的なことは何も考え付かないが、まずは動くしかない。そう決意したヤガンは、アシス・ルーに向かいたいとナタヴに願った。
ナタヴはヤガンの頼みを渋々ながら承諾し、サウドは南洋貿易で懇意にしているウドゥ人の傭兵を手配してくれたのだった。そして、無事にアタミラを出たヤガンは、碧き岸辺から海路でアシス・ルーに向かった。
生まれて初めて体験する海という環境は、驚きの連続だった。ナタヴからは船酔いに気を付けろとからかい交じりに言われたが、幸いなことに辛い思いをすることはなく、美しくも怖ろしい海原を見ながら、ここアシス・ルーに到着したのだ。
船という木の籠のような乗り物に揺られてここまで来たが、底が抜ければ海に沈んでしまうのだと想像すると、不安が常に影のように付きまとっていた。その為、港が見えた今、大きな安堵を覚えて息を吐く。
埠頭が近付く。
忙しそうに行き交う人々。荷駄獣やそれらに引かれる荷車。山のように積まれた様々な積荷。
アタミラの港の何倍もの規模を誇り、海上にいてもその喧騒が届いて来る。内海海上交易の中心に相応しい賑わいだった。
そんな岸辺の往来の中に、ウル・ヤークスの東では見ることのできない生き物がいた。
それは、巨大な甲虫だった。大きな牛ほどもある丸みを帯びた巨体は、硬質な輝きを帯びた青黒い甲殻に包まれている。暖竹と縄、木によって繋がれた荷車を曳き、その背には、同じように暖竹で編まれた簡素な造りの鞍が置かれている。そこに腰かけた騎手は、右手に握った竿を虫の前に差し出しており、その先端には紐に繋がれた何か小さな物がぶら下がっていた。その竿で向かう方向に導きながら、時折左手に持った鉤付きの棒で甲虫の殻や関節を軽く叩いて操っている。
大鐘虫と呼ばれるこの甲虫は、その名の通り大きな鐘に似たずんぐりとした体型をしていた。
この生き物を初めて見た時、ヤガンは驚いたものだ。カラデアでは蟻の民が連れた巨大な蟻を見たことがあったが、この大鐘虫ほど巨大ではない。この甲虫はアシスの地ではあまり珍しくはなく、沙海からアシスの地に踏み入れた時、郊外の農地で農民が荷車を曳かせている光景をよく見かけた。
沙海の南の土地でも似たような巨大な甲虫は飼われているらしい。昔、カラデアで繁殖させようとルェキア族の商人が持ち込んだが、低い気温に耐えられないらしく、寒暖差の激しいカラデアでは育てることが出来なかったという。夜もそこまで冷え込まないウル・ヤークス南岸でも多く飼われているということだった。
初めて大鐘虫を見た時に、デワムナが教えてくれたことを思い出す。
デワムナの得意げな顔が頭に浮かぶ。
あの夜、デワムナとラテンテを置いて自分だけが逃げ出した。家族同然だった者たちを、見捨てたのだ。そして、こんな所まで落ち延びて、海を見ながら浮かれている。
「……ああ、くそっ」
押し寄せる感情に耐えられなくて、ヤガンは呻くように言葉を吐き出した。
ルェキア族が匿われている隠れ家は、ウドゥ人をはじめとするスアシァ帝国の人々が居留する町の一角にあった。ルェキア族保護の指揮を取っているシアート人商人に案内されて、その屋敷に入る。
姿を見せたヤガンを、同じようにウドゥ人の装束を着た者たちが迎えた。
「ヤガン!」
「無事だったか“駱駝面”!」
顔見知りから親しくしている者まで、ルェキア族の男たちは笑顔でヤガンを囲んだ。
「皆、無事だったか?」
同じように笑みを浮かべたヤガンは、男たちを見回す。
「ああ、話を聞いた時は信じられなかったが、こんなことになるとはな」
「お前がシアートの民と縁を結んでくれて助かったよ」
「そうだな。お蔭でいち早く報せを受けて、財産を持ち出すことが出来た」
男たちはそう言いながら頷く。
「ナタヴ様の言いつけどおりここまで案内したが、これからどうするつもりかね?」
シアート商人の問いに、ヤガンは小さく肩をすくめた。
「まだ何も考えていないんですよ。もう少し待ってもらってもよいですかね」
「勿論だ」
商人は頷く。
「沙海に戻りたい奴はいるか?」
ヤガンは男たちに顔を向け、尋ねた。何人かの男たちが手を上げる。
「沙海では弟がカラデアと共に戦ってる。こんな状況になった以上、俺もそれに加わりたい」
沙海渡りとして名の知れた男が重々しい口調で言った。
「沙海との境界は、兵士たちが定期的に見回りをしているんだ。沙海を渡るための物資を集めるのも目立しな。迂闊なことはしない方がいい」
別の男が厳しい表情で頭を振る。
「そうか……。しばらくは大人しくして様子を見るしかないな」
ヤガンの言葉に、男たちは頷いた。
「囚われているとはいえ、ルェキア族を酷い目には合わせんよ。それだけは我々が元老院に働きかけて全力で防いでいる」
シアート商人がヤガンの肩に手を置いた。
「本当に感謝しています。俺たちでは何もできませんからね」
ヤガンは商人に頭を下げた。
ナタヴたちシアート人たちは、ルェキア族の為に未だに力になってくれている。見捨てられてしまっても仕方がない状況で、それはとても大きな希望だ。こんな時、シアート人の団結力と政治力には驚き、感心させられる。
一方のルェキア族は、これまで皆が好き勝手にやって来た。そのため、個人の力でウル・ヤークス王国の政界に力を及ぼすことが出来ても、大きな勢力としての力を持つことはできなかった。その結果が現在の惨状を招いたのだ。もしルェキア族が団結していたならば、そもそもカラデア侵攻を防げただろう。
「君も状況が掴みたいだろう? ウドゥ人を何人か連れてアシス・ルーを歩けばよい。現状では目を付けられていないから安心だ」
シアート商人の言葉に、傍らのウドゥ人傭兵を見る。使い込まれた剣を携えた、見るからに屈強な男だ。よく笑い、人を和ませることも知っている。しかし、この男とは対照的な、無愛想な使用人ほどの安心感はない。どうやら、俺はあいつを随分頼りにしていたようだ。ヤガンは小さく頭を振った。
今あいつは、どこで何をしているのだろうか。ユハとシェリウを守っているのか。ナタヴたちがその行方を探し、聖王教会が捕えたという話も聞かなかった以上、ラハトは己の仕事をしっかりと果しているのだろうと信じたかった。
ヤガンの様子を見たウドゥ人傭兵は、笑みを浮かべた。
「心配するなって。あんたのことはしっかり守るようにサウドの旦那から仰せつかってるんだ」
「ああ、頼りにしてるさ」
彼の勘違いを否定する気にもならず、ヤガンは右手を上げて頷いた。
今日は、ここにいない者たちの心配ばかりしている。
そのことに気付いて、ヤガンは大きく溜息をついた。