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砂塵の王  作者: 秋山 和
燎原、赤く染まる
173/220

21

 寝室からは、一本の木が見える。


 それは無花果イチジクの木だ。


 スハイラは何をするでもなく、長椅子ソファに寝そべり、ただその木を眺めている。情熱の一夜を過ごした後の、心地よい気怠さに身をゆだねていた。


 傍らの小卓に杯が置かれた。 


 視線を向けると、金色の髪の青年が微笑んでいる。 


「ああ、ありがとう」


 スハイラも微笑むと杯をとった。珈琲と香辛料の匂いが鼻をくすぐる。


「いつもあの木を見ておられますね」


 アラムの問いに、スハイラは無花果イチジクの木を見ながら頷いた。


「ああ。実が生るのが待ち遠しいんだ。……本当は林檎の木を植えたかったのだが、西部地方と違ってこの辺りは暑いからね」


 スハイラはそう言って笑う。


「……私の生まれた家には、林檎の木がはえていました」


 いつもの静かな口調で、アラムが言った。スハイラはゆっくりとアラムに顔を向ける。


「その林檎は甘かったかい?」

「ええ、とても。甘くてとても美味しかったので、双子の姉とよく奪い合いになっていました」


 アラムは、自由の身になる前の過去について怨みごとや嘆きを口にすることもなく、スハイラもあえて聞くことはなかった。こうして話し始めたアラムの本心は分からなかったが、そこに自分への信頼を感じて、スハイラは喜びを覚える。


「きっと、奪い合いはいつもアラムが負けていただろうな。……普段も、溜息をつきながら姉に連れまわされていたんじゃないかな? そして、無茶をして、君に怪我でもさせて怒られる。目に浮かぶようだよ」


 微笑むスハイラの言葉を聞いて、アラムは目を瞬かせた。


「……当たりです。よく分かりましたね」

「アラムは押しに弱いからね」


 スハイラはそう言って彼の手に触れた。苦笑を浮かべたアラムはその手に引かれるように、スハイラの隣に座る。


「姉はとても気が強くて、喧嘩も強かった。私はいつも泣かされていましたね。男兄弟は皆大人しかったので、父はいつも嘆いていました。こいつが男だったらって」

「私のようなだったんだな」


 笑みをたたえたスハイラの言葉に、アラムは頭を振った。


「いいえ。スハイラのような優雅な人ではありませんでした。がさつで、乱暴者でしたよ」

「私も昔はひどいものだったよ。きっと今頃は、私のような良い女になっているに違いない」


 おどけた表情を浮かべてスハイラは言う。アラムは微かに目を細めると、悲しげな笑みを浮かべた。


「だったらいいんですが……」


 スハイラはアラムを見つめて、問いを口にする。


「家族は皆、死んだのか?」

「父は死にました。だけど、最後に見た時、他の家族は皆生きていましたね。結局、離れ離れになってしまったので、どこにいるのか分かりませんが……」


 アラムの口ぶりから、家族の生存を諦めているように感じた。この広い世界では、奴隷として売り飛ばされてしまった家族に再会できるとは思えない。そうなれば、死んでしまったと諦めたほうが心の安寧を得ることができるのだろう。


「家族を探したいかい?」

「いいえ」


 アラムは口元に笑みを浮かべると頭を振った。


「私は幸運でした。奴隷の身であったのに、こうして自由を得て、功績を評価されて、大切な仕事を任されている。だけど、幸運とは稀なるものです。私の家族も同じように幸運であるとは思えない。そのような当てもない希望を望むよりも、私はただ無心にスハイラ様にお仕えするのみです」

「……ああ、アラム」


 スハイラはアラムの顔に手を当てると、そのまま頬を寄せた。


「全てを成し遂げた後は、さっさと引退することにするよ。そして、君と共に旅に出よう。北に……、アラムの故郷に行くのだ」

「私の故郷には森と山だけで、何もありませんよ」


 アラムの苦笑交じりの答え。スハイラは顔を離すと、彼を見つめた。

 

「何もないことはない。そこには、アラムの心がある」

「……私の心は、スハイラと共にあります」

「ありがとう。だが、心の拠り所は一つではない。愛する人に、大事にしている物に、懐かしい風景に、幾つも心は宿るのだよ」


 スハイラの言葉に、アラムは何かを言おうと口を開きかけたが、すぐに閉じた。


「スハイラ様、イフタート殿がお越しです」


 部屋の外から、遠慮がちに侍女が呼びかけた。急に現実に呼び戻された気がして、スハイラは溜息をつく。


「やれやれ……、折角の休日だというのに、無粋な奴だ」


 アラムが立ち上がると、長椅子ソファから離れスハイラの背後に控えた。彼の切り替えの早さに寂しさを覚えつつ、応える。


「仕方がない。通せ」


 すぐにイフタートが部屋に入った。一人の翼人を連れている。スハイラは彼に見覚えがあった。第二軍の空兵斥候部隊に所属していたはずだ。 


「閣下。リドゥワに異変があり、そのことについて急ぎ報告があります」


 一礼したイフタートはすぐに話を切り出す。スハイラは肩をすくめた。


「仕事の話か? これからアラムと遠乗りをしようと思っていたのだ。その話ならば、帰ってからにしてくれ」

「閣下。少なくとも私は職務に戻らなければばなりません」


 背後に立ったアラムが言う。スハイラは苦笑と共に振り返った。


「言ってみただけだよ、アラム。まったく、君は真面目だな」


 そして、イフタートと翼人に頷いて見せる。


「この者はリドゥワに潜らせていた隊の一員です。今朝、リドゥワより戻ってまいりました」

「休まずここまで飛んでくれたのだな。ご苦労。報告してくれ」


 深々と一礼した翼人が口を開いた。


「報告いたします。リドゥワで昨晩、大規模な暴動がおきました」

「暴動? 原因は何だ?」


 眉根を寄せたスハイラの問いに、翼人が答える。


「現段階では不明です。残った者たちが調査していますが、噂では諸教派信徒と聖王教会の僧侶との衝突が原因ではないかと……」

「正教派の僧侶? 信徒ではなく、か?」


 スハイラは己の耳を疑った。いくら諸教派を異端視しているとはいえ、聖王教会が表立って対立してしまうのは穏やかではない。


「はい。あくまで噂で、確証はありませんが」

「暴動はもう収まったのか?」

「いえ、私は夜明けと共にリドゥワを出ましたが、その段階ではまだ騒乱が続いていました」

「そうか……」

「暴動はリドゥワ市街の広い範囲に及んでいます。ただ、部隊の者が言うには、暴徒の多くは騒ぎに便乗した不逞の輩ということで、守備隊にすぐ鎮圧されるだろうと」

「分かった」


 スハイラは頷くと、指先を唇に当てて目を細めた。 


 己の勘が、これがただの暴動ではないと告げている。炎が燃え上がっている。この炎は、誰かが火を点け、風を送り込み、燃え上がらせたものだ。その悪意によって揺らめく炎の向こうに、何かがある。それが何なのか、スハイラには分からない。このもどかしさはいつものことだ。そして、もどかしさを解消するために、自ら動き出せばよい。


「以前の約束通り、第二軍から部隊を送りますか? そうすればラアシュ殿も安心なさるでしょう」


 イフタートの問いにスハイラは笑みを見せた。


「火遊びをするような悪い子の尻を叩きにいかなければならないな」

「……スハイラ様ご自身が向かわれるおつもりですか?」


 微かに眉根を寄せたイフタートを見て、スハイラは笑みを深める。


「直接見て、肌で感じる方が早い」

「ただの暴動ではないとお考えですか?」

「お前もそう思っているだろう?」


 スハイラはそう言って首を傾げた。イフタートは頷く。


「以前報告した暴動を扇動した者たちが、この暴動にも関与していると思われます」

「そうだ。小さな煙を煽って大火とし、焼き払った野原で何かを手に入れようとしている。それが何なのかはっきり見極めないと、東部地方は大きな混乱に陥ることになるぞ」

「外患を招くことにもなりかねませんな」 

「イールムはこの地を常に窺っている。リドゥワの騒乱は大きな隙となって奴らに好機を与えることになる。第二軍の将軍として、この地が奴らの馬蹄に踏みにじられることを許さない」

「蠢動しているのはイールムの者たちだとお考えですか?」


 アラムの問いに、スハイラは振り返り答えた。


「可能性は高い。しかし、そうとは限らない。推測を真相だと思い込んでいると、痛い目にあうことになる」


 それは、手痛い敗北と共に学んだ教訓だ。スハイラは立ち上がると、鋭い視線をイフタートに向ける。


「『兵略は風の如くあれ』。東方の偉大な将軍はこう言ったそうだ。急ぎ、部隊を編成せよ! 陰で蠢く者たちの不意をつく。リドゥワを騒がせる不届き者を驚かせてやろうじゃないか」








 ようやく落ち着いた街には、未だ騒乱の残滓が漂っているように思えた。


 通りを歩く四人の男女は、運河を見下ろす斜面に立つ。


 目を閉じ聖句を唱えていた棗を、三人は無言で見守る。やがて、口を閉じ、目を開けた棗は、振り返った。


「高度な魔術が使われた痕跡がある。それに、大きな力をもった精霊か妖魔がここで争った」

「ふむ……」


 薄暮はその言葉を聞くと、岸辺に歩を進めた。かがみこむと、舐めるように地面を観察し、指先で触れる。低い姿勢のまま広い範囲を歩き、同じことを繰り返した。そこに、観たこともない異様な痕跡を見出して、薄暮は小さく眉根を寄せる。


 傍らに立った群青が問う。


「何か分かったかい?」

「確かに、何か巨大な存在ものが激しく動き回った痕がありますね。何がが這いずったような……。それに、複数の人間もいた。戦っていたのは三人……、いや、四人か。一人だけ踏み込みが異常に鋭い者がいますね。足跡が深い」 

「懐かしい匂いがする。旧い者の匂いだ」


 炎瞳の君が口を開いた。薄暮は彼女を見上げると首を傾げる。 


「この痕跡を付けた者ですか?」

「そうだ。これは、はるかいにしえより巨人王に仕える妖魔の匂いだ」


 薄暮は、辺りを見回しながら立ち上がると、再び炎瞳の君に顔を向ける。


「炎瞳の君……。あなたは太守からは巨人王のの匂いがすると仰いましたね」

「ああ」

「そんな古き妖魔を使役できるということは、巨人王の真の力の系譜に連なる者ということです。つまりそれは、リドゥワの首長は異教徒であると……、はるか昔に滅びたはずの教えの信徒であると、そういうことになりますね?」

「おそらくそうだろう」


 炎瞳の君は静かに頷いた。薄暮は小さく溜息をつく。


「……これは、異端どころの騒ぎではありませんね」

「太守は、分かたれし子を狙っていたことになる」


 棗の言葉に、薄暮は目を細めた。


「太守はあの修道女に欠片が宿っていると知っていると?」


 分かたれし子について知る者は限られている。薄暮の知る限り、東部地方の伝統的な一族であるラアシュが教会の秘事に関わったという事実はない。あるいは、何者かがラアシュに秘密を漏らしたのだろうか。


「そうとは限るまい。あの修道女の力は稀なるもの。その力は、人々と運命を惹きつける。太守も、知らずにその力に惹きつけられたとしても不思議ではない」


 炎瞳の君が言う。薄暮は頷いた。


「なるほど。分かたれし子が、渦の中心となっているということですね」

「人の代の節々《せつせつ》には、そんな者たちが多く世に出る。そして、その者たちによって時代が大きく動くことになる。私はそんな者たちを多く見てきた」

「……聖女王陛下のように、ですか?」

「そうだ。巨人王が治めた時代。高貴なる人々がやって来た時代。大災厄の後の時代。様々な種族が躍動した時代。善良な者も、悪辣な者もいた。時と運命の風を受けて飛び立つ者。嵐の中心となる者。大波となって全てを押し流す者。知恵と意思をもつ者たちが群れ集い、繋がりを生んだ時から、それは大きなうねりとなって始まったのだ」


 静かに語る炎瞳の君を見つめていた薄暮は、問いを発する。


「あなたは聖女王陛下に仕え、そして、その眠りを見守ってきました。そんなあなたがこれまでの経緯を聞いて、あの修道女は、これまでの分かたれし子とは違うと思いますか?」 

「違う」


 その簡潔な答えに、三人の表情は硬くなった。


「あの娘を見た智慧の使徒とも話した。あの者も、ユハという娘が特別だと考えている。そして、妹だ」


 炎瞳の君は、自らの鼻を指差すと言葉を続ける。


「ここには、妹の匂いもする。妹は、ユハを守り、ここで戦った。怠惰で気まぐれで、この百年間、ただ寝転んでいただけの妹がここまで執心するのは、あの娘から何かを感じているからだ」

「……教会が俺たちを駆り出すわけだよ」


 群青が肩をすくめた。


「羽筆も、あの娘を命に代えても守ろうとしていましたね。彼も何かを感じているのか……」

「奴にそんな信仰心があるわけないだろ。ただ優しくしてもらったから尻尾を振ってるだけさ。野良犬と一緒だよ」

「あなたは羽筆を見くびりすぎですよ。手痛い目にあったばかりでしょう」


 薄暮は溜息と共に言った。これがただの憎まれ口ならいいのだが、半ば本心であることが悩みの種だ。群青は羽筆を敵視するあまり、冷静に分析できないでいる。その感情は任務においては大きな妨げになるだろう。


「分かたれし子が特別だろうと私たちには関係ない。ただ任務を遂行する。それだけ」


 棗の言葉に、薄暮は頷いた。


「羽筆たちだけではない。月瞳の君や、太守も敵に回ったと考えるべきですね……」

「妹の相手は私に任せろ」

「お願いします」


 精霊の相手は精霊に。群青は炎瞳の君に一礼する。


「太守には先を越された。使徒が敵に回っている。アタミラには戻れない。最高の戦場だね。影を歩き、空を駆けよう。さあ、攻撃だ」


 楽しげな群青のうたうような言葉に、群青は苦笑しながら頷いた。

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