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「あの男は危険だ」
ラハトは言う。
断言するようなその物言いがラハトにしては珍しく思えて、ユハは驚いた。
「……とても気さくな人だと感じましたけど、どうしてそう思うんですか?」
シェリウの問いに、ラハトは答えた。
「あの食堂での二人の動きは、ユハを目的にしたものだったからだ」
「やっぱり……」
その答えを聞いて、驚くと共に得心もする。昼間、食堂で聞いた、太守ラアシュの言葉が決して空耳ではなかったと確信した。
あの後、工房に戻って仕事を続けたが、太守の言葉が気になって集中ができなかった。彼の言葉は、ユハの心を騒がせる。そして、家に戻り夜が更けた頃、ユハは不安を打ち明けたのだった。
眉根を寄せたシェリウが首を傾げた。
「どうしてそんなことが分かるんですか?」
「太守と共にいた男は、食堂に入って来る時に全体を見渡して、最後にユハを確認していた。その後は、自分の主人から離れて、すぐにユハに近寄れる場所にいた。だから、あの時、ユハが立ち上がるのを邪魔できた」
「あれは偶然ではなかったんですね」
シェリウが目を見開いた。
「ああ。そうすることで、太守は自然な形でユハに近付くことができた」
「ユハに近付く……。でも、あの後、特に何もしてきませんでしたよね? 最後に一言残して言った以外には……」
「ユハに近付いた時に、奴は術法を使った。気付かなかったのか?」
ラハトの答えに、ユハは思わず驚きの声を漏らす。シェリウも険しい表情を浮かべ、唇を噛んだ。
「気付きませんでした……。どんな術法か分かりますか?」
視線を鋭くしたシェリウに、ラハトは小さく頭を振った。
「それは俺にも分からない。ただ……、呪眼に似た力のはたらきを感じた」
「呪眼……」
シェリウは顎に手を当てると目を伏せた。
「あの時、ユハを守っている術法には何の影響もありませんでした」
「そうか。俺は、何かを探るために使ったのだと思う」
シェリウは頷くと、横目で月瞳の君を見ながら言った。
「私はユハに帳をかけていますけど、ユハをその目で見て認識した者には効果が薄れます。太守は、その為にユハを直接見たかったのかも……」
「それは考えられることだ」
「あの……、どうして私を探していたんでしょうか。太守も教会の指示を受けているということですか?」
ユハはおずおずと聞いた。もし太守が教会の意を受けているのならば、最悪の事態に陥ってることになる。相手はこの都市の最高権力者だ。自分たちはすぐにでもここから逃げ出さねばすぐに捕まってしまうことになるだろう。
不安げな視線を受けて、ラハトは小さく頭を振った。
「いや、これは俺の勘だが、太守がユハを探していたことは、教会とは関係ないと思う。奴は大きな権力を持っている。もし教会からの指示ならば、幾らでも理由を付けてユハの身柄を拘束できただろう。それなのに、奴はわざわざ下町の食堂に自ら足を運んだ」
ラハトはユハを見つめる。
「あの男は、ユハが何者なのか知りたかったんだ。ユハの正体を、力を見定めるために、あそこに来たんだろう」
「ユハのことを調べるために? 教会と無関係な太守が、どこでユハの事を知ったっていうんですか?」
「……マムドゥマ村でのことかもしれないな」
ラハトの一言に、二人は驚きの声を上げる。
「マムドゥマ村は、リドゥワを中心とした行政区の中にある。あの村で起きたことは太守にも報告が行くだろう。あの時の事はカドラヒが皆に口止めをしているが、絶対に漏れないとは言えない。太守にユハのことが知られていても不思議じゃない」
「確かにそうですね」
シェリウが厳しい表情で頷いた。
「あの時、呪いを祓ったユハの力に目を付けたのか。……あるいは、奴が呪いの使い手だったのかもしれない」
「太守がそんなことをするんですか?!」
ユハは驚きの声を上げた。
「村を救った偉大な癒し手に会うつもりなら、太守として正式に招待すればいい。優れた術師や癒し手を召し抱えるのは名誉なことだとされている。だが、奴は何も知らないふりをして、あんな偶然を装って近付いてきた。何か、表には出せない秘密を持っている。そう考えるべきだ」
ラハトの答えに、ユハはうつむき、拳を固く握った。
あの時、太守ラアシュから感じた怖さは、ラハトの言葉を裏付けているようにも思える。感じたことがない、得体のしれない恐れ。それは太守の持つ力だったのだろうか。『世界を観る目』で太守を見れば何か分かったかもしれないが、あの時は思い付きもしなかった。もし次に会う時があれば、太守の幽体や力を観て、正体を見極める必要がある。しかし、それは相手にも気取られる恐れがあった。
カドラヒと共にマムドゥマ村に行かなければ……。呪いを祓わなければ……。そんな考えも浮かぶが、もし自分たちが行かなければ村の人々は呪いによって死んでいただろう。それを考えると自分の判断が決して間違いだったとは思わない。あの時、ああすることが最善の道だった。たとえその代償が己の身の危険だとしても、村の人々の命と比べれば軽いものだ。
ユハは、部屋の隅に立てかけている剣を見た。マムドゥマ村で得たその剣を、ユハは『祝福の剣』と呼ぶ。祝福の剣は、カドラヒに頼んであつらえた茶色の簡素な鞘におさまっていた。小柄なユハでも運びやすいように、肩から背負うための革帯が付けてある。
剣が恐ろしいモノから守ってくれる。なぜか、そんな確信があった。
「あいつから、旧い者の匂いがしたわ」
突然発せられた月瞳の君の言葉に、皆が彼女を見た。
「旧い者、ですか?」
「そう、旧い者。私が、精霊として目を覚ました頃に嗅いだ匂いよ」
「それって、どれくらい昔の事なんですか?」
失礼にあたらないかと心配しながらも、ユハは聞かずにはおれなかった。月瞳の君が精霊になった頃など、想像もつかない。それは、聖典にも記されていない古の物語だ。
月瞳の君は、微かに口元を緩めた。
「内緒。……ただ、巨人王の時代だってことは確かね」
「きょ、巨人王! 月瞳の君はそんな昔からいたんですか?!」
シェリウが驚きの声を上げる。
「なんだか失礼な言い方ねぇ」
月瞳の君は唇を尖らせると、シェリウを睨んだ。
「あ、ごめんなさい。驚いてしまって……」
シェリウは慌てて頭を下げた。そんな素直な彼女の姿は珍しい。かくいうユハも、驚きが大きくて何も言うことができなかった。
「まあ、許してあげる。長生きなのは確かだものねぇ」
肩をすくめる月瞳の君に、目を輝かせたユハは聞く。
「あの……、巨人たちはどんな人たちだったんですか? その頃の暮らしはどうでしたか?」
身を乗り出したユハに、月瞳の君は苦笑した。
「こんな時まで、本当にユハは昔話が好きねぇ。……教えてあげるけど、あまり期待には応えられないと思うわ。あの頃の私は寺院に暮らしていて、外の世界をほとんど知らなかったのよぉ。私を崇めるのは巨人よりも人の農民が多かったし、何より時間の感覚が曖昧なの。一日も一年もほとんど区別できなかったのよ。時々儀式を司って、あとは涼しい祭壇や中庭の木陰を行き来して、供物を食べる毎日だったわねぇ」
そう語る月瞳の君の瞳が縦に細くなった。
「その後に聖王国がやって来て、私は外の世界に出た。アシスの地から東へ向かって、あちこち旅したのよ。楽しかったけど、まあ、今までと大して変りなかったわねぇ。……だけど、ある日あの娘に出会ったの。その日から、月が沈み、日が昇る、それが私にとって一日になったのよ」
月瞳の君が微笑む。その笑みは、微かに哀愁の色を帯びていた。
ユハが更なる問いを発しようとした瞬間、シェリウの手がユハの眼前に差し出された。
「とりあえず、その話はここでお終い!」
シェリウは咎めるようにユハを見てから、月瞳の君に顔を向ける。
「つまり、太守からは巨人王の頃の匂いがするということですか?」
月瞳の君は笑みを浮かべたまま、己の鼻に触れた。
「そうねぇ。あの頃を思い出させる匂いだけど、決して当時の匂いではないわねぇ」
「だとしたら一体……」
「巨人王の遺した系譜に連なる者よ」
「巨人王の教えを信じているということですか?」
「それは分からないわ。古い諸教派の中にだって、巨人王の教えが深く残っている教えがあるんでしょう? 私、この辺り生まれじゃないし、聖王教会の教派なんて興味ないもの。きっと、シェリウのほうが詳しいんじゃない?」
そう言って、月瞳の君は大きく欠伸をした。
「……そうですね」
シェリウは頷く。
「判断する材料が少なすぎる。今は敵の正体を詮索する必要はない。直接の脅威がどれだけあるかが問題だ」
ラハトは皆を見回して言った。
「明日の朝、兵にこの家を囲まれていることもあり得る。いざという時に備えて、荷造りをしておくんだ。カドラヒの助力は得られなくなるが、捕まってしまえば意味がない」
その具体的な指示を聞いたことで、急に不安が増してくる。ユハは強張った表情で聞いた。
「もしそうなった時、リドゥワから逃げることはできるんですか?」
「脱出路の候補は幾つか見付けている。その時の状況に合わせて考えよう」
ユハは驚き、思わずシェリウを見る。シェリウも知らないことだったらしく、驚いた様子でユハと顔を見合わせた。
「いつの間にそんなことをしていたんですか?」
「主に夜中だ」
「そんな……。ラハトさん、休まないと駄目ですよ」
「大丈夫だ。適当に睡眠はとっている。それに、昼間はろくに働いていないからな」
その答えを冗談と受け取って良いものか迷っていると、音もなくラハトが立ち上がった。扉へと向かう。
「どこに行くんですか?」
ラハトは立ち止まり、振り返った。今気付いたが、もう夜更けだというのに腰には短剣を吊るし、脚絆をしっかりと巻いている。これから寛ぎ、眠りにつこうという姿ではなかった。
「奴らは夜中にやって来るかもしれない。見回りに行く」
「よく働く子ねぇ……。夜通し目を光らせるつもり?」
月瞳の君が、呆れた表情を浮かべる。
「それが俺の仕事だ」
ラハトは静かに答えた。