30
未だ迎えは来ない。
イラマールへ帰るための裏道を案内してくれるというダリュワの弟は、まだリドゥワに戻っていなかった。大きな取引をするということだったので、遅くなっているのだろうとカドラヒは言う。
その為に、ユハたち一行はリドゥワに足止めされることになった。
最初の約束通り、ユハたちには隠れ家が用意された。それはカドラヒの商会が管理する家屋で、その周囲もほとんどが商会の関係する店や住居だ。見知らぬ者が入り込めば、すぐに知れ渡る。街中のこの一画は、言わばカドラヒの縄張りだった。誰に追われているのか、ユハたちは詳しい説明をしていなかったが、カドラヒは詳細を問うことなく、まるで砦のようなこの町に匿ってくれた。
街へは、ラハトも状況を探りに行った。彼によると、今のところ教会の者が表だってユハを探しているような動きは見られないという。もちろん、密やかに探索の手が伸びている可能性もあるが、ラハトとシェリウの警戒の目は、その動きを感じ取っていない。
最初の数日は隠れ家で大人しくしていたユハだったが、すぐに無為な日々に耐えられなくなってしまった。
家の掃除は二日で終わり、中庭の草むしりも一日で終わった。
毎朝お茶の用意をした後、家の近所を散歩する。
そんな日々を数日費やした後、意を決したユハは様子を見に訪れてきたカドラヒに言った。
「何か仕事をさせてください」
「仕事……?」
カドラヒは困惑した表情を浮かべた。
「あんたは客だぜ? 家賃なんて請求しねえよ」
「そういうことじゃないんです。ユハは、じっとしていられない性質なんですよ」
溜息と共にシェリウが言う。彼女に顔を向けたカドラヒは苦笑した。
「あんたも大変だな。まあ、働き者にケチはつけねえよ」
そうして、カドラヒの商会が経営する店で働くことになった。
隠れ家と同じく彼の縄張りにあるため、余所者が嗅ぎ回ればすぐに分かるようになっているという。
候補は何店かあったが、ほとんどが“大人向き”の店でユハには向かない、とカドラヒは言い、結局一つに絞られた。候補から外れた店について興味津々な月瞳の君の隣で、ユハは自分は大人であると大いに主張したが、それは横からの反論に遮られる。
「このことについては、ユハはまだ子供でいい」
シェリウがあまりに真剣な表情で強く主張したために、呑まれてしまったユハは素直に頷くしかなかった。
「私は怠惰の精霊。働かないからね」
月瞳の君がひらひらと手を動かして言う。
「精霊って……、シア、あんたは自惚れ屋だな」
人を称えるたとえとして精霊という言葉が使われることがあるが、それはよほど何かが傑出した人物にしか使われない。しかも自分で言うような者はなかなかいない。それもあって、カドラヒが呆れた表情を浮かべた。ユハとシェリウは、引き攣った笑みを浮かべるしかない。
「シアはともかく、私も一緒に行きます。カドラヒさん、お願いします」
気を取り直したシェリウの言葉に、カドラヒは頷いた。
「話は通しておくからよ。ちゃんと給金は払うから旅費の足しにしてくれ」
そう言ってカドラヒは笑った。
次の日から、ユハたちはカドラヒに紹介された店に通うことになった。
そこは、少女から老女まで、女ばかりの職人たちがいる工房だった。彼女たちは、ここで織物に刺繍を施している。
それはマドゥーラ織というシンハ商人が南洋を渡って運んできた織物だ。綿を織った大小の布に、木版染めによる赤、青、黒の幾何学模様が描かれている。最近、これを仕立てて服を作ることが東部地方のウルス人上流階級の間で流行している。しかし、そのままでは異国的すぎる意匠のために、ウル・ヤークスで様々な加工をすることが多い。主な手法は、刺繍だ。伝統的なウルスの模様や物語の題材を、幾何学模様を活かしたまま縫い込んでいく。一族の紋様を注文してくる者もいるという。
ここも、リドゥワにいくつもある刺繍工房の一つで、腕が良い職人たちがいると、中々の評判ということだった。
カドラヒの親戚の者たちで、田舎から出てきた。ユハとシェリウ、そしてラハトは、カドラヒにそう紹介された。修道女として裁縫の心得はあったが、熟練した職人の仕事に及ぶ腕ではない。見習いの少女たちと共に雑用や基本的な作業、下準備を手伝うことになった。
工房で働き始めて、日々はあっという間に過ぎる。
ユハたちと同じ町に暮らす人々も多く、女たちはすぐに新人たちを受け入れた。
彼女たちは仕事で手を動かすと同時に、口もよく動いた。その言葉は無遠慮であけすけで、率直だ。それがユハを戸惑わせ狼狽させ、赤面させてしまう。女たちはそんなユハの反応を面白がり、カドラヒの旦那の親戚のくせに初心なんだね、と笑う。
そんな彼女たちにとって、店の裏方として力仕事や雑用をこなすラハトは気になる存在のようだった。
「なかなかの色男だねぇ」
「しかしまあ、ラハトさんはカドラヒの旦那とは似ても似つかないわね」
「うちの従弟もうちの家族とは全然似てないわよ。そんなものじゃない?」
「ほんと、カドラヒさんに似てなくて良かったね」
「何よ、カドラヒの旦那も可愛い人じゃない」
女たちはラハトを肴に盛り上がる。
この店で働くラハトは、いつもの無表情で無口なラハトではない。
口数は少ないが、愛想は悪くなく、如才なく会話をこなす。爽やかな印象を与える青年。それが、この店で働くラハトという男だ。
最初は戸惑ったユハだったが、家に戻ればいつものぶっきらぼうなラハトに戻るために、特に気にならなくなった。
ユハとシェリウは度々ラハトのことでからかわれたが、あくまで親戚であると無難に答えている。
「あの愛想をあたしたちにも向けてくれればいいのにね」
かしましい女たちを横目に、シェリウが溜息と共に言う。
「え? ラハトさん、シェリウにとっても優しいじゃない」
意外に思って、ユハは思わずシェリウを見つめる。シェリウは微かに頬を赤らめて顔をそらした。
「そりゃあ優しいけど、もう少し柔らかい態度で接してくれたらなぁって、そう思っただけよ」
「人付き合いのために無理してもらってるんだから、家ではありのままで居てもらったほうが気が休まるんじゃないかな?」
感じていたことを口にしたユハに、シェリウは目を瞬かせ驚きの表情を浮かべた。
「ラハトさんが……、無理してる?」
「うん。多分、ラハトさんは人付き合いが苦手なんじゃないかな。今のラハトさんって、言い方は悪いけど、演技してるんだと思う。善良な人っていう役割をね」
「……そうね。ラハトさんは修行者だから、“仕事”のためにそうすることを覚えたのかもしれない……」
シェリウはスアーハの名は出さずに言った。ユハも、ラハトから彼がスアーハの修行者であったこと。そして、その教派の恐ろしい裏の顔を知らされている。
「だから、私たちの前では無理をしてもらわないようにしよう。ね?」
「あんたからそんな言葉を聞かされるとは思わなかったわ……」
シェリウはそう言って、深くため息をつく。
「何よ。またバカにしてるでしょ」
ユハは唇を尖らせた。
「ううん、そうじゃなくて……。ユハはそういう娘だったなぁって……」
シェリウは微笑んだ。彼女の言いたいことがよく分からなくて、ユハは肩をすくめる。そして、ふと窓の外に視線を向けた。
敷地を取り囲む塀の上に、縞柄の猫の姿が見えた。こちらを見ている猫と目があう。猫は大きく欠伸をした。
ユハは、工房で働くうちに、職人たちが多数派とその他の少数派に分かれていることに気付いた。多数派である中核となって働く女たちは団結しており、仕事を効率よくこなしていく。そして、皆で昼食をとる時にも、食前に祈りを欠かさない。
それは、聖職者ではないウルス人としてはとても珍しい光景だった。
「きっとあの人たちは諸教派の信徒ね」
シェリウは断言する。
「多分、私たちが住んでいる町の人たちも同じ教派の信徒よ」
「ああ、そういえば……」
ユハも思い当たることがあり、頷く。あの町には教会や聖堂はがなかったが、小さな礼拝堂があり、よく町の人々が集まって祈りを捧げていた。随分と信仰に篤い人たちだと思ったものだ。その礼拝堂を彩る意匠は西の地方ではあまり見かけないもので、東部地方独特のものだと思っていたが、もしかすると彼らの教派独自のものかもしれない。
とても上品とは言えないが、信仰に篤く規律正しい彼女たちとの生活は、どこか修道院での暮らしを思い出させる。日々仕事に追われて、騒がしく忙しい日々はユハにとって新鮮だった。
工房の女たちのほとんどは、昼飯を食べに近くの食堂に行く。ユハたちもそれに連れられて共に食事をする。どうやら、ユハたちは気に入られたらしい。最初の食事の時に、皆が祈りを捧げる中、ユハたちも戸惑うことなく祈ったことが好い印象を与えたようだ。女たちには、祈りの作法について褒められた。
この食堂に訪れる客たちは、ほとんどが町内の人々で、顔見知りだった。
町の中では大きな建物である食堂は、板に足を付けただけのような長い机が何脚も置かれ、踏み台のような簡素な椅子が並んでいる。そこに、近所の人々や工房の女たちが雪崩れ込むのだ。そして、お互い肩をぶつかるほど詰め合って椅子に腰かける。
次々と運び込まれる汁物と麺麭や炒飯。
日々、あまり変わり栄えしない食卓だったが味は満足できるもので、ユハには何の不満もない。
そして、今日もいつもの昼時のはずだった。
騒がしい食堂が一瞬静まり返る。
何事かと振り返ったユハは、皆の視線が入り口に向いていることに気付いた。そこには、二人の男がいる。
男たちは、その場の静寂を気にも留めていない様子で、そのまま店内に入った。
一人は、ウルス人の若い男だ。精悍な印象を与える整った顔立ちで、口元に笑みを浮かべて店内を見回している。彼に続くのは背の高い中年のカザラ人だ。顔に幾つも傷があり、袖からのぞく太い腕から見ても、武人なのだろうと思わせる猛々しい印象の男だ。二人とも、その所作は洗練されており、上流階級の人間であることは理解できた。
「太守様だ……」
皆が囁きあう。
「これは、太守様! なぜこんなところに!」
食堂の主人が慌てて厨房から飛び出してきた。
「仕事の途中でな。好い匂いがしたので立ち寄ったのだ」
若い男が、笑みを浮かべたまま答えた。こんな若い人がリドゥワの長なのか。ユハは驚きを覚えて彼を見る。
「ユハ……」
隣に座るラハトが顔を寄せた。
「ここを出るぞ」
小声で言うと、シェリウにも顔を向ける。対面に座るシェリウが小さく頷いた。
「え……、どうして……」
「どこで誰が繋がっているのか分からない。万が一ということがある」
その答えに、ユハは息を呑んだ。そして、頷く。ゆっくりと腰を上げた。
しかし、立ち上がろうとしたその体は、背中からの力に押されて前によろめく。
その体を、ラハトの左腕が引き止めた。
「おっと失礼」
背後からの声。ユハは振り返る。
ラハトはユハの体を支えたまま、その声の主、カザラ人の男の前に体を割り込ませていた。
男は微かに目を細めてラハトを見下ろした後、笑顔を浮かべた。
「すまん、俺の不注意だ。何しろこの図体だろう? 狭い所は苦手なのだ」
そう言ってユハを見て、再びラハトに顔を向ける。
「お前のお姫様に粗相をしたことは詫びよう。いつまでも愛想のない顔を向けるのも無礼だとは思わんか?」
「失礼しました。驚いたもので」
ラハトが一礼する。
「すまない、家中の者が迷惑をかけたな」
太守が微笑みながらユハに歩み寄る。カザラ人の男は、ラハトを一瞥して退いた。
「あ……、いえ、何でもありませんから」
ユハは慌てて答える。太守は、ユハを見て一瞬目を見張った。
「葦の原で宝玉を見出すとは……」
呟きが聞こえる。
しかし、すぐに太守の顔に笑顔が戻った。
この人は怖い。太守を見るユハの直感が、警鐘を鳴らした。
魅力に満ちたその笑顔の陰から、得体のしれない何かが感じ取れる。それは微かな風のようにユハに吹き付けてきた。肌を、幽体を騒がせる何か。それは、痛みでも熱さでも冷たさでもない。不安としか言いようがない何かだった。
太守はユハから視線を外すと、食堂を見回す。
「昼の憩いの時に皆を騒がせてしまったな。お詫びとして、ここの食事は私のおごりだ」
太守は大声で言った。それを聞いた客たちは、喜びの声を上げる。
「ただし、欲張りすぎないでくれよ? 私が破産してしまうからな」
おどけた表情に皆が笑う。
そして、太守と共の男は、運ばれた料理を食べ始めた。
「太守様がこんな所で……」
リドゥワの長が下町の食堂で粗末な料理を食べるとは思っていなかったのだろう。皆が驚きの表情だ。
しかし、太守はここがまるで我が家の食卓であるような堂々とした態度で、楽しげに食べている。それを見た人々は、親しみに満ちた表情で太守たちを見て、あるいは話しかける。太守もにこやかに応じた。
出端をくじかれて機を失ってしまったユハたちも、仕方がなく食事を続ける。
シェリウと無言で視線を交わし、時折太守をうかがう。太守はこちらを見ることはなく、興奮して話しかけてくる娘たちの相手をしていた。
そして、太守たちは軽い食事を終えて立ち上がる。
名残を惜しむ皆に笑顔で挨拶をすると、出口へと向かった。
あえて俯いているユハの傍らを通り過ぎる。
「また会おう、碧き瞳の君よ」
小さいが、その言葉はユハの耳にはっきりと届いた。