26
ウル・ヤークス軍が北上している。
この知らせはすぐに広まった。岩塊群に築かれた砦、『満月の盾』にいるルェキア族の間では、この数日、不安と焦燥の囁きが交わされていた。
天井が高く、広い洞窟の一つに、人々が集まっている。
カラデア人であるラワナ、キエサ、ダカホル、ワアド、その他の軍の幹部たち。ガヌァナと数人のンランギの戦士たち、ユトワの司祭であるカング、ツィニ、そしてワンヌヴ。鱗の民の隊長であるハイダイ。ルェキア族からは、ワザンデと数人の戦士、そして諸族の代表であるデハネウがいた。
「皆が動揺している」
デハネウが皆を見回して言った。
「デソエを出たウル・ヤークスの兵は、四千を超えるそうだな?」
問われたダカホルは頷いた。地面に座るダカホルの前には、白砂によって形作られた立体的な地図がある。そして、デソエを示す館の形をした目印から、まるで白砂を固めて作った兵士の人形のような姿が歩きながら離れて行く。それは、ウル・ヤークス軍を簡易的に示したものだ。
「正確な数は断言できないが、おそらく四千は確実だ。騎兵が八割。歩兵が二割といったところだろうな。これまでの奴らの行軍速度からいえば、妙にゆっくりとしている」
砂の地図を見つめていたワアドは、デハネウを見やる。
「北のルェキアの戦力はどれほどだ?」
「北の遊撃部隊は五百騎だ」
苦々しい表情でデハネウが答えた。
「一呑みだな」
ワアドが呟くように言う。重々しい沈黙がその場を覆った。
「キエサ」
ラワナはキエサに顔を寄せると、洞窟の隅に視線を向けた。キエサが頷き、二人はその場から離れる。
「これは罠よ」
洞窟の壁を前にして、すぐにラワナが口を開いた。厳しい表情をキエサに向ける。
「きっとそうだな」
静かに頷いたキエサを見て、ラワナは目を見開いた。
「……キエサ、まさか」
「ああ。俺が行くよ」
「敵は私たちを誘い出したいのよ」
ラワナはキエサの腕を掴む。キエサは、その手に自分の手を重ねた。
「分かっている。だからこそ、行かないといけない。ルェキア族は、全てを捨ててカラデアを助けてくれている。それなのに、俺たちを助けろ、しかし、お前たちは見捨てる、何て言えるか?」
「でも、あなたが行く必要なんてない」
「俺が行かないといけない。俺は英雄なんだろう? だとしたら、俺が行かないと駄目だ」
「私も行くわ」
「だめだラワナ」
キエサは頭を振るとラワナを見つめた。
「ラワナは太守の一族、カラデアそのもの。天に昇る満月なんだ。ここにいて、皆を安心させないといけない。戦場に向かうのは、英雄の仕事なんだよ」
またラワナに心配をかけるな。キエサは心の中で溜息をつくが、口にはしない。そんなことを言っても、ラワナの憂いを増すだけだ。その代り、笑顔を浮かべて言葉を続ける。
「英雄は、よく研がれた剣や、吹き鳴らす角笛みたいなものなんだ。皆を奮い立たせ、駆り立てるための道具。そして、用が済めば、厄介払いされて捨てられる。親父の話してくれた東の国々の物語だと、英雄の最期はみなそんなものさ」
「そんな……、キエサ、私は」
ラワナは顔を歪めた。今にも泣きだしそうなその頬に手を当てる。
「ああ、分かってる。俺だってそんな最期はゴメンだ。せいぜいラワナの夫という立場を利用してやるさ。絶対に使い捨ての道具に何てならない。子々孫々、家宝として大切に扱ってもらうことにするよ」
ラワナは頬を緩めると、キエサの手を強く握る。そして、挑むような目でキエサを見る。
「当り前よ。全てが終わったら、あなたを中庭の椅子に座らせて、毎日ご馳走を山ほど用意して甘やかすの。そして、二度と家から出さないわ」
「おいおい、町に出るくらいは許してくれよ」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
ワアドは、寄り添いながら戻って来た二人をじっと見ていたが、おもむろに口を開いた。
「キエサ、お前はどう考える?」
「援軍を送るべきです」
即答したキエサに、デハネウとワザンデは表情を和らげて共に頷いた。
「お前はどうだ、ラワナ」
「私も同じ意見よ。ルェキア族を見捨てるわけにはいかない」
「ウル・ヤークスは我々を誘っている。奴らは手ぐすね引いて待ち構えているんだぞ」
「だとしても、このままでは共に戦う者たちの妻や子が危機に陥るわ。私たちがカラデアの城壁と兵たちによって家族を守っているように、ルェキアの人々も守らなければならないのよ」
ワアドは溜息をつくとルェキアの人々に顔を向ける。
「カラデアはルェキアを見捨てない。そう決まったぞ」
「ああ。心強い言葉だぜ」
デハネウは笑みを浮かべて頷く。
「ワザンデ、『満月の盾』にいるルェキア騎兵はどれくらいだ?」
キエサはワザンデに聞いた。
「二千ってところだな、兄弟」
「その全員を動員しよう」
「全員?」
ワアドが驚いた表情で問い返す。
「はい。この戦いは速さが勝負です。そして、中途半端な戦力ならば奴らに一蹴されてしまう。全力で戦わないといけない。だが、『満月の盾』を空にするわけにもいかない。だからこそ、故地をよく知るルェキア騎兵だけを向かわせます」
「だが、奴らに気取られて襲撃される恐れがあるぞ」
「分かっています。だから、少し危険な手を使います。これは、ルェキア族の同意を得ないと取れない手段だ」
「聞こうじゃないか」
デハネウが身を乗り出す。
「まず、百騎ほどの囮を北に向かわせる。この数だけを向かわせることで、ウル・ヤークスは俺たちがルェキア族を見捨てたと勘違いするかもしれない。そして、『満月の盾』にルェキア騎兵が大勢籠ったままだと思わせることができる」
「残りの兵力を送り出す時に気付かれるだろう。奴らの空兵もそこまで間抜けじゃねえぞ」
ワザンデが顔をしかめた。
「ああ、そうだ。だから、奴らの目を眩ませる」
「目を眩ませる?」
「見えない間にそっと抜け出すのさ。ワゼに紛れるんだ」
「ワゼだと?」
ワアドとデハネウが驚き、呆れたように声を上げた。しかし、ワザンデはニヤリと笑う。
「ワゼの中の行軍で何度も痛い目にあって、無駄足を踏んだが、ここで役に立つとはな」
「いよいよゲンネの盗人通りになってきたな」
ダカホルが溜息をついた。
「ワゼが荒れ狂った後、風が乱れている間は空兵は飛ばない。ワゼが去ってすぐ、風がまだ白いうちに兵を出すんだ。そのまま、一端西に向かう。そして、空兵の巡回の範囲の外に出てから北上するんだ。ワゼを追いかけることできれば一番良いが……」
キエサは、ダカホルの作った砂の地図を指差しながら言う。これまでの斥候の報告から、ウル・ヤークスの空兵の巡回範囲はほぼ把握していた。
「ルェキア騎兵を二手に分けるってことか」
「そうだ。囮の部隊は俺が指揮する。本隊はワザンデに任せたい」
「馬鹿言え。そんな危ない役目、お前じゃすぐに鞍から放り出されちまう。気付いたらお前の駱駝だけ鞍が空だった、なんて御免だぜ」
ワザンデが笑みと共に肩をすくめる。
「俺が率いる。逃げ回って敵の注意を引き付けてやるよ。キエサが本隊を指揮しろ。お前を置いて行かないようにしっかり言いつけておくからよ。俺は先に、お茶でも飲みながらお前を待ってるぜ」
「ワザンデ……」
「そんな顔するな兄弟。とびきり腕のいい奴らと足の速い駱駝を集めるからよ。お前は鞍から落ちないように注意してればいいんだ」
ワザンデは大袈裟に手を振りながら言った。
「ンランギからも五百騎を出そう」
ガヌァナが口を開いた。キエサは驚きその顔を見る。
「しかし、ガヌァナ殿……」
「ガヌァナ殿、ンランギの戦士を侮辱するつもりはねえが、縞馬だと、駱駝について来るのは大変じゃねえのか?」
ワザンデが言う。ガヌァナは表情を変えることなく答えた。
「それは替え馬で補おう。それに、縞馬には砂沓を履かせている。駱駝ほどではないが、それほど速度が落ちることはない」
砂沓とは、木と革で作られた縞馬の履物だった。蹄の下に扇状の木の板を履かせることで、砂の中に沈み込むことを防いでいる。こんな物を履いているのにあんなに軽やかに駆けることができるのだから、騎手も馬も大したものだ。初めて見た時、キエサは感心したものだ。
「それに、ワザンデ。ルェキア族を侮辱するつもりはないが、敵と刃を交える時に、お前たちだけでは不安はないのか?」
ガヌァナの静かな問いに、ワザンデは苦笑した。キエサも、その鋭い反撃に思わず笑みを浮かべた。
「やれやれ、勇敢な戦士殿の言うとおりだな。キエサ、ンランギの武勇を頼ることにしようぜ」
「……ああ、そうだな」
キエサは頷いた。
「黒石の守り手も付けなければならんな」
ダカホルが溜息を共に言う。
「ダカホルは残ってください!」
キエサは慌てて手で制した。彼はカラデアの要と言っていい。ダカホルの卓越した砂聞きと砂文の力が、カラデア軍にウル・ヤークス軍と対抗できる力を与えているのだ。ある意味で、ラワナと同等の重要人物だと言える。そんな男を駱駝にのせてはるか北まで駆けさせるわけにはいかない。
「分かっている。俺も付いて行けるとは思えんさ。若い奴に押し付けるとしよう。カドアド」
名を呼ばれたカドアドは、びくりと肩を震わせてダカホルを見て、キエサを見た。
「私……、ですか?」
「そうだ。カドアド、キエサを補佐することを命ずる。黒石の守り手として、皆を導くのだ。いいな?」
「……はい。守り手としての義務を果たします」
カドアドは覚悟を決めた表情を浮かべ、深々と一礼する。
「ああ。俺もここからお前を助ける。頼むぞ」
ダカホルが肩に手を置く。顔をあげたカドアドは頷いた。
「よろしく頼む、カドアド」
「全力を尽くします」
キエサの言葉に、カドアドは強張った笑みで応えた。カドアドが勇猛な気質ではないことを、キエサはよく知っている。本来ならば彼は学問を修め、黒石の観ている世界に思いをはせているべき者だ。しかし、黒石の守り手はカラデアの危機においてその身を捧げなければならない。そんなカドアドを駆り出すのは心苦しいが、今は頼るべき者が他にいないことも確かだ。
「偉大な術師も必要ではないかね?」
笑顔のカングがキエサを見る。キエサは驚き目を見開いた。
「ユトワの方々も力を貸していただけるのですか?」
「当然だろう。とはいえ、我々司祭がここを離れることはできない」
「そうですね。ユトワの司祭の力は『満月の盾』にとって大いなる守り。ここに残っていただく必要があります」
「こういった任務には我々よりも向いている者たちがいる。ワンヌヴとラ・ギ族のものたちを同行させよう」
カングはそう言いながらワンヌヴを手で示した。キエサは思わずワンヌヴに顔を向ける。仮面からは表情をうかがうことはできない。描かれた右目が滑るように動いた。
「我らは役に立つぞキエサ! 守ってやるから安心するといい!」
肩に乗った洋鵡が甲高い声で叫ぶ。
「よろしく頼むよ」
キエサは苦笑しながら頷いた。