23
矢の攻勢が止んだ。
どこからか飛んでくる矢によって射手たちが次々と倒れていく。戦士たちは混乱に陥っていた。
ウィトだ。
シアタカは確信する。ウィトが主人の危機を察して、駆けつけてくれたのだ。
シアタカは、自分たちを包囲する戦士たちを確認した。矢の雨は止まり、周囲の戦士たちも何事かとその注意が逸れている。現状のまま平野で敵に包囲されるよりも、この隙を突いて森へ逃げ込み、木々を盾に戦う方がよい。シアタカはそう判断した。
「森へ逃げるぞ」
シアタカは戦士たちの向こうに広がる森に視線を向けた後、二人を見る。
「俺が道を作る。付いて来られるか?」
「当たり前じゃない!」
エンティノが強く頷く。
「よし。突破する!」
射手たちが森の一角を指差し、矢を射掛けている。どうか、逃れてくれ。ウィトの助力に感謝しつつ、助けに行けないことを歯噛みする。今はウィトの無事を祈るしかない。
シアタカは両手の死体を放り出すと、地面に刺していた刀を左手に握る。そして、右手を伸ばし、地面に転がっていた大槍を拾った。そして、大きく振りかぶり、射手たち目掛けて投げつける。大きな穂先を備えた槍は、回転しながら飛んだ。風を切る音に気付いた戦士が振り返った時、大槍はすでに目の前にあった。
爆ぜる音とともに、戦士の頭は消えうせ、血飛沫が飛び散った。ほとんど勢いを減じることなく飛ぶ大槍は、一人の体に当たって地面に打ち倒し、反動で飛び跳ねた先で戦士の体に突き刺さる。
その凄惨な光景にキシュガナンたちが驚愕と恐怖の声を上げた。
すべての戦士たちが一瞬動きを止める。
シアタカは地を蹴った。
地を這うように迫るシアタカを見て、戦士たちが慌てた様子で声を上げる。構えていた槍の穂先を連ねて突き出した。シアタカ目掛けて何本もの槍の切っ先が繰り出される。シアタカはごく自然に一歩を踏み出すと、その体がまるで浮き上がるかのように自然に跳ねた。ぶつかるように重なり合った何本もの槍の上に足を乗せ、そのまま、体重を感じさせない動きで柄の上を滑るように進む。次の瞬間、戦士の頭を踏み台にして飛び越えていた。
シアタカは、まるで鳥の羽が舞い落ちてくるように、ふわりと地面に降り立つ。
慌てて振り返る一人の首が、宙を飛んだ。その動きが止まることはなく、隣に立っていた戦士が肩から切り裂かれて血を吹き上げる。シアタカは、倒れていく戦士の大槍を奪うと、左手に握った。体を回転させながら、距離を取ろうと後ずさる男の足を大槍で薙ぎ払う。絶叫とともに振り下ろされた槍を刀で受け流し、姿勢が崩れて前のめりになった背中を切りつけた。
四人の戦士が倒れたことによって、包囲に綻びが生まれた。そして、エンティノとハサラトも、その間隙を逃すことはない。血に塗れた突破口を、駆け抜ける。
呆気にとられていた戦士たちは、我に返ったのか、怒号ともにシアタカたちを追った。
調律の力が顕れたシアタカたちの足は速いが、右足を怪我したエンティノがいるために全速とはいかない。そして、森を自らの庭とするキシュガナンにとっては、彼らに追いつくことは容易いことだった。戦士たちは、武器を手にシアタカたちに迫る。
繰り出された槍を、シアタカの刀が弾いた。姿勢が崩れた戦士の体を、エンティノの槍が貫いた。しかし、同時に、別の大槍がエンティノを狙う。威嚇の叫びとともにハサラトが横合いから跳び出した。慌てた様子で、その戦士は後ろに飛び退くとハサラトの迎撃を逃れる。
戦士たちの攻めは止まらない。まるで波のように、攻めては退き、隙を窺って再び攻める。恐ろしい一体の魔物として猛威を振るう三人を相手にすることは、キシュガナンにとって命を懸けた巻き狩りといえた。狩人たちは執拗に獲物を追い、攻める。この獰猛な獲物を相手にする戦士たちにとって、手負いのエンティノは明白な弱点だ。当然のことながら、彼らの攻撃はエンティノに集中した。
シアタカたちは、間断なく攻め寄せる戦士たちを相手に、木々を盾にして、時に互いに背中合わせになりながら森の中を駆けた。戦士たちは次々と押し寄せ、襲い掛かってくる。シアタカは、左手の大槍で敵を牽制し、右手の刀で斬る。しかし、敵も踏み込んでこない。危険だと感じればすぐに後退する。決定的な一撃を与えるためにはこちらからさらに踏み込む必要があるが、この状況ではそれは危険な賭けだ。
戦士たちは森での戦いに慣れている。そして、こちらは守ることで手一杯だ。相手を攻めるためには突出するしかない。しかし、そうなると三人による守りの陣が崩れ隙が生まれる。鉄壁に生じた傷は見逃されることなく、そこに付け込まれることになる。戦士たちもそれが分かっているのだろう。突出できないシアタカたちの動きに付け込み、巧みな攻守の切り換えで執拗に攻める。彼らは獲物を前にして焦ることはない。間断なく攻め立てて、こちらの守りを崩し、削ろうと試みていた。
追い立てられている。
シアタカはそう感じた。
次々と遅い来る戦士たちはあらかじめこの周囲の地形を調べていたのだろう。行く手をふさがれ、囲まれて、三人はどんどんと足場の悪い方向へと踏み込んでいる。獣のような俊敏さを誇るシアタカたちだが、大きな木の根が縦横に走り、大きな岩が剥き出しになったこの場所ではその動きを発揮することはできない。
しかし、焦りや恐怖は感じない。ただ、穏やかで冷たい殺意と憎悪が、湧き出る清水が岩盤を静かに満たしていくように心に広がっていく。その殺意は、シアタカの感覚をかつてなく鋭敏にし、その心を凍りつかせた。意識は拡散しまるで世界を俯瞰しているようだったが、それでいて、迫りくる敵へと焦点はあっていた。
女の歌う声が聞こえる。穏やかで単調な楽句を繰り返すその歌は、まるで子守唄のようだった。
彼女が、欠片が歌っている。
シアタカは、己の中から響くその歌声に身を委ねることを躊躇った。彼女の歌声は、その殺意は、シアタカの力となっている。しかし、このままこの力を甘受していれば、自分はこの殺意に呑み込まれてしまう。そんな不安も、止むことのない敵の攻撃の前にかき消されていった。
殺せ。
美しい歌声は、シアタカを急き立てる。
傍らにいる足手まといを見捨て、ただ、駆け抜け、斬れ。そうすれば、生き残ることができる。
殺戮と生存の欲求を駆り立てる誘惑の声。
それは熱病にも似たうずきをもってシアタカを侵す。
ここには、自分と敵しかない。全てを滅ぼすのだ。
そう囁く歌声に身を委ね、一歩踏み出した時、もう一人の自分がその足を止めた。
俺は……、いや、彼女は何をそんなに憎んでいるんだ?
もう一人のシアタカは、そして、彼の中にいるもう一つの存在が、この狂乱の場所で、静かに問いかけた。
聖王教徒であるシアタカにとって、聖女王とは慈愛深く、そして時に峻厳で冷徹な存在だ。しかし、その力の一部であるはずの欠片は、あらゆる者を憎み、敵意を向けている。それは、聖王教でいうところの『怒りの病』だ。聖なる秩序の体現者たる聖女王が患うはずがない病だった。
次々と繰り出される刃を凌ぎながら、静思する。その穏やかで感情を超越した思考は、静かな殺意と拮抗し、呑み込まれることを防いだ。本来の自分が戻ってきたことに安堵する。
キシュガナンの戦士たちは、執拗にエンティノを狙う。右腕と足に怪我を負った彼女の動きは、シアタカやハサラトに劣る。三人で死角を作らぬようにしているが、それでもどうしても隙が生まれる。それを、シアタカやハサラトが補う。これが何度となく繰り返された。
刃の波が止まり、一時的に静寂が訪れる。
シアタカたちは荒い息を整えながら、包囲したままこちらを睨む戦士たちを見た。
彼らも疲労の色が濃いが、それでも戦意が衰えてはいない。このまま防戦一方でいいのか。シアタカは己に問いかける。
「シアタカ」
エンティノの呼ぶ声に、振り返る。
「いざとなったら私が喰い止める。二人は逃げて」
厳しい表情でエンティノが言った。
「駄目だ」
シアタカは即答する。
「でもこのままだと……」
「エンティノを死なせはしない。絶対に」
反論するエンティノの言葉を遮り、見つめた。エンティノは口を噤み、うつむく。
「気弱なこと言ってると死ぬぞ! 来た!」
ハサラトが叫ぶ。
戦士たちが、刃を連ねて迫ってきた。
やはり、エンティノを狙うようにして攻撃を繰り出してくる。
槍をもてないエンティノの右手側を補うようにしてシアタカが飛び出し、ハサラトもそれに続く。
大槍の刃を跳ね除け、返す刀が空を切った。
視線を戻したその瞬間。
木の陰。ハサラトの死角から、姿勢を低く戦士が飛び込んできた。腰溜めに槍を構え、体ごと突っ込んでくる。
裏をかかれた。敵はエンティノに攻撃を集中させておいて、他の二人へ攻撃を仕掛ける機を狙っていたのだ。
槍が伸びる。刃がハサラトの背中に迫っている。奮戦するハサラトは気付いていない。
刹那の中で、シアタカは決断した。
左手を伸ばし、ハサラトを突き飛ばす。
繰り出された槍は、ハサラトが寸前までいた空間を貫き、そのままがら空きとなったシアタカの腹へともぐりこんだ。シアタカは腹に槍を受けたまま踏み込むと、刀を振り下ろす。刀身は槍の持ち主の頭蓋を切り割り、血飛沫がとんだ。
地面に転がったハサラトは、シアタカを見上げて驚愕の表情を浮かべた。
ハサラトは、絶叫とともに跳ね起きる。そして、近寄る戦士の首に剣を突き刺した。
僅かに遅れて、エンティノがシアタカの背から突き出している穂先に気付き、表情を凍りつかせた。
シアタカがよろめく。ハサラトが、その体を受け止めた。
「シアタカ! ああ、くそっ! なんてこった……」
この隙を逃すまいと戦士たちが駆け寄る。
シアタカは咆哮すると、槍をそのままに、踏み込んだ。
戦士たちは、思わぬ反撃に驚愕の表情を浮かべる。シアタカは、棒立ちになった彼らの中に飛び込み、斬り、払う。一瞬にして、二人が地に伏した。
ハサラトも、エンティノも次々と戦士たちを倒す。
腹に槍を突き刺したまま、シアタカは戦士たちを睥睨した。その凄まじい姿に、戦士たちの手は止まり、後退る。
「シ、シアタカ……」
エンティノが震える声で貫通した槍を見て、シアタカの顔を見る。シアタカは、無表情なまま小さく頷いてみせた。見つめるエンティノは、今にも泣き出しそうだ。
「何でお前は……」
ハサラトは顔を歪めながら、叫ぶ。
「結局お前は! 結局お前はそうやって自分で全てを背負うってのか! 何も変わってねえじゃねえか! お前の犠牲で生き延びて、俺たちが喜ぶと思ってんのか? くそ、俺は許さねえからな!」
「分かってるさ、ハサラト。少し、……しくじっただけだ」
シアタカは掠れた声で答えた。
「何でもないことみたいに言いやがって、くそっ! 絶対に生きて帰るからな! 絶対にだ!」
ハサラトはシアタカを指差すと、睨みつける。
「ああ。頼りにしてるよ」
シアタカは微笑んだ。しかし、それが難しいことを悟っていた。内臓は傷付き、じわじわと出血している。ここで槍を抜いてしまえば激しい出血が始まり、すぐに意識を手放すことになる。そして、激しく動けば傷はさらに広がることになる。しかし、休むことはできない。敵は喜んで襲い掛かってくるだろう。
今はただ、命の炎が消えるまで戦うしかない。
口から漏れる呼吸は浅く、切迫している。口の端から血が垂れた。
アシャンを守るという約束は果たせそうにない。シアタカは心の中で詫びた。
戦いの中に生じた僅かな静寂。
樹冠が風に揺れる音。戦士たちの荒い息遣い。踏みつけられる枝や草葉。遠くに聞こえる鳥の鳴き声。
それとは異質な音が、徐々に大きく響いてくる。唸るような、弦を鳴らしているような奇妙な音。それはこの数日の間、聞き慣れた音だ。
シアタカは空を見上げた。無数の羽が空を舞っている。それは、木漏れ日を遮り、森が薄暗くなるほどの数だった。
「羽翅……」
呆然と呟く。
同じように空を見上げた戦士たちが驚愕の表情を浮かべ、口々に叫び始める。
まるでそれに呼応するように、羽を持ったキシュは降下し始める。
木々の間を突き破るようにして、次々と羽翅は降り立った。