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砂塵の王  作者: 秋山 和
導かれし者たち
140/220

19

 炉にかけられた鍋からは湯気が立ち、よい匂いが漂ってくる。


 ウァンデは、木の椀に汁をよそうと、アシャンに手渡した。満たされた椀は冷えた両手を程よく暖める。


 ニウガドの社は高原にあるために、夜は冷えこんだ。さすがに沙海の夜ほどではないが、肩掛けや外套といった羽織るものがなければ肌寒く感じてしまう。


 アシャンは炉を囲む仲間たちを見た。


 ウィトは次々と椀に汁をよそい、手渡している。カナムーンは外套に身を包むようにして、ゆっくりと汁を飲んでいる。その隣のラゴは昼間と変わりない薄着のままだ。熱いものが苦手なのか、少し舐めては恨めしそうにスプーンでかき回している。人と違い、息を吹きかけて冷ますことができないのだろう。同じように、皆を見ているサリカと目が合う。彼女は無言で微笑んだ。


 シアタカやハサラト、エンティノは、受け取った椀を床に置いたまま話し込んでいる。明日、キシュやキシュガナンとともに訓練を行うためだ。彼らが活き活きしているように感じるが、勘違いではないだろう。明日の訓練にはアシャンも立ち会うが、戦士としての経験がないために、シアタカたちとキシュと橋渡しに徹するつもりだった。


 キシュは異なる巣の群れと繋がるために、“網”を織り上げている。全にして一であるキシュの群れは、人とは異なり、おさ、指揮者というものを持たない。そのため、一度他の群れと繋がることができたならば、それらはより大きな群れへと発展することが容易になる。その努力によって、今や、キセの塚のキシュ、カファの幹のキシュ、といった群れごとのキシュではなく、一つの大きな群れとして機能し始めている。


 キシュたちはこの試みが順調であることを喜んでおり、ラハシたち、特にアシャンへ、シアタカたちとの繋がりを要求していた。キシュはシアタカたちの持つ軍事的知識を貪欲に求めている。それは、渇望と呼んでもよいものだ。一つの大きな群れを形成するというこれまでにない新しい経験。そして、外つ国での戦。幾つもの課題が生まれたことによって、全力でそれに挑んでいる。それは、キシュという生き物の特性だった。


 そして、このキシュの要求に応えるために、急遽、彼らとの訓練が実現することになった。


 シアタカたちも、これまでの旅でキシュと触れ合っているが、何ができて何ができないのか、それを具体的に理解はしていない。キシュの群れの中でも、その個体は大顎クラーシュ歩荷デギウン鎚頭ガウナムというように、役割によって形や能力が異なる。他にも、小群はその規模で思考の幅も変わる。そういったキシュ独特の特性を彼らに説明する必要があった。


 キシュに続くように、キシュガナンたちも沙海へ進軍することを同意した。これから、沙海を渡った経験がある一族を中心に、道程を考え、必要な食料や水を見積もることになる。そこには、ウァンデやカナムーンも加わることになっていた。


 全てが動き始めた。


 この急激な事態の変化は、まるで大きな音ともに烈風が吹き、自分を置き去りにしていったように感じる。自分は『導く者』。その先頭に立っていなければならないはずだ。しかし、すべてはもう手の届かないところに行ってしまった。そんな不安がアシャンを支配している。


 アシャンは、傍らに置いた杖を見た。


 見事な装飾が刻み込まれたその杖は、大いなる母と社の司の信頼の証だ。しかし、それは自分の手に余る物だと感じていた。


「アシャン……。昼間、お前は様子がおかしかったな。今もそうだ。何に怯えているんだ?」


 ウァンデが覗き込むようにして言った。気付かれていた。アシャンは一瞬身を震わせた後、笑みを浮かべると小さく頭を振った。


「怯えてなんかいないよ。あんな大勢の前に立つなんて初めてだったから、すごく緊張したんだ。皆はすごいよね。堂々として格好良かった」

「誤魔化すな。俺はお前のように心を感じ取ることはできない。それでも、大事な妹が怯えているというのは分かる」


 眉根を寄せたウァンデはアシャンを見つめる。その視線に耐えられなくて、アシャンは顔をそらした。


「アシャン」


 ウァンデが、優しく、しかし強く彼女の名を呼んだ。アシャンは観念すると、ゆっくりとウァンデに顔を向ける。


「……私が、皆を死地に導くんだ」

「何?」

「私が皆を戦に導き、大勢が死ぬことになる。それが、とても怖かったの」


 言った後、ウァンデの表情を見てすぐに後悔した。困惑と憐憫の感情。きっと、ウァンデはそんなことは分かっているだろう。理解して、覚悟している。戦士にとっては、当然の前提としていることをわざわざ口にすることが、どれだけ愚かに見えるのか。アシャンは嘆息してうつむいた。


「そうだな。ウル・ヤークスを相手にして、無傷で勝てるとは思わない。きっと、多くのキシュガナンが死ぬだろう」


 シアタカが静かに言う。


「……アシャン、そんなことを気に病んでいたのか。戦場で死ぬのは戦士の誉れだ。お前が気にすることなんかじゃない」


 ウァンデがアシャンの肩にそっと手を置いた。アシャンは頭を振る。


「戦士はそれでいいかもしれない。だけど……」


 アシャンは躊躇って口ごもった。


「取り残された者たちが、悲しみと寂しさを味わうことになる」


 シアタカが言葉を継いだ。アシャンは、目を見開き、そして微笑む。シアタカは頷くと、アシャンを見つめた。


「アシャンを守るって言っただろう? これから起こることに耐えられないのなら、目を閉じて、耳を塞いでおいていてくれ。悪夢を見ていると思って、少しだけ我慢してくれればいい。沙海の暑さに文句を言いながら、何度か寝返りを打って、目を覚ました時にはすべてが終わっている。俺が……、全てを終わらせる」


 アシャンは息を呑み、うつむいた。ぎゅっと目を閉じる。


 それは、とても魅力的な誘惑だった。シアタカに全てを委ね、自分はただ何も知らない振りをしてすごす。きっとそうすることで安逸に日々を費やすことができるだろう。自分を責め苛むものを遠ざけることができるはずだ。


 そして、大きく息を吐き出し、顔を上げる。シアタカを見つめて言った。


「……ありがとう。でも、やっぱり駄目だ。これは、私が始めたことだもの。私はそこに立って、最後まで見届けないといけない。知らないふりなんてできないよ」

「そうか……」


 シアタカは、微かに口元を緩めた。


「残された母親や子供たちのために、できるだけ、皆には死んで欲しくない。家族の元に帰って欲しいんだ。それは、ウル・ヤークスの人たちも同じ。兄さんやシアタカは、甘い考えだと言うかもしれないけど……」

「アシャン……」


 ウァンデが複雑な表情を浮かべてアシャンを見た。


「アシャン、我々も、ウル・ヤークスを殲滅する気はない」


 カナムーンが口を開いた。微かに喉を鳴らしながら言う。


みなごろしを前提に戦うことほど愚かなことはない。歯止めの利かない殺し合いは、底なし沼に踏み込むことと同じだ。互いに足を引っ張り合いながら、足元すら定かでない深みに沈みこんでいく。最後に待っているのは、浮かび上がる泡と沈黙。そこには何も残らない。それでは意味がない。我々は、生き残り、栄えるために戦うのだから」


 一際大きな音を発したカナムーンは、皆を見回した。 


「話し合いですめば、それで全てが上手くいくはずだ。しかし、交渉に持ち込むためにも、こちらと戦っては損害が大きいと思わせなければならない。ウル・ヤークスが沙海に足を踏み入れた時から、立ち止まり、引き返すことのできる場所は通り過ぎてしまったのだ。まさしく、シアタカが言っていたように、力を見せなければ、相手を交渉の場に立たせることはできない。そして、その為に、少なくとも一戦は交えないとならないだろう」

「やっぱり、そうだよね……」

「アシャン」


 シアタカの声に、アシャンは顔を向けた。シアタカは、頷くと言う。


「俺たちは……、俺や、エンティノや、ハサラトは、人を殺すためだけに鍛えられてきた。人を殺すことしかできない人間なんだ」

「私、裁縫できるけど」

「俺は炒飯が得意だ」


 心外だ、という表情で口を挟んだエンティノとそれに続くハサラトに苦笑しながら、シアタカは言葉を続ける。


「俺たち……、いや、俺は……、まともじゃない。俺は、まるで蝿を追い払うように人を殺せる。そこには、怒りも、憎しみも、欲望すらないんだ。そして、人を殺すにはまともじゃない方がいい。戦場では、正義や悪は必要じゃない。勝利か、敗北か。それだけが真実だ。その真実の前では、どんなことでも許される」


 シアタカは静かな表情でアシャンを見る。アシャンを見つめる碧い瞳は優しく、そして冷徹な戦士の目をしていた。戦う人としてのシアタカがどれだけ恐ろしい存在なのか。アシャンはそれをここまでの旅で思い知らされた。強張った表情のアシャンに、シアタカは小さく頭を振ると言う。


「だけど、それじゃあ駄目だ。そのまま、殺し、殺される円環がいつまでも続くことになる。どこかで止めないといけない。俺のような殺す者の考えだけが正しいとは限らない。……だからアシャン、一緒に考えてくれ。できるだけ多くの人を家族の元に返す方法を。この戦を、できるだけ早く終わらせよう」

「……うん!」 


 アシャンは、目を輝かせて頷いた。シアタカの中にいるという欠片。それがシアタカを恐ろしい戦士にしている。アシャンはそう思っている。しかし、その一方で、それと戦うシアタカがいることも感じる。その、優しく繊細なシアタカこそが、自分を守ってくれているのだと信じていた。


「ウァンデとシアタカはアシャンを甘やかしすぎよ。もっと厳しくしないと、アシャンのためにならないんじゃない?」


 エンティノが溜息をついた。


「お前は妹に厳しすぎる。もう少し優しくしてくれ」


 ウァンデが顔をしかめる。エンティノはその答えを鼻で笑った。


「ほんと、駄目な兄貴ね。こんなことじゃあ、先が思いやられるわ」

「エンティノはもっとシアタカに甘えればいいと思うよ。きっと、シアタカも優しくしてくれる」


 アシャンは笑顔で、自分でも最高だと思える笑顔を作って言った。


「なっ……」


 エンティノは一息もらした後、絶句した。みるみる頬が紅潮していく。


「おっと、エンティノ。初めてアシャンに良い一撃をもらったな」


 ハサラトが笑った。

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