17
巨大な彫刻が周囲を睥睨している。
天井の高い広間の石の壁。そこに彫りこまれているのは左腕に獣を抱いた偉丈夫の姿だ。
今では見られない様式の複雑な紋様が描かれた長衣を着て、右腕には棍棒らしきものが握られている。その腕に抱かれた獣は一見すると山猫の類に見えるが、鋭い牙と爪、そして鬣をもっていることから、雄獅子であることが分かる。その両手にはそれぞれ六本の指があり、その額には弧を描く二つの角が生えていた。
「呪いが祓われた?」
彫刻を見上げていたラアシュは、背後に控えたウルス人の男を振り返った。
「はい。昨日、何らかの方法によって術式を解かれてしまったようです。私と繋がっていた“糸”が切れました」
答える青年の顔色は悪い。声も掠れている。ラアシュの傍らに立つカフラが口を開いた。
「何が原因だ、アドギル」
「分かりません。しかし、術式が破綻したわけではありません。何らかの外部からの力によって呪詛は解かれました。何者かの力で解呪されたのです」
アドギルと呼ばれた青年はカフラに顔を向けて言う。
「祓魔師や祈祷師の類を引き寄せないように、慎重に隠匿していたのではなかったのか?」
「はい……。その点については、自信がありましたが……」
ラアシュの静かな問いに、アドギルは口惜しげに顔を歪めた。
「お前以上の術者に見抜かれたということか……」
「……おそらくは」
アドギルを見て、ラアシュは笑みを浮かべる。
「世の中は広いな。聖導教団や教会の中枢にいるような術者が在野にもいるということか。いや、そもそも、在野の術者なのか……?」
ラアシュは顎に手を当てると、首を傾げた。アドギルが驚いた表情でラアシュをみつめ、カフラが目を細める。
「閣下。我らの計画を嗅ぎ付けた者がいるということですか?」
ラアシュは笑みとともに小さく頭を振る。
「結論を早まるなカフラ。これは可能性の一つということだ。楽観が過ぎると、小さな穴で足を挫くことになる。最悪の可能性は考慮しておいて損はない。ただし、それに囚われると、恐れのあまり何もできなくなる。暗闇に怯えて寝台にもぐりこんだままというわけにはいかないからな」
カフラとアドギルは頷く。
「もしかすると……、ですが、私は術者を見たかもしれません」
アドギルの言葉に、ラアシュは微かに眉根を寄せた。
「確信ではないのだな?」
「はい。村を出る時にすれ違った者たちですが、二人はいつも顔を合わせている商会の者でした。そして、その者たちが連れていた四人が、術者であるかもしれません」
「その口ぶりでは、術者のようには見えなかったということだな」
「はい。若い娘が三人と男が一人。皆、熟練の術者という風には見えませんでしたが……」
「お前がそれを言うのか」
ラアシュは笑った。アドギルも、一見すればただの実直そうな青年だ。彼がリドゥワの市場を歩いていても、まさか、恐ろしい呪詛を使いこなす魔術師だとは思うまい。
「確かに……。どうやら私は人見る目はないようです」
アドギルは嘆息すると肩を落とした。
「お前にそこまでを求めてはいない。それよりも、体は大丈夫なのか?」
ラアシュは、生気が乏しいアドギルの顔をまじまじと見つめる。
「……何重にも対策を施していましたが、集積していた呪いは強く、代償を支払うことになりました」
アドギルの答えに、ラアシュは頷いた。ラアシュは呪詛を使うことはないが、その代償が大きなものであることは良く知っている。失敗すれば尚更だ。アドギルの体と魂に大きな影響が及んでいることは間違いないだろう。
「そうか。そんな呪いを祓うとは、相当の実力を持った術師だな」
「はい。何が起きたのか、それを調べるためにすぐにマムドゥマ村に向かいます」
アドギルは目を爛々と光らせて言った。ラアシュは苦笑とともに右手を振った。
「口惜しい気持ちは理解するが、無理はするな。まずはゆっくりと休み、心身を癒すのだ。村へは別の者を向かわせよう」
「しかし……」
「あの呪詛を解いた術者だ。施術した者を待ち構えているかもしれない。罠を確かめに行った猟師が虎に喰い殺される。シンハ人の商人に聞いた話だ。今の我々にとって傾聴に値する教訓だと思わないか?」
「……仰るとおりです」
「これまで我々は慎重にやってきた。ここで障害に躓いたからといって、急に早足で歩き出してみろ。足下は覚束なくなり、我々は崖から転がり落ちることになる。まずはよく道を確かめて、雲の流れをみる。歩幅を決めるのはそれからだ」
「はい。焦慮がすぎました。申し訳ありません」
アドギルが頭を垂れる。ラアシュは、カフラに顔を向けた。
「カフラ、網を張れ。すぐにマムドゥマ村の周辺に人を送るのだ。村を包むように、その周囲の人の流れを探れ。もしその術者が村を出ているのならば、その跡を追う。村には、リドゥワの役所から派遣されたのだと言って何人かを送れ。疫病対策の人員という名目で、援助物資も配るのだ。そして、村で何が起きたのか、何者が呪いを祓ったのか探れ。現状で最も注意すべきなのは、アドギルが見たという四人だな」
「術者を見付けたならば、如何いたしましょうか」
一礼したカフラの問いに、ラアシュは答える。
「見失うな。報告しろ。それだけだ。迂闊に手を出すと火傷するかもしれない。まずは何者なのか。その素性と、そして手の内を知ってから対策を考えよう」
「そのように厳命いたします」
「躓いたことは今更どうにもならない。ここからどう立ち上がり、歩きだすか。それが全てだ。さて、問題は聖遺物が未だ村にあるかどうかだが……」
ラアシュの視線を受けて、アドギルは頭を振った。
「それは分かりませんでした。呪詛を祓われた時点で、あの木との繋がりは絶たれてしまいましたので……」
「そうだな。聖遺物には気付いたと考えるべきだろう」
「聖遺物は、計画の要です。失われてしまえば、前提が崩れてしまいます」
カフラが厳しい表情でラアシュを見た。ラアシュは肩をすくめる。
「そうだな。さすがに、あの寛容な司教殿も怒り出すだろう」
「いやに落ち着いていらっしゃいますね。想定の範囲内ということですか?」
「まさか。不意打ちをくらって腸は煮えくり返っているさ。これまで地道に積み重ねてきたものを台無しにされたのだからな。だからと言って、お前たちに当り散らし、怒鳴り、喚いても無駄なことだ。それよりも、獲物を横からさらった者を探し出し、ねちねちと恨み言を聞かせてやる。そのことに集中するほうが前向きだとは思わないか?」
「まったくですな」
カフラは苦笑する。
「しかし、もう少し早く切り上げるべきだったか……。欲張ってはだめだということだな。釣果を望みすぎれば、周りに潮が満ちて全てが立ち行かなくなる。良い教訓になった」
「確かに……、昨日までの呪いの集積で目的は果たせていたかもしれません」
自嘲の笑みを浮かべたラアシュに、悔しげな表情のアドギルは頷いた。
「起きてしまったことは仕方がない。足下を見て立ち尽くしているよりも、歩き出すほうが良いだろう。遅れた歩みを取り戻すためにも、お前たちにはこれまで以上に働いてもらうぞ」
ラアシュの言葉に、二人は姿勢を正し、深く一礼した。
「順調だった道のりだったが、思わぬ所で躓いてしまった。これが凶事の始まりでないことを祈るしかないな……」
ラアシュはそう言うと深く嘆息した。そして、振り返る。
「巨人王の御魂よ。どうか、我らを守りたまえ」
ラアシュは、巨大な彫刻に向かって恭しく一礼した。
丘の上から、無数の矢が雨となって降り注いだ。
騎兵部隊は、側面から襲い掛かるその凶器に不意を打たれ、成す術もない。次々と矢が当たり、彼らは白い煙に包まれた。矢じりのない矢の先端に付けられた白墨が舞い上がったことによるものだ。矢を受けた衝撃で、落馬する者も多くいた。
喇叭の音が鳴り響き、騎兵部隊は動きを止める。
丘の上の弓兵たちの中から、一人の人影が立ち上がった。
その女は、眼下の騎兵部隊に向かって叫ぶ。
「お前たちは死んだ!!」
厳しい表情の女、スハイラは、丘を降りながら言葉を続ける。
「こんな初歩的な罠にかかるとは情けない! もう一度、母親の腹の中からやり直せ!!」
下馬した白墨まみれの兵たちが、姿勢を正して彼女を迎える。スハイラは、彼らを睨め付けた。そして先頭に立った今だ年若い騎兵部隊の隊長に問う。
「この後考えられることは?」
「はっ! 撤退中であった騎兵部隊が反転。混乱している我々に襲い掛かってくるものと考えられます!」
「そうだ。こんなものは初歩中の初歩の罠だ。それなのに、なぜ追った」
「敵は重装騎兵であります。押し捩りの危険もなく、迅速に追いついて殲滅すればよいと判断しました!」
「その決断力は認めよう。だが、お前たちは伏兵の攻撃を受けた。この道を進撃したからだ。なぜこの道を通った」
「最速で敵に追いつける道だからであります」
「そうだ。この道は逃げる敵に最も早く追いつける楽な道だ。つまりは、お前たちを料理するために用意された厨房への近道だ」
スハイラは背後の弓兵を手で指し示した。
「これは狩りではない。敵は鹿でも猪でもない。お前たち以上に悪知恵の働く人間だ。敵を追うならばまずは罠を疑え。目を見開け。耳を澄ませろ。すべてを見逃すな。急く心で功を追っても、敵に食われるだけだ。時に、回り道こそが近道になる」
これは、スハイラ自身が身を持って学んだ教訓でもある。はるか遠い南の地で、彼女のいた部隊はその土地と、何より鱗の民という未知の敵への知識不足から、壊滅的な敗北をした。あの時味わった恐怖と絶望と血の味を、決して忘れることはない。
「そして、お前たちの目を曇らせたもう一つの理由を私は知っている」
スハイラは、部隊長に鋭い視線を向けた。部隊長は、顔を強張らせる。
「賭けはお前たちの負けだ。カイラハに来ている旅芸人の一座を見ることはできない。踊り子の艶姿も想像だけで楽しめ。お前たちは今晩は酒は禁止だ! 宿舎に謹慎!!」
居並ぶ兵士たちから呻き声のようなものが発せられた。
「ありがとうございます!!」
やけくそ気味に隊長が叫んだ。兵士たちもそれに続く。スハイラはにやりと笑うと、隊長の頬を一撫でしてから踵を返した。
「さあ、戻れ戻れ戻れ!! 遅れる者には飯抜きだぞ!!」
丘の上で、イフタートが怒鳴る。
敵、味方に分かれていた騎兵部隊、歩兵部隊は、散らばった矢を拾い集め、遠くに逃げてしまった馬を呼び寄せる。訓練の後始末を終えた後、整然とした動きで一つの塊となると、カイラハへと行軍を始めた。
「スハイラ様は変わらず新兵に厳しいですな」
隣に立ったスハイラに、イフタートは言った。
「新兵だからこそだ。未熟なまま戦場に送り込んで死なれても、目覚めが悪い」
スハイラは肩をすくめると、兵たちを見送る。
「ごもっともです。将軍閣下直々に指導を受けることのできる第二軍の新兵どもは、実に幸運といえましょう」
「第二軍の信条は家族的な職場だ。私も部下を愛情もって育てるつもりだよ」
「ううむ、実に頼もしい御母堂ですな」
「……せめて代母と呼んでくれ」
スハイラはイフタートを横目で睨んだ。イフタートの言い方では、成人した子供を持った母親といった意味合いを帯びる。スハイラはそこまで年をとっているつもりはない。そして何より、ウル・ヤークスの軍団を統べる親は聖王であるべきだ。自分自身は、第二軍という家族に対する宗教的後見人のようなものだと思っていた。
「それは大変失礼をしました」
イフタートは微かに笑みを浮かべると言った。
「分かれば良い。今後、発言に気をつけるように」
「は……。話が変わりますが、リドゥワに潜っていた者が一人、先ほど戻りました」
スハイラは、イフタートに顔を向ける。
「早いな。早速何か掴んだのか」
「詳しくは後ほど報告書を読んでいただくとして、少し気になることが……」
イフタートは微かに眉根を寄せると、声を落とした。
「先日起きたというアティハ十三教派の暴動ですが、何者かによって意図的に誘発させられた疑いがあります」
「偶発的な衝突だと聞いたが」
首を傾げたスハイラに、イフタートは頷く。
「はい。しかし、何人もの男が、複数の箇所で煽動していたらしいのです」
「諸教派の信徒が、リドゥワに動乱をもたらそうとしているということか?」
「そこまではっきりとは……」
「妙だな。確かに、待遇について不満があることは確かだろう。あそこの司教は少々頭が固いらしいからな。あの暴動も、正教派の融通の利かない対処が火種になったと聞いている。しかし、行政は別だ。あの太守は諸教派だからといって市民に不利益を与えてはいない。現に、諸教派の信徒の中には、豪商となった者もいるはずだろう?」
「はい。彼らは献金や喜捨でリドゥワの行政を支えているはずです」
「そうだ。彼らがリドゥワの動乱を望んでいるはずがない。偶発的ならばともかく、意図的な暴動というのは、諸教派の立場を不利にするだけだ」
「確かにそうですが、篤い信仰というものは、時に理性を打ち砕きます。それに、アティハ十三教派はまさしく小教派の集まり。決して一枚岩ではないでしょう。貧しき教派の者が、富む者たちとリドゥワを妬み、恨み、火が燃え上がることを望んでいるのでは?」
「そういうことも考えられるか……」
「スハイラ様は、恋に対しては熱く望まれますが、それ以外のことに対しては、氷のように冷静ですからな。……いや、恋に対しても、常にその炎を御しておられる。頭に血が上りきった愚か者の考えなど、かえって考えが及ばぬのも無理はありません」
「人を冷血漢のように言うな」
スハイラは顔をしかめた。そして、額に手を当てると、目を細める。
「イールムがきな臭くなってきたと思えば、思わぬ所からも煙が上がり始めたか……。実に面倒な話だ」
戦いに対しては、堅実でありたい。それがスハイラの信条だ。両面作戦などもっとも避けるべき事態だった。スハイラのやるべきことは、第二軍の将軍。そして、新たなる時代の旗手となることだ。小さな権力争いや策謀に関わっている余裕などない。
「以後も内偵を進めます」
「頼む。まったく……我々の出番が来ないことを祈るしかないな」
スハイラは大きく溜息をつく。言葉とは裏腹に、彼女の勘は、危険な何かを感じていた。