4
「お前ら、命拾いしたな。ええ?」
男は、強い口調で言いながら、地面に座り込んでいる三人の元に歩み寄った。
「で、怪我は大丈夫か?」
「は、はい、兄貴。癒しの術で治してもらったので」
答えると右手を上げて指を動かして見せる。
「添え木もなしに、もう動くのか!?」
男は驚いて折れていたはずの親指を覗き込み、次いでユハを一瞥する。その鋭い眼光は、ユハを緊張させた。
「はい。骨が折れたなんて嘘みたいです」
「俺も痛みがどこかに飛んでいきました」
隣の少年も同意する。大男は無言で頷いた。
「まったく、お前ら運がいいぜ。容赦しない腕利きが相手だったら、今頃、生きちゃあいねえ」
「す、すいません兄貴……」
男が溜息をつくと、三人は頭を下げた。
「手間かけさせたね、お嬢さん」
男はユハに笑顔を見せて言う。こうして見ると、少し怖く思えた顔も愛嬌に溢れている。その意外さに驚きながら、ユハは頷いた。
「お前らはとっとと帰れ。お嬢さんたちが怖がるだろうが。俺が話をつけるからよ」
男は、三人の肩を音が出るほど強く叩きながら立ち上がらせる。そして、残りの二人と共に、立ち去っていった。
「さて……、と」
仲間たちを見送っていた男は、ユハたちに顔を向けた。少し離れた所に立っていた禿頭の黒い人も、男の傍らに立つ。
「俺はカドラヒ。こいつは相棒のダリュワ」
男は親指で傍らの黒い人を指す。
ラハトがゆったりとした歩みで一歩進み出ると、口を開いた。
「カドラヒ。この喧嘩の原因は、元々こいつが先に手を出したからだ。どうする。弟分の仇をうつか?」
口元に笑みを浮かべたまま成り行きを見守っている月瞳の君を指差して、ラハトは言った。
「ちょっと、何を言ってるんですか!」
また争いごとになる。ユハはこの剣呑な流れに慌てて声を上げた。
「大丈夫だ、お嬢さん」
カドラヒは笑顔のまま右手を上げた。
「俺も腕っ節には自信があるが、身の程知らずじゃねえ。あんたと喧嘩して勝てるとは思えねえよ。なぁ?」
そう言って、傍らのダリュワに顔を向ける。彼は頷くと口を開いた。
「俺も、あんたとやり合って無事で済むとは思えない。無駄な怪我をするつもりはないな」
「そういうことだ。……あんたが言っただろ? 人を見る目を養ったほうが良いってよ。そこの姐さんがいくらいい女だからって、連れの兄さんが止めたんだ。そこで大人しく引けば良かったんだよ。それが、馬鹿共が意地になりやがって」
カドラヒは肩をすくめると、溜息をついた。
「あいつらは喧嘩を売ったらまずい相手に喧嘩を売って、痛い目にあった。身を持って教訓を学んだんだ。その上、怪我を治してもらった。こっちとしては文句はねえよ」
「そうか」
ラハトは静かに頷いた。
「うちの者が迷惑かけて悪かったな」
「いや、こいつが思わせぶりな態度をとったのが悪い」
ラハトの言葉に、月瞳の君は不満げな表情を浮かべた。
「何よぉ、遊ぼうって言ったから遊んであげただけよ」
「ははは。遊んでやって、か。確かにな。たかい、たかーい、ってことか?」
「ああ、そうそう。人はそうやって遊ぶのよね。一度やってみたかったのよ」
月瞳の君の答えに、カドラヒは笑顔から怪訝な顔に変わった。シェリウが慌てた表情で手を打ち合わせる。
「ええと、カドラヒさん。それじゃあもうお互い恨みっこなしで、良かったですよね!」
「ああ、構わねえよ」
カドラヒは頷いてみせると、ユハを見た。
「それで……、あんたがユハ、だったな。そっちのおっかない兄さんがラハト。で、力持ちの婀娜っぽい姐さんとあんたの隣の嬢ちゃんは何て名前だい?」
ユハは、固い表情でシェリウと顔を見合わせた。先刻呼んだ名前をしっかり覚えられている。
シェリウは小さく溜息をつくと、観念した表情で言う。
「……シェリウです」
「私はシア!」
月瞳の君が笑顔で名乗った。月瞳の君がさすがに偽名を名乗ってくれて助かった。使徒として名乗られてしまっては色々と面倒なことになるところだった。ユハは安堵の溜息を漏らす。
「あんたは、事の成り行きをずっと見ていたな」
ラハトの言葉に、カドラヒは苦笑するとユハを一瞥した。
「いや、まあ……、出て行く機を失ったっていうかな……。まさか、喧嘩でぶちのめした相手に謝って、怪我を治し始めるとは思わなかったからよ。興味が沸いて成り行きを見守ってたんだ」
「ユハは、ちょっと変わってるのよ」
月瞳の君が笑って言う。カドラヒは同意の声を漏らして曖昧な表情を浮かべた。
「私を変わり者みたいに言うのはやめてください!」
ユハは思わず抗議の声を上げる。
「自覚がないのが困ったものよねぇ……」
「本当に……」
月瞳の君の言葉に、シェリウが静かに頷いた。
彼女たちの様子に苦笑を浮かべたカドラヒが言う。
「色々と迷惑をかけたしな。お詫びに一杯奢らせてくれよ。もちろん、酒じゃねえぜ? 香茶か、珈琲でもどうだい?」
「おいしいお菓子はついてくるんでしょうね」
「ああ、町娘たちの評判はいいぜ」
「行くわ!」
「ちょ、ちょっと、げ……シア!」
シェリウが慌てて月瞳の君の手を引いた。特に抵抗されることなく、ユハたちのもとへ引かれていく。
「何、勝手に話を進めてるんですか」
険しい表情のシェリウが、小声で問う。月瞳の君は、笑みとともに皆を見回した。
「あいつらからはねぇ……、匂いがするのよ」
「匂い?」
「そう。匂い。遠い先から吹いてくる風の匂い。あんた達と同じ匂いがするの」
「え……、私たち?」
ユハは思わず問い返す。月瞳の君はそれに答えず、顎でカドラヒたちを示した。
「あいつについて行くと、きっと面白いことが待ってるわ。何かあっても、守ってあげるから、行きましょ」
そう言って、月瞳の君はカドラヒたちの元へ歩き出す。
ユハはシェリウに顔を向けた。シェリウは眉根を寄せながら頷く。小さく溜息をつくとその後を追った。
カドラヒの行きつけだという茶店は繁盛していた。
店先でのんびりと盤棋に興じる老人たち。疲れた体に茶と食物を詰め込んでいる人足たち。甘い視線でお互いに見つめあう恋人たち。笑顔で商談を進める商人たち。下町に暮らす様々な人々が店に集っている。
一行が案内されたのは店の奥の席だった。その席は、運河に面している。行きかう小舟を眺めながら、茶や珈琲、そしてアタミラではあまり見られなかった珍しい砂糖菓子を楽しんだ。
「俺たちは商会をやってる。舟や人の手配、あと、ちょっとした商売ってとこだな。外洋にはでないんだけどな」
「お若いのにご立派ですね」
カドラヒの言葉に、ユハは感心した。
「まあ、昔から顔だけは広かったんだ。こいつを活かして商いを始めようと思ったのさ。ごろごろしてたって飯は食えねえからな」
ユハは深く頷いた。アタミラを訪れてからここまでの旅路で、働く、という言葉の意味が彼女の中で変化している。世の人々のほとんどは、信仰のためではない、たつきを立てるために働いているのだ。働かなければ、生きてはいけない。ごく単純な理由がある。それを知ることができたのは大きい。
カドラヒは真剣な表情を面白がるように見ていたが、その視線を皆にめぐらせた。
「あんたら、ここの人間じゃないよな。どうも妙な取り合わせだ。ユハとシェリウは、どこぞの良家のお嬢さんってところか」
「良家のお嬢さん……」
ユハとシェリウは顔を見合わせて苦笑した。どうやらアティエナのお陰で、人に勘違いしてもらえるくらいには上品さが身についたらしい。
「まあ、この子は世間知らずですけど、良家の出身だなんてとんでもない。私たちはただの田舎ものですよ」
「世間知らずって……。確かにそうだけど……」
自覚していることだから反論はできない。しかし、釈然としないものを感じて口を尖らせた。
「そうかい……。で、ラハトとシアは二人の護衛か?」
「俺は使用人だ」
「使用人?」
カドラヒは一瞬瞠目し、そして大きな声で笑った。
「ただの使用人が、いきなり親指を折りにいくわけねえだろう。俺があの状況だったら、掴み合いの殴り合いだ。しかも、馬鹿が刃物をぬいたの見て、人を大壷みたいに投げ飛ばして盾にした。腰のそいつを抜くことも出来たのにな」
そう言ってカドラヒはラハトが腰に差している短剣を指差した。そして、月瞳の君に顔を向ける。
「そっちの姐さんもすげえよな。そんな細腕で人をあんな風に投げ飛ばすなんてよ。それは何かの技なのか? うちの人足たちにコツを教えてやって欲しいもんだ」
「身元を詮索するためにここに誘ったのか?」
ラハトがカドラヒを見据える。カドラヒは苦笑すると右手を振った。
「悪い悪い。仕事柄、変わった奴に興味がわくんだよ」
月瞳の君が身を乗り出すと言った。
「私たちは、旅の途中でリドゥワに立ち寄ったのよ。ここから西へ行きたいの。でも、あまり目立ちたくないのよねぇ。良い道を教えてくれない?」
「シ、シア、何言ってるんですか!」
「へえ……、訳ありってことか。いや、詳しくは聞かねえよ」
カドラヒはにやりと笑みを浮かべると、ユハたちを見やる。
「護衛は……、まあ、おっかない兄さんと姐さんがいるから十分だな。官憲の目が届かねえ道を案内すればいいな」
「詳しいの?」
「まあな。商売柄、少々危ない橋を渡る時もある。色々と伝手もあるのさ」
「その知識と人脈を使わせて欲しいわねぇ。もちろん、お礼はするわ」
「礼か……。そうだな。代金代わりというか、あんた達に頼みてえことがあるんだ」
カドラヒの顔から笑みが消えた。真剣な表情でユハを見つめる。
「ユハ、あんたは大した癒し手だ。折れた親指があんな短い時間で動かせるようになるなんて、驚いたぜ。普通の癒しの術なら、添え木をして一日二日は安静にしないといけねえはずだろ?」
「……はい。そうですね」
事実を否定することはできない。ユハは小さく首肯した。
「癒やし手にも、得手、不得手な分野があるって聞いたことがある。あんたは、怪我だけじゃなくて、病の類も癒やせるのか?」
「ええ、一応は……。それに、シェリウは癒やしの術は使えませんが、薬草に詳しいです」
「そうか。実は、あんた達に頼みたいというのは、流行病の治療だ」
「流行病……ですか」
「ああ。ダリュワの故郷の村で、少し前から、病が蔓延してる。高い金を払って医師や薬師、癒し手を呼んだんだが、どいつも病を癒せなかった」
「病状はひどいのですか?」
「ああ。熱が出て、体が動かせなくなってどんどん衰弱していく。体力のない年寄りや子供がもう何人か死んでるんだ」
「それは深刻ですね。そんな状況なら、教会の施療院に助けを求めてはいかがでしょうか。流行病は教会も放置しないはずです」
癒しの術、それも特に病の治療は知識と技の蓄積が大きな力となる。師から弟子へと相伝する市井の癒し手よりも、多くの癒し手が実践の経験や様々な症例を互いに共有できる教会が優れていることは確かだ。
カドラヒは、ユハの提言を受けて微かに口の端を歪めた。
「なあ……、アティハ十三教派って知ってるか?」
そう言って、ユハを見て、そしてシェリウを見つめる。突然話題が変わったことを怪訝に思いながら、ユハは頷いた。
「はい。古の教えを伝え守る方たちですね」
「そうだ。で、ダリュワの故郷の黒い人たちが信仰しているのは、その諸教派の一つなんだよ」
「それが病とどういった関係があるのですか?」
カドラヒの真意が掴めずに、首を傾げる。
「リドゥワの司教は少々頭が固い御仁でな。まあ……、正教派以外は聖王教徒って認めねえんだよ。勿論、俺たちも施療院に助けを求めたさ。だが、異端を助けることはないってよ」
肩をすくめるカドラヒ。隣に座るダリュワは、無表情なままこちらを見ている。湧き起こる怒りにも似た感情が、ユハの口から言葉となって発せられる。
「そんな……、そんなことは許されません」
その静かだ力に満ちた言葉に驚いたのか、カドラヒとダリュワは瞠目してユハを見つめる。
「苦しんでいるのは、信徒である前に、病に侵された救うべき人なんですよ。そこには、教派なんて関係ありません。いえ、聖王教徒ならば、例え異教徒であろうとも、救いを求めている人に、大いなる慈悲を示すべきなんです」
「なるほど……、本当に世間知らずだ。だが、嫌いじゃない」
カドラヒは笑みを浮かべるとダリュワに顔を向けた。ダリュワも、微かに口元を綻ばせて頷く。
「カドラヒさん。私たちがお役に立てると思います」
ユハは決意とともに言った。そして、シェリウに顔を向けて視線で謝罪する。シェリウは、苦笑するとともに肩をすくめた。どうやら勝手に話を進めたことを怒ってはいないようだ。
「自信があるんだな」
「自信……、ではありません。成し遂げる。そのために習い覚えた知恵と技を使い最善を尽くす。それだけです」
「ああ……、そいつは良く分かるよ」
「ただし、治療するだけでは意味がありません」
「どういうことだ?」
「病の症状、皆さんの暮らしている土地の様子。食べている物、水。色々と調べてみないといけません。癒しの術は、確かにその時には患者を癒します。だけど、それで終わりじゃあないんです。刃を遠ざければ、もう傷を負うことはありません。だけど、病は違う。刃のように目に見えるような原因でないことも多いんです。病を癒しても、病を患わない体になる訳じゃない。きちんと原因を突き止めないと、結局、また病にかかってしまうことになります。ただ治した、だけでは意味がありません。これは癒しの術というより、医術の範疇ですけど……」
「……あんたは本物だな」
カドラヒは呟くと深く頷いた。
「そこまで深く考えてくれてるなら、門外漢の俺たちは何も言わねえ。全部任せるぜ。存分に腕を振るってもらった後は、あんた達の道案内を任せてくれ。ダリュワの弟がその手の話に詳しい。今、仕事でアタミラにいるが、すぐに戻ってくるよ。それまで、あんた達が安心して過ごせるように手配する」
「そうですか……。お願いします」
ユハは一礼した。カドラヒは頷くと、ダリュワに言う。
「ダリュワ。ユハたちを“物置”に案内する」
「何言ってる、カドラヒ!」
ダリュワが驚きの声を上げた。
「俺はこいつらを信用する。だから、公平な取引をしなきゃいけねえ。ダリュワ、お前も信用しろ」
カドラヒはダリュワの胸板を拳で叩いた。ダリュワはしばらくの沈黙の後、おもむろに口を開いた。
「……ああ、分かった。お前を信用しよう」
笑みを浮かべて頷くと、カドラヒはユハたちを見やった。
「あんた達は訳ありだ。それで、裏道を案内するんだが、立場で言えば俺たちが上になる。いつでもあんた達を騙せるわけだからな。だが、信用した人間の弱みを握るような真似は嫌だ。全うな取引相手とは、公平に付き合いたいからな。だから、俺たちの秘密を……、弱みを見せる」
「弱み……、ですか?」
そこに不穏な意味を感じ取って小さく息を呑む。
「ああ、そうだ。色々連れまわすようで悪いが、一緒に付いて来てくれないか?」
「どうしてそんなに信用してくれるんですか?」
ユハは首を傾げた。秘密というからには、露見してしまえば破滅に繋がるようなことなのではないだろうか。それを、会ったばかりの自分たちに明かそうというのだから、ユハには不思議に思えた。
カドラヒは笑みとともにユハを指差した。
「俺の勘が言ってるんだよ。ユハ、あんたは良い投資先だってな。あんたに賭けておけば、面白いことがある。そんな気がするんだ」
「あんた、いい勘してるわねぇ」
月瞳の君が、大きな声で笑った。