22
まるで風に乗るようにして、娘に抱えられたまま運び込まれたのは、港の近くに建っている大きな建物だった。おそらく、何かの倉庫のようだ。中は天井が高く広い空間があり、人が暮らしている気配はない。
床に優しく座らされたユハは、目が回っているために体を支えることができずに床に横になった。娘は、ユハを抱えたまま建物の間を跳び、駆け抜けた。その速さは凄まじく、繰り返された跳躍によって、未だに目が回っている。
「お茶をいれてくるわ。あなた、お茶が好きだったものねぇ」
娘は、ユハの顔を覗き込むと微笑む。何度か髪を優しく撫でると、別室へ姿を消した。
ユハは、横になったまま、目だけで周囲の様子を探る。室内にいるのは四人の男女だ。中年の男が一人。若い男が二人。若い女が一人。覆面をとった彼らは、一見すると、どこにでもいるウルス人の庶民に見える。しかし、シアートの兵士たちを一瞬で倒したのだ。ただの市井の民であるはずがない。彼らは皆、ユハに関心がないようだ。若い男たちは談笑しており、中年の男は目を瞑って沈黙している。女は、床に布を広げて、その上に何かを置いて手入れしているようだが、ここからでは何をしているのか見えない。
深く息を吸い込み、少しずつ、ゆっくりと息を吐き出した。自らの体の中に力を巡らせて、混乱している神経を落ち着ける。すぐに、揺らぐ平衡感覚は元に戻り、体にも活力が戻ってきた。
ゆっくりとした動きで上体を起こす。一瞥して様子を窺ったが、彼らはこちらを見ようともしない。
出入り口の位置を確認した。ここに入る時に、扉がなかったことは覚えている。ここから出入り口まで、遮る者はいない。
ゆっくりと身を屈め、床に手を着く。全身に力を溜め込む。
そして、跳ぶように駆け出した。
一歩、二歩、三歩。
次の瞬間、ユハの体は宙に舞い、激しく転倒していた。
痛みと驚きを堪えながら振り返ると、伸びた足があった。駆け出した瞬間、差し延ばされたこの足につまずいたのだろう。
足の持ち主、若い男がユハを何の感情も浮かんでいない目で見る。そして、身を屈めると手を伸ばして彼女の背中に体重を載せた。強い力で床へと押し付けられて、その圧迫にユハは呻く。
「帰して!! 私を帰してください!!」
ユハは必死に身をよじりながら叫んだ。しかし、まるで体の中心を串刺しにされて床に留められたかのように、手足が動くだけで逃れることができない。
「教会の道具の癖して、騒がしいなあ」
男は楽しそうな声で言う。しかし、その表情には何の感情も浮かんでいない。
「私は……、道具なんかじゃない!!」
ユハは男を睨みつけると叫んだ。
「馬鹿だなあ。人間なんて、皆、誰かの道具なんだよ。お前は特に上等な道具。それ以外の何者でもないんだ。元々器として生まれてきたお前は、これから道具として正しい使い方に戻る。それだけさ」
変わらず無表情なまま、しかし男の声には嘲笑の色がある。男の言葉に、ユハは悔しさから歯噛みする。自分が人として扱われないことに怒り、そして愕然とした。
「まあ、滅多にない上等な道具だ。大事に扱ってもらえるだろうさ。ありがたく思うんだね」
「“群青”、うるさい」
女が鋭い声で言う。
「喋りすぎですよ、“群青”。君には沈黙の行が必要なようですね」
中年の男が静かに告げた。群青と呼ばれた男は、肩をすくめる。
「勘弁してよ、“薄暮”。黙って自分を見詰めろって? 馬鹿馬鹿しくてやってられないよ」
「だったら今すぐその口を閉じてください。分かたれし子を挑発して何になるというんですか?」
「そいつは口から生まれた。黙らせるにはこいつで縫い付けるしかない」
女が細い刃をもつ短剣を見せた。
「いいねえ、“棗”。僕の口にそいつを突き刺すっていうのかい? 出来るものならやってみろよ」
群青は、棗と呼ばれた女に手招きしてみせる。短剣を手にしたまま、ゆっくりとした動きで棗が立ち上がった。
「おいおい、お前ら、こんな所でいつもの続きをやるつもりか? いい加減にしろよ」
もう一人の若い男が進み出ると、二人の間に立って手を広げた。棗はそっぽを向くと、腰を下ろして再び布の上で手入れを再開する。群青も微かに首を傾げると、ユハに視線を戻した。
薄暮と呼ばれた中年の男は、ユハの元に歩み寄り、彼女を見下ろした。
「お嬢さん。どうか、大人しくしてもらえませんか? 我々も手荒な真似はしたくありません。しかし、最悪、命だけあれば事足りるんですよ。この言葉の意味がわかりますね?」
穏やかな表情で告げるその言葉を、ユハは唇を噛んで受け止めた。彼らにとって、ユハは人としては何の価値もない。まさしく、道具にすぎないのだ。為す術なくねじ伏せられている己の無力さが口惜しい。
壊してしまえ。
心の奥底で囁く声が聞こえる。
思うがまま、敵を滅ぼすのだ。
魂がうずく。
怒りと憎悪が心の奥底で渦巻き始める。
体をめぐる力が、泡立ち、熱を帯び始めた。
「ちょっとぉ、何してるの、あなた達」
娘の非難の声に、薄暮の顔がそちらを向いた。ユハも声の主に視線を向ける。両手に杯を持った娘が、不機嫌そうな表情でこちらに歩いてくる。薄暮は、姿勢を正して言った。
「ああ、月瞳の君。分かたれし子が逃げ出そうとしたので、止めていたところです」
「月瞳の君……」
薄暮の呼んだ名を聞いて、ユハは呆然と呟く。それは聖典にも記された、聖女王に従う使徒の名。『偉大な獣』のうちの一柱だ。
「聞こえてたわよぉ。命があれば事足りるって?」
月瞳の君は、目を細めると薄暮を見つめる。
「いや、それは、言葉の綾でして」
一歩退いた薄暮は、慌てた様子で答える。その様を見て群青が小さく笑った。月瞳の君は、群青を睨み付ける。その瞳が微かに光った。彼女から不可視の力が噴き出して、風を受けるように肌を撫でる。
「……群青。あんたも口に気をつけなさい。この娘は道具なんかじゃないわ」
「口が過ぎました。申し訳ありません」
群青は、改まった口調で頭を下げる。その体から発せられた力。そして、彼があっさりと前言を撤回した様を見て、この娘が使徒であることを確信した。こんな状況でなければ、さぞかし感激できただろう。しかし、今は彼女は敵でしかない。
群青がユハから離れた。ユハは、小さく息を吐き出すと、体を起こして床に座りなおす。全身を巡っていた熱が徐々に冷めていくのを感じた。どうやら、自分はここから逃げ出すことができそうにない。
こちらに歩み寄ってくる月瞳の君。彼女を見ると、胸が締め付けられるような烈しい郷愁が心の中に湧き出してくる。まただ。どうして私は、初めて会った使徒に、こんな思いを抱いてしまうのか。この感情にユハは戸惑う。そんなユハの潤んだ瞳を見て、月瞳の君は微笑んだ。
「ごめんねぇ。こいつら、本当にがさつで気がきかないの」
月瞳の君はやさしい口調で言うと、湯気が立つ杯をユハに手渡した。
ユハに結ばれた“紐”は、港湾地区の建物の中に続いていた。
その大きな建物はおそらく倉庫として使われているのだろう。
荷物を入れるためだろう、大きな入り口の前には、二人の男が談笑しながら立っている。一見すると朝の仕事を終えて寛いでいる人夫たちに見えるが、それが偽りであることをラハトは知っていた。彼らは、時折一人ずつ倉庫の周辺を歩き、入り口へと戻ってくる。
物陰から窺っていた二人は、頭を戻す。シェリウが口を開いた。
「あの人たちは、スアーハ教派の修行者ですよね?」
「知っているのか」
ラハトは意外に思ってシェリウに顔を向けた。ほとんどの人間にとって、スアーハ教派の実情は知られておらず、ただの辺境の修道院でしかない。真実を知っている教会の人間も、彼らの役割を直接口にすることを厭う。教会にとって禁忌である活動を、スアーハ教派は受け持っている。そして、それが教会にとって欠かせないものであることも知っているのだ。しかし、彼らを僧と呼ぶことは認めたくない。その矛盾した心情から、スアーハ教派の構成員を修行者、と婉曲に呼んでいた。
「はい。修道院長に色々と教わりました。スアーハ教派のことも。あたしの魔術の師でもあるんです」
「良い師をもったな」
「良い師……。そうですね。知らなくても良い知識も随分と詰め込まれてしまいました。もう善良な修道女とは言えませんね」
シェリウは、己の胸に手を置くと苦笑する。
「だが、お陰でお前は優れた術師になれた。だからこそ、ユハを助け出すことができる」
「……まあ、その通りです」
シェリウは肩をすくめる。
「シェリウ。教えておかなければいけないことがある」
「なんですか?」
「俺も、スアーハの修行者だった」
シェリウは、口を噤むと、ラハトを見つめた。
「驚かないんだな」
「いえ、驚いてますよ……。でも、得心がいきました」
しばらくの沈黙の後、シェリウは答える。倉庫の方向を一瞥すると、ラハトに聞いた。
「彼らはあなたを知っているんですか?」
「あいつらは、俺の知っている顔だ。おそらく、中にいるのも顔見知りだろう」
「ああ……。仲間だったんですね。大丈夫ですか?」
気遣うようなシェリウの表情。ラハトは小さく頭を振った。
「いや、あいつらにとって、俺は裏切り者だ。俺も、スアーハから逃れるために修行者を何人も殺した。問題はない」
「そうですか……」
微かに頬を引き攣らせてシェリウが頷く。
「シェリウ、ここからは殺し合いになる。修道女として罪を犯したくないなら、お前はここで帰ってもいい」
ラハトはシェリウを見詰め、言った。すでに、シェリウは仕事を終えた。ここから先は必ずしもシェリウがいる必要がない。ラハトの言葉を受けたシェリウは、息を呑み、そしておもむろに口を開いた。
「殺さずにすませることはできないんですか?」
「それは無理だ。奴らは手練れだ。手加減が出来るような相手じゃない。殺さなければ、殺されてしまう。……シェリウ、お前に殺す覚悟がないのなら、この場に留まっていても危険がある。今すぐ、ここから去るべきだ」
「ラハトさんは優しいんですね」
シェリウは微笑む。
「あたしは、……善き信徒のままでいるならば生きてはいけない、そういう所で育ちました。だから、ラハトさんの言うことは分かります。あたしも、覚悟はしています。ユハを守ると誓った時から、何でもすると決めたんです」
その答えを聞いて、ラハトは静かに頷いた。呪眼を通して観える彼女の幽体に揺らぎはなく、確固とした輝きを持っている。この光を持った人間の意志は強い。
「ならば、俺はお前の力を借りる。敵が自分を殺そうとしているなら、躊躇わずに殺せ。いいな」
「はい、ラハトさん。あたしに指示してください」
シェリウは決意に満ちた表情でラハトを見た。
「まずは見張りの始末だ。まとめて黙らせないと中の奴らに気付かれる。何か使える魔術があるか?」
「ちょっと待ってください」
シェリウは鞄の中から三本の小瓶を取り出す。二本の瓶の封を取っていき、そこにもう一本の瓶からそれぞれに液体を少量注いだ。刺激臭が微かに大気に混じる。記憶の中にある眠っていた知識が呼び起こされた。こんな珍しい物をこんな所で見るとは思っていなかった。
「それは、雷の種か」
「ご存知ですか?」
「ああ。スアーハでは、毒やその手の錬金術についても教えられているんだ。俺はあまり得意ではなかったが」
「だとしたら、分かりますよね」
「ああ。雷の術法が使えるんだな」
「はい。高度なものは無理ですけど、ある程度の範囲に、雷の力を発現することができます」
「十分だ」
ラハトは頷く。そもそも雷の術法は、高度な術法だ。本来ならば、天に嵐や雲、雷の精霊が集い、その力を複雑な術式や大掛かりな儀式を用いて導かなければ、雷の術法を行使することは難しい。それを雷の種という触媒だけで行使できるというのだから、シェリウの実力はラハトの想定よりも上だということになる。
「見張りを倒した後、中の奴らも相手取らないといけない。力を残しておけるか?」
「はい。そのために、もう一本用意しましたから」
シェリウは二本の瓶を揺らしてみせる。そして、表情を硬くすると、言った。
「ラハトさん。中には、スアーハの修行者以外に、精霊が……、多分、使徒がいます」
「使徒?」
「はい。ユハを連れて行ったのはその精霊なんです。あたしの知識が間違っていなければ、中にいるのは、きっと、月瞳の君」
「月瞳の君……。あの、猫の姿を持つ使徒か」
「はい。あたしたちは、何日か前から、月瞳の君に見張られていたんだと思います。だから、こんなに上手くユハをさらうことができた……」
口惜しそうにシェリウは唇をかむ。
「使徒もいるとなると、もっと難しい話になるな」
ラハトの言葉に、シェリウは厳しい表情を浮かべた。
「修道女であるお前には、戦いの中で適切に術法を行使するのは難しいかもしれない。ただ、できるだけ力を抑えて、数を使えるようにしてくれ。上手くいかなくても、相手を牽制さえ出来ればそれでいい」
たとえシェリウが優れた術者だとしても、彼女の術法を切り札として頼ることは考えていない。未知数の実力に頼ることは危険だからだ。それよりも、彼女の術法が生み出した混乱を活かす。それが確実な方法だと考えていた。
シェリウは微かに不満げな表情を浮かべた。
「あたしのことを信用していないんですね」
「当たり前だ。他人に背中を任せることができるようになるまで、どれだけ時間がかかると思う? 息を合わせて共に戦うには、訓練と信頼と、相手への理解を積み重ねる必要がある。俺はお前の実力を知らない。何も考えずに背中を任せることは無理だ」
「そうですね。軽率でした。ごめんなさい」
ラハトは、シェリウの謝罪に微かに肩をすくめて応えた。
「まずは見張りを始末しよう」
「ここからだと、あたしは術法を相手にかけることができません。近付くことは出来ますか?」
「勿論だ」
ラハトは頷く。そして、見張りを排除した後に、シェリウが行使するべき幾つかの魔術について話しあう。倉庫の中にいるスアーハ教派の修行者たち、そして使徒を相手取るために、二人は一切の無駄な行動が許されない。
ラハトの頭の中を、幾つもの可能性が浮かんでいく。それは、大部の書物をめくっていくにも似た感覚だ。生き残るために、そしてユハを救うために、ラハトは頁をめくり続けた。