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砂塵の王  作者: 秋山 和
奔流
112/220

22

 まるで風に乗るようにして、娘に抱えられたまま運び込まれたのは、港の近くに建っている大きな建物だった。おそらく、何かの倉庫のようだ。中は天井が高く広い空間があり、人が暮らしている気配はない。


 床に優しく座らされたユハは、目が回っているために体を支えることができずに床に横になった。娘は、ユハを抱えたまま建物の間を跳び、駆け抜けた。その速さは凄まじく、繰り返された跳躍によって、未だに目が回っている。


「お茶をいれてくるわ。あなた、お茶が好きだったものねぇ」


 娘は、ユハの顔を覗き込むと微笑む。何度か髪を優しく撫でると、別室へ姿を消した。


 ユハは、横になったまま、目だけで周囲の様子を探る。室内にいるのは四人の男女だ。中年の男が一人。若い男が二人。若い女が一人。覆面をとった彼らは、一見すると、どこにでもいるウルス人の庶民に見える。しかし、シアートの兵士たちを一瞬で倒したのだ。ただの市井の民であるはずがない。彼らは皆、ユハに関心がないようだ。若い男たちは談笑しており、中年の男は目を瞑って沈黙している。女は、床に布を広げて、その上に何かを置いて手入れしているようだが、ここからでは何をしているのか見えない。


 深く息を吸い込み、少しずつ、ゆっくりと息を吐き出した。自らの体の中に力を巡らせて、混乱している神経を落ち着ける。すぐに、揺らぐ平衡感覚は元に戻り、体にも活力が戻ってきた。


 ゆっくりとした動きで上体を起こす。一瞥して様子を窺ったが、彼らはこちらを見ようともしない。


 出入り口の位置を確認した。ここに入る時に、扉がなかったことは覚えている。ここから出入り口まで、遮る者はいない。


 ゆっくりと身を屈め、床に手を着く。全身に力を溜め込む。


 そして、跳ぶように駆け出した。


 一歩、二歩、三歩。


 次の瞬間、ユハの体は宙に舞い、激しく転倒していた。


 痛みと驚きを堪えながら振り返ると、伸びた足があった。駆け出した瞬間、差し延ばされたこの足につまずいたのだろう。


 足の持ち主、若い男がユハを何の感情も浮かんでいない目で見る。そして、身を屈めると手を伸ばして彼女の背中に体重を載せた。強い力で床へと押し付けられて、その圧迫にユハは呻く。


「帰して!! 私を帰してください!!」


 ユハは必死に身をよじりながら叫んだ。しかし、まるで体の中心を串刺しにされて床に留められたかのように、手足が動くだけで逃れることができない。


「教会の道具の癖して、騒がしいなあ」


 男は楽しそうな声で言う。しかし、その表情には何の感情も浮かんでいない。


「私は……、道具なんかじゃない!!」


 ユハは男を睨みつけると叫んだ。


「馬鹿だなあ。人間なんて、皆、誰かの道具なんだよ。お前は特に上等な道具。それ以外の何者でもないんだ。元々器として生まれてきたお前は、これから道具として正しい使い方に戻る。それだけさ」


 変わらず無表情なまま、しかし男の声には嘲笑の色がある。男の言葉に、ユハは悔しさから歯噛みする。自分が人として扱われないことに怒り、そして愕然とした。


「まあ、滅多にない上等な道具だ。大事に扱ってもらえるだろうさ。ありがたく思うんだね」

「“群青”、うるさい」


 女が鋭い声で言う。


「喋りすぎですよ、“群青”。君には沈黙の行が必要なようですね」


 中年の男が静かに告げた。群青と呼ばれた男は、肩をすくめる。


「勘弁してよ、“薄暮はくぼ”。黙って自分を見詰めろって? 馬鹿馬鹿しくてやってられないよ」

「だったら今すぐその口を閉じてください。分かたれし子を挑発して何になるというんですか?」

「そいつは口から生まれた。黙らせるにはこいつで縫い付けるしかない」


 女が細い刃をもつ短剣を見せた。


「いいねえ、“なつめ”。僕の口にそいつを突き刺すっていうのかい? 出来るものならやってみろよ」


 群青は、棗と呼ばれた女に手招きしてみせる。短剣を手にしたまま、ゆっくりとした動きで棗が立ち上がった。


「おいおい、お前ら、こんな所でいつもの続きをやるつもりか? いい加減にしろよ」


 もう一人の若い男が進み出ると、二人の間に立って手を広げた。棗はそっぽを向くと、腰を下ろして再び布の上で手入れを再開する。群青も微かに首を傾げると、ユハに視線を戻した。


 薄暮と呼ばれた中年の男は、ユハの元に歩み寄り、彼女を見下ろした。


「お嬢さん。どうか、大人しくしてもらえませんか? 我々も手荒な真似はしたくありません。しかし、最悪、命だけあれば事足りるんですよ。この言葉の意味がわかりますね?」


 穏やかな表情で告げるその言葉を、ユハは唇を噛んで受け止めた。彼らにとって、ユハは人としては何の価値もない。まさしく、道具にすぎないのだ。為す術なくねじ伏せられている己の無力さが口惜しい。


 壊してしまえ。


 心の奥底で囁く声が聞こえる。


 思うがまま、敵を滅ぼすのだ。


 魂がうずく。


 怒りと憎悪が心の奥底で渦巻き始める。


 体をめぐる力が、泡立ち、熱を帯び始めた。


「ちょっとぉ、何してるの、あなた達」 


 娘の非難の声に、薄暮の顔がそちらを向いた。ユハも声の主に視線を向ける。両手に杯を持った娘が、不機嫌そうな表情でこちらに歩いてくる。薄暮は、姿勢を正して言った。


「ああ、月瞳の君。分かたれし子が逃げ出そうとしたので、止めていたところです」

「月瞳の君……」


 薄暮の呼んだ名を聞いて、ユハは呆然と呟く。それは聖典にも記された、聖女王に従う使徒の名。『偉大な獣』のうちの一柱だ。


「聞こえてたわよぉ。命があれば事足りるって?」


 月瞳の君は、目を細めると薄暮を見つめる。


「いや、それは、言葉の綾でして」


 一歩退いた薄暮は、慌てた様子で答える。その様を見て群青が小さく笑った。月瞳の君は、群青を睨み付ける。その瞳が微かに光った。彼女から不可視の力が噴き出して、風を受けるように肌を撫でる。


「……群青。あんたも口に気をつけなさい。このは道具なんかじゃないわ」

「口が過ぎました。申し訳ありません」


 群青は、改まった口調で頭を下げる。その体から発せられた力。そして、彼があっさりと前言を撤回した様を見て、この娘が使徒であることを確信した。こんな状況でなければ、さぞかし感激できただろう。しかし、今は彼女は敵でしかない。


 群青がユハから離れた。ユハは、小さく息を吐き出すと、体を起こして床に座りなおす。全身を巡っていた熱が徐々に冷めていくのを感じた。どうやら、自分はここから逃げ出すことができそうにない。


 こちらに歩み寄ってくる月瞳の君。彼女を見ると、胸が締め付けられるような烈しい郷愁が心の中に湧き出してくる。まただ。どうして私は、初めて会った使徒に、こんな思いを抱いてしまうのか。この感情にユハは戸惑う。そんなユハの潤んだ瞳を見て、月瞳の君は微笑んだ。


「ごめんねぇ。こいつら、本当にがさつで気がきかないの」


 月瞳の君はやさしい口調で言うと、湯気が立つ杯をユハに手渡した。







 ユハに結ばれた“紐”は、港湾地区の建物の中に続いていた。


 その大きな建物はおそらく倉庫として使われているのだろう。


 荷物を入れるためだろう、大きな入り口の前には、二人の男が談笑しながら立っている。一見すると朝の仕事を終えて寛いでいる人夫たちに見えるが、それが偽りであることをラハトは知っていた。彼らは、時折一人ずつ倉庫の周辺を歩き、入り口へと戻ってくる。


 物陰から窺っていた二人は、頭を戻す。シェリウが口を開いた。


「あの人たちは、スアーハ教派の修行者ですよね?」

「知っているのか」


 ラハトは意外に思ってシェリウに顔を向けた。ほとんどの人間にとって、スアーハ教派の実情は知られておらず、ただの辺境の修道院でしかない。真実を知っている教会の人間も、彼らの役割を直接口にすることを厭う。教会にとって禁忌である活動を、スアーハ教派は受け持っている。そして、それが教会にとって欠かせないものであることも知っているのだ。しかし、彼らを僧と呼ぶことは認めたくない。その矛盾した心情から、スアーハ教派の構成員を修行者、と婉曲に呼んでいた。


「はい。修道院長に色々と教わりました。スアーハ教派のことも。あたしの魔術の師でもあるんです」

「良い師をもったな」

「良い師……。そうですね。知らなくても良い知識も随分と詰め込まれてしまいました。もう善良な修道女とは言えませんね」


 シェリウは、己の胸に手を置くと苦笑する。


「だが、お陰でお前は優れた術師になれた。だからこそ、ユハを助け出すことができる」

「……まあ、その通りです」


 シェリウは肩をすくめる。


「シェリウ。教えておかなければいけないことがある」

「なんですか?」

「俺も、スアーハの修行者だった」


 シェリウは、口を噤むと、ラハトを見つめた。


「驚かないんだな」

「いえ、驚いてますよ……。でも、得心がいきました」


 しばらくの沈黙の後、シェリウは答える。倉庫の方向を一瞥すると、ラハトに聞いた。 


「彼らはあなたを知っているんですか?」

「あいつらは、俺の知っている顔だ。おそらく、中にいるのも顔見知りだろう」

「ああ……。仲間だったんですね。大丈夫ですか?」


 気遣うようなシェリウの表情。ラハトは小さく頭を振った。


「いや、あいつらにとって、俺は裏切り者だ。俺も、スアーハから逃れるために修行者を何人も殺した。問題はない」

「そうですか……」


 微かに頬を引き攣らせてシェリウが頷く。


「シェリウ、ここからは殺し合いになる。修道女として罪を犯したくないなら、お前はここで帰ってもいい」


 ラハトはシェリウを見詰め、言った。すでに、シェリウは仕事を終えた。ここから先は必ずしもシェリウがいる必要がない。ラハトの言葉を受けたシェリウは、息を呑み、そしておもむろに口を開いた。


「殺さずにすませることはできないんですか?」

「それは無理だ。奴らは手練れだ。手加減が出来るような相手じゃない。殺さなければ、殺されてしまう。……シェリウ、お前に殺す覚悟がないのなら、この場に留まっていても危険がある。今すぐ、ここから去るべきだ」

「ラハトさんは優しいんですね」


 シェリウは微笑む。


「あたしは、……善き信徒のままでいるならば生きてはいけない、そういう所で育ちました。だから、ラハトさんの言うことは分かります。あたしも、覚悟はしています。ユハを守ると誓った時から、何でもすると決めたんです」


 その答えを聞いて、ラハトは静かに頷いた。呪眼を通して観える彼女の幽体に揺らぎはなく、確固とした輝きを持っている。この光を持った人間の意志は強い。


「ならば、俺はお前の力を借りる。敵が自分を殺そうとしているなら、躊躇わずに殺せ。いいな」

「はい、ラハトさん。あたしに指示してください」


 シェリウは決意に満ちた表情でラハトを見た。


「まずは見張りの始末だ。まとめて黙らせないと中の奴らに気付かれる。何か使える魔術があるか?」 

「ちょっと待ってください」


 シェリウは鞄の中から三本の小瓶を取り出す。二本の瓶の封を取っていき、そこにもう一本の瓶からそれぞれに液体を少量注いだ。刺激臭が微かに大気に混じる。記憶の中にある眠っていた知識が呼び起こされた。こんな珍しい物をこんな所で見るとは思っていなかった。


「それは、雷の種か」

「ご存知ですか?」

「ああ。スアーハでは、毒やその手の錬金術についても教えられているんだ。俺はあまり得意ではなかったが」

「だとしたら、分かりますよね」

「ああ。いかずちの術法が使えるんだな」

「はい。高度なものは無理ですけど、ある程度の範囲に、いかずちの力を発現することができます」

「十分だ」


 ラハトは頷く。そもそも雷の術法は、高度な術法だ。本来ならば、天に嵐や雲、雷の精霊が集い、その力を複雑な術式や大掛かりな儀式を用いて導かなければ、雷の術法を行使することは難しい。それを雷の種という触媒だけで行使できるというのだから、シェリウの実力はラハトの想定よりも上だということになる。


「見張りを倒した後、中の奴らも相手取らないといけない。力を残しておけるか?」

「はい。そのために、もう一本用意しましたから」


 シェリウは二本の瓶を揺らしてみせる。そして、表情を硬くすると、言った。


「ラハトさん。中には、スアーハの修行者以外に、精霊が……、多分、使徒がいます」

「使徒?」

「はい。ユハを連れて行ったのはその精霊なんです。あたしの知識が間違っていなければ、中にいるのは、きっと、月瞳の君」

「月瞳の君……。あの、猫の姿を持つ使徒か」

「はい。あたしたちは、何日か前から、月瞳の君に見張られていたんだと思います。だから、こんなに上手くユハをさらうことができた……」


 口惜しそうにシェリウは唇をかむ。


「使徒もいるとなると、もっと難しい話になるな」


 ラハトの言葉に、シェリウは厳しい表情を浮かべた。


「修道女であるお前には、戦いの中で適切に術法を行使するのは難しいかもしれない。ただ、できるだけ力を抑えて、数を使えるようにしてくれ。上手くいかなくても、相手を牽制さえ出来ればそれでいい」


 たとえシェリウが優れた術者だとしても、彼女の術法を切り札として頼ることは考えていない。未知数の実力に頼ることは危険だからだ。それよりも、彼女の術法が生み出した混乱を活かす。それが確実な方法だと考えていた。


 シェリウは微かに不満げな表情を浮かべた。


「あたしのことを信用していないんですね」

「当たり前だ。他人に背中を任せることができるようになるまで、どれだけ時間がかかると思う? 息を合わせて共に戦うには、訓練と信頼と、相手への理解を積み重ねる必要がある。俺はお前の実力を知らない。何も考えずに背中を任せることは無理だ」

「そうですね。軽率でした。ごめんなさい」


 ラハトは、シェリウの謝罪に微かに肩をすくめて応えた。


「まずは見張りを始末しよう」

「ここからだと、あたしは術法を相手にかけることができません。近付くことは出来ますか?」

「勿論だ」


 ラハトは頷く。そして、見張りを排除した後に、シェリウが行使するべき幾つかの魔術について話しあう。倉庫の中にいるスアーハ教派の修行者たち、そして使徒を相手取るために、二人は一切の無駄な行動が許されない。


 ラハトの頭の中を、幾つもの可能性が浮かんでいく。それは、大部の書物をめくっていくにも似た感覚だ。生き残るために、そしてユハを救うために、ラハトはページをめくり続けた。

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