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砂塵の王  作者: 秋山 和
奔流
105/220

15

 優しく暖かい日々は、遠い昔に失われてしまった。


 紅旗衣の騎士としての活気と喧騒に満ちた日々も、幼き頃の穏やかな記憶に代わるものではない。あの頃の幸福は血と煙の中に消え去り、今はただ、怒りと焦燥が自分を駆り立てている。自分を慰み者にしようとした男の喉笛を喰いちぎった時から、エンティノはあらがいながらただ走り続けてきた。仲間たちと、そして何よりシアタカがいなければ、きっと自分はおかしくなっていただろう。


 そんなエンティノにとって、沙海からキシュガナンの地へと至る旅は、奇妙なまでに穏やかな日々だった。もう休もう。もう一人の自分がそうやって何度も問いかけてくるが、それに頷くことはできない。何にあらがっているのか。自分でも分からない。しかし、抗うことを止めてしまえば、自分はもうエンティノ(獅子の娘)ではなくなってしまう。そんな恐れがあった。


 紅旗衣の騎士ではなく、ただのエンティノとして扱ってくれるアシャン。この穏やかな日々は、彼女によってもたらされた。エンティノはそう思っている。


 エンティノにとって、アシャンは眩しすぎる。アシャンに対しては、好意と、嫉妬、そしてさらに別の暗い想いがある。この相反し、矛盾した想いを、アシャンは感じ取っているだろう。それにも関わらず彼女は自分に対して明るく接し、頼ってくれている。


 この穏やかな日々は、しかし、エンティノに戸惑いと不安をもたらしている。

 

 そして、今、突然訪れたこの闘争の場は、不思議とエンティノの心を落ち着つかせる。結局、自分には戦場が相応しい生き場所ということなのだろう。エンティノは自嘲の笑みを口元に浮かべた。


 歩き出したシアタカの顔に紋様が浮かぶ。


 それを横目で見たエンティノも、自らの調律の力を呼び起こした。同時に、ハサラトの顔にも紋様が浮かんでいる。体を満たしていく、大きな力、愉悦と恐怖、そして、傍らにいるシアタカと再び共に戦えるという喜び。 


 三人が、吼えた。


 それは、猛獣を思わせるような咆哮だ。


 僅かに遅れてラゴとカナムーンが吼える。

 

 声は武器だ。


 声は心を奮い立たせ、共に叫ぶ者たちの心を一つにし、時に己すらも欺いてしまう。一方でその声を受けた者たちは怯み、恐れ、勢いを失う。 


 調律によって強化された喉から吐き出される闘争の叫び。そして、ラゴとカナムーンの人ならざる叫び。それは、キシュガナンの誰も体験したことがない恐ろしい刃になっただろう。その声の一撃を浴びて、カカルの戦士たちの表情が固まり、その足が鈍る。


 ラゴが真っ先に飛び出した。


 手に何も持たずに、一際長身の戦士へと駆ける。


 上体が伸び上がり、跳びかかる様子を見せた。相対した戦士は優れた目を持っていたのだろう。その動きを読んで、迎え撃とうとラゴの上体へと槍を繰り出す。


 その頃には、ラゴの体はそこにはなかった。


 伸び上がった体を転がるようにして倒し、そのまま四足で地を這うようにして戦士の懐へと跳び込む。


 槍を握る腕と相手の足をつかみ、まるで大蛇が獲物に絡みつくようにしてその背後に回りこんだ。


 膝を裏側から押され、腰帯を引っ張られることによって、戦士は天を仰いで倒れた。その体を背中から抱きすくめるようにして下敷きになったラゴは、戦士の首に腕を巻きつける。気管を締め付けられて、苦悶の呻きも小さく擦れた音にしかならない。


 組討ちの技において、人が狗人に勝つことは難しい。その膂力や敏捷さにおいて、狗人はほとんどの人間よりも優れている。そして、その肉体をもって研鑽された技を使われてしまえば、あっと言う間に組み伏せられ、そしてその鋭い牙や鉤爪によって血を流すことになる。


 しかし、今はシアタカによって、殺すことは禁じられている。敵を殺さないように行動不能にする。その手段として、絞め落とすことは実に慈悲深い方法だ。しかし、戦場においては動きが止まるという欠点がある。動きが止まるということは、他の敵に攻撃される危険が大きくなることを意味する。その危険を承知してでもラゴがこの手段をとったのは、仲間がいるからこそだ。仲間を信頼しているからこそ、この技を使ったのだ。


 ならば、ラゴの信頼に応えなければならない。エンティノは小さく頷く。


 慌てて駆け寄った男がラゴを引き剥がそうと剣を向けるが、戦士の巨体が盾となって迂闊な攻撃が出来ないでいる。


 そこへ、エンティノが迫った。


「余所見してる場合なの?」


 エンティノは呟く。男は、間近に迫ったエンティノに慌てて剣を向けた。


 エンティノは杖を打ち上げるとその剣を跳ね上げて、姿勢を崩す。動きは止まることなく、男の足の間に杖を差し込むと、掬うようにして一気に払った。男の体はその場で撥ね飛ぶ。エンティノはそのまま杖を振り上げ、男の頭へと叩きつけた。


 ラゴに比べて、自分は随分と強引で乱暴な方法だ。エンティノは苦笑すると次なる敵へと向き直る。


 怒りの叫びと共にエンティノへと迫る戦士の槍は、横合いから踏み込んだハサラトの棒によって阻まれた。


 ハサラトは受け止めた槍に棒を絡ませながら、そのまま掴む。体を入れ替えながら、足を払って戦士を倒した。そして、自らも同時に倒れこむようにして、戦士の頭に膝を落とす。


 顔を横に向ければ、すでにシアタカの足下には二人の戦士が倒れていた。その様子にエンティノは思わず苦笑する。もう少しこちらに合わせてくれてもいいのに、と思うが、それは甘えというものだろう。今はただ、己の未熟を呪い、シアタカの背中に追いつくしかない。


 ウァンデが一合、二合と打ち合い、そして敵を叩きのめした。その傍らで、カナムーンが戦士の槍を受け止め、強引に踏み込みながら握った拳で殴り飛ばす。一撃を受けた戦士はその場で崩れ落ちた。さらに、そのまま身を翻したしたカナムーンの尾が風を切り、もう一人の男を打ち倒す。ウァンデは、自らの足下に転がってきた男の足を強く打って立ち上がれなくした。


 ただ一人、槍を構えた戦士が呆然と立ち尽くしていた。その周囲に転がる、呻き声を上げ、あるいは意識を失っているカカルの男たち。


 大きな声が聞こえ、エンティノは、そして仲間たちが振り向く。 


 里への門から、多数のキシュを連れた人々がこちらへと歩んでくる。


 そして、その中の一人が、八体のキシュに囲まれながら駆け寄ってきた。倒れ伏すカカルの戦士たちの前で立ち止まり、彼らを見た後、シアタカたちに顔を向けた。


 大槍を肩に担いだその男は、長身で異様なまでに手足が長かった。時折、首や腕を痙攣させている。男は頭を斜めに傾けたまま、一行を見回した。


「そ、その人はラハシだ! 皆、気を付けて!」


 アシャンが叫ぶ。


 その瞬間、男は跳んだ。


 最も近くに立っていたエンティノへと迫る。


 はやい。


 エンティノは、その踏み込みの速さに瞠目しながらも杖を構えた。


 迫る切っ先を受け、払う。


 そのまま動きを止めることなく、踏み込み、杖の下端で男の足を打った。しかし、男の足はその場にはなかった。男は、そのまま宙に舞っていたのだ。エンティノの体を飛び越え、その体を一回転させながら背後へ降り立つ。


 なんて身の軽さなんだ。エンティノは舌打ちする。


 エンティノは体を回転させながら杖を振り抜いた。男はその一撃を受け止めると、ねじ伏せるようにして穂先を切り下ろす。


 刃を、体を開いてかわした。


 眼前を掠めていく紅刃。


 エンティノは杖を打ち下ろす動作を見せた。しかし、それは偽りの一撃だ。 


 すぐさま、下方から棒を打ち上げる。


 男は、顎目掛けて跳ね上がった杖を余裕をもって避けた。


 今のを避けた? 


 佯攻フェイントの後の、最速の一撃。調律によって強化されたその一撃が通用しなかった。エンティノの一瞬の驚愕に付け込むように、男は反撃を繰り出す。


 鋭い一突き。


 それは、咄嗟に身をよじったエンティノの左肩をえぐる。


 何とか態勢を立て直そうとするエンティノ。睨み付ける男の背後に、ラゴの姿が見える。不意を討とうと、音もなく回り込んだのだろう。飛び掛ろうと身を沈めた瞬間。


 男は背後も見ずに槍の石突を繰り出した。


 それは、跳びかかったラゴの眉間にまともに命中する。 


 鈍く大きな音とともに、ラゴはその場で倒れ伏した。


「ラゴ!!」


 ウィトの悲鳴のような呼び声。


 頭を斜めに傾けた男は、時折首筋を痙攣させながら笑みを浮かべた。





 シアタカは、エンティノと相対する男を驚きをもって見ていた。


 あの男は、調律が顕れたエンティノの攻撃をしのぎ、それどころか翻弄している。男は、確かにはやい。しかし、決してエンティノに勝っているわけではない。おそらく、膂力も同様のはずだ。それにも関わらず、あの男はエンティノの攻撃をことごとくかわしながら反撃し、浅からぬ傷を負わせている。


 そして、男を囲んでいた八体のキシュは、互いに連携してシアタカたちに襲い掛かってきた。


 人間ほどの大きさの甲殻に包まれた生き物が地を這って迫る。こちらは木の棒や杖しか持っておらず、その打撃力は心もとない。槍や斧、戦鎚といった武器があればまた戦いも変わってくるのだろうが、それは望むべくもないことだ。何より、素早く進退し、低い位置から攻めてくるキシュを相手取ることは難しい。そもそも、武術は人を相手取ることを前提としている。キシュと戦う場合、戸惑い混乱してしまい、本来の実力が発揮できないだろう。


 襲い掛かってくるキシュたちを相手に、棒や杖で、突き、叩き、寄せ付けないように戦う。この巨大な蟻を相手に、現状ではこの戦い方しか選択肢はなかった。


 キシュを相手にまともな戦いができないシアタカたちと同様に、エンティノも、男を相手に幻惑され、本来の実力を発揮できないまま追い込まれていた。彼女の負った傷も増えている。傷から流される血は、肉体から活力を奪い、思考から明晰を奪う。このままでは、致命傷を負うかもしれなかった。

 

 シアタカはハサラトに言う。


「すまない、ハサラト。エンティノを助けに行く。ここを任せていいか?」

「ああ、構わねえが、どうやって……」


 次の瞬間、シアタカは跳んだ。


 目の前のキシュの背に乗る。体の上に乗った重量物を跳ね除けようと、キシュは反射的に体を反らした。


 その勢いに乗って続けて跳躍する。


 眼下にはエンティノに槍を構えた男の背があった。


 跳躍の勢いをのせて、シアタカは棒を振り下ろす。


 男は、すぐさま振り返ると、大槍を大きく払った。


 槍と棒は打ち合い、シアタカは着地する。素早く後退すると、エンティノの隣に立った。


「シアタカ!」

「大丈夫か、エンティノ」


 男から視線をはずすことなく問う。


「……大した怪我はしてない」


 答えるその口調は口惜しげなものだ。シアタカはエンティノの不貞腐れた表情を想像して微かに笑みを浮かべた。


「ここは任せて、少し休んでいるんだ」

「私はまだやれるわ!」

「次は俺の番だ。奴の動きを観察して、秘密を探り出してくれ。エンティノの眼なら、できる」

「ずるいよ……」


 エンティノは呟く。 


「頼む、エンティノ」

「……分かった」


 小さい声でエンティノは答えた。シアタカは頷くと、大槍を持った男へと一歩近づく。つい先刻までエンティノと戦っていた男は、今は槍を肩に担いでシアタカを見ている。元々斜めだった頭はますます傾き、顔が横倒しになっている。槍を持った腕や足が時折痙攣していた。


「オ…お、お前たちから、ラ、妙な匂いがする。おおお、お前たちは何者……だ」


 震え、どもりながら発せられる奇妙な発音のルェキア語。男の問いに、シアタカは答えた。


「俺はシアタカ。キセの一族の客人として、沙海の向こうからやって来た」

「おお、オレ、俺は、カカルの一族の戦士、ジヤ」

「ジヤ。まだ続けるか?」

「も、勿論、だ、だ」


 ジヤは頭を真っ直ぐに戻すと、大槍を構えた。


「お前たちの、に、匂いハ、興味深い。とく、特にお前、シアタカ、お前は、ハ」


 大槍の切っ先が震えた。その向こうにあるジヤの体が小さく縮こまる。力を溜め込んでいる。シアタカは直感的にそう感じた。溜め込んだ力が解き放たれた瞬間、ジヤは一気に跳び込んで来るだろう。待ち受けるか、先手を打つか。一瞬の迷いの後、心を決めた。先手を打つ。 


 棒を上段に構え、機を窺う。


 心臓の鼓動と筋肉の躍動、精神の集中が一致した瞬間、シアタカは踏み出した。


 しかし、その時には大槍の切っ先が目の前にあった。それは、シアタカの出鼻をくじく完璧な一撃だ。人が行動を起こす最初の瞬間に何らかの妨害が入ってしまうと、人の意識にごく短時間だが空白が生まれてしまう。日常ならば、それはただ驚いた、で済んでしまうが、刹那の時間を奪い合う戦いの場では、その空白は致命的なものになる。


 この瞬間、シアタカの心にも空白が生じた。


 本来ならば、その突きはシアタカにとって防ぐことは難しくはない。しかし、今のシアタカは、いわば意識を失った状態だ。僅かな時間の後に意識を取り戻す。その時にはすでに切っ先は危険な所まで迫っていた。


 調律の力が、感覚を、意識を加速する。


 首筋に伸びる切っ先。自分の意識を背後に置いて行くような感覚とともに、体を開いた。


 紅刃が首筋を切り裂く。


 しかし、傷を負ったことを構うことなく、シアタカは右腕を伸ばした。


 柄の向こう、ジヤの左肩へと棒を振り下ろす。確かな感触が棒を通じて伝わる。おそらく、骨を砕くまでは至っていないだろうが、痛手を与えたはずだ。


 背後に跳び退こうとするジヤ。シアタカは空いている左腕を伸ばし、槍を掴もうとした。


 ジヤは大槍を穂先を震えるように動かす。それに傷付けられることを考えて、シアタカは手を引っ込める。


 そうしている間に、ジヤはすでにシアタカから大きく距離を取っていた。


「シアタカ、首が!」


 エンティノの声に、シアタカは首筋に手をやった。掌が血にまみれている。思ったよりも傷は深いようだ。


「不覚を取ったな……」


 シアタカは呟く。エンティノが翻弄されているように、自分もこの男に翻弄されている。相対して理解した。実に戦いにくい相手だ。 

 

「エンティノ、見ていて、何か分かったか?」

「こいつは、まるで私たちが何をしようとしてるのか先を読んでるみたい……。だから、私たちの攻撃をかわすことができるし、封じることもできる」 

「ああ、俺もそう思った」 

「だとしたら、どうするの? あんたの傷も、放っておくとまずいと思うけど」

「奴がどうやって俺たちの動きを読んでるのか、それが分からないと対処の方法がない」


 シアタカは無言で槍を構えるジヤを見やった。その動きに僅かだが滞りがあるように感じる。何度も痙攣し、無表情なために、どれだけ痛手を与えたのか分からないが、ジヤにとっても看過できない傷のはずだ。


「少なくとも、攻撃が当たらない訳じゃない。だとしたら、ただ攻め続けるだけだ。例え目が追いついたとしても、腕が上がらなくなれば防ぐことはできない」

「あんたらしいわね」


 エンティノが微かに笑いを含んだ言葉を返す。シアタカは小さく頷くと、一歩踏み出した。


 怒声が響いた。


 シアタカが視線だけを横に向ける。


 こちらへ向かってくる人々、そしてキシュ。その中でも頭抜けて長身の男が、こちらへ全速で駆けてくる。


 ジヤは、槍を立てると後ろに退いた。明らかに戦いの意思を収めたその態度に、シアタカもその場に踏み止まる。


 真っ先に駆けつけたのは、エイセンだった。


 大声を発しながら、シアタカとジヤの間に大槍を振り下ろす。巨大な槍は風を切り、唸りを上げた。


「お前ら! 楽しそうなことをしてるじゃないか! 俺を抜きにして始めるんじゃない!!」


 エイセンは険しい表情で叫んだ。


「すまない、エイセン」


 シアタカは彼を見上げると、微かに笑みを浮かべた。

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