10
その町は、ウシュマドと呼ばれている。
古いウルスの言葉で、喜びの野、快楽の土地といった意味だ。
即ちそこは、円城の中において酒場や料亭、そして娼館などが立ち並ぶ歓楽街。しかし、円城の住人が訪れるだけあって、軒を連ねる店は格式高い。外城のように、道端で殴りあう酔漢、道行く人々の腕を掴む客引きたち、酔いどれた者たちが店先で潰れて眠り込んでいるといったような光景はみることはできない。
日が暮れようとしているのに、多くの人々が行き来している。賑やかだが秩序ある町を、ザファキルは一人の女に連れられて歩いていた。
「なあ、スハイラ。いい加減、俺を誘った理由を教えてくれ」
ザファキルは、何も喋らない彼女に耐えかねて、声をかけた。スハイラと呼ばれた女は、振り返ると笑みを浮かべる。二十代後半であろう整った容貌のウルス人だった。
彼女は、女性にしては長身だ。艶やかに波打つ黒髪は、尼僧のように肩の辺りで短く切られている。しかし、身にまとった仕立ての良い服は僧服ではない。腰に剣を佩いており、軍人が平時に着るものだった。
この若い女が何者であるのか、この町において知る者は少ないだろう。彼女は、ウル・ヤークス王国東部に駐屯する第二軍アタム・ヤグズィド・イムルの将軍だ。東の地でイールム王国に睨みを利かせる若き女将軍の名は知られているが、アタミラにおいてはそこまで高名なわけではない。“金糸の上衣”を着ていない今、彼女が将軍位にあるものだと見抜けるものはいないはずだ。
一方のザファキルも同じようなものだ。彼は、ウル・ヤークス王国の南部に駐屯する第五軍イェド・タンム・ニアの将軍である。赤き砂漠やその周辺の高原、砂漠を守護する第五軍は、滅多にアタミラを訪れることはない。ザファキル自身も、アタミラにやって来たのは一年半振りの事だ。
元老院の命によって、アタミラへ各軍団の将軍が召喚された。沙海への第三軍進軍後の、新たな軍事的方針を決定するためだ。そして、ここ数日、第三軍の将軍ヴァウラを除き、次々と各軍団の将軍が到着している。
ザファキルも二日前にアタミラに到着したばかりだ。長旅の後、一息ついたところでスハイラに強引に連れ出されてしまった。それも、二人きりで。
側近や従者を置いて第二軍と第五軍の将軍が二人きりで出歩くなど、普通のことではない。これでは、まるで恋人同士の密会だが、スハイラの場合、それが甘い誘いであることはありえない。自分が彼女の好みではないことを、十分に理解しているからだ。
額から左頬にかけてはしる大きな刀傷。それによって左目は失われている。残された右目の鋭い眼光と厳しい表情。そして、鍛え上げられた巨躯。それがザファキルだ。彼から見れば軟弱な、歩く葦でしかない美しい若い男や少年がスハイラの好みであり、彼はその対極にいる。
「君に会わせたい人がいる」
スハイラは笑みを浮かべたまま答えた。
「会わせたい人?」
「ふふふ、可愛い御方だよ」
「まさか、お前の新しい恋人にでも会わせるつもりじゃないだろうな」
ザファキルは思わず顔をしかめた。以前、第二軍の駐屯する軍営府を訪問した際に、彼女の恋人を紹介されたことを思い出す。将軍に恋人を紹介されるなど思いもしなかったために、驚き、困惑したものだ。
「美しい若者を愛でることは人生の大いなる喜びだが、私は同時に何人も恋人を持つような不実な人間ではないぞ」
「怪しいものだな。お前には絶対息子は会わせん」
首を振るスハイラを見て、鼻を鳴らす。今年十二歳になる彼の息子も、あるいはスハイラの毒牙にかかるかもしれないと思わず心配になる。
「誰なら会わせても大丈夫だと思うのかな?」
「よき血筋の氏族の娘だ。息子には相応しい氏族の結婚相手を探す。お前のような浮ついた者など近寄らせんよ」
「ザファキル……」
スハイラは深く溜息をついた。
「そういうことは、親が決めることではない。恋というのは、いつ燃え上がるのか分からないものだ。そして、燃え上がった炎を消すことは誰にも許されない。恋をすることを止めることはできないのだ」
「誰もが恋だの、惚れただの、そんなことで結婚を決めてみろ。そのうち世の中は立ち行かなくなるぞ。結婚などというのは、一族の間で話し合い、取り決め、出会い、夫と妻の間で互いに理解しあい、愛を育めば良いのだ。妻は貞淑で、夫は誠実であれば、すべては上手くいく」
ムタハ族であるザファキルにとって、ウルス人の文化はあまりに享楽的だった。星空の下に天幕を張り、眠る。それが人生というものだ。いつまでたっても、壁に囲まれた街での暮らしというのは息苦しく落ち着かない。澱んだ、堕落に満ちた空気が漂っているように感じるのだ。残念ながら、その堕落の匂いに惹かれるムタハの若者も少なくない。しかし、ザファキルはその堕落を憎む。そして、その象徴ともいうべき場所が、このウシュマドという町だった。
「まったく、君は善き夫だな」
スハイラは微笑んだ。その言葉に皮肉の色を感じて、ザファキルは舌打ちした。
「お前はなまじ美しいから性質が悪い。未熟な子供ならばすぐに足を踏み外してしまう」
「おや、君が私を褒めてくれるとは。嬉しいな」
「褒めてなどおらん。毒花の恐ろしさを語っているだけだ」
「そういうことにしておこう。君は照れ屋だからな」
スハイラは笑うと、反論を試みるザファキルを手で制した。そして、立ち止まると、その手で一軒の店を指し示す。
「さて、無駄話はここまでにしよう。着いたぞ」
そこは小さな店構えの料亭だった。見事な装飾や彫刻によって彩られた両開きの扉は、控えめで上品な印象を与える。
「ここに、お前が俺に会わせたい者が待っているのか?」
スハイラは頷くとザファキルを見た。その顔は、これまでと一転して真剣な表情だ。
「ザファキル。……この店に足を踏み入れれば、君は二度と後には戻れなくなる」
「戻れなくなる?」
スハイラの口調に剣呑な気配を感じて、眉をひそめた。
「そうだ。ここで、君は人生が一変するようなことを見聞きするだろう。そして、決して、そのことを他の者に漏らしてはならない。もし漏らしてしまうならば、たとえ君であろうとも、……殺す」
「ここまで何も言わずに連れてきておいて、この俺に、殺す、だと?」
ザファキルの視線が鋭さを増した。これまで、自分にそんな口をきいた者には、礼儀というものを叩き込んできた。たとえその相手が将軍であろうとも、無礼を看過することはできない。常人ならばその迫力に萎縮してしまうような視線を、スハイラは静かな表情で受け止めた。
「恋は熱く、戦は冷たく。それが私の主義だ。もし君であろうとも、敵対するならば殺すしかない。それを最初に言っておかなければ、公平ではないと思った。……なぜならば、私は君を味方にしたいからだ。共に歩みたいからこそ、君をここへ誘った」
「味方だと? お前は一体、何を始めるつもりなんだ?」
「私が始めたのではないよ。私も、人生を変えられて、彼らの一員となった。そして、君もその一員になることを望む」
「お前の言っていることは、如何わしい話にしか聞こえんな。そんなことでお前を信じられるわけがないだろう」
ザファキルは腕組みするとスハイラを睨む。
「その通りだな。しかし、君が信頼することになるのは、今から会う御方だ。私ではない」
それでは何の答えにもなっていない。そう言おうとして、ザファキルは口を噤んだ。ここでこのまま話していても仕方がない。スハイラはその品行に目をつむれば、信頼に値する軍人だ。その彼女がここまで言うのだ。聞く価値はあるだろう。もし、何かの罠ならば……。ザファキルは口元に獰猛な笑みを浮かべた。腰に吊るした刀の柄を、軽く叩いてみせる。
「良いだろう。もしつまらない話だとしたら、スハイラよ。俺に殺す、と言ったことを後悔させてやる」
「……ああ、後悔はさせないよ。色々な意味でね」
スハイラは嫣然と微笑むと、頷いた。
「ザファキル殿、ようこそ。お越しいただいて感謝します」
ザファキルは驚きを押し殺して一礼した。彼らを出迎えた男は、政治に疎いザファキルでもその名を知る者だったからだ。
元老院議員カデム。法官として名高い人物だ。その知恵と人徳によって、彼を慕う者は多い。
なぜ元老議員がここにいるのか。その疑問を表情に出すことなく、ザファキルは彼を見た。
「お前、私の趣味が変わったと思っているだろう?」
傍らのスハイラが言う。
「お前は何を言っているんだ。馬鹿にしているのか?」
彼女の的外れな問いに、ザファキルは思わず顔をしかめた。その様子を見たカデムは、笑みを浮かべる。
「なるほど、スハイラ殿の言うとおり、お二人は仲が良いようだ」
「カデム殿。この女に騙されてはなりません。この女は、常に人を惑わし、嘲るのです」
ザファキルは、頭を振った。スハイラは、大袈裟な仕草で嘆く。
「ひどい言われようだな。傷ついたぞ、ザファキル」
「お二人のことに、私が口を挟むのは止めておきましょう。このままあなたをここに立たせておくわけにもいきません。どうぞ、こちらへ」
カデムは、笑いながら丁寧な手振りでザファキルを導く。ザファキルは頷くと彼に従った。
案内された一室に、一人の少年が待っていた。少年はザファキルに向かって丁寧に一礼する。カデムは少年を示して言った。
「息子のアーシュニです」
「初めまして、ザファキル将軍閣下。アーシュニともうします」
「ほう……、カデム殿のご子息か。年は幾つかな?」
「今年で十三になります」
「そうか。実に利発そうな息子さんですな、カデム殿。ワナーキム家もこれで安泰だ」
「ありがとうございます。将軍にそう言っていただけるとは光栄です」
カデムは微笑む。
スハイラの言った可愛い御方、というのはこの少年のことか? ザファキルはアーシュニを見ながら思った。確かに、スハイラ好みの美少年ではあるが、どうして彼を自分に引き合わせようとするのか、理解できない。元老院議員の息子とはいえ、十三歳の少年にどんな影響力があるというのか。
全員が席についてからすぐに、次々と酒や食事が運ばれる。さすがにアタミラで店を構えるだけある。ウルス人の料理ながら、その味はザファキルを満足させるものだった。スハイラとカデムがかわす世間話を横で聞きながら、ザファキルは無言で食べ、飲んだ。どうやら、この二人は随分前から交流があるらしい。二人の会話の様子から、そう感じた。アーシュニは、笑みを浮かべながら彼らの会話に相槌を打っている。実に如才なく、大人びた少年だ。
「さて、カデム殿」
ザファキルはスハイラを一瞥した後、カデムを見据えた。
「俺はどうしてここに招かれたのか。それを教えていただきたい。スハイラが言うには、俺の人生が一変することだというのだが」
カデムは、頷くと口を開く。
「それは……」
「父さん。僕が話します。ザファキル閣下には、その方が早い」
アーシュニが、右手を上げると父親の言葉を遮った。カデムは、息子を見て、口を噤む。
「ほう……」
ザファキルは笑みを浮かべると、アーシュニを見据えた。その笑みは臆病なものなら震え上がるような獰猛さを帯びていたが、少年は穏やかな表情を変えることはない。まさかアーシュニの方から話を進めてくるとは思っていなかったために、ザファキルは好奇心をそそられた。
「どんな話を聞かせてくれるのだ? 俺を失望させるなよ。俺は、子供といえど容赦はしないぞ」
アーシュニは笑みを浮かべると頷いた。
「七年前、南洋の向こう。ンデマ二ィの屈辱」
少年の短い言葉に、ザファキルの表情が変わる。その名は、彼の心に鋭く刻まれたものだった。
「愚かな元老院と強欲な商人によって、軍は無茶な戦いに送り出され、そして多くの兵の命を失った。そう。あなたの父親もね」
「貴様……、それをどこで聞いた」
低く抑えられたザファキルの言葉は、まるで獣の唸り声のようだった。すこしでも背を向けると、牙をむいて飛び掛ってくると思わせるような威圧感。カデムの顔が強張るが、スハイラ、そしてアーシュニの表情は変わらない。
「あの戦いには、私も参加していた」
スハイラが口を開く。その言葉に、ザファキルは驚き彼女を見る。
「忘れもしない。初めて外洋に出た私は、ひどい船酔いに悩まされた。そして、南洋を越えたあの地の暑さにも苦しめられたな」
微笑とともに、スハイラはザファキルを見つめた。
「君の父上、イジュム殿とは、そこで出会ったのだ。イッラニフール家には恩があるのだと言って、まだ小娘だった私を気にかけてくれた」
「父が……」
ザファキルは呟く。第二軍の将校だった父親と、スハイラが知人だったことは初めて知ったことだった。
「そして、あの戦いがあった。鱗の民の軍勢の襲撃を受けた時、私は本来ならば死ぬところだった。しかし、イジュム殿が私を助けてくれたのだ。残念ながら、イジュム殿はその時の傷がもとで、亡くなった。それは、君も知っていることだ」
スハイラの言葉に、ザファキルは頷く。
「君の父上は、命の恩人だ。イジュム殿がいなければ、私はここにはいなかっただろう。あの戦いに生き残ったことで、私は第二軍の将軍への道を歩むことができた」
そう言って、スハイラは小さく溜息をつく。両手を組むと、ザファキルを見つめた。
「今度は私が恩を返す番だ。ザファキル。君に栄光への道を用意したい。君を共に歩く仲間としたいのだ」
「スハイラ……」
その真剣な表情に、偽りや悪意はない。誠実さすら感じ取れる。父のことで、恩義を感じているのだと信じることができるように思えた。
アーシュニはスハイラに頷いて見せると、口を開いた。ザファキルは、彼に顔を向ける。
「かつて、軍は聖女王の勇猛なる猟犬でした。聖女王の命一つで、野を駆け、敵の喉笛を噛み千切った。しかし、今や、猟犬は牙を抜かれ、鎖に繋がれている。そして、主人に成り代わった愚かな使用人によって、そこが死の砂漠であろうと、底なしの沼の中であろうと、引き摺られて行くのです」
ザファキルは思わず苦笑する。まさしく自分が思っていることを、少年は言葉にしたのだ。まるで戦場で苦労する軍人のような口振りだ。アーシュニも微笑むと、言葉を続けた。
「大聖堂に聖女王はいない」
続けた短い言葉に、ザファキルは眉をしかめた。
「今、なんと言った?」
「大聖堂に、聖女王はいない、と言いました」
「それは、どういう意味だ」
「言葉通りの意味ですよ。大聖堂には、ずっと昔から聖女王はいないのです」
「馬鹿な! 俺は聖女王陛下に謁見し、将軍位を拝命したのだぞ!」
あの時受けた祝福の力を、一生忘れることはないだろう。聖なる力が体に満ちた時の高揚感は、これまで体験したことがないものだった。
「あれは、偽者です」
アーシュニは、ザファキルの怒声を笑顔で受け流すと、答えた。
「玉座に座るのは、聖女王の写し身。教会や聖導教団の操り人形なのです」
あまりに常識はずれで不敬な言葉に、ザファキルは絶句する。アーシュニは、からかうように右手を軽く振ると、首を傾げた。
「僕が妄想に取り憑かれた狂人か、あるいは、台本を諳んじているだけの人形だと疑っていますね?」
微笑む少年の顔に紋様が浮かんだ。複雑な曲線を描く銀色の紋様だった。それは、小さくゆっくりとだが、踊るように頬の上で動いている。
「聖なる紋様……!」
ザファキルは唸った。凄まじいまでの、不可視の力がザファキルの体を震わせる。砂漠の妖霊と出会った時のことを思い出すが、溢れ出す力はそれ以上のように思えた。そう、それは、謁見の時に満ちた祝福の力をのようだった。
「聖女王はもういない。私が、その力を受け継ぎました」
「あなたは一体……、何を考えているのだ」
身を震わせる力が、ザファキルの信仰を打ち砕こうとしている。その恐ろしい波に抗いながら、ザファキルは問う。
「聖王教徒としてのつとめを果たすことです」
アーシュニは、大きく頷くと、言った。
「聖なる秩序と法を遍く世界に広げるために自分は何が出来るのか。それを常に考えています。ザファキル将軍、……我々と新しい時代をつくりましょう」