姉と私「爪」
「あら、大変」
「どうしたの」
姉がキッチンで声をあげたので、反射的に尋ねた。
「爪、折れちゃったの」
「爪?」
「ネイル、してたんだけど」
そういえば、今日の姉の指先は、なんだか煩雑だった気がする。
ネイルしてたんだ、と思った。
「どうしよう」
「折れた爪だけ、切ればいいんじゃないの」
「ううん、そうじゃないのよ」
「じゃあ、何」
少し思い詰めた顔をしていたので、聞いた。
「…入っちゃったの」
「何が」
「爪、お鍋に入っちゃった」
ああ、なるほど。
「取り出せないの?」
「シチューだから、探すの時間かかりそう」
「そっかぁ」
納得したあたりから、私の興味は見ていたテレビに移っていて、姉との会話はなおざりになっていた。
「ねぇ、どうしよう、なっちゃん」
「大丈夫よ、食べてたらそのうち出てくるわ」
「駄目よそんなの。あぁ、今から作り直すわけにもいかないし…」
あぁ、パニックになってるな、と思った。
少し苛立ちつつも、もう慣れているので普通に応対する。
「いいわよ、そのまま食べたって死にはしないんだから」
「でも…」
「大丈夫だから、早くご飯にしましょうよ。私、お腹空いちゃった」
「…そうね。なっちゃんがそう言うなら、大丈夫よね」
そうそう、大丈夫。
そう言うと、姉は再び支度にかかり、しばらくして夕飯の時間となった。
鍋に入った姉の爪は、私のシチューにも、姉のシチューにも入っていなかった。
翌朝。
学校に行く準備をする私の傍らで、姉は朝食の準備に取りかかっていた。
トーストをかじる際、私の視界に姉の手が入ってきた。
だがその手に、有り得ないことが起きていた。
「え」
「どうしたの?」
「姉さん、その手」
「手?」
「爪が」
爪が、直っていた。
昨晩折れたはずの姉の爪が、綺麗に直っていたのだ。
「あぁ、なんだ、そんなこと?」
そんなこと、って。
「朝起きたらね、直ってたの」
直ってたの、って。
「すごいわねぇ、爪って」
ちがうと、思うけど。
言葉が何も出てこなかった。
目の前で有り得ないことが起こってしまって、私はただ混乱するしかなかった。
「なんで? だって、昨日」
「なっちゃん」
ゆっくりと、呼ばれた。
姉の目は、とてもゆったりとしていて、私をじっと見ていた。
見ているだけで、気持ちが落ち着いてくる気がした。
「大丈夫。だいじょうぶ、だから」
なにが、大丈夫なの?
「こんなの、気にしなくてもいいの」
でも…。
「大丈夫だから、ね?」
…そうね。
「姉さんがそう言うなら、大丈夫よね」
「そう、大丈夫。だから、早くご飯食べなさい」
促されるまま、私は朝食を食べ始め、姉もまた朝の支度に取りかかった。
家を出る頃には、私は爪のことなどすっかり忘れていた。