番外編:執事の見る夢、傘の記憶
それは、鉄の味がする夢だった。 味覚など持たぬ付喪神の身でありながら、私の核には常に、あの日の「血と焼けた鉄」の記憶が錆びついて離れない。
かつての私は、漆黒の絹を張った、ただの繊細な「日傘」に過ぎなかった。 主は、陽光を背に受けて笑う、向日葵のような少女。彼女にとって、私はモダンな装いの一部であり、幸福な日常を象徴する、ただの愛らしい道具だった。
『見て、このモダンなカフェのホットケーキ! 厚さが10cmはあるわ。……ふふ、お行儀が悪くてお父様には見せられないけれど、今日だけは特別よ』
彼女はそう言って、私を傍らの椅子に立てかけ、幸せそうに頬を膨らませていた。
だが、空が死んだ。
理不尽な火の雨――焼夷弾が、街の色彩を塗り潰した。 彼女は私を必死に抱きしめ、焦熱の路地を走った。絹一枚の私は、降り注ぐ火の粉から彼女を遮ることすら叶わない。 『……大丈夫よ。……あなたは、汚れないで』 私を庇うように丸まった彼女の背に、焼けた鉄の礫が突き刺さる。 彼女の体温が、私を握る指先から急速に失われていく。 そのとき、私は理解した。私という存在の「軽さ」が、彼女を殺したのだ。
「強さが欲しい。蹂躙される弱きものではなく、すべてを弾き返す盾に。彼女を傷つける因果を、一つ残らず叩き潰す鉄の杭に」
絶望という名の炉で、私の心骨は溶け、再編された。 絹は黒鋼へ。竹の骨は感応性合金へ。 「守りたい」という祈りは、熱力学の法則を無視した「情報の高密度化」を引き起こし、私は一本の「鉄傘」へと変質を遂げた。 主の骸を守るためだけに、私はその場で、物理法則を拒絶する「絶対防御の檻」となったのだ。
……それから幾星霜。 私は暗い蔵の中で、ただの「呪物」として封印されていた。 私に触れる者は皆、私の奥底に沈殿した「守れなかった悔恨」の波動に精神を焼かれ、狂い、私を捨てた。 もう、守るべき者はいない。私の鉄は、冷え切る一方だと思っていた。
「あ~~~ん!! ひもじいよぉぉぉ!!」
その絶叫が数百年の静寂を暴力的に引き裂いた。 埃まみれの私を掴んだのは、飢餓に狂い、鼻水で顔を汚した一人の少女――リナ・アイゼン。
彼女に、あのお嬢様の面影はない。 だが、死の間際、空腹の苦しみに悶えながらも「食べたい」と叫ぶその剥き出しの執念は、あの日、ホットケーキを食べ損ねて死んでいった主の「未完の因果」と、残酷なまでに合致した。
「……やれやれ。騒がしいですね」
私の核に蓄積された霊的情報が、彼女の脳内にあった「理想の庇護者」のイメージを演算し、出力する。 気がつけば、私は執事の姿を借りて顕現していた。
「あんた……何?執事!? 魔法!? どうでもいいわ! とりあえず、そこの棚にある乾パンを、あたしが飲み込めるサイズに砕きなさい!! 今すぐよ!!」
差し出された乾パン。それは、あのお嬢様が愛した繊細なホットケーキとは程遠い、ただの乾燥した塊だ。 だが、リナ・アイゼンがそれを貪り、喉を鳴らす音を聞いた瞬間。 私の冷え切っていた鉄の骨に、数百年ぶりに「熱」が灯った。
彼女は知らない。私が、単なる「便利な魔法道具」ではないことを。 この傘が開かれるたび、周囲の熱量を奪い、空間を凍結させるほどの過酷な防御圧力を生み出していることを。 そして、その代償として、私の「鉄」が彼女の生命力を少しずつ食らって繋ぎ止めていることを。
「……承知いたしました、お嬢様。その醜い絶叫を止められるのであれば、私は貴女の盾となり、そして厨房の主となりましょう」
私は今日も、彼女の背後で毒を吐きながら構える。 空から降るのが雨だろうが、神の怒りだろうが、関係ない。 このガサツな少女が、その卑俗な食欲を完全に満たすその瞬間まで。 私は二度と、この傘を閉じはしない。 たとえ、私の鉄が真っ赤に焼け落ち、この「執事」という虚構の姿が霧散しようとも。




