41.母の願い
謙虚な姿勢のテオドールを前にして、わずかに目を見開くマディ。
それから彼女はそっと目を伏せ、きゅっと唇を引き結んだ。
「私、彼があそこまで息子を邪険に扱う人だとは思わなかったわ。基本的に他人には強い興味を示すか、どこまでも無関心かの二択だったから」
深い後悔が滲んだ表情。静かでいて、重い声音。
マディは足元にある一点を悔しそうに見つめていた。
彼というのは当然、魔王のことを言っているのだろう。
『そもそも、お前が生まれたせいで全てが上手くいかなくなったんだ。お前が黒髪黒眼で生まれてこなかったら、僕とマディは――――』
ルーカスから黒魔法を受ける直前、彼は実の息子を忌々しげに罵っていた。
魔界から追放されるまでは甘言ばかり吐いていたと聞いたが、それは後の手のひら返しで幼い子どもが受ける心の傷をより深いものにするためだったに違いない。
つまり、当時から彼は黒髪黒眼で生まれてきたアーデルハイドを快く思っていなかったのだろう。
「アーデルハイドが生まれた日、彼から『黒髪黒眼の息子が生まれたから、もうお前は用済みだよ』って言われたの。その時、彼の関心は私から息子に移ったんだと思ったわ」
淡々と過去の出来事を語る彼女の顔に先ほどまでの穏やかさはない。
それと同時に、魔王から非情な言葉を告げられたことに対する怒りも感じられなかった。
彼女の話は以前フリードリヒから聞いたものと一致していたが、それはあの時見た魔王の言動とは矛盾しているように見える。
『久しぶりだね、僕の愛しい妻』
そう言って彼女に口づけを落とそうとする彼は、なにも知らなければ、最愛の妻を溺愛する夫のそれだった。
だからこそ、テオドールの目には彼がひどく不気味に見えたのだ。
「彼のことは魔界の統治者としてすごく尊敬していたし、夫としても愛していたわ。でも、突然そんな情のないことを言われて……。私は疑心暗鬼になってまで彼の妻でいたいわけじゃなかったの」
「……魔王は、なにがしたかったんでしょうか?」
テオドールの疑問に、マディの顔が徐々に険しいものへと変わる。
「セイント=ティアに来るより前に、一度だけ彼が私を訪ねてきたことがあるの。『今ならまだ許してあげるから、魔界に戻っておいで』って言われたわ。勿論すぐに断ったけど、その時確信したの。彼は私の愛情を試そうとしていたんだって」
落ち着いた抑揚だが、その言葉の端々からは確かな怒りが感じられた。
マディの左手が彼女の右手首をきつく握りしめる。
細かく震えている身体は怒りによるものなのか、恐怖によるものなのか。
おそらく魔王は彼女のことを愛してはいたのだろう。
彼女が寵妃であったというのも、間違いではないはずだ。
だが、彼の愛の形は常識の範疇を超えていた。
自分のことを愛しているなら、なにをしても許されるはず。
自分の傍からいなくなるわけがない。
そんな傲慢な考えのもと、魔王は妻の愛情を確認するために用済み発言をしたのだろう。
だが、彼のことを信じていたマディは深く傷つき、魔王城から姿を消した。
それは魔王にとって予想外の展開だった。
魔界全体を巻き込んだ捜索が打ち切られた後も彼は独自に彼女を探し続けたのだろう。
その執念の末に彼女を見つけ、自分のもとへ戻ってくるように提案した。
けれど、普通の感覚を持つ者ならその提案に頷くわけがない。
そもそも魔王城に彼女の居場所はないと告げたのは、他ならぬ魔王自身なのだから。
彼の大きく矛盾した言動に、マディは強烈な不快感を覚えたに違いない。
「そんな彼のもとに置いてきたアーデルハイドのことはすごく心配だったわ。でも、また魔王城に足を踏み入れたら二度と出られないような気がして……」
そこで言葉を区切った彼女は、ゆっくりと視線を持ち上げる。
こちら――厳密にはテオドールの隣に立つルーカスを真っ直ぐに見つめる黒い瞳には懺悔の気持ちが映し出されていた。
「アーデルハイドはきっと大丈夫って自分に言い聞かせて、息子の人生より自分の心を優先したのよ。……本当に、最低な母親だと思うわ」
そう言って眉毛を下げたマディはおもむろにルーカスの目の前まで歩み寄ってきて、優しい仕草で彼の手をとる。
慈愛に満ちたその表情にとは対照的に、彼は再び怯えたような様子を見せる。
彼女はそんな息子に縋るようにその手をぎゅっと握りしめた。
「だから、お願い。どうか貴方のために力を使わせてちょうだい」
「……僕は、母上の命を犠牲にしてまで生きたいわけじゃ」
母親と目を合わせようとせず、頑なな態度をとるルーカス。
しかし、その黒い瞳にはほんの少しの迷いがあった。
それがマディにも分かったのか、彼女は柔らかく目を細める。
「――――貴方は、ルーカス・カディオとして生きると決めたのでしょう?」
マディの諭すような声色に、彼がハッとしたように目を瞠る。
彼女の言葉が、母の願いが彼の心にそっと触れた瞬間だった。
「それは貴方を大切に想ってくれる家族や友人がいるから。そうでしょう?」
「…………」
切実な温度がこもった問いかけに対して、ルーカスは俯いたままなにも言わない。
しかし咄嗟に否定をしていない時点で、それは肯定しているようなものだ。
ひどく苦しそうな表情のなかで、その瞳は不安そうに揺れている。
大切な存在を守りたくて自身の死を望むけれど、その選択をすることで家族や友人を悲しませることはしたくない。
それならいっそ孤独になろうとしたけれど、その優しさゆえに非情な振る舞いをして彼らを傷つけることができない。
大きな痛みを知っているからこそ、ルーカスは決断することを恐れ、ずっと逃げ続けてきたのだ。
そんな彼の心の内を見透かしたように、マディは優しく、けれど確かな強さをもってその背中を押す。
「私は今までなにもしてあげられなかったわ。だから、貴方の母親を名乗る以上、せめてこれくらいはさせてほしいの」
ルーカスがおそるおそるといったふうに視線を上げ、彼を真摯に見つめるマディの姿を捉える。
母親としての使命を全うしようと決意を固めている彼女の表情には迷いがなかった。
「私にこんなことを言う資格がないのは分かっているけれど、貴方には幸せな未来を掴んでもらいたいのよ」
過去への後悔を滲ませながら、息子の明るい未来を願うマディ。
確かに、彼女は我が身可愛さに過ちを犯してしまったかもしれない。
それでもその過去を深く反省し、これからの長い余命をすべて息子のために捧げようとする姿勢は、間違いなく母親のそれだった。
やがて、ルーカスが小さく頷いた。
静かに涙を流しながら、母の願いを受け入れたのだ。
出会ったばかりの頃の彼なら、きっとこうはならなかっただろう。
魔界から逃げて、自分のことを心配してくれる家族や友人から逃げて、それでも誰も悲しませたくなくて、死ぬという選択肢からも逃げ続けた。
そんな彼がようやく下した決断。
大切な存在を守るためには、なにかを犠牲にしなくてはならないのだ。
たとえそれが、この世に二つとない尊いものであったとしても。
彼の返事を受けたマディが、嬉しそうに微笑む。
それは息子の苦しみを和らげるためのものに見えた。
「――――愛しているわ、可愛いアーデルハイド」
マディは小さな声でそう呟くと、彼の顔から手元へ視線を移し、そっと目を閉じる。
その拍子に彼女の長い睫毛から涙が零れ落ちた。
おそらくルーカスにその涙は見えていない。
彼の隣にいたテオドールだけが彼女の複雑な胸の内に気づいた。
18年の時を経てやっと再会することができた息子との、あまりにも早すぎる別れ。
彼の幸せを願う彼女は、母親としてその様子を近くで見届けたかったに違いない。
それでも彼を救えるのは自分しかいないから、彼女はその役目に徹することに決めたのだ。
マディが小さく深呼吸をして真剣な表情になると、彼女を取り巻く空気が一様に変わった。
二人の繋がれた手を緊張しながら見守っていると、ルーカスの両手からうっすらと黒い邪気のようなものが立ち昇り始める。
それは徐々に濃度を増し、あっという間に禍々しい色味を帯びた煙のような姿になった。
上へ上へと向かう邪気は次第にその色が薄まり、自然と空気に溶け込んでいく。
最初は人体に悪影響があるかもしれないと警戒したが、しばらくしてもテオドールの身体にはなんの異常も見られない。
だが、不意にマディの身体がふらりと揺れたかと思うと、その場にバタンと倒れた。
「!? マディ様!?」
反射的に彼女の名を呼びながら慌てて駆け寄る。
でも彼女はぐったりとしたまま、テオドールの声に反応する素振りはない。
そんな彼女の身体を丁寧に抱き起こすルーカス。
その手は細かく震えていて、涙に濡れる黒い瞳はなにかを悟っているようだった。
「ルーカス、これって」
「……多分、黒魔法の解呪が成功したんだ。母上が倒れる直前、僕の身体から淀んだ邪気が完全になくなる感覚があったから」
彼の悲しみに満ちた声音に、テオドールはわずかに目を見開く。
(覚悟はしていたけど……)
視線を落とすと、固く目を瞑ったマディの顔がある。
可愛らしく整った顔立ちはルーカスにそっくりだ。
反応こそないものの、その顔色は青白いわけではない。
まだ生きていると言われても信じてしまいそうなほど、ほのかな生命力が宿っているように感じられた。
ふわりと湧いたのは、愚かな期待の感情。
彼女の死を受け入れたくない自分がいることに驚いてしまう。
無意識のうちに、マディをテオドール自身の母親と重ねてしまっていたのかもしれない。
そっと身を乗り出し、静かに眠る彼女の鼻の下へ手を伸ばす。
その手は目に見えて分かるほど震えていて、少年の動揺を物語っていた。
大切な存在を守るためには、なにかを犠牲にしなくてはならないのだ。
たとえそれが、この世に二つとない尊いものであったとしても。
これがこの世界の残酷な理だ。
――――でも、もし、犠牲のない幸せがあったのなら。
必死に祈るような気持ちで手を伸ばした先には、希望の息吹が確かに感じられた。




