39.優しい嘘
「――――お、テオ!」
覚えのある声に呼び戻されるように、テオドールはゆっくりと意識を掴んだ。
重い瞼を持ち上げると、こちらを心配そうに覗き込む青年の顔があった。
彼は紺藍色の瞳を不安そうに揺らしている。
「ぁい、ざっく、さま?」
その名を口にしようとするが、ひどい掠れ声しか発することができない。
どことなく既視感のある状況に、慌てて記憶の糸を辿ろうとする。
しかし、なぜか頭の動きは異様に鈍く、ズキズキと痛んだ。
思わず顔を顰めながら頭に手をやると、自身の頭に細い布地が幾重にも巻かれていることに気づいた。
さらに周りに視線を巡らせると、そこは見知らぬ部屋のベッドの上であることが分かる。
自身の置かれた状況が分からず混乱するテオドールに、アイザックは優しく微笑みかけ、サイドテーブルに置かれていた水の入ったグラスをそっと差し出す。
「ここは治療院の一室です。……リア様が守ってくださらなければ、危ないところだったみたいですよ」
「リア様が……」
手渡されたグラスをそのまま口に運び、冷たい水を体内に流し込む。
するとそれまで滞っていた思考もスーッと冷えていくのを感じた。
(そうだ、俺、突然リア様に抱きしめられて、そのまま大きな爆風に――――)
そこまで思い出したところで、テオドールの心臓が嫌な音を立てる。
「ッ、ルーカスは!?」
前のめりになって尋ねると、アイザックが少し困ったような顔で笑う。
「テオ以外は全員無事ですから、ご安心ください。ルカ様たちは魔族ですからね。ひどい怪我はされていたものの、すでに回復されていますよ」
その言葉と青年の優しい微笑みに、テオドールは安堵の溜息をこぼす。
だが、その表情も徐々に険しいものに変わってしまう。
脳裏に浮かぶのは、黒い炎の奥を腹立たしそうに睨みつけていたルーカスの姿だ。
そっと目を伏せて、静かな声で彼に忠誠を誓う専属護衛に問いかける。
「あの時、ルーカスは黒魔法を使っていたのですが……」
――――それを受けた魔王はどうなりましたか?
その言葉はきちんと声にすることができなかった。
あそこまで直に黒魔法を浴びていたのだ。
いくら魔王といえど、生きている可能性は限りなく低い。
でも、テオドールとしては未だに現実味を帯びない光景のように思えた。
あのルーカスが誰かを殺せるはずがない。
そう信じたい自分もいる。
しかし、そんな少年の期待を裏切るように、察しのいいアイザックが残酷な真実を口にする。
「フリードリヒ様からは、魔王――――ギルバートの魔力は完全に消滅したと伺っております」
冷静な声音で伝えられた内容に、思わず目を見開いた。
「そのことを、ルーカスは」
テオドールの問いかけに対して、アイザックはわずかに視線を落とす。
「まだお伝えできていませんが、おそらく分かっておられると思います。……ずっと、塞ぎ込んでおられるので」
そう言う彼の表情は不安げで、紺藍色の瞳は心配そうに揺れている。
そのなかには主のためになにもできない自身の非力さを責めているような色も含まれていた。
きっと、テオドールが信じていたように、ルーカス自身も思っていたはずだ。
シャルルのほかに黒魔法の犠牲者は出ない。
いや、出すわけにはいかないと。
ルーカスがこれまで魔王にされてきたことを考えると当然の報いといえる。
だが、彼は今回のことで復讐を果たしたと楽観できるような男ではない。
魔王の命を奪ってしまった己の力を恐れ、激情を制御できなかったことをひどく後悔しているはずだ。
そして、そういう時の彼は他人の言葉に耳を貸さない。
それが慰めのものであろうと拒絶し、自分の殻に閉じこもってしまう。
アイザックもそれが分かっているから、なにも言えなくなっているのだろう。
でも、誰かが介入しないと、彼の後ろ向きな思考は止まってくれない。
(下手したらあからさまに距離を置かれそうだし、アイザック様からするとそれがこわいんだろうな……)
親しいからこそ、強く踏み込めない境界線なのかもしれない。
その点、テオドールにはあまり関係のない問題だった。
これまで多くの地雷を踏みぬいてきたが、ここまで関係が続いている。
今更その地雷の数が一つ増えようと、大差ないはずだ。
(だいぶ大きな地雷だけど、なんとかするしかない)
ゆっくりと深呼吸をして、アイザックの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ルーカスは今、どこにいますか?」
もしテオドールにしかできない方法で彼を救うことができるなら、喜んでその役目を全うしよう。
その結果、彼に嫌われてしまっても構わない。
――――いずれにしろ、もうじき別れの時が来るのだから。
***
治療院の屋根裏部屋へ行くと、そこには薄暗い場所に佇む黒髪の青年の後ろ姿があった。
彼は四角い窓から入ってくる日光を避けるような位置から、静かに外の様子を見ているようだった。
その背中は他人を寄せつけないための張り詰めた空気を纏っている。
「……アイク、放っておいてって言ったよね?」
きつく突き放すような口調。全力で拒絶する姿勢。
そこには彼の抱えた自責の念と、親友を守りたいという思いがこめられているようだった。
愛情を示すのが下手くそな彼は、愛情を受け取るのも苦手らしい。
(まあ、今に始まったことじゃないけど)
呆れを大いに含んだ溜息をつき、ゆったりとした足取りで彼のもとまで歩み寄り、その隣に並び立つ。
「ルーカス」
いつもと変わらぬ調子で呼びかけると、ルーカスは驚いたようにこちらを向く。
目の下に濃い隈をつくり、ひどくやつれたように見える顔は初めて見るものだった。
これはアイザックが心配してやきもきするはずだ。
「テオドール、目が覚めたんだ。良かった……」
それは安堵の気持ちがとても伝わってくる声音だった。
どれくらいの間意識を失っていたか分からないが、随分と心労をかけてしまったようだ。
自分はもう大丈夫だとアピールするように微笑みかけると、ルーカスはそっと目を伏せた。
弱々しく、申し訳なさそうな顔をした彼が静かに口を開く。
「ごめん」
「…………」
それがなんに対する謝罪の言葉かはすぐに分かった。
でも、テオドールはその言葉を受け取るつもりはなかった。
ルーカスから何度も忠告を受けた上で彼の旅に同行することを決めたのは自分自身だ。
だから、彼が罪悪感を感じる必要は全くない。
とはいえ、咄嗟にそれを拒絶することもできなかった。
それは彼をさらなる自己嫌悪に陥らせてしまいかねないから。
何も言わない少年を見て、ルーカスが自嘲的な笑みを浮かべる。
「あの赤い眼を見ると、僕はどうしても感情を抑え込むことができなくなるみたいだ。……どんなに人間になろうとしても、魔族の本能からは抗えないってことなのかな」
深い悔恨と悲愴を帯びた言葉に、テオドールはわずかに目を瞠る。
(ルーカスはずっと人間になりたかったのか……?)
アーデルハイドという高貴な名を捨て、ルーカスという希望の名を掴んだ彼。
その裏には黒髪黒眼という容姿や魔力の有無に囚われない人間になりたいという願望があったのかもしれない。
だが、人間にだって偏見や差別は当たり前のように存在している。
彼のなかでフェリクスやアイザックの存在が大きすぎるだけで、人間にも悪人はいるのだ。
けれど、ここで大切なことはどんな種族がどうこうという話ではない。
「――――俺の知る限り、ルーカスは世界で一番優しい男ですよ」
それは紛れもない本心からの言葉だった。
しかし、ルーカスはわずかに黒い瞳を揺らし、小さく首を振って否定する。
「違うよ。僕は、僕を守ろうとしてくれていた兄と、実の父親を殺したんだから」
テオドールの視線から逃れるように、再び窓の向こう側を見つめるルーカス。
シャルルも魔王も、ルーカスに危害を与えようとしてその返り討ちに遭っただけだ。
テオドールからすると、彼は罪悪感を背負いすぎているように感じられた。
(なんて言えば、また前を向いてくれるんだろう……)
哀愁が漂う端正な横顔を見つめながら思いを巡らせていた時――――
「――――勝手に殺すな」
突然背後から聞こえた低い声に驚いて、ビクッと身体が跳ねる。
それと同時に隣から聞こえた言葉に目を見開いた。
「シャルル……?」
テオドールがパッと振り返ると、そこには無地の黒衣装を身に纏った黒髪赤眼の美丈夫が立っていた。
髪や瞳の色も相まってどことなく魔王と重なる容姿をしているが、彼ほどの毒気は感じられない。
シャルルは硬直しているルーカスの後ろ姿を見つめたまま、大袈裟な溜息をつく。
「まったく、舐められたものだな。オレがお前ごときにやられるわけがないだろう?」
腕を組んで呆れたような顔をするシャルルに、テオドールは驚きを隠せなかった。
彼の顔つきがフリードリヒのものとそっくりだったからだ。
あの余裕のある微笑みは称えていないものの、その言葉の端々から弟のことを思いやる気持ちが溢れている。
だが、ルーカスはそんな兄の変化に気づいている様子はない。
彼はこの状況を整理することで頭がいっぱいになっているようだった。
「でも、魔王は」
「魔王を殺したのはイザヤだ。お前の黒魔法から逃れようとしていたところに、あいつがトドメを刺した」
シャルルの口から語られた内容をすぐに信じることはできなかった。
そもそもアイザックからそんな話は聞いていない。
(それに、黒魔法って逃げられるようなものだったか?)
こめかみに手を当て、数年前に読んだ本に小さく載っていた記述を思い出そうとする。
黒魔法は魔王一族の始祖だけが使った魔法であったため、その詳細は明らかにされていない。
だが、その犠牲者は凄惨な数に及び、黒魔法を直に受けた者の死への道筋が記されていたのだ。
(確か、黒魔法を受けた直後は黒炎に焼かれた痛みでひどく苦しみ、そこから徐々に身体のなかを蝕まれていって、全身が邪気に満たされた時死に至るって書かれていたような……)
テオドールが受けた流れ弾のようなものならまだしも、至近距離で意図的に放たれたものからはどれだけ足掻いても逃げられないはずだ。
つまり、あの威力の黒魔法を直に受けている時点で魔王は死ぬことが確定していたのだ。
黒魔法を浄化できるのは高度な聖魔法だけで、それは魔族の体質には合わないものだから。
そうなると、シャルルの言葉は十中八九嘘ということになる。
そして彼がこの場面で嘘をつく理由など、一つしか思い浮かばない。
じっと見つめるテオドールに気づいた彼は、なにかを懇願するような視線を返してくる。
切実さが滲む表情に黙って頷くと、安心したように和らげられた赤い瞳は再び青年の方へ向けられる。
「――――だから、お前は誰も殺していないんだ」
弾かれたように後ろを振り返るルーカス。
その顔はいまにも泣きだしそうな雰囲気を漂わせている。
不安に揺れる黒い瞳が赤い瞳を捉えるが、彼の黒魔法が暴走する兆しは見られなかった。
「兄上……」
か細く震える声音には、いまだかすかな恐怖が垣間見える。
シャルルはそんな弟にそっと近づき、おそるおそるといったふうに彼の頭に手を伸ばす。
「お前のことを守ってやれなくて、すまなかった」
繊細なものに触れるような手つきで、弟の頭を優しく撫でるシャルル。
柔らかく細められた赤い瞳からは涙が溢れ、頬を伝い、静かに落ちていく。
そんな兄を見て、ルーカスが小さな微笑みを浮かべる。
涙がこぼれそうになりながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。
シャルルがついた、優しい嘘。
その事実を知っているのは彼とテオドールだけでいい。
彼は、ルーカスには重すぎる荷物をちょっと肩代わりしただけだ。
そしてテオドールはそれを見て見ぬふりをしただけに過ぎない。
二人から視線を外し、窓の外へ目を向ける。
そこでは昇りたてらしい朝日が眩く世界を照らしていた。
(この旅も、あと少しで終わりか……)
ふと湧いて出た寂しさにも目を瞑り、少年はルーカスの仮面を真似するように、物わかりのいい子どものような微笑みを湛えた。




