38.黒髪黒眼で生まれてこなかったら
ようやく会うことができた母親の第一声は、とても他人行儀なものだった。
”アーデルハイド”ではなく”ルーカス”という名を口にしていることから察するに、リアからある程度の事情は聞いているのだろう。
その上であの言葉が出てくるということは、彼女もルーカスの意思を尊重してくれる側の魔族に違いない。
だが、当のルーカスにとっては予想外の展開だったようで黒い瞳に一瞬動揺が走るが、それは取り繕うような笑みによって誤魔化されてしまう。
普段のルーカスであればあっさりと引いてしまいそうな場面だが、今回ばかりは少し違っていた。
「初めましてじゃ……」
ささやかな返しには寂寥の思いがこめられており、彼の心情を映しだしている。
その言葉は最後まで紡がれることなく、それを受け継ぐように沈黙がやってきた。
ルーカスの視線も自然と下がっていき、自信なさげに床に近い一点を見つめる。
彼にしては手を伸ばした方だが、その手が届く前に諦めてしまったようだ。
そんなルーカスを見て、マディが小さく首を振り、吸い寄せられるように彼の目の前まで歩み寄る。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃ、貴方を悲しませるつもりじゃなかったの」
とても繊細な宝物に触れるように、ルーカスの身体を優しく抱きしめるマディ。
その瞳には涙が溜まり、ぎゅっと目を瞑った拍子に白い頬を伝い落ちていく。
「本当に、ごめんなさい」
小さく震える声には、懺悔の気持ちが表れている。
それはルーカスの心にも強く響いたようだった。
「母上……」
それは驚きと喜びが混ざり合ったような声音だった。
その一方で、マディはわずかに身体を離して、至近距離から彼の瞳を見つめる。
「私は貴方を産んだけど、母親らしいことはなにもしてあげられなかったわ。だから、そんな呼び方しなくていいのよ」
そっと諭す言葉に、ルーカスが否定するように首を振る。
「母上は、魔王との縁を完全に断ちたかっただけでしょ……? そのためには僕が邪魔だったから」
彼女は魔王に傷つけられた被害者であり、彼から逃げようとしただけ。
もし幼い第七王子を連れて行けば、どれだけの年月がかかろうとも彼女の捜索は続いていたかもしれない。
黒髪黒眼に生まれた彼は、生まれたその瞬間から次代の魔王になることが決定していた。
黒髪や黒眼を尊ぶ文化をもつ魔族たちが、そんな第七王子を簡単に諦めてくれたとは思えなかった。
――――だから、母上はなにも悪くないよ。
そんなルーカスの心の声が聞こえてきそうな言葉。
魔界の歪さも魔王の身勝手さも全て知っているからこそ、彼は彼女に優しい微笑みを向ける。
しかし、マディは綺麗な顔を悲しそうに歪めた。
「それは違うわ! 私と一緒に路頭に迷う生活をするより、魔王城にいる方が貴方は幸せになれると思ったのよ」
それは、我が子の将来を案じる母の心からの叫びだった。
黒髪黒眼に生まれたからには、アーデルハイドは魔王の後継者として真っ当な人生を歩めるはずだった。
実際、彼は魔界を追放されるまではそういう扱いを受けていた。
その一方で、マディはここに至るまでどれほどの苦労をしてきたのだろう。
魔族でありながら、魔王の手が及ばない居場所に辿り着くには多くの困難があったに違いない。
「あの男のもとに残していくのはとても心配だったけど、シャルル殿下が貴方を守ると約束してくださったから……」
「シャルルが……?」
マディの口から予期せぬ名前が出てきたことで、ルーカスが目を瞠る。
シャルルというと、ルーカスの黒魔法を覚醒させた第一王子の名前だ。
彼の顔には驚愕と困惑が浮かんでいた。
そして、その様子を見ていたテオドールも全く同じ反応をしていた。
(てっきり最初から魔王側についていると思ってたけど、違うのか……?)
考え込みながら無意識に口元に手を当てようとして、身体の違和感に気づく。
「え!?」
慌てて全身に力をこめて椅子から立ち上がろうとするが、ぴくりとも動かない。
幸い首から上は動くようだが、それ以外は重しを乗せられているように微塵も動かすことができなかった。
「リア様、これって」
状況を確認するように隣を見ると、リアが悔しそうに映像の向こう側を睨みつけていた。
「やられましたわ……!」
「!? 一体なにが起こって――――」
その続きは声にすることができなかった。
突如、大気が異様な圧力で全身にのしかかってくる。
呼吸が浅くなるのを感じながら、どうにか首を動かし、映像の方へ視線を戻す。
そこには、抱き合う親子と、そんな彼らを不愉快そうに見つめる男の姿があった。
後ろで緩く結われている、艶やかな漆黒の長髪。
イザヤの完璧な美貌を彷彿とさせる、きわめて整った顔立ち。
鮮血に濡れたような、真っ赤な瞳。
豪奢な黒衣裳を身に纏った姿は威厳に満ちている。
(魔王だ……)
リアに問いかけるまでもなく、そう確信することができた。
直接目の当たりにしていなくても、初めてフェリクスと対面した時のように圧倒されてしまう。
だが、受ける印象はまるで違う。
勇者には尊敬や憧れを抱くことができたのに対して、魔王からは恐怖を感じることしかできない。
二人を見下ろす赤い瞳の無情さに、テオドールの本能が警鐘を鳴らしていた。
マディを挟んで向かい側に現れた彼を見て、ルーカスの纏う空気が一変する。
黒い瞳を恐怖に揺らし、包まれていた温もりをとても強い力で突き放した。
赤い瞳の魔王と目が合ったことで、黒魔法が発動しそうになっているのだろう。
彼の黒魔法は意識的に制御することができない。
そのため、母親を守るためにとった行動だった。
しかし、その反動で数歩後方へよろけたマディは、魔王に軽くぶつかった。
咄嗟に振り返る彼女は、その姿に目を見開き、全身が緊張の糸に縛られる。
「残念だったね。シャルルはその後すぐに僕の支配魔法にかかって、アーデルハイドを守るどころか僕の駒として動いてもらっているよ」
そう言って口をつぐんだ魔王は、不気味なほど美しい微笑みを湛える。
そして優雅な仕草で抵抗できないマディの頤に右手を添えた。
「久しぶりだね、僕の愛しい妻」
魔王は彼女の頬に口づけを落とそうとするが、その寸前でぴたりと動きを止める。
「どうしてそんなに怯えているの? 昔はあんなに僕を愛していると言ってくれていたじゃないか」
白々しくも、恐怖で震える彼女を思いやる素振りを見せる魔王。
その声音が本当に心配しているような調子であるのが、余計に気味が悪かった。
やがてマディが彼をきつく睨みつける。
「……なにが目的なの?」
端的な問いに、魔王が楽しそうに笑う。
「マディが僕にひどいことをしたから、その仕返しをしているだけだよ」
なんてことないように告げられた言葉は、救いようのないものだった。
これにはマディも恐怖を投げ捨て、怒りの感情をぶつける。
「それなら私を痛めつけるなり殺すなりすればいいでしょう!? 子どもを巻き込まないで!!」
彼女の叫びを浴びた魔王は理解できないとでも言いたげな顔をする。
麗しい顔を不満そうに歪め、鋭い視線を彼女の後方へ送る。
そこには、二人には背を向けて、必死に黒魔法の暴走を抑えようとしているルーカスの姿があった。
彼はひどい震えを鎮めるように、両手で自身の身体を抱き込んでいる。
よくよく見ると小声でなにか言っているようだが、その声を聞きとることはできなかった。
魔王はそんな彼に近づき、その二の腕を乱暴に掴む。
彼の顔には狂気的な笑みが浮かんでいた。
「そもそも、お前が生まれたせいで全てが上手くいかなくなったんだ。お前が黒髪黒眼で生まれてこなかったら、僕とマディは――――」
その言葉のどれが引き金となったのかは分からない。
魔王の言動すべてが彼の激情を燃えあがらせたのかもしれなかった。
「――――死ね」
涙に濡れた黒い瞳が魔王を射抜くと、彼の身体は一瞬にして黒い炎に飲み込まれる。
魔王の絶叫が響き渡ると同時に、テオドールたちは重い圧力から解放された。
だが、楽になったのも束の間。
真っ黒な炎は見る見るうちに勢いを増して、燃え広がっていく。
ルーカスは虚ろな瞳でその様子をぼんやりと眺めていた。
そこに苦しみや悲しみの感情はない。
でも、その瞳から流れ落ちる一筋の涙から目を離すことができなかった。
彼がおもむろにその黒い炎へ手のひらを向ける。
メラメラと燃える炎に仄暗く照らされた顔は、最早テオドールの知っている青年のものではなかった。
「ルーカス……?」
思わず映像越しに呼びかけてみるが、こちらの声があちらに届く気配はない。
ルーカスは依然として、正気を失ったような表情で手のひらの向こう側にある炎のなかを忌々しげに見つめている。
さらに火力を増した黒い炎は留まるところを知らないようだった。
普通の炎とは異なり、それは収縮を繰り返しながら、次第に成長していく。
だが、その動きも徐々に不規則なものに変わっていった。
そして、部屋の天井まで届くほど大きくなっていた黒炎が急に元の大きさまで戻った瞬間――――
「テオドール!!!」
それがリアの声であると認識するより早く、テオドールは彼女の腕のなかにいた。
「なっ……!?」
テオドールの驚きの声は大きな爆発音にかき消されてしまう。
頭が状況を理解する前に、強烈な衝撃波に襲われた。
リアに抱きしめられた身体が彼女ごと大きく吹き飛ばされる感覚があった。
目の前にはリアの黒いワンピースがあるだけで、状況がなにも分からない。
ドンッ
背中に強い痛みがあったのを最後に、テオドールの意識はぷつりと途絶えた。




