35.決断
「二人には迷惑をかけてしまって、本当にごめんなさい。それと、ルーカスくんにもひどいお願いをしようとして、どうやって謝罪をすればいいか……」
正気に戻ったイヴが、罪悪感のこもった瞳でルーカスを見つめる。
しかし、当のルーカスはそんな彼女を見ようともしない。
その視線は虚空の一点に固定されていて、なにか悩んでいるようだった。
「……ごめんなさい」
完全に無視しているような態度に、イヴは再び謝罪の言葉を口にする。
それは決して許しを請うような響きのものではない。
己の罪深さを自覚しているからこそ、とにかく謝ることしかできない。
そんな思いが滲み出ている。
そんな彼女の反応を見て、テオドールはつい苦笑してしまう。
ルーカスは気に食わないからといって、謝罪を受け取らないような性格ではない。
彼にそこまでの意地はない、ともいえるかもしれない。
きっと彼のなかで気になるなにかがあって、思考の海に沈んでいるだけなのだろう。
とはいえ、ここまでの行動は彼らしくないが。
マイペースな相棒をフォローするように、テオドールは愛想の良い微笑みを浮かべる。
「いえ、お気になさらないでください。それより、俺の分のお勘定をお願いしたいんですが」
「そんな、いいわよ。テオドールくんの分もお代はいらないわ」
「!? え、いいんですか!?」
ステーキ御膳の銅貨15枚。
つまり、安い定食のおおよそ3食分にあたる金額。
そしてなにより、国民の英雄フェリクスのお金。
これを払わなくていいというのは、とてもありがたい申し出だった。
きらきらと目を輝かせるテオドールに、イヴが少し困ったように笑う。
「ええ。むしろ、それくらいのことしかできなくて申し訳ないわ。良かったら、またいつでも来てちょうだい。……今度はマディと一緒に」
「え……?」
そっと付け足された言葉に驚いて、テオドールは思わず目を見開く。
(なんで、ここでマディ様の名前が出てくるんだ?)
同じ魔族同士、ルーカスとマディに交流があると思われたのだろうか。
おそらくここセイント=ティアでの暮らしを許されているのは、マディとリアだけだ。
そのため、わざわざ外部から魔族がやってくるのは、彼女たちに用事があるからと考えるのは自然な気がした。
そう納得しかけた時、イヴの表情が真剣みを帯びたものに変わる。
彼女の瞳が、ルーカスを真っ直ぐに見つめる。
そこにはほんの少しの躊躇いが見えた。
「……貴方、アーデルハイドくんなんでしょう?」
遠慮がちな声音だが、ルーカスに向いた視線は動かない。
彼女は、ルーカスがアーデルハイドであると確信しているようだった。
これにはさすがのルーカスも思考を中断したようで、びっくりした様子でイヴの顔を見つめ返す。
アーデルハイドとは、彼が捨てた、過去の名前だ。
幼い頃から彼を可愛がっているフリードリヒやイザヤも、今はその名を口にするのを避けているようだった。
”ルーカス・カディオとして生きたい”という弟の意思を尊重しているのだ。
だからこそ彼は、久々にその名を出されてひどく動揺していた。
「どうして、その名前を……」
そう言うルーカスの声は、か細く震えている。
真っ黒な瞳の揺らぎは、彼の不安や恐怖を映していた。
そんな彼の警戒を和らげるように、優しい微笑みを浮かべるイヴ。
そこに悪意の色は全く感じられない。
「マディから、たまに息子さんの話を聞いていたのよ。黒髪黒眼って言っていたから、もしかしてと思って」
「……なんで」
静かに視線を落とし、ぽつりと零すルーカス。
その声音は母親を責めるようなものではなく、その意図を掴めず困惑しているものだ。
マディは生まれたばかりの彼を捨てた。
それにも関わらず、今でもその息子の話をしている。
それは第三者の立場であるテオドールからしても、理解が追いつかない話だった。
すると、イヴが悲しそうな表情で小さく首を振る。
「マディはね、貴方を魔界に置いてきたことをずっと後悔しているのよ」
彼女の口から告げられた言葉に、ルーカスが弾かれたように顔を上げる。
虚をつかれたような顔には驚愕と戸惑いが表れている。
「一度だけでもいいから、彼女に会う気はないかしら? もし会う気があるなら、彼女のところまで案内するわ」
「…………」
懇願するイヴに、ルーカスはわずかに俯き、考え込むような姿を見せる。
(あそこまで頑なだったルーカスが、マディ様に会うかどうか迷ってる……?)
テオドールにとって、喜ばしい変化のはずだった。
だが、これまでの一連の流れがそれを許さない。
最初に声をかけてきた時のイヴと今のイヴには一貫性がある。
『マディにはいつもお世話になっているもの。だから感謝の気持ちとして、彼女と同じ黒い瞳の魔族さんになにかしてあげたくて』
あの時言っていた感謝の気持ちとは、ルーカスをマディのもとへ連れていくことだったのだろう。
すなわち、ルーカスへの親切な申し出であると同時に、マディへの恩返しでもあったのだ。
だが、どうしても気になってしまうのは、彼女の矛盾した言動だ。
黒髪黒眼の時点でルーカスの正体に気づいていたのだとしたら、彼に自分を殺してほしいなんてお願いをするだろうか。
(イヴさんはいい人なのかもしれないけど、信用することはできないな)
もしかしたら、今見せている顔は嘘で、先ほどの顔が本性かもしれない。
そう考えれば考えるほど疑心暗鬼になってしまう。
テオドールがついっと黒いローブの袖を引っ張ると、黒い瞳がこちらへ向けられる。
その表情にはいまだ迷いがあるが、警戒している様子はまるでない。
「今度こそ、なにかしらの罠である可能性が高いです。今すぐ断って、宿に戻りましょう」
イヴに聞こえないように小声で囁くと、ルーカスは一瞬驚いたような顔をする。
「彼女のこと、怪しいって思ってるの?」
神妙そうな顔で頷くテオドールに、ルーカスが緊張感のない笑みを浮かべる。
「多分大丈夫だよ。なんとなくだけど、そんな気がする。……から揚げも美味しかったし」
「……その勘って、胃袋を掴まれたせいで判定が甘くなってません?」
「美味しいものを恵んでくれる人に悪人はいないよ」
朗らかに笑うルーカスに、テオドールは最早なにも言えなくなる。
なにか言ったところで無駄だろうと諦めたといった方が正しいかもしれない。
防衛意識が足りない年上の青年に呆れて、大袈裟な溜息をついた時――――
「テオドール」
再び隣へ視線をやると、真剣みを帯びた黒い瞳がこちらを真っ直ぐに見つめている。
「一度会ってみたいんだ、僕の母親に」
先ほどまでとは打って変わり、一切の弛みがない、引き締まった表情。
静かな声音には彼の覚悟が宿っているようだった。
「解呪を頼むかどうかは、それから決めたい。……いいかな?」
小さな希望の光が瞬く黒い瞳に見つめられ、わずかに目を瞠る。
それは、ルーカスが踏み出した第一歩。
その時になってようやく、彼のらしくない行動に合点がいった。
(ずっと、彼の母親のことを考えていたのか)
『……私は、せめて心配だけでもさせてほしかったわ。だって、死んでしまったら、なにもしてあげられないじゃない』
『私がお腹を痛めて産んだ子だもの。風邪だろうが病気だろうが、心配するのは当たり前でしょう。それに、迷惑だなんて絶対に思わないわ。私はウィリアムの母親なんだもの』
それらのイヴの言葉が、ルーカスの心を動かしたのだろう。
そう考えると、この出会いは必然だったのかもしれない。
依然として、イヴを信用することはできない。
けれど、この流れに身を任せてみるのもいいかもしれないと思えた。
なにより、今のルーカスの言葉をなかったことにはしたくなかった。
ここでの提案を断って、改めてマディの居場所を探すのも骨が折れそうだ。
罠だろうがなんだろうが、乗ってみようじゃないか。
(いざとなったら、最上級魔法で全部吹っ飛ばせばいいし!)
かなり大胆な結論に至ったテオドールは、大きく頷く。
「分かりました」
良い返事を受け取ったルーカスの顔がにわかに明るくなる。
その反応を見て、テオドールの心もぽわっと温かくなるのを感じた。




