32.良識の勘
張り詰めた空気を纏って、静かな手つきで封魔の書を開くルーカス。
かすかな微笑みをたたえているが、そこに温かさは感じられない。
嘘をつくことは決して許さない。
そう告げるような態度に、見守っているテオドールまで緊張してしまう。
やがて、ルーカスが冷たい表情で言葉を発する。
「黒魔法の瘴気が聖魔法で浄化できるって聞いたんだけど、僕の呪いも聖魔法でどうにかなるんじゃないの?」
いつもと変わらない柔らかい口調。
だが、その声は低く、虚言は求めていないという強い思いがこめられている。
ルーカス曰く、封魔の書には意思があるという。
そして、ごく稀に一部の情報を故意的に隠すことがあるようだ。
それがルーカスを守るためなのかどうかは分からないらしい。
けれど、今回ばかりは貴重な情報を隠蔽されては困る。
だからこそ、彼はここまで圧力をかけているのだろう。
一時の静寂。
その緊張を解いたのは、ルーカスの小さな溜息だった。
先程までの怜悧な雰囲気は消え失せ、普段の穏やかな空気に戻る。
しかし、彼の顔には明らかなやるせなさが滲んでいた。
彼はおもむろに上を向いて、ぽつりと呟く。
「……ふざけてる」
怒気を含んだような声音。
そこにほのかな希望の色はない。
その様子に結果を察してがっかりしながらも、確認するように問いかける。
「封魔の書は、なんと?」
「黒魔法の封印をできるほど強力な聖魔法を受けたら、僕の身体がもたないって」
「……なるほど」
ぼそぼそと伝えられた内容に、僅かに目を見開く。
(聖魔法が魔族に効くって、本当だったんだ……)
――聖魔法を人間にかけると傷が癒えるが、魔族にかけるとひどい火傷を負う。
テオドールが以前読んだ書物にもその記載はあった。
だが、あまりにもそれに関する情報が少なかったため、すっかり失念していた。
己の迂闊さに悔しい気持ちになりつつ、ルーカスに視線を向ける。
彼は憂鬱そうな表情で、ベッドの端に静かに腰を下ろす。
ボーっと床を見つめる様子に、心が軋んだ。
そんな彼をこちらに引き戻そうと、おずおずと声をかける。
「ルーカス……? これから、どうするんですか?」
マディの解呪に頼るしかないことが確実となった今。
彼は、なにを考えているのだろう。
「んー。……ちょっと、悩んでみる」
心ここにあらずといった顔のルーカス。
だが、テオドールにはこれ以上どうすることもできない。
彼が大きな決断を下すのを待つしかないのだ。
それが、どうしようもないほどもどかしかった。
***
翌日の夕方。
宿屋の一室には依然として重苦しい空気が留まっていた。
どんよりとした表情で、ベッドの上で胡坐をかき、必要以上に動こうとしないルーカス。
彼はかれこれ二時間ほど虚空を見つめながら、時折溜息をこぼしていた。
そろそろ夕飯のための買い出しに行かなければいけないが、そんな彼が気がかりで、テオドールはずっと二の足を踏んでいる。
なにか声をかけるべきなのだろうか。
だが、これはルーカスが決めないといけないことだ。
そのため、下手に口出しをするわけにはいかない。
悶々とするテオドールの耳が、再び彼の溜息を拾う。
こっそりと様子を伺うと、彼は暗い顔で視線を落としている。
その翳った黒い瞳は、出会ったばかりの頃の彼を彷彿とさせた。
(なんか、よくないことを考えてそう……)
そこそこ精度の高いテオドールの勘がそう告げていた。
暫くの間躊躇していたが、やがて勢いよく立ち上がる。
「美味しいものを食べにいきましょう!」
わざとらしいほど明るい声を出すと、ルーカスは無気力そうにこちらを見つめる。
いつもは食い意地の張っている彼だが、今日ばかりは乗り気にならないようだ。
だが、テオドールはそれに気づかないふりをして彼の手をとる。
「ほら、早く行きましょう!」
ぐいぐいと引っ張ると、面倒くさそうにしながらも重い腰をあげるルーカス。
抵抗する方が疲れると思ったのかもしれない。
ちょっと強引な気もするが、きっと今の彼には必要なことだ。
そう自分に言い聞かせて、テオドールはそのまま彼を宿屋の部屋から連れ出した。
***
淡い橙色に染まった空の下で、料理店がずらっと並んだ通りを少し軽い足取りで歩く。
至る所から食欲をそそる美味しそうな香りが漂ってきて、自然と腹の虫が鳴いた。
きょろきょろと辺りを見回しては目を輝かせるテオドール。
ルーカスは、そんな少年の後ろをゆっくりとついてくる。
相変わらずその表情は晴れないが、先程よりは幾分かマシに見えた。
「予算は?」
ルーカスにそれとなく尋ねられ、振り返ってからニヤリと笑う。
「こうやって外で食べる時だけは、お金に糸目はつけないのが鉄則なんですよ」
「? 今まではそんなこと一度も言ってなかったけど」
「それはお金に余裕がなかったからですよ!」
いくら稼いでも路銀として消えるばかりで、なかなか贅沢できなかったのだ。
八つ当たりするように返すと、納得したように頷くルーカス。
その顔にはほのかな微笑みが浮かんでいる。
やはり外に連れ出したのは正解だったらしい。
ホッと胸を撫でおろした後、コホンと咳ばらいを一つ。
「そういうことなので、今夜はルーカスが今一番食べたいものを食べましょう!」
にこっと笑いかけると、ルーカスは僅かに目を瞠る。
それからテオドールの意図を察したように、少し悩むような素振りを見せる。
「……鶏のから揚げかな」
その答えに瞬きをして、思わず己の耳を疑う。
(トリノカラアゲって、あの鶏のから揚げだよな?)
「え、いや、どうせならもっと良いものを食べましょうよ。高級牛のステーキとか、多分すごく美味しいですよ?」
「ステーキって気分じゃない」
まるで高級なステーキを食べたことがあるような口ぶりだ。
怪訝な目を向けそうになるが、すぐに彼の育った環境を思い出す。
(そっか、元々は裕福な暮らしをしてたんだった)
ちなみにテオドールはこれまでの人生で一度しかステーキを食べたことがない。
それも何年も前の話だが、あの柔らかさと旨味はいまだに忘れられない。
だから、この機会にもう一度ステーキを食べてみたいと思ったのだが。
「す、ステーキにしません?」
おずおずと提案すると、不思議そうに首を傾げるルーカス。
「そんなにステーキが食べたいの?」
心底理解できないという顔を向けられ、困惑する。
逆にどうしてそこまで鶏のから揚げがいいのか。
どうせなら普段めったに食べられないものの方がいいだろうに。
僅かに眉根を寄せた時、背後から知らない女性の声がした。
「ねぇ、魔族さん」
あまり慣れない呼称だが、間違いなくルーカスのことだろう。
少し遅れて振り返ると、穏やかな微笑みをたたえた女性がいた。
グレージュの髪に榛色の瞳をした彼女は、四十ほどに見える。
その顔には薄く化粧が施されているようだが、目の下のひどい隈は隠しきれていない。
人のよさそうな笑みとは裏腹に、どこか疲れたような雰囲気を纏っていた。
薄緑色のチュニックの上から白いタブリエをしているところを見ると、ここら辺のお店の給仕係なのかもしれない。
「私はすぐそこで食事処をやっているイヴっていうの。もしよかったら、うちで一食分サービスさせてほしいわ」
そう言って人畜無害そうな笑みを浮かべるイヴ。
だが、彼女の申し出は素直に信用できるものではなかった。
(どう見ても怪しすぎる……!)
魔族に対する目が厳しいこのセイント=ティアの地で。
ルーカスにサービスを申し出るなんて、なにかしらの下心があるに決まっている。
「どうしてですか?」
同じく疑問に思ったルーカスが訝しげに問いかける。
するとイヴは朗らかに笑った。
「マディ様にはいつもお世話になっているもの。だから感謝の気持ちとして、彼女と同じ黒い瞳の魔族さんになにかしてあげたくて」
その言葉を聞いたルーカスの瞳が大きく見開かれる。
そこには驚きと戸惑いがあった。
母親の名前が出たことで、感情が揺さぶられたのだろう。
しかも、イヴはマディに対して好意的な様子だ。
それが彼のなかの警戒を徐々に解いているようだった。
「ちなみに、うちの鶏のから揚げはセイント=ティア一美味しいと評判なのよ」
イヴの最後の一押しに、ルーカスの表情がにわかに明るくなる。
「それでは、お言葉に甘えて」
「ちょっ、ルーカス!」
相手の口車にまんまと乗せられそうになっている彼を慌てて止める。
なにも分かっていなさそうな顔に危機感を抱き、彼にだけ聞こえるように小声で諭す。
「この世に、タダよりもこわいものはないんですよ……!」
「? 毒なら耐性があるよ?」
「そうなんですか!? って、いや、そういう話じゃなくてですね」
さらっとすごいことを言われて驚きつつ、どうやって説明しようかと頭を働かせる。
テオドールにもイヴが怪しいといえる明確な根拠はない。
でも、なんとなく、良識の勘が警鐘を鳴らしているのだ。
そんな少年を見たイヴが苦笑をもらす。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。サービスするのは魔族さんだけだもの。坊やの分のお代はきっちりともらうわ」
少し困ったように笑うイヴ。
そこに邪な気持ちは含まれていないようだ。
(この人、もしかして本当にマディ様に恩を感じて……?)
もしそうなら、テオドールのせいでその好意を踏みにじることになってしまう。
それはとても申し訳ない。
これはマディとルーカスの問題なのに。
そこにテオドールが介入するのは気が引けた。
そっとルーカスを見上げると、ちょっと不服そうな黒い瞳と目が合う。
「さっき、僕が今一番食べたいものにしていいって言ってたよね?」
「……分かりました」
観念するように呟くテオドールに、満足そうな顔をするルーカス。
そんな二人を見て、イヴが嬉しそうに笑う。
「それじゃあ決まりね! うちの食事処に案内するわ」
そう言ってこちらに背中を向けて歩き始めるイヴ。
しかし、その後ろ姿はなにかを背負っているようにも見えた。




