29.初恋の彼女
それから暫くして、二人は彼女に人気のない裏通りまで連れていかれた。
立ち並ぶ建物の白い塗装もどこか色褪せていて、先ほどまでの賑わいが嘘のように閑散とした風景が広がっている。
一度もこちらを振り返ることなく、足早に先へ進んでいく彼女の背中からは何も感じられない。
こっそりと、隣を歩く青年の顔を伺う。
そこには、昔を懐かしむように彼女の後ろ姿を見つめるルーカスがいた。
その横顔にはほのかな喜びの色すら滲んでいるように見える。
「ルーカス、あの方は誰なんです?」
囁くような声音で尋ねると、ルーカスは小さく笑う。
「リアだよ。……僕が昔、好きだった人」
そう言う彼は、ちょっとだけ寂しそうだった。
淡い恋心とほろ苦い思いがないまぜになったような表情は、初めて見るものだ。
リアという名前を聞いて思い出すのは、アイザックの茶化したような声。
『リア様は、ルカ様の婚約者様で、初恋のお相手ですよ』
また彼女の背中へと視線を戻すが、そこにルーカスを気にする素振りは全くない。
恋人のような甘い空気どころか、友人のような親密さすら感じられないのだ。
(ルーカスからの一方通行だったとか……?)
どう見ても相思相愛とはいえない距離感に、おおよその見当をつける。
その時、先導するリアがおもむろに足を止めた。
くるりと後ろを振りむく顔には、相変わらずの無表情。
いや、無表情とは少し違うかもしれない。
こちらを見つめるつり目がちな瞳には、かすかな哀愁の色が浮かんでいる。
「リア……?」
少し驚きつつ、戸惑ったような表情のルーカス。
その様子を見る限り、なんの心当たりもないようだった。
そんな彼の態度が癪に障ったのだろうか。
にわかにリアが不機嫌を顕わにした顔になり、ルーカスをキッと睨みつける。
「なんの御用で、ここまでお越しになられましたの?」
ドライアイスのように冷え切った声。
そこに、先程のような愛らしさは欠片もない。
心底会いたくなかった。
そう言わんばかりの彼女に、ルーカスは苦笑をこぼす。
「ごめんね。……でも、マディ様に解いてほしい呪いがあって」
意外にも、リアはその言葉に目を大きく瞠った。
まるで、想定外のことを耳にしたように。
それまで湛えていた冷淡な雰囲気は鳴りをひそめ、ひどく動揺しているようだった。
どこか追い詰められたような表情になり、紫水晶の瞳を切なげに揺らす。
だが、不思議とそこに儚さは見受けられない。
それは、切なさの奥に強い意志のようなものが感じられるせいだろうか。
暫く何かと葛藤していたリアは、やがて静かにルーカスを見据えた。
「……まさか、黒魔法ですの?」
その言葉に、今度はテオドールが驚く番だった。
しかし、なぜかルーカスはちょっと嬉しそうに穏やかな微笑みを浮かべる。
「やっぱり、知ってたんだ」
なぜ、リアが黒魔法について知っているのか。
なぜ、ルーカスがそれを喜んでいるのか。
テオドールには、何も分からない。
でも、心の底から幸せを噛み締めるような彼の表情に目が釘付けになる。
(ルーカスって、こんな顔もするんだ……)
ふわりと湧いた感情は、嫉妬ではない。
嫉妬よりもほんのりと淡くて、温かくて、優しい。
無意識に頬が緩んでしまうテオドール。
その一方で、リアは表情を変えず、静かに言葉を紡ぐ。
「そういうことでしたら、マディ様の元へお連れすることはできませんわ」
リアが、ルーカスからそっと目を背ける。
何かしらの事情があるのだろう。
そう察することはできるが、納得はできない。
ようやくここまで辿り着いたのだ。
素直に引き下がるわけにはいかない。
「どうしてですか?」
思いの外低めの声が出て、我ながらびっくりする。
だが、リアは気にした様子もなく、淡々と答える。
「確かに、マディ様はセイント=ティアに身を寄せる代わりに、強力な呪いの封印を専門的に引き受けておられますわ。……彼女の寿命を代償にして、ですが」
瞳の光を消すように目を伏せるリア。
その表情からは、何の感情も読み取れない。
ただ、激情を必死に抑え込んでいるようにも見える。
「黒魔法の解呪なんてしてしまえば、きっと――」
ひゅっと隣から息を呑む音が聞こえる。
自己犠牲の気が強いわりに、利己的なことにはとことん弱いルーカス。
彼にとっては、とても耐えがたいものだったのだろう。
そっとルーカスの顔を伺う。
彼は、かつての微笑みを湛えていた。
全ての感情や思いを押し殺したい。
でも、相手に心配はかけたくない。
そんな臆病な心を覆い隠すための仮面。
それを向けられたリアの瞳がかすかに揺れる。
しかし、それ以上の言葉が続けられる様子はない。
「分かった、別の方法を探してみるよ。色々と親切にしてくれてありがとう」
そう言うルーカスの声色は、実に優しい。
でも本当は、別の方法なんて存在しない。
『黒の瞳をもつ者の呪いが解けるのは、同じく黒の瞳をもつ者のみでございます』
セイント=ティアまでの馬車のなかで、封魔の書が言っていた。
マディの解呪の力こそが最後に残された、唯一の希望。
そう分かっているのに、ルーカスは平然と嘘をつく。
――昔から好きな彼女を、今もなお大切に想うがゆえに。




