27.出立
颯爽とエントランスへ向かおうとする背中に、テオドールは慌てて声を掛ける。
「そういえば、封魔の書は手に入れたんですか?」
「……忘れてた」
(じゃあ、何しにここまで来たんだよ……)
虚を突かれたような表情で振り返るルーカスに、思わず呆れてしまう。
それほど、カディオ邸に足を踏み入れてフェリクスと会話することだけで、頭がいっぱいいっぱいだったのだろう。
とはいえ、封魔の書の入手は必須の最重要事項である。
ルーカスに魔法書のありかを尋ねようとした時、彼の肩越しに、一冊の本を片手に抱えたアイザックの姿が目に入った。
こちらへ向かって歩いてきた彼はテオドールの視線に気が付くと、その顔に余裕を感じさせる微笑みをたたえる。しかし、なぜかルーカスの隣を素通りして、テオドールの目の前で足を止めた。
「テオ」
「アイザック様……!?」
(もうカディオ邸を出ていくこと、聞かれてたか?)
どうやって誤解を与えずに説明したものかと焦るテオドール。
だが、意外にもアイザックは温かみのある笑みを浮かべただけだった。
「封魔の書をお渡ししておきますね。……どうか、お気をつけて」
すっと彼が手にしていた本を差し出され、黒い表紙のそれをおそるおそる両手で受け取り、そのまま抱きかかえる。
心の底から自分を案じるような言葉に、自然と先程のイザヤの言葉が頭のなかで反芻された。
『おい、護衛。貴様も以降の事はちんちくりんに一任するという方針でいいな?』
テオドールのような”ぽっと出”の少年に主人の命を預けるというのは、どれほどの覚悟がいるのか。
アロヴィンで”ルカ様を頼みます”と頭を下げられた時も感じたが、彼のルーカスへの忠誠心は並大抵のものではない。
だからこそ、彼の期待を裏切ることなどあってはならないのだ。
「ありがとうございます! 俺、頑張りますから!」
テオドールの熱い思いが込められた言葉に、彼は紺藍色の瞳を和らげて小さく笑う。
少し名残惜しそうにしながらも背を向けて、立ち去ろうとするアイザック。
――依然として、ルーカスには何の言葉もかけられない。
「アイク……」
近くに立っているテオドールでさえ、かろうじて聞き取れた程度の、極めて小さな声。とても弱々しく発せられたそれが、既に歩き始めている彼に聞こえるはずはなかった。
しかし、突如アイザックの動きが止まる。
こちらに背を向けたまま徐に溜息をつく彼に、周囲の空気が緊張を纏った。
「ちゃんと生きて帰ってきたら、許して差し上げますよ。……バカ主」
それは、ほのかな優しさと確かな信頼が滲む声色だった。
彼は、不器用な主人に心底呆れる一方で、いつかそんな我儘も笑って許せる日がやってくることを確信しているのだろう。
”返事は分かっています”とでも言うように、歩みを再開するアイザック。
今度は、そんな彼を引き留めようとする声は聞こえなかった。
その後ろ姿が完全に見えなくなったあと、ルーカスの様子を伺おうと、そっと振り返る。
彼はちょっと泣きそうな顔をして、そこに立っていた。
だが、黒い瞳にはわずかながらも鮮烈な光が宿り、強い意志が感じられる。
その様子に感化されて無意識に両手に力を込めた途端、胸元にある魔法書の存在を思い出す。
「…………ルーカス、これ」
おずおずと差し出すと、ルーカスはハッとしたようにそれを受け取り、小さな声で感謝の言葉を口にする。
(どうせなら、俺じゃなくてアイザック様に言えばよかったのに)
テオドールがそんなことを考えているうちに、どこか緊張したような面持ちのルーカスが慣れたような手つきで黒い表紙を開いた。
心を落ち着けるように深呼吸をしたあと、ルーカスは魔法書に視線を落とし、静かに語り掛ける。
「久しぶりだね、封魔の書」
ルーカス曰く、彼とだけ対話できるらしい特別な魔法書。
魔法使いとしての好奇心を抑えられず、こっそりと彼の手元を覗きこむが、そこにはまっさらな見開きのページがあるだけだった。
しかし、ルーカスには何かが見えているようで、時折黒い瞳が文章を追うような動きをしている。その上、まるで人と会話するように、絶妙な間隔でぶつぶつと言葉を発していた。
なんとも奇妙な光景に驚きつつ見守っていると、やがてルーカスが驚いたように目を見開いた。
「封魔の書がいうには、『マディ様なら、黒魔法を封印できるでしょう。あの御方は今、聖なる都市セイント=ティアにおられるはずです。一刻も早くそこへ赴き、その禍々しい呪いを解いていただいた方がよろしいかと思われます』だって。……このマディ様って何者なんだろう?」
「? そのマディ様って、ルーカスのお母様とはまた別の方なんですか?」
「……僕の、母親?」
不思議そうに首を傾げていたルーカスの顔が、一瞬にして険しいものに変わった。
忌々しいものを思い出したというよりは、未知な存在に対する警戒のような反応に、テオドールの背中を冷や汗が伝う。
(もしかして、俺はまた不必要な発言を……)
それからルーカスによる怒涛の質問攻めにあったテオドールは、小世界での出来事やそこで耳にした話を全て白状する羽目になったのだった。
その日の夕方、二人は再び馬車に揺られていた。
乗っている馬車が向かう先は勿論、マディがいるというセイント=ティアだ。
ちなみに、ルーカスは彼の部屋を出る前にフェリクスからとんでもない額の大金を手渡されたらしい。
しかし、半年近くにわたりテオドールから庶民の常識や感覚を叩き込まれているルーカスは実に賢明であった。
「そんな大金を持っていたら、魔族より先に人間に襲われてしまうよ」
そう言って、全体の十六分の一だけをありがたく受け取ったという。
それだけでも、これからの路銀や生活費を差し引いても余裕でおつりがくるほどの大金なのだが。
(冷酷無慈悲で知られる英雄は、危険なレベルの親バカなのか……?)
ルーカスから話を聞いた時、テオドールは思わず遠い目をしてしまった。
しかし、フェリクスの好意がなければセイント=ティアまで行けないところだったので、その親バカ具合にも深く感謝をしなければならない。
テオドールがそんなことを考えている間も、ルーカスは先程聞かされた話に不満があるようだった。
「イザヤ兄上はともかく。……フリードリヒ兄上まで僕に隠し事してたなんて、信じられない」
「俺も、自分の口が信じられませんよ」
ぐったりと疲弊した表情のテオドールを見て、ルーカスが小さく笑う。
その様子に、胸の内で渦巻いていた罪悪感が少しだけ和らぐのを感じた。
「あの、…………いえ、やっぱりなんでもありません」
「なに? まさかテオドールまで、僕に隠し事するつもり?」
「ちっ、違いますよ!」
珍しく拗ねたようなルーカスの言葉に、テオドールは慌てて首を振って否定した。
黒いフード越しにこちらを見つめているであろう瞳に先の言葉を促されるが、なにかが喉の奥に引っかかったように声を発することができない。
なかなか言い出さないテオドールをどう捉えたのか、やがてルーカスはこちらから窓の外へ視線を移したようだった。
夕日に照らされるその姿は一見哀愁を纏っているようだったが、テオドールはその薄い唇の端が僅かに上がっているのを見逃さなかった。顔の半分ほどがフードで覆われていても、今の彼がほんのりと淡い微笑みを浮かべていることが分かる。
そんな彼を見た途端、その言葉は驚くほどスルッと出てきた。
「――ルーカスは今、死にたいって思いますか?」
実の父親から、復讐の道具としてしか見られていなかったという事実は、彼の心をどれだけ傷つけただろう。
実の母親に抱いている感情は、自分を捨てた恨みか、それとも自分のために彼女の心を痛めさせているかもしれないという心配か。
テオドールが出会ったばかりの頃であれば、おそらく自嘲的に微笑んで、こう答えていたはずだ。
『やっぱり、僕は生きていていい存在じゃないんだ。だから、誰にも迷惑をかけないうちに早く死なないといけないんだよ』
でも、”ルーカス・カディオの人生が本物だった”と確信した彼の返しは、きっと違う。
いや、違っていてほしいと、テオドールは切に願う。。
「――最近は、あまり思わなくなった、かも」
片手でフードを目元が見えるあたりまでずらし、ちょっとだけ照れくさそうに微笑むルーカス。
そんな彼の黒い瞳にはほのかな希望の光が瞬いている。
その言葉や表情に、少年はひどく安心するとともに、どこか救われたような心地がした。




