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第2話  scene・2  凜杏 Ⅰ (2023)

「もう、終わった?」


リビングから母の声が響いた。


「うん。もうすぐ終わる」


私は段ボールに囲まれた部屋を見渡しながら母に応えた。

住み慣れた自分の居場所を移すという作業は、それまで置き去りにしていたものを自分に思い起こさせる。

記憶のどこかに治したはずのものが、胸の奥から波打って寄せてくるのを自分ではどうすることもできないのだと、自分の中に表現し難い奇妙さが燻るのを感じる。


好きな本も書きかけのノートも全部段ボールの中に詰め込まれて、ものが無くなった机の上は広く感じられる。

そこに一つだけ置かれた小さな袋を私はじっと見つめていた。


ふと立ち上がり窓際に行くと窓を大きく開け空を見上げる。


今日も夜空は綺麗だ、と自分で自分に呟くとふうっと息を吐く。

自然と手が机の上の袋にのびた。

手のひらに載せて袋ごとぎゅっと握ると、そこにいまだ懐かしい手応えを感じる自分の幼さを微かに恥じらいながらも、胸の奥に込み上がる切なさを微笑ましく感じる自分が居る。


コロンと手のひらに転がった丸い球は記憶よりもっと土にまみれて汚れにくすんでいる。


「思ってたより、、、やっぱ汚れてるなあ。」


自分の声が自分の中にじんわり響いて広がっていく気がした。まだ戻れる気がする。


あの時の、私の中のあの一瞬に。






「悠。早くしなよ。」


私は隣の席に座る悠に声をかけた。

またつい強い口調になった気がして、ハッと、悠を見た。


「うーん。まだだな。」


悠は私の焦りに全然気付いてないようで、机のプリントを眺めながらいつものようにのんびりした口調で会話を返してきた。


「いつも遅すぎだってば。」


私は自分の声が上ずらないように意識してトーンを少し落としながら、そっと横を向いて彼を見る。


暑いからと肘までめくりあげられたくしゃくしゃの白いシャツから日焼けした腕。片肘をついて軽く鉛筆を回してる彼の手に目が吸い寄せられる。


指が、、長い、、とふいに、悠の顔が私の方に向けられた。

不意打ちに心臓が大きく跳ね出す。


「できたぞ。」


悠が満足気に私に笑いかけた。


ああ、私の胸は弾けて痛い位だ。 

なんで彼はこんなに温かく笑えるんだろう。


「うん。」


やっと一言返すのがせいいっぱいだ。自分の中の自分が気まずくてガタンと立ち上がった。


「職員室に持って行こう。部活始まってる。」




静かだ。

夕闇がグランドに降りてくる間際の静けさが私を包む。


どの部活も片付けを終えて、部室に向かう時間。グランドには僅かな人影のみ。


「りあ。部室に上ろう。」

友達の声がした。


私はさりげなくグランドの奥に視線を飛ばす。


「ありがと。あと三本だけ走ってあがる。すぐ行くよ-。」


軽口で返事を返して友達に手を振った。


私はまっすぐなラインを軽く走り込み、陸上部のラインの外側に座り込んだ。

足を伸ばし軽く身体を前屈みに伸ばしながら、私はグランドの奥に目をやった。


彼だ。


目線が悠を追う。


彼は足を振りかざし、身体を斜めに倒すと振りかぶった右腕を思い切り放つ。


何度も何度も。


シュッ、トーンと、ボールがキャッチャーミットを打つ音だけが、燻りだした宵闇に響いていた。



この時間が好きだ。


私の視界には、何の雑念もなくただひたすらマウンドからボールを投げ込む彼の姿が、今日もまた焼き付けられる。


彼のシルエット。


放られたボールの行方。シュッ、トーン、一日を終えるグランドに奏でられるその音色さえ、この瞬間は私だけのものだ。


あと何回、こうしていれるんだろう。


私は立ち上がりマウンドの彼に背を向けてラインを走る。


シュッ、トーン。


背中越しに響いてくる心地よさと少しだけの寂しさを感じながら、ただ走り抜けた。








「間に合って。お願い」


心の中で何回も何回も願うのは祈りにも似た切実さ故。


走って、走って、階段を駆け上がると視界がパァッと開けた。


顔に差し込む光が、眩しい、反射的に目を瞑り、ハッとグランドを見下ろした。


何処?


(居た。)


マウンドに立つ彼を見つけて肩から力が抜ける。


(間に合った。良かった。神さま、ありがとうございます。)

柄にも無く天に感謝を捧げる自分がいた。






高校最後の夏大会一回戦。

延長10回裏、1-1

1アウト、2ストライク、2ボール。2塁に走者。


そしてマウンドに、悠。




振りかぶって、、、。


ドキン、ドキン。


私の耳から音が消え、振りかぶった彼の手から白球が放たれ打者に向かっていく。


それに呼応するかのように私の胸奥がグッと掴まれる。


恐れの入り混じった緊迫感に足の爪先から頭のてっぺんまで私を成す細胞の一欠片すら震える。


「アウト!」

大ぶりな審判の判定ジェスチャーがスローモーションだった周りを解きほぐした。


「あと1人。頑張って。」

周りからは同じような呟きや声援が飛んでいた。


マウンドの彼は何度か足を踏み鳴らし、キャッチーに向かって横に首を振る。


じっと正面を見つめてゆっくりと顎を引くかのように首を縦に下ろした。


トクン。


鼓動がまた走り始めた。


トク、ン。

彼が足を、彼の腕が、ズ、、キン。


振りかぶって、、ズッ。ズキッン。


ボールがキャッチーミットに吸い込まれると思った瞬間、カーンと金属音が鳴る。


うっと胸に差し込む衝撃すら感じ、握りしめた両手に痛いほど力がこもる。


「打ち上げた。よし。フライや。取れる。」


誰かが大きく叫んでいた。グランドでは内野、外野がグローブを構えながら空を見上げそれぞれ動いている。


「お願い、お願い、取って」

心の中で叫んでる自分の声が耳に木霊のように響いてきた。


空に飛んだ白球の軌道を、球場の全ての視線が追いかけていた。


え?


自分が見た場面が信じられない。


構えられたたくさんのグラブをすり抜けて、ポトンとボールが地面に落ちた。


応援席の至るところで、声にならない衝撃が広がる。


うおー。相手チームの雄叫びが球場に響き渡った。




止まらない涙でまた視界がぼやける。


ダメよと自分を叱咤して、ゴシゴシと手で目を拭く。


もう何度目か、濡れた手は頼りにならないけれど。



見ておかなきゃ。


彼を。


ちゃんと最後まで。


落ちた球を呆然と見つめて、それからマウンドを見下ろす悠。


試合終了の声に顔を上げて挨拶の列に走る悠。


きっと口唇をぎゅっと噛んで涙を堪えてる。



悠。悠。今、近くに居れたらいいのに。






「ひゃっ。」

悠が振り向く。


「おまえ、冷たいよ。」

私が悠の頬にそっと当てたジュースに手をやりながら、悠が言った。


私は何も言わずに彼の隣に座った。


みんな帰って誰も居ないグランド。

月明かりを夜の闇が包んでいく。昼間の暑さをほんのり冷ましながら。


「最後の一本だったんだからね。」

冗談っぽく軽い口調で話しかけた。


「さんきゅ。」

悠はそれだけ言うと私から受け取ったジュースのキャップを捻ってゴクゴク飲んだ。


「あー。うまいな。」

悠は私を見ず空に向かって大きな声で言った。


「うん。」

みんな帰って居ないのになんで私が居るのかって、聞かない悠にほっとしながら私もひと口飲む。



静寂の中、悠も私も何も言わずジュースを飲んだ。


「今日、陸上部予選だったな。」

前を向いたまま、悠が口を開いた。


「うん。」


「おつかれ。明日もがんばれよ。」


「うん。」

私は悠に頷くしかできない。


何か話しかけたいけど、できない。


マウンドの悠の姿が浮かんできて胸が痛くなって、言葉にならない。


込み上げてくる涙をぐっと堪えて、ただ頷くだけ。


「俺の、野球な、、、終わった。」


悠がボソリと呟くように言った。


「うん。ん。」


私は俯いて何度も頷く。


悠も私ももう何も言わなかった。



深く沈んでいく夜闇に立ち昇る月明かりの優しさ。


湿った地面の温もり。


夜空の星を仰ぎながら風にそよぐ夏草達。


そして、、。


私は気付かれないように身体を動かさないようにそっと隣の悠を見る。


腕を後に伸ばし両手をついて、夜空を、どこか遠くを見てるかのような悠。


私の胸はしんどい位切なくなった。


ああ、このまま、この時間の中に溶けてしまえたらいいのに。






「帰るか。」

どのくらいそこにいたのか・・・月が少し雲に陰りを見せたタイミングで、

そう言うと悠は立ち上がった。


「そうだね。」


と言おうとした私の足元に何かがポトンと落ちた。


私が拾い上げた黒い小さな布袋を見て悠が手を伸ばしてきた。


「あ、おれの。」


「この手触りってボール?」


「うん。」


「いつも持ってるの?」と何気に言いながら

その袋を悠に渡そうとした私に悠の躊躇した間が返ってきた。


「悠?」

その間がなんだか不思議な感じがして悠の顔を見る。

一瞬悠が私をじっと見ていた気がして、ドキンと大きく胸に響く。


「あ、うん。」と言いいながら、悠が私から目を逸らさない。

「・・・・俺の、お守り。」


ボソリっと言った悠の声に、なんでだろう、その声の温もりに、

私はぐっと胸を掴まれた気がした。


・・・泣きそう・・・・。


じわっと浮かんだ涙が雫になっちゃう前に私は口角を引き上げて、笑顔で言葉を紡ぐ。


「そっか。悠のお守り・・・。

ね、明日ね、私もお守りに悠のボール借りてもいい?」


「え?」

悠の顔が驚きに塗られている。


「いや、縁起悪いって。」という悠の声が沈むのが分かった。


「なんで?」

私は悠の目をまっすぐに見て言った。


「だからさ、今日おれピッチング駄目で。

だから、俺にはお守りのボールだけど、お前がこれ持って走ったら縁起良くないよ。」


悠の気持ちにまた胸が痛くなってくる。

でも違う。ちゃんと伝えなきゃ。


「悠。じゃあそれ捨てちゃうの?」


「いや、大事だから。絶対捨てたりしない。」

悠がはっきりした口調で言った。 


「じゃあ、悠の大事なボール、私、貸して欲しい。

絶対ご利益あるはずだもの。

悠。

今日、悠のボール・・・今日のマウンドの悠、すごくすごくかっこよかったよ!」

口調が早口になるのが止まらない。

自分が何言いだすのか自分を止めれない。


悠の返事を聞かず、私は袋を持ったまま駆け出した。

「悠。お守りボール借りるね。また明日。」




その夜、私は自分の部屋で悠の黒い袋と睨めっこしていた。


悠の大事なボールを私もぎゅってしたい。

でも・・。触ったら嫌かな。

うーん。でも・・・。

あー。悠が握ったボール。やっぱ、ちょっとだけ、触りたい。

うん。そう。お守りだもん。ボールから直接ご利益もらわなくっちゃ。


私ったら、なんて都合良く論理展開してるんだか・・・。


黒い袋を何回も触って、両手でおにぎり握るみたいに袋ごとボールをぎゅっ、ぎゅっ。

自問自答の悪循環に溜息まででてきたけど。

うーん。

やっぱり、私は私に甘かった。


いいよね?と自分が私に返事を返した隙に・・・・

私は黒い袋からボールを取り出した。


「あれ?」黒い袋の中からまた袋が出て来た。


「これって」私はその青い袋を知ってる。


まさか、いや、そんな。


表現し難い驚きに包まれる。


青い袋を開けてボールを取り出すとそこにメモが一枚。


「え?」

驚きが笑いと一緒に込み上げて喜びが身体中に小刻みに震えながら伝わっていく気がした。


だいぶん前に私が四苦八苦して作った青い布袋。


あの夕暮れの、あの瞬間に、陸上部のライン近くに転がってたボール。

ついさっきまでグランドに響いてたあの音がまだ耳に余韻を残しているかのよう。

悠が、彼が私の側に居るかのような錯覚に、サッとボールを拾い上げた。


渡せないお守りの代わりにいつも何かしたかった。

だから、慣れない手芸屋で綺麗な温もりの青色を見つけてバンドエイド増やしながらひと針、ひと針、大切に縫い上げた。

そして、散々迷って書いたメモ。


『ボール 拾ったよ。

        fight!』


私は引越の段ボールに青い袋を入れて、そしてそれから、その袋を出して、まっさらになった机の上に置いた。

これは、私のおもまり。私の・・・。



私は明日産まれ育ったこの家を出る。

新しい場所、新しい人達の中に飛び込んでいく為に。

不安と期待が微妙に入り混じって私を揺らすけれど、悠を繋ぐ未来はきっと光を紡いでくれるだろう。









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