遺書でセルフカウンセリング
この手紙は多分、私の遺書になるのだと思う。
…というか、これは一種のセルフカウンセリングと言っていいかもしれない。紙に書きだしてみると、色々自分でも納得できるようになるかもしれないから。
まず私の死因についてだが、きっと自殺ということになるだろう。知っている人は知っているかもしれないが、私は18歳、まだピチピチの18歳なのだ。
それでもって自殺とは、"何かいじめにでもあっているのだろう"と邪推してしまうかもしれないが、そうではない。
友人もいる。家族仲も悪くない。しかし逆に言えば、そこに問題があるのだ。
一言でいうと、疲れた。
友人達は皆、私に比べて交友関係が広い。それゆえ私が彼らと話しているときでも平気で割って入ってくる輩がいる。
いわゆる、"友達の友達"という奴だ。
そういった輩が入ってくると、決まって彼らは私との会話を打ち切ってそいつとの会話にシフトする。
そういう時、私は無性に敗北感を感じてしまうのだ。
どれだけ彼らと仲良くなろうとしても、あの野郎が割り込んできた途端、その努力は無残に踏みにじられてしまう。
きっと私には、友達付き合いというのが向いていないのだろう。
無理に彼らと話題を合わせようとしても、一言二言喋っただけで、間に合せの粗雑な知識だということが簡単に露呈してしまう。
そんなとき、あの"友達の友達"は獲物が隙を見せた瞬間に襲いかかる鷹のように、陰に潜んで機会を伺い、私との会話が弾まなくなった頃合いをはかって割り込み、会話の主導権を易々とその手につかむのだ。
彼が主宰する会話の中には、もう私の姿はどこにもない。
殺したい。どうしていつも私の邪魔を─
家族だって、私を助けてはくれない。
いつもいつもいつもいつも成績の事ばかり言って、私が助けを求めても半笑いで相手にさえしてくれない。
「いじめられてるわけでも、無視されてる訳でもないんでしょう?じゃあいいじゃない。それよりも勉強しなさい。」
何にも分かっていない。当事者の苦労というのは、やはり当事者にしか分からないものなのだ。というか、まともに話を聞くそぶりすら見せないのはどうなんだ?
父も母も、兄も皆私のことを馬鹿にして笑う。
いや、一度も面と向かって馬鹿にしてきたことはない。ただあの性格だ、きっと私がいないときにでも3人して私のことを馬鹿だの何だの謗って笑いあっているのだろう。
書いている途中だのに怒りが湧いてきた。
…家族も友達も、"友達の友達"も全員殺してしまえばいいなんて考えも浮かぶ。
だが、今書いているこれはどうだ?
元々自殺しようとしていたのではないか?
3階の自室の窓から飛び降りて、私の家族が勉強机に置かれたこの手紙を読んで私の苦悩を知って、「もっと話を聞いてあげていれば」と後悔するももう遅い…そういうものを期待していたのではないか?
…いや、そもそもこんな文章、遺書としてはあまりに拙すぎる。そうだ。元々セルフカウンセリングのつもりだったんだ、これは。
ならばその過程で出た考えも、このセルフカウンセリングの産物と言える。
遺書を書いたのは無駄ではなかった…まあ、きっとまた改めて遺書を書く日が数年と経たず来るのだろうが、その時までには文章力をもう少し鍛えておきたい。
獄中でも、本くらいは読めるだろう。