第1話 裂孔ノイズ・アリア
黎明と暁の狭間、空は葡萄鼠を滲ませた灰紫に染まり、かつて双月を貫いていた∞の紋は欠片のまま宙を彷徨っていた。私、香坂 美流久は瓦礫に寝転ぶ姿勢で目を覚まし、胸奥の獣鈴がまだ異常拍を刻んでいることを確認する。肺の奥に入った空気は、甘藍と沈丁花をまぶした鉄錆の様な匂いを含み、ひんやりとした痛みで喉を洗った。
指先で頸をなぞる——黒曜のリボンは無い。けれど火膚のように赤い痕がまだ私の呼吸に合わせて脈を打つ。あの首輪を剥いで手に入れた自由は、甘美というより空虚に近い後味を残していた。
「また測定が始まったわ。可愛性値、新しい単位でね」
背後で聞こえた声は桜井 心愛のもの。彼女は孔雀翼の裂け目を縫いつつ、苺を溶かした微糖の様な響きを残して微笑む。その肩傷は乾ききらぬ赤黒い輪郭をつくり、硫黄にも似た焦げた匂いを振りまいていた。
足場の鉄骨が啼り、白鷺 珈平が姿を現す。油と檜の香りが私の鼻腔にひとときの安堵を運ぶ。彼が掲げる残響罐には、昨日失ったはずの音が脈動していた。
「深層で《蝕声サーキット》ってやつが動いてる。可愛性値を“声”に変換して流通させる装置さ。核心は《声の工場》——あそこを止めないと、また首輪が量産される」
〈リピート?〉合唱隊——頭蓋に棲む少女たちの亡霊——が囁く。私は舌の裏で鉄の味を確かめながら、短剣の柄を握った。「いいや、リピートじゃない。今度こそ拍を私たちのものにする」
粉硝子が雨のように降る空を見上げ、私は瓦礫を蹴る。肺に突き刺さる甘苦い匂い、足裏へ伝わる粉のざらつき、遠くの熔鋳炉から漂う焼鉄と油脂の混じった煙。五感のすべてが私に告げる——戦いは、まだ幕開けに過ぎない。