後編 無窮怒涛
母巣核が蒼紅に炸裂した直後、空間は虚白という名の亀裂を孕んだ。光でも闇でもない無彩の奔流が瓦礫を吸い上げ、熔鉄の川を逆さに降らせる。温度も匂いも概念の外へ押し出され、ただ聴覚だけが残る——骨の内側で騒音が泡立ち、心臓の鼓動が自分のものか疑わしくなる。
私は桜井心愛の手を離さぬよう指を絡め、白鷺珈平と三角の陣を維持した。だが孔雀翼で編んだ風盾は、無彩の流れに触れるたび玻璃めいて欠ける。心愛の肩傷は再び裂け、蒼紫の血が羽根の縁を染めた。
〈かわいい? まだ飢えている?〉
合唱隊の囁きが頭蓋を撫で、私は喉のリボン痕を押さえる。そこにはもう帯はない——けれど跡は火膚のように赤い。自由の印なのか、それとも外側を失った鎖か。判断を留保したまま、私は短剣を杖へ変形させた。声継導。発声と斬撃、その境界を溶かす私の最後の楽器。
虚白の中心で崩骸となった反響王の影が胎児を再生成しようと蠢く。声管を失った幼児の残骸が、なお胎響を吐き、空気を胎膜と化して再編する。その粘膜上で、奪われた少女たちの可愛性値——淡紅の符号が呻き声に似た騒音を上げた。
「これ以上、誰も巻かせやしない」
私は胸骨を拳で叩き、獣鈴のような響きで自身を鼓舞する。短剣は紅筵へ、紅筵は雷弦へ——私は武器を瞬時に織り替え、音と刃を複合した。
心愛が微笑む。唇は血で濡れ、しかし沈丁花の甘香は健在だ。「やろう、ゼロから——」
「——∞へ」私が応じ、二人の背後で珈平が残響罐を掲げた。蓋が跳ね、走査虫の銀糸が虚白を刺繍する。糸は位相を逆相に折り畳み、亀裂の縁を縫合していく。
胎児が胎響の超圧波を噴き上げた。空間が鉛に変わったように重く、息を吸う行為が拷問めく。私は舌先で歯茎を割り、鉄の味で神経を覚醒。声継導を大きく振り、喉から直接、音刃を放出した。
♪かわいい かわいい ゼロ ∞
輪唱が虚白を満たし、銀糸と共鳴して胎児の時間軸を引きちぎる。切断面から悲鳴が噴き、無数の聴こえない泣声が泡となって消えた。
王の影が最後の発声器官を蠢かせる——しかし心愛の孔雀刃が光弧を描き、影を粉砕。砕けた暗黒粒子は虹粉へ変じ、溶けるように虚白へ沈んだ。
やがて罐の銀糸が縫い終え、亀裂は縫合線を境に静止した。虚白は収束し、重力が正しい向きを思い出す。瓦礫が落下し始め、私は心愛の腰を払って彼女を抱え込むように着地した。膝が悲鳴を上げたが、骨は無事だった。
粉雪のような破片が空から降り、新しい朝の薄朱が都市を包む。熔鉄の川は鈍色の砂へ冷え、塔の残骸は影絵の歯列となって水平線を噛む。
私は喉に触れる。リボンはない。けれど走る脈は、誰のものでもない私自身の拍だ。
「生き延びたね」
心愛がかすれ声で笑う。肩傷は醜く爛れているが、その痛みが彼女の存在を世界へ糸で繋いでいる。私は彼女の背を撫で、代わりに自分の掌へ痛みを移し取ったような錯覚を覚えた。
珈平が残響罐を遠くへ放る。罐は高く弧を描き、朝の光を受けて虹の音埃を撒き散らす。空に薄い∞の紋が浮かび、まだ淡いが確かな始発の匂いを運んだ。
〈リピート?〉合唱隊が低く問いかける。
私は息を整え、胸を叩く。「リピート——でも次は私たちの拍で」
首輪という指揮棒はもう失われた。けれど演奏は続く。可愛性値が再び誰かの手で悪用されぬよう、私たちは自分たちの声で拍を刻み続ける。ゼロから∞へ——終わりなき輪唱は、新しい世界の序曲に変わった。